<58>旅道中にて
旅路は続く。
温かさを求めてそれを抱きしめる。硬い構成の周囲を柔らかい物で覆ったようなもの。なんぞや、と鈍い頭は回転を始めた。それの前で組んだ手を使い、前面を触る。硬いが、木や金属のような組成ではなく、有機的な弾力が感じられた。次に嗅覚を使う。鼻づらを押し当てて、すんすん鳴らす。埃、使い込まれた布、汗、体臭。
ああ、と唐突に理解する。
これは人の背中だ。瞳を開けると、一面布。顔を離せば、誰かの背中とわかった。
耳を澄ます。断続的な馬の小走りが聞こえてくる。
鈍い感覚が体の上下振動を探知した。
記憶が巻き戻る。ビデオテープのように。
そこでようやく“女の子”は、己が馬に乗って誰かの背中にしがみ付いていると正確な認識を得たのである。誰かと言ったら、ルエ以外にありえない。証拠として、後ろで縛った銀髪が揺れているのを視認した。
片手で顔を擦り、目元を綺麗にする。大あくび。視界が涙で俄かに揺れるとぼやけた。素早く瞬いて水分を飛ばす。首、そして上半身の順番でルエから離れる。首を振ってみれば朝日が眩しいことに気が付く。
瞳を上げてみれば、明るい朱色の球体が地平線から顔を覗かせてあいさつしてくるところが映った。水に飢えた荒涼の大地を清らかなる光が温め始める。足から冷気が昇ってくる感覚を覚え、暖を取ろうとルエに背中に顔を押し付ける。温かかった。
「おはようございます」
「………おはよう」
ルエが振り返らずにあいさつしてきたので、顔を背中に押し付けたままあいさつを返した。彼の声は酷く憔悴したものであった。
彼は、危険を回避するべく一晩中馬を操っていたせいで、睡眠をとっていなかった。馬とて動物であるから、時々休ませなくてはいけない。更に敵襲を警戒して気を張り続けていたのだ、疲労の度合いはピークに達していた。
セージに一晩抱きつかれるという役得を加算しても、精神と体力の疲労は消えない。
朝日が昇って来て、丁度よくセージが目を覚ました。もう馬を止めても良かろう。
ルエが手綱を操り馬足を遅くしていき、止めた。馬はぶるると唇を鳴らすと、地面の枯草をむしゃむしゃ食べ始めた。草食動物は草さえあれば幸せである。
セージはルエの肩を馬上で揉み始めた。男性の筋肉は硬くて解しにくいことこの上なかった。
「ありがとさん。後は俺が見張るから寝てくれよな」
「……」
こくりと彼は頷き、腰を押さえながら馬から降りると、手ごろな枯葉をベッドに繕って体を横にした。セージは馬から降りると、ぐるりと周囲を見渡して、何ものも居ないことを確かめると彼の横に腰を降ろした。
程なくして、スースー気持ちのいい寝息が聞こえてきた。覗き込んでみると幼子のように可愛らしい寝顔があった。
乗馬技術さえあれば後部にルエを乗せて移動し続けられるのだが、生憎技術が無いため、交替で進むことができない。だから彼の安眠を護衛するのが仕事である。
干し肉をもぐもぐと食べつつロングソードを研ぎ石で擦る。
ルエが寝てしまうとやることが警戒か食事か装備の整備しかなくなってしまう。暇を持て余したセージはナイフを研いで、クロスボウの弦を金具で締め直した。
「ふーむ」
クロスボウを神妙な目で朝日に翳してみる。飛距離、威力共に心許ないが、さっと構えて発射できて、どこにでも持って行ける遠距離攻撃手段としては十分である。二連式なので一発目を外しても二発目があるという安心感がある。
ロウに貰ってからずっと使い続けてきたそれは、黒い塗装と照準器やグリップの滑り止めなど、どことなく拳銃を思わせる改造がされている。実はおそらくこの世界には無い先進的な武器――すなわち『銃』を作ってクロスボウの上位互換として携行せんとした時期があった。だが、どうにも止めた。実用に耐えない代物が出来上がってしまったのもそうだが、火薬を調達できないという問題を解決できなかったのだ。それならばよっぽどクロスボウの方が実用的である。
