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<34>巨老人の里、朧に

女の子の腹を刺して燃やすという業をやってのけた“少女”は、命からがら逃げだしたのだった。

 女の子を殺めても吐き気は生まれなかった。

 ただし後悔があった。女の子の言葉を思い返すと、母親の為に匪賊にまで身を堕として戦ってきたのだろうと想像がついたから。甘い考えかもしれないというのは本人すら理解していた。

 もしも――もしも――という、甘ったれた考えが頭を過った。

 もしも―――……説得できたら。もしも―――……逃亡していたら。もしも―――……。

 だが、全ては過去である。“少女”は女の子の腹を貫通せしめ、燃やした。天地がひっくり返っても死亡は確実である。殺したのだ。命を奪ったのだ。

 一人の命だけ奪ったわけではない。女の子の母親をも殺したかもしれないのだ。たった一本のナイフが二人も殺したのだ。

 同時に、何も感じない自分も存在していた。

 障害を排除しただけ、悪いことはなかったと。積み重ねてきた現実は倫理観すら摩耗させた。

 人殺しの余韻は、血の味がした。

 鼻血と口内出血のダブルコンボ。舌は鉄っぽい風味と酸味まみれ。

 体があちこち痛んだ。腹は鉛の重しを乗せられているようだったし、背中はひりひりしていた。鼻も痛い。気道も胃液で焦げ付くようだった。幸いなことに骨が折れたといった怪我は無いようであった。

 だが、斬って斬り込み殴り殴られ首を絞めて絞められ蹴りを入れあう死闘を演じたすぐ後に、火炎から逃げるべく疾走してきたツケがまわってきた。焼死を避けるにはこうする他になかった。火の手は人や獣を呼ぶのだ。安全確保のためにはできるだけ遠くに身を移動するのが賢い手段である。

 まず足の力が抜け、次に眩暈がした。

 良くない兆候である。休息を入れなければまともに旅ができない。湿地を抜けた先の林で、いい場所を探す。

 セージは、お世辞にも綺麗とは言えない池を見つけると、そのほとりに腰かけた。水源らしきものが見当たらないことから、雨水が溜まったのだと推測した。水草と濁りのせいで水深を目視できない。

 飲み水には適さないし、体の汚れをとるには濁りすぎている。無理すればできないこともないが、水筒が十分に水を蓄えている今は必要ない。

 ただ座っているのも癪なので、耳を地に付ける体勢で横にならん。こうすることで外敵の接近を察知しやすくなるのである。

 体を横にすると眠気が背中を叩いてきた。

 戦いの痛みと旅疲れが泥のように頭に覆いかぶさった。甘い誘惑。小鳥の鳴き声がゆりかご。瞳が震える。くすんと鼻を鳴らし、本格的な眠りに入ろうとした。

 その時、耳に感あり。太鼓を指で叩くような、軽快な歩調。ハッハッと息遣いを聞いた。

 慌てて腰のミスリル剣を引きぬくと、姿勢を低くしたまま木の陰に入る。


 「………犬?」


 草むらからやってきたのは、薄汚れた野良犬だった。茶色の毛並、垂れた耳、痩せた足は骨のように思えた。

 その犬は周囲を見回すと、しっぽを振りつつ頭を下げて水たまりに寄っていくと、ちゃぷちゃぷと水を飲み始めた。さすがは野生動物。人間が腹を下すような水でもお構いなしである。

