<121>箱舟
水は嫌いだが炎も嫌いだった。
前者はおぼれかけた記憶から。後者はこの世界にやってくる際に燃え盛る屋敷から脱出したことからだった。
だが皮肉なことにもともと水泳は得意だったわけで、何を隠そう魔術は火炎系が得意なのだ。
嫌いといってもトラウマになって前後不覚になるような恐怖心があるわけではなかったので、飛び込むことに抵抗感はなかった。
メローが人形と化したネズミを水場に投げ入れて進路は確保してくれている。あとは迷わずに進むだけだった。
メローが羊皮紙に水中の中の様子を詳細に書き出してくれていた。十字路とT字路の入り組んだ地形。まともに攻略しようと思えばシュノーケルと酸素ボンベ一式が入用だろう。
迷路は単純明快に一筋の線で入り口と出口が結ばれていた。
複雑なように見えて簡単だった。なぜなら入り口と出口は極めて近い線で結ぶことができるからだ。
「進路は直進。突き当たったら右。突き当たったら左。上。距離で言えば息が続くくらい。でも」
「うん。メローお前泳げないんだろ」
「………」
「素直になろうか。泳げますか? 泳げませんか」
「……およげません」
「よろしい」
なぜか押し黙ってむっつり頬を膨らませるメロー。自分ができないことが悔しいのか恥ずかしいのかは定かではなかったが、子供っぽい仕草だった。
悔し紛れにネズミの死体の尻尾をつかんでビターンビターンと石造りの床に叩きつけて遊んでいなければだが。
身の回りのかさばる品をバッグに詰め込み服のだぶつく部分を縄で縛ったルエが、羊皮紙を指差しつつ、口を開いた。
「僕なら引っ張っていけると思う」
「へー。俺を引っ張っていくとかいい始めるかと思ったぜ。残念ながら泳ぎは得意なんだが?」
セージは自分の服をあちこち縛り付けつつ軽口を叩いた。槍は先端に木材を噛ませて突っかからないように背中に固定。クロスボウはバッグへ。銀の剣は腰で纏めてあった。
軽口をなんと受け取ったのか、ルエは腕を組んで天井を仰いだ。
「さすがに重過ぎるからね」
「………ふん。女性に対するセリフじゃな……いやなんでもない」
「最近のセージは面白いなぁ」
「うるせぇ黙れ」
言われるなりセージの口がヘの字に曲がったが、なぜか顔を赤くして手を振って言葉をかき消し始めた。
自分の言った言葉が信じられないと言った様に顔を赤くして。
セージは自分を埋める穴を探してみたがなかった。掘るしかないのだろうけども、ダンジョンで穴掘って埋まるとすれば墓穴しかないだろうから諦めた。
「幸せってなんだろうな」
「ご飯睡眠性欲」
セージのぼやき声を拾ったらしいメローがすかさず指三本を折った。
三大欲求全てを満たせればいいのだと言わんばかりの即答だった。最後の欲のひとつはどう満たしているのか? という疑問が脳裏をよぎったが問いかけることはしなかった。問いかけたら妙な答えが返ってきそうで恐ろしかったのだ。
セージはため息を吐くと水面への第一歩を踏み出した。冷たい水が服にしみこんでいく。幸い透明度は高かったので底を見通すことができた。不純物のないプールのように透き通った綺麗な水。が、足を入れたとたんに濁り始めた。底に土が溜まっていたらしい。
「俺が先行する。いや同時に行くべきだよな。合図する手段がない」
「念を送るというのかな。魔術で合図する手段はある。使えればの話だけど。僕は使えないぞ」
「わたしもつかえない」
「俺も使えないんだなこれが」
仕方がないとセージは頭を振ると、足を引いて一気に水中に飛び込んだ。
「………」
身体に強化の魔術を乗せる。酸素の消費量が上昇するかもしれないという懸念はあったが、やってみるしかなかった。
強化された脚力を持って進んでいく。どう泳ぐべきか迷った最初はまずドルフィンキックを試したが、服の抵抗力によってなかなか進まないことに気がつく。
やむを得ず平泳ぎに切り替えた。水中で目を見開いて行き先を探ろうと必死になっていたが、ぼやけた視界と薄暗い水中では探れるものも探れない。もちろん突き当たりで切り返すこともままならない。
一掻き。二掻き。足で水を蹴り飛ばして進む。装備の重さで体が徐々に沈んでいく。慌ててバタ足で引き上げようとした。
「……!?」
そしてセージは壁に頭から衝突した。
一瞬何が起こったのかわからず目を回したセージだったが、頭の頂上から生じる熱さによって自分が頭をぶつけたのだと気がついた。口の端から漏れ出す空気に焦燥感が高まっていく。
どくん、どくん、という心臓の音と、どこかで何かがきしむような音だけが鋭利に伸びたエルフの耳の中まで入り込んでくる。前者は体内から。後者は外から。
まずいまずいまずい。
酸素が急速に失われていく。心臓の脈拍が爆発的に間隔を狭めていく。頭の中においていた目的地までの航路にノイズが走り始めた。腹の奥底に痒い間隔が蛇のようにのたうち始めた。それは肺に食らいつくと命と言う灯火をかき消そうと躍起になっていた。正常な思考を奪われるのも時間の問題だった。
パニックに陥りそうになる自分を殴りつける。まだ死ねない。まだその時じゃないと。
バタ足。水を手で掻いて推進する。
「………」
最後の突き当りを曲がる。視界に飛び込んできたのは揺らめく水面と四角く括られた光だった。光は通路を水に歪められながらも概ねまっすぐセージのほうへと差し伸べられていた。
まるで神様から差し伸べられた手のように感じられた。
――手助けはいらない。死ねばいい、むしろ殺しに行くぜ。
セージは渾身の力を振り絞って鉛を括ったように重くなった足で水を蹴り飛ばした。
水面と言う境界線を突き抜ける。頭から順番に酸素の存在する空間へと突入した。肺の中に溜まった二酸化炭素を豊富に含む空気を吐き出すと、酸素を大量に含んだ新鮮な空気を肺胞の隅々まで行き渡らせる。体のあちこちが痛んだ。全身の関節という関節が震えていた。
最初に飛び込んできたのは、四角い照明器具だった。
金属もしくはプラスチックのようなフレームにはめ込んだ明るい面が白く輝いているのだ。蛍光灯にしては中の装置がない。しいて言うならば画面ごと光らせているようだった。
「ぷはぁっ……はぁーっ………はぁ……蛍光灯? じゃないけど…………」
不思議と驚きはしなかった。感想を口にするとざぶざぶと水を掻き分けて地面に立つ。
長方形の黒光りする立方体が立ち尽くしていた。下部に相当する部位からは人の足を彷彿とさせる構造の金属製の脚部が伸びていて、四方を支えている。窓ガラスのようなものは見当たらない。雑居ビルさながらに高かったが、黒光りする表面と異様な存在感を相成って、不気味さはビルどころか巨人の死骸を見つけてしまったようだった。
巨人の周辺を取り囲むように工事現場で使われるような照明装置が配置されている。ただし蛍光灯や白熱灯ではなく紙一枚が発光していると表現するべき器具がついているのだった。
「……えーっと」
セージは髪の毛の水を払うと、後続のメローとルエがどうなったかよりも照明器具と謎の黒い立方体に気をとられてしまった。
照明器具の発光部に手をふれると、ぱちんと音を立てて発光面が消滅してしまった。金属音を上げつつ照明器具が首の部分を折りたたむと、関節部から順々に織りたたまっていく。
腕を組むと立方体を見上げた。どう見てもファンタジー世界には似つかない。むしろ高度に発展した科学の産物のようにしか見えなかった。黒光りする立方体は何も言わずに佇んでいた。
立方体にはよく見ると継ぎ目がついている。金属をはめ込むことでつなぎ合わせたかのように見えた。
さてどうするべきかセージは迷った。ダンジョンに潜ってみたら謎の黒い立方体を見つけてしまったのだ。ダンジョンには箱舟があるという。箱舟は古代の技術の結晶であり別の世界への扉を開く鍵でもあるとうのだが――。
どうみても――。
「宇宙船?」
セージの知っている宇宙船とはオービタを打ち上げたりする大型ロケットとくっついているタイプである。もしくは、アポロのようなブースタが大半を占める形態であるテレビの画面の中で宇宙目指して飛んでいく様を幾度も目にしたものだった。最後に見たのはもう十数年前になるが。
立方体はおよそ知っている宇宙船の構造とはかけ離れていたが、なんとなく直感的にそう思ったのだ。
違うとしても少なくとも目の前の物体は科学技術の産物に思えてならなかったのだった。
『訪問者かね。宇宙船と言う表現を聞いたのは数千年ぶりのことになるわけだが。外の文明は宇宙船を建造して星の重力を振り切れるところまできたのかね。興味深いが……望み薄だろうな』
首を捻り、次の行動を模索している真っ只中のセージに機械的な声が投げかけられた。
立方体の底辺から地面に青白い光線が投影される。光の中で靄のようなノイズが走ると、足二本に腕二本の首の無い人形が出現する。輝く宝石を右胸に装着した人のような物体である。それは親しげに手を振りつつやってくると、セージの前で足を止めた。
首に相当する部位のカバーが外れるとカメラのレンズのみを抜き出してアームに括りつけたような部品が飛び出してきた。
カメラのレンズがセージの全身を観察する。
「ひとついいか」
『何かね。あまり私に時間は残されていないんだ。枯渇する資源のやりくりで忙しくてね」
「これはなんなんだ?」
セージはだらりと腕を下げた自然体で質問した。不審なものがいれば迷わず槍や剣かクロスボウを突きつけるところだったが、目の前の相手には通用しない気がしたのだ。
すると機械は手招きをした。
「その質問をしてきたのは君が初めてだよ。ついてくるといい。ようこそ我が船へ」
終盤なのです。だけどまだまだ続くんじゃ