<23>蜘蛛再び
里を発ってから三週間という時間が流れた。
目標地点から目標地点を線で結びつつ、じりじりと里に近づいていく。
人間の町や行路を通過しないよう細心の注意を払って、必要とあらば夜を歩いた。モンスターの襲撃を受ける可能性があれば木の上に宿泊した。盗賊に殺されたかけたこともあった。
動物も狩った。鹿のような生き物を殺して肉を剥いだ。内臓を取り出した辺りで吐き気がしたが、肉だけを剥いで並べたところで平常心を取り戻した。肉はその場で焼いて食べ、余った分は熱で水分を飛ばした後、干し肉にした。
狩りの成功率は五回に一回と言ったところである。魔術を発動せんとするとなぜか逃げられてしまうのだ。野生の動植物は魔術を感知する能力があるのかもしれない。
深刻な食糧不足に陥った時は進むのを止めて一日中狩りをすることもあった。
峡谷の里が近くなってきた今日この頃。荒地を越えた先にあったのは森林で、緩やかに山になりつつあることがわかった。
山を越えた先に峡谷がある。
ミスリル剣で葉っぱや蔓を薙ぐ。長老の説明通りにミスリル剣はよく切れた。動物を解体するのにも使えたし、地面を掘るのにも使うことができた。刃毀れ一つせず、研ぎ石の出番が一度も無かったことからも強固な性質がうかがえる。
セージは、ミスリル剣を袈裟懸けに振るうと、顔にかかった蜘蛛の巣をむんずと退けた。家を壊された蜘蛛が慌てふためいて逃げ出すのを、素手で捕獲する。毒々しい原色。フムと鼻を鳴らすと、背後に放り投げる。無害なら食べるつもりだったらしい。
蛙でも居ないのかと地面を見遣った。いない。残念無念。蛙は焼いて食べると鶏肉のような味がして美味であるというのに。
地図を広げてみる。山から青い線が引かれている。渓谷は川の傍にある。他に、魔術で隠蔽されているので近くまで寄る必要があるとも書かれている。
まず川を見つける必要があった。
前進を止めて、地図を背中のバックパックに収める。手近な木を見上げる。太く、長く、枝の広がりが少ない木だ。手をつくと、猿のようにするすると登っていく。
枝の分岐に手を引っかけ、上半身を持ち上げる。次の枝に足と手をかけて交互に登っていけば、他の木より一つ上に視線がある高度に達する。
右手と右足左足を枝に引っかけてまま左手でフードの位置を直すと、額に当てて日光を遮る素振り。
どこまでも広がり続ける樹木の海。緑と茶色の色合いが織り成す雲海。空から舞い降りた鳥が緑の下に消えていく。
視線を緑の雲の遥か彼方へと向けてみれば、雲が奥に向かって坂になっている。
とりあえず山の方に向かい、峡谷を見つけ出そう。
セージは木から降りていくと、最後は飛び降り、両足で着地するや足を曲げて衝撃を吸収した。
立ち上がる。ふと、物音を聞いた。幹に身を隠す。エナメル質が擦れ合うとでも表現すればいいのか、生理的嫌悪感を催す音色を聞いたのだ。
それはすぐ近くにいた。巨大な虫。蜘蛛である。全高は子供並み。虫というよりクリーチャーという単語を当てはめた方がしっくりくる巨大な敵。
セージくらいの子供であれば恐怖を感じて慄くだろうが、“彼”は違った。
「新鮮な肉がいるぞ。あいつをやれば三日は食いつなげる。甲羅とかで道具もつくれそうだ」
目をぎらつかせ幼い顔に笑みまで浮かべる。腹が減っては戦はできぬというのは嘘である。空腹感を癒すために戦う方が力が出るではないか。
旅をしてきて慣れたというのもあるだろう。それ以上に、敵が一匹だけで、なおかつこちらに気が付いていないという優位な状況にあるのも気分を高揚させる。
高鳴る心臓をなだめつつ攻撃にもっとも適した位置を取ろうと思案する。
可能ならば背後上方。真正面から挑むなど愚の骨頂。一撃で脳がある頭部に致命傷を負わせて短期決戦を挑むべし。
音を立てぬように忍び足になると、蜘蛛の背後を突く為に大きく迂回する。
蜘蛛は気がついていないのかしきりに地面を足で穿り返してはミミズを口に運んでいた。
「よし、いい子だ」
事が上手く進み舌舐めずりするハッカーのような台詞を呟きつつ抜剣。草むらに入って音を立てぬように身を運び、木の陰に陣取る。木に登ると逃げられる可能性もあるので、単純に馬乗りになることを目標とした。
魔術を使うとやはり何らかの手段で気が付かれてしまうので、ミスリル剣の鋭さに頼る。
セージは一匹の蜘蛛に気を取られ、逆に己をつけ狙う蜘蛛に気が付かなかった。
少女の背後に蜘蛛がこっそり忍び寄っていたのだ。
「1、2………3!!」
掛け声を合図に影から飛び出すとミスリル剣を逆手に持ち、蜘蛛の上にのしかかる。有無を言わせず剣を頭に突き立てる。ミスリルの切っ先が外殻を豆腐のように貫く。引き抜けば、また突き刺す。何度も何度も執拗に刺しまくる。体液が顔にかかる。
阿修羅も全力で首を振る形相の少女が、剣を刺して刺す。
「死ね! 死ね! 死ね!! 早く死ね!! いいから死ね!!」
凶暴な言葉を吐く。刺す。刺す。刺す。刺す。刺す。
蜘蛛は断末魔の悲鳴を上げると、動かなくなった。
次の瞬間、草むらの一塊がなぎ倒され、猛然と蜘蛛が突っ込んできた。しかも一匹だけではない。三匹も。足で地面を耕しながら突き進む様は怪物そのもの。
「ッ!? 〝ファイヤーボール〟!」
反射的に手をかざし火炎球を発射。三匹は散開して避ける。イメージの練りが不足していたため、球体が崩れ虚空で砕け散った。
一匹目が体当たりを仕掛けてきた。跳躍。巨体が宙に浮かぶ。なんて理不尽な脚力。蜘蛛の死骸から転げることで危なげに回避し、起き上がった。
二匹目と三匹目が目をぎょろつかせながら、前足を振るう。先端に爪。一撃をミスリル剣で受けるが、横からの二撃が右腕を傷つけた。苦痛。
「あ゛ッぐっ……」
ミスリル剣を取り落としそうになるも、奥歯を噛み締めて耐える。剣を失えば、最後の近接武器はナイフだけ。射程の短さと強度の無さで敗北を喫するのは目に見えていた。
蜘蛛の死骸の上に飛び乗り、身構えた。
三匹の蜘蛛は、一気に飛びかかるのを止め、蜘蛛の死骸を中心に包囲網を作った。
セージはゆっくりと周回し始めた蜘蛛三匹に対し、ミスリル剣を向けては次の相手に向けて威嚇する。
右腕から零れる血液が服を汚し、蜘蛛の死骸の上に点を描く。指を動かす。健は健在。筋肉も右腕の運用に支障なし。皮膚が一直線に切れ、肉が傷ついただけだ。
震えだす右腕を左手で抑え込む。
「こいつら手馴れてないか? ……っくそ、いてぇ」
蜘蛛の動作は、まるで人間と戦ったことがあるかのようだった。
ひょっとすると、蜘蛛を狩る人間が居るように人間を狩る蜘蛛も居るのかもしれない。
蜘蛛三匹に対してミスリル剣の近接格闘戦は不利であることは百も承知している。一匹を殺しても残りの二匹が体を刺すだろうから。魔術しか手が無い。虫など歯牙にもかけない火力を叩きつけるのだ。
咄嗟に火炎弾を発射した、してしまったことに嫌な汗が増える。
己が進む土地は火に弱い。森とは燃えるものである。エルフの里を囲む魔の森なら兎に角、ただの森で火を起こせば大惨事が待ち受けている。焼きエルフが転がることは避けたい。
イメージの中で二番目に強いのは氷である。ヴィヴィの見事な魔術行使が頭に焼きついたのだろう。
三匹を氷漬けにしてしまえば脅威は取り除かれようが、今のセージが行使できる技ではない。
蜘蛛達は複雑な構造をした口を蠢かせ、セージの周囲を回り続けている。狼のようだと無意味な感想を抱く。
隙が見つからない。一匹でも足を止めたのなら魔術を叩き込めるのだが、蜘蛛達は足を止めようとしない。それどころか、背後に回った蜘蛛が足を擦り合わせて威嚇してくるのだ。
一匹を魔術で潰せても、二匹目三匹目が首筋を掻き切るであろう。
逃げ場を探す。無い。水平方向のすべては蜘蛛の順回路である。横切ることを許すほど蜘蛛は優しくない。
下方。蜘蛛の死骸で塞がっている。地面をのんびりと掘って逃げようとしたなら、その穴が墓穴となるであろう。
上方。飛べば逃走は容易。だがここは重力の底。無重力ならいざ知らず、自分ひとり分の体重を空に浮かばせるだけの力を、セージは持っていなかった。
強行突破か、命を懸けて立ち向かうか、逃げるか。
選択肢はそう多くない。
セージは右腕の血を指に取ると、両頬に付け、口に突っ込んだ。鉄の味と塩気がした。