 ふと、その野良犬が鼻先をセージの居る木の元に向けた。例え目で見えなくとも、セージの放つ臭いで感づいたのであろう。

 セージは警戒を緩めることなく、反撃に移れる姿勢を崩さぬまま木から歩み出た。

 野良犬はセージを見ると、ぺたりと座った。へっへっと舌を出した呼吸をし、ゆっくりと尻尾を左右した。そしてごろりと倒れると、お腹を見せて敵対心が無いことを表した。

 殺そうかと逡巡した。

 だが、肉の貯蔵は十分だし、お腹もすいていないし、何より敵対してこないのだから殺す理由も無かった。

 歩み寄ると、ミスリル剣を腰に差して、犬のお腹を撫でた。毛並が酷くて指に引っかかったが、獣の体温が心地よかった。ちらりと犬の下腹部を見遣る。雌だった。

 セージは犬の頭を撫でた。


 「お前はどこから来たんだ?」


 犬は答えなかった。

 ただ、口角を持ち上げて呼吸するだけだった。浅黒い色の唇に触ってみる。ぶよぶよして新感覚。頬をびろーん。抱きしめてみると、獣が強く香った。

 人間慣れしているようだ。どこかの飼い犬だったのかもしれない。

 犬にとって人間もエルフも同じようなものに映っているのだろうかと思った。


 「なあ、俺と寝ようぜ」


 犬は大人しく従った。

 一人と一匹は夕方になるまで草むらで睡眠をとったのだった。

 それから暫くセージは犬と行動を共にした。共に狩りをして、共に水を飲み、共に道なき道を歩いた。犬は良く懐いた。芸を仕込むこともできた。賢いやつだなと褒めると誇らしげに舌を出すのだった。

 いつまでも一緒にいけそうな気がしていたある日、犬は別の道に行こうとした。

 どうしても別れなくてはいけないと悟った。犬にだって行きたい場所位あるのだ。もしかすると飼い主を捜しているのかもしれない。

 犬はとてもきれいな瞳で遠くを見ていた。


 「死ぬなよな」


 そう言ってセージは犬に干し肉をやると、頭を撫でて別れた。

 一生の内に再会することは無いだろう。例えエルフが長い寿命を持っていても。まさに一期一会。交通機関も通信も発展していない世界では、犬など探しても見つかるものではない。

 せっかく旅の相棒を得たのにと、セージは心の隙間を擦った。寂しかった。

 巨老人の里までの道のりは大したことなかったのだが、人の数が多すぎた。昼でも夜でも鎧を着た輩やら、目つきの怪しい男やら、明らかに麻薬と思しき葉っぱを売る輩やら、それだけではなく頻繁にいざこざが発生するので進めなかった。

 人に会っては望ましくない結末を迎えかねないとはいえ、進行を夜に限定してしまうと里に辿り着くまでにどれだけ掛かるか分からない。

 セージは仕方がなくなって、身なりを偽装して乞食に成りすました。足を引き摺る演技もした。この際四の五の言ってられまい。

 鎧を着たご一行が去った後で、ようやく里の近くとも言える場所へと足を踏み入れることに成功したのだった。

 当初の予定から約一か月以上の超過であった。到着まで、さらに遅延した。


 「これは……」


 セージは成程と大きく首を振って唸った。

 巨老人の里のすぐ正面。広大な湖の畔にある草むらに身を潜めたセージは、彼方に揺れる明かりをじっと見つめていた。

 巨老人の里が要塞化されているという話は正確であり、ただし想像していた構造からはかけ離れていたのだった。

 里に向きがあるとすれば、後ろの守りを剣のように尖った岩山が守り、正面を湖が守るというものであった。ただ山があるわけではなく、見張り台があった。ただ湖があるだけではなく、乳白色の霧が帳をかけていた。

 地図にはこう書かれている。

 ―――この霧は守る者には無いもので、攻める者にはあるものである。

 要するにこちら側からは視界が遮られるが、向こう側からは健やかな視界が約束されているということだろうか。

 すると人間がどんぶらこどんぶらこと実質目隠し状態で小舟を漕いで行くのだろうか。なんと哀れな。ろくに反撃もできぬまま死ぬであろう。

 ならば大型の艦船を作ろうとしても、内陸の土地では材料の運搬で馬鹿にならぬコストがかかる訳である。よしんば造船できたとしても、水深が浅かったら前に進めないという間抜けな事態が発生する。

 セージが地図を熟読していると、上空で嘶きが響いた。

 すわ何事かと頭上を見遣ると、翼竜が周回していた。目を凝らす。何者かが跨っている。追尾すれば、大きく羽ばたいて霧の向こうに突っ込んで消えた。エルフの里の防衛戦力だろうか。

 地図によるとミスリルの剣を掲げて進めとあった。


 「………誤射されないだろうな」


 セージはミスリルの剣を一瞥し、ため息をついた。遠目にはエルフと人間の区別がつかないのは当然であり、ミスリルの剣が合図として働かなかった場合、殺されてしまうかもしれない。

 だがその前に。


 「船、どこにあるんだ?」





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