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<25>病

蜘蛛を命懸けで返り討ちにしたセージだったが、傷を負ってしまった。しかも怪我が原因と思われる病を発症してしまったのだった。

 ラジオのノイズを優しく加工したような断続的な音が耳を叩いている。

 風音にしては等間隔で、川の音にしてはリズミカルで、砂がさらさらと零れる音にしては冷たくて。

 瞼に落ちた滴が頬に伝い、顎の線を濡らして落ちた。また一滴落ちる。鼻先に落ちた水が形のいい唇に流れ、咥内の唾液と混じった。

 ハッ、と肺が痙攣したかのような吐息が漏れる。

 鎖骨に垂れた雨水が覚醒を促した。


 「………っ」


 薄らと目が開いた。虹彩がきゅっと締まり光を調節。黒目が震えたかと思えば、ようやく止まる。瞼が徐々に持ち上がっていった。

 瞼が完全に開き切った刹那、雨水が睫毛で跳ねて眼球を濡らした。びっくりして瞬きをし、もう一度開く。二回目の瞬き。視界は完全に回復した。


 「ン………」


 己を縛り上げている蔓に緩みが無いかを自由な両手で確認し、首を木の下に向ければ、雨に打たれるがままの蜘蛛の死骸が三つと残骸が一つあった。

 自分がどのくらい寝てしまったのか、確かめる術はない。太陽で時間を計ろうにも生憎の雨天では。雨天。天を仰げば、葉の隙間からどんよりとした空間が見えた。

 なんということだろうか。幸いなことに葉が傘替わりになってくれているのでびしょ濡れではないが、焚火も消えやすくなるし、なにより濡れることで体力が損なわれるため、旅の速度は遅くせざるをえない。

 蔓を手で取り除くと、木の枝に腰かける。

 そっと、服の前を開けると、手を差し込む。右腕と右肩に包帯。腕の血は止まったが、肩の血が止まっていない。木の上で包帯を巻きなおす。右腕を動かすたびに痛みが走った。

 なんとかして血を止めなくては、命にかかわるし、森の獣が臭いにつられて襲い掛かってこないとも限らない。

 治療魔術を試す必要がある。

 怪我の特効薬も、傷口を縫うこともできぬのだから。

 手を右肩に当てて目を瞑った。


 「〝治せ〟」


 何も起こらない。

 寝起きの頭では膨らむイメージもあったものではない。暫し木の上でボーッと時を過ごす。

 それよりも、と思い直す。蜘蛛を解体して食べられる部位を選別しなくてはならない。冷蔵庫も保冷剤も無いのだから放置していれば腐っていく。

 右腕を使わないように木を降りて行き、蜘蛛の解体に移る。

 まず蜘蛛を木の陰に押しやり、手ごろな木の枝と石を使い、蜘蛛をてこの原理でひっくり返してから腹の部分を割いて肉を取り出す。内臓は腐りやすく使い道がないので地面に埋めた。外殻は加工材料として役に立つので、平らな部分や尖った部分を採る。

 作業に要した時間は三匹分なので長くかかってしまった。

 RPGなら倒した瞬間にお金とアイテムが落ちるが現実的にはそうはいかない。

 セージは剣を雨で洗いながら死闘の跡を去った。

 手を見つめ、肩を見遣る。


 「まずい。感染症って薬草で防げるもんなのか?」


 歩きながら、包帯を解いて水洗いして薬草を擦りこみ、また包帯を強く結ぶ。傷口にカサブタが張り始めたとはいえ、範囲が広すぎた。腕の傷にしろ肩の傷にしろ、動かすと血が出るのだ。

 薬も無い現状では不安が残る。強い酒を入手できれば消毒ができるのだが。

 少女の体になって以来、いわゆる細菌などと戦い続けてきた。質の悪い食べものを口にして、泥水だって飲んで、怪我はしょっちゅうであった。抵抗力は現代人以上にあるはずなのである。

 だが、抵抗力の有無に関係なく死に至らしめる病原菌など星の数ほどあるのだ。早急に傷を癒すか、里に辿り着き治療を受けるかしなくてはならない。

 何より痛い。腕に開いた傷口は熱い金属棒を押し当てられたように感じられ、肩の刺し傷は神経を殴打されるが如くである。

 右腕を動かさないように剣を使うのは不可能なので、慣れない左腕を使わざるを得ない。

 利き腕をやられたことは今後の行動にも支障が出るであろうことは予想するに難しくない。狩りにしろ作業にしろ、効率は低下する。

 もし戦闘があったらと考えるとセージの背筋は寒くなるのだ。

 次こそは死ぬだろうと。

 セージは雨降りの森の上空を見遣り、呟いた。


 「長老――やっぱりあなたの言ってたことは正解でした。俺のようなガキが生きていける場所じゃなかったです」


 後悔先に立たずである。


 森を抜けるのに約二週間という時間が必要だった。一か月で辿り着ける予定は楽々一週間超過だった。

 何しろコンパスも無いので一日中うろつくなんてことはザラだった。印をつけたはいいが大型の獣がつけたマーキングと見間違えて死にかけたのは秘密である。

 蔓を用いて己が直進しているかを確認することもあった。

 蛇に噛まれたこともあった。幸いなことに毒のない蛇だったので(もしあったら死んでいたかもしれない)、ナイフで縦におろして干物にした。食べてみると魚のような味がした。羅生門の一説を思い出した。

 怪我から細菌が侵入したのか、微熱が始まった。いつ高熱になるかと肝を冷やす。右腕の傷は自己流の魔術で塞がったものの、不自然な熱を持っているのが気がかりだった。ワクチンを打った直後のようだった。

 山を越えて、いよいよ森を抜ける。川を辿って行くのだ。

 道中で捕獲した蛇の、潰れた頭を持ってグルングルン振り回しながら、岩を登っていく。

 右腕の代わりの左腕で岩をよじ登れば、砂利道を駆け上がる。

 そして岩の山を越えると、途方もない光景が広がっていた。山、山、山。山と川が渓谷を造っている。ただし規模が予想外だった。そびえ立つ山が左右にあり、奥に広がって展開している。その中央を流れる川が渓谷を造っているのだ。自然の要塞のようだった。

 記憶にある地理の知識は役に立たないのかもしれない。ここはファンタジー世界。どんな地形があっても不思議ではないのだ。

 地図を開く。隠蔽されているので近くに行かなくては分からないとのこと。

 近くとはどのくらいから定かではないが、渓谷を降りて行けば人工物の一つでもあるに違いないと思った。

 バックパックから水筒を取りだし、唇を濡らすと、渓谷の中に足を踏み入れた。


 渓谷を探索して一日目。

 危惧していたことが起こってしまった。微熱が高熱に変わったのだ。熱、頭痛、吐き気、倦怠感、ふらつきの五連星がセージを攻め立てた。口にしたものを片っ端から吐いてしまうので、その日は睡眠に費やした。

 二日目になっても体調は回復せず。

 渓谷だけあって水が豊富なのが幸いだった。体を綺麗に保ち、水分を多くとることを意識した。

 セージは、増水を考慮して高い位置でバックパックを枕に寝ていた。襲撃を警戒して蔓の網に草を編み込んだネットを被っている為、遠目に存在を確認することは不可能である。

 川で冷やした布きれを裏返し、額に乗せ直す。傍らの水筒に口を付ける。食べ物は木の実が精一杯。狩りなどできる体調ではない以上、栄養分のあるものは入手できなかった。蜘蛛の肉はとうの昔に食い尽くした。

 酸っぱいだけで甘さを感じない木の実を口に放り込む。おいしくない。

 唐突に襲い来る眠気が木の実を取り落とさせた。

 顔は汗にまみれ、眉に皺が寄っている。目は開いては閉じるを繰り返す。吐息の間隔は早く、熱い。地に投げ出した肢体は倦怠感に支配されている有様。頭痛も酷く、吐き気がした。

 目を閉じる。そして開く。

 太陽の位置がずれていた。すわ何事か。熱の詰め込まれた頭を使い、理解しようとする。己は寝てしまったのだと結論を導き出すのに最低でも三回は無駄なことを考えた。

 赤らんだ顔にかかった前髪を払い、目を擦る。

 鉛のような倦怠感が離れてくれない。汗が体を濡らしている。不快だ。顔をしかめる。ひきつる頬。


 「………」


 言葉を発する余裕などなくて、虚ろな目で周囲を見遣る。焦点が安定しない。視界がぼやける。目に力を込めて無理矢理正常な映像に戻す。森、川、岩、以上。

 網の穴から小鳥が木の枝にとまっているのが見えた。手の平サイズ。焼けば美味しそうだ。

 だが、捕まえられる気がしなかった。せめて体調が万全ならと唇を噛む。傍らの水筒の蓋を開け、粘つく咥内に爽やかな清水を投入する。おいしい。乾いた体が喜ぶ。

 カモフラージュ用の覆いを退け、上半身を起こそうとした。

 眩暈がした。立ちくらみか、熱によるものか、両方ともか。ゆっくりゆっくり、身を起こす。首をまわしてみる。小気味良い音。

 息を大きく吸い込む。


 「救急車呼ぶか」


 セージは場違いなジョークで自分を励ました。笑いの代わりに咳が出た。

 そして重い体に鞭打ち、食糧と水の確保に立ち上がった。


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