100話記念その2 「2章と3章のあれこれ」
タイトルが思いつかずこうなった云々
一人称にかなり近い三人称です。
ルエ視点。
―――その女の子に魂を奪われたのは、きっと一目見たときのことだと記憶している。
一目見て雷に打たれた思いがした。
最初、初対面に感じたのは『水死体か?』という失礼極まる第一印象だったのは仕方がない。何せ、うつ伏せで渓流をどんぶらこどんぶらこと下ってきたのだから。渓谷の里には多くのトラップが仕掛けてある。落とし穴、ワイヤで作動する弩、幻覚、その他。水死体が流れてくるのはこれが始めてではないのだ。熊が岩場から様子を窺い食べようとしていたことも、死体ではないかという疑問を更に強めた。
死体は動かない。死んだものは動くことさえできない。モノになってしまっているから。
指先が微かに震えるのを水の間に見た。生きている。見過ごせる程腐ってはいなかった。
咄嗟に魔術を放ち熊を散らすと水に飛び込んで救助する。冷たく凍える体は生きているとは思えないほど衰弱していたが、抱きすくめたところで体が反応したので、生きていることが分かった。
女の子はべっとり張り付いた髪の毛を振り払うことをせず、咳をして水を胃の内容物と一緒に吐き出すと、ぐったりとして身動きを止めた。
息をしていなかった。息を吹き込むために唇を奪った。やむを得ない処置だった。思い返せば女性の唇に己の唇をくっつける行為は人生で初めてだった。ファーストキスにカウントされるだろうかと後々まで悩んだ。
急がないと生死にかかわる様態だった。一刻を争う。女の子の体を擦りながら医務室に駆け込んで診てもらった。怪我、熱病、低体温から来る危険性。水薬と懸命な治療で一命は取り留めた。
第一発見者として付き添うこととなったので、彼女が眠っているという部屋に行ってみた。
声を失った。
金糸を纏った幼くも凛とした雰囲気の寝顔が横たわっていた。見知った美人なら数多くいたし、綺麗な少女も知り合いではいたが、雷に打たれたように脳髄の芯から熱が走るような感覚を覚えるヒトは初めて出会った。吊り橋効果を疑い何度も自問自答するも真贋を特定できない。
傍の椅子に座って眺めてみる。顔色の悪さが目立ったが美しさを損ねるほどでもない、むしろ強調するようだ。ふと奇妙な考えに囚われた。もしこの原石が時間という職人の手で磨き上げられてカッティングされたらいかなる美麗な宝石に仕上がるというのだろうと。
まるで今後も共に過ごすことを前提としている己の頬を張り倒したい気分に襲われる。
何気なく手を伸ばしておでこにかかった髪の毛を梳いてやろうとした。あわよくば触れてみたいと願っていた。下心と馬鹿にするなかれ。健全な男子ゆえの行動なのだ。
次の瞬間、警戒心を湛えた双眸がカッと開くと宙を睨んだのだった。
「おっとっと」
火傷したかのように手を引っ込めると驚嘆の声を漏らす。事実、心臓が裂けそうなくらい脈打っていた。
「僕は敵じゃないですよ」
弁解した。まさか顔に触れようとしていたと初対面の相手に悟られるわけにはいかない。
「……すまなかった。俺の顔に手を置こうとしてなかった?」
「まさか、そんなことするわけないじゃないですか」
「なら、今俺が掴んだのは幽霊か何かなんだ」
ばれている。嘘が得意とはいい難く天才的な話術を有しているわけではないので、誤魔化せないのでお茶を濁すことで話題を逸らす。
「さぁ……知りませんね。悪い夢でも見てたんでしょう」
夢みたいなのは自分なのだと心の中で呟いて。
里を出ていくと言い始めた彼女を止めることはできなかった。
兄であるルークに頼み込んで同行を許可してもらおうとしたが、通らなかった。
結局、再会できたのは数年後だった。
もちろん手紙のやり取りはあったが顔を合わせることができなくて心が張り裂けそうだった。
再会は大魔術師として著名なロウのもとでだった。
まさか再会して早々抱き着かれるなんて思ってもいなかったが、ある意味でしたいと願っていたことが図らずも叶ってしまった。
ただ、左手の薬指に指輪を嵌めていたことが気がかりだった。否、気が気でなかった。もし婚約指輪だとしたら数年間積もらせた思いの行き場が消滅してしまう。背筋が冷たく肌着が汗に濡れる感覚を味わった。
のちにただの指輪と判明しても安心できなかった。
何せセージは子供っぽさが抜けて大人っぽい雰囲気に衣替えしており、外見もすらりと伸びた美しい年頃の娘になっていたのだから。唾をつけてやることはできない。尻込みしてしまう性格が足を引っ張った。だからかっこいいところを見せたい、もっと近くに居たい、という気持ちだけで立ち向かおうとした。
旅を続けるうちにセージが行方不明になった。