さて、セージは馬の荷物入れから金属片を取り出すと鉄やすりでせっせせっせと削り始めた。三角の先端、後部は細い。完成したものは頑丈な木の棒に差し、固定する。クロスボウ用の矢を作っているのだ。敵を攻撃するだけではなく狩にも使えるから、いくら持っていても損にはならない。
作業に没頭すること数時間。作れるだけ作ったら暇ができる。周囲の警戒をするべく立ち上がり、目を細めて一周ぐるりと索敵行動。何も無し。
座り込み、えっちらおっちらストレッチ。継続して毎日やってきただけあって、セージの足は180°近く開く。吸って吸って吐いて吐いてのリズムで呼吸をしながら、体を右に曲げて、左に曲げる。
「よっと」
続いて前に倒れる。おでこを大地にキス。その体勢のまま手を背中の上でストレッチ。数秒静止後弛緩する。
セージは立ち上がると、荷物からブラシを取り出した。馬の体を綺麗にしてやろうと思ったのだ。
鐙付近が痒かろうと力を込めて擦ってやる。
「よーしよしよし」
馬が喜んでか否か長顔を向けて来た。地面から草を引っこ抜いて差し出すと美味しそうにむしゃむしゃした。顔も擦ってやる。蚤らしき小虫が跳ねたので指で潰す。一通り体を擦ってやった後、潮の塊を差し出す。定期的にあげないと体調を崩すのである。人間もエルフも塩分を摂らないと健康を害するのと同じである。馬は塩の塊をぱくりと食べた。
一通り馬と触れ合った後は、やはり暇になる。
近場に狩れそうな獲物も居ない。鼠がいればいいのだがと目を凝らすが、乾いた大地には小動物どころか虫の一匹すら認めることができなかった。
仕方がないので手ごろな草を千切って成形すると、草笛を作った。
吹こうとして、止めた。ルエが睡眠をとっていることを今更思い出したのだ。体育座りとなり一人じゃんけんで時間を潰す。すべての勝負で勝利し、そして敗北した。
「ゲームあればいいのにな」
呟いたセージは、苦笑した。あるはずがない。あったとしたら充電の手段を工面するのにあれこれ苦労するだろうと考えると愉快になった。
そして、元の世界に置いてきてしまったゲームはどうなったかと考えた。恐らく遺品として今も部屋にあるのではないだろうか。
虚無感が心に広がる。
「………」
何やら一人でいると気分が沈んでくる。
沈黙して俯くこと数分間。面を上げたセージは起立して近場をウロウロし始めた。石を蹴っ飛ばす遊びもやったが飽きた。投げる遊びも飽きた。いよいよ暇を持て余したセージはロングソードを振るう訓練を開始した。ロングソードより魔術で燃やす方が楽とはいえ、訓練しておくに越したことは無い。
「っ!」
息を吐くや否や両手持ちの剣を斜め上から斜め下に振り、腰の構えで静止、すかさず仮想敵の顔面を突く。もし相手が剣を受けてくれたのならば魔術で燃やす機会が生まれる。だが仮想敵は突きを剣で流して方向を変えれば、力一杯振り下ろしてきたのだった。
咄嗟にバックステップ。仮想敵、セージの剣落としを狙った強烈な叩き下ろしを実行。受け流す技量は無く、止むを得ず後退――した刹那、超至近距離からのクロスボウ二連射―――。
そこで、クロスボウを抜いてしまった自分を発見し、肩を落とす。
「……駄目じゃん」
セージはロングソードを鞘に収めると、ため息を吐いた。
ロングソードの特訓中にクロスボウを発射するなど、相手が居ないにしろ、柔道の試合に竹刀を持ちだすに等しい蛮行である。一通り剣の扱いは心得ているが、クロスボウをブチ込む戦法が楽で、つい腰から抜いてしまう。
そこで、ウーンといううめき声が鼓膜を叩いたのだった。
「おはよう!」
セージはルエに声をかけると、干し肉を手渡した。