ヴィーシカが言う。長老の立場として。セージという個人は時に見捨てなければならない。足を止めることはならぬと。従うしかなかった。せめてもの綱として印を残すことしかできない自分が憎く恨めしかった。
スパイ容疑で捕まったと聞いたときは、上層部に掛け合った。セージがどのような性格でスパイになりえない理由があることをひたすら直談判した。役人に直接手紙を送ることもあったし、ルークの弟という立場でさえ利用した。使えるものは何でも使ったのだ。もし駄目ならばセージをさらってしまおうとさえ思い詰めていた。濡れ衣で処分など、理不尽にもほどがある。
結局、セージは釈放された。無罪と判断されたからだ。
その後、里でともに生活することとなった。ルークの計らいで仕事や行事には一緒になれるようにしてくれた。人生においてこれほど強く充実を得たことはなかった。
成長期にあるセージはメキメキと身長を伸ばしていった。ルエも長身だが、隣に並んでも違和感のない身長になるまで伸びた。日々大人になっていく好きな女性の姿は見飽きることがない。
共に生活していると、セージの性格の細部、癖、好きなものなどについて徐々に理解できるようになっていった。
例えば――男の前でも構わず脱いでしまうような大らかさ。
例えば――蜘蛛相手に大立ち回りした無鉄砲さ。
例えば――酒に強くないのにたくさん飲んでしまう適当さ。
例えば――寝相が酷くて毎朝髪の毛が爆発してること。
例えば――笑顔が可愛いこと。
例えば――誤魔化しがきかない恥ずかしいことに遭遇すると罵って話題を逸らすこと。
ある日のこと。部屋を訪ねノックして扉を開けた。ノックして返事も聞かず扉を開けるというのはノックの意味がないということに気が付かなかったのは、それだけ日々親しんできたからだった。
上半身は裸。下半身は下着だけで難しい顔をして女物の衣服を親の敵のようににらみつけるセージという構図に見事に直面してしまった。
「は?」
「あ…………」
セージがぽかんと口を開けて固まった。まさか返事も聞かず入ってくるとは思いもしなかったらしい。鍵をかけていればよかっただろうが、忘れていた。
男性の肉体とは比べるまでも無く細く華奢な作りであるが、女性のとしては逞しい部類に入る腹筋の上に張り付いた双丘の頂点に君臨するさくら色の淡い突起。網膜に電流が走るが如くの刺激は脳細胞に忘れがたい映像として記録された。刹那、セージの姿が掻き消えた。
ブロンドの閃光が走る。神がかった出力と反応をもってして無詠唱肉体強化魔術を実行、片足で地を蹴り肉迫すれば、ものの一秒とかからず掌底を叩き込む――わけではなくて、女物のワンピースを顔面に押し付けたのだった。
発生した風がワンピースを膨らませた。視界が布一色に覆い隠される。
むんずと頭を掴まれた。アイアンクロー。ワンピースで視界を奪うことと、相手の顔面を締め付けようという二重の枷。筋力強化しているのか、あろうことか片腕一本で持ち上げられる。
抵抗しても逃れることができない。
「いたたたたたたた!?」
「オイ。見たな? 見たんだな?」
ドスの効いた脅し文句にヒイヒイ答える。
「痛い! 痛いですよ! 見ました! 見ちゃいましたごめんなさい!」
「よろしい。素直な奴だ許してやろう。なんて言うと思ったのかよばーか!」
謝罪が謝罪にならずますますギリギリと持ち上げられる。さながらタロットのハングドマンのようだ。所有する因子は、我慢。だが我慢は身にならないという無常を表すという。
激しい外因性の頭痛に苛まれながらも言い訳を探す。そして、とりあえずこんなことを口にしてみた。
「……何年か前は見られても恥ずかしがらなかったじゃないですか」
「………く、それは…………そうだな……」
はらりと指が離れ拘束が緩む。ワンピースを取り去ってみると、苦悩と羞恥心を顔面で鬩ぎ合わせているセージがいた。体前方の守りは無く柔肌が広がる絶景が展開していた。
何がそこまで彼女を苦しめるのはか定かではないが、昔は恥ずかしがらなかったということだろうと見当をつける。小さい頃は恥ずかしくないが、大きくなって恥ずかしいことなど山ほどある。
真実は異なったのだがルエは知る由もない。
もし見ようと思えば見えるところにある胸元から視線を強引に逸らすと、ワンピースをセージの手に押し付ける。
気まずい時間があった。やがてセージに背中を押されて追い出された。
「出ていけ。お前のせいなんだぞ。あと念のために言っておくけど胸は忘れろ。いいか、忘れろ。夜中に思い出すようなことあったら枕ごと首を串刺しにしてやるからな!」
そんな言葉を貰った。
ルークとの訓練は主に組手だったが、ルークの魔術を前にしてセージは手も足も出ずに投げられては気を失っていた。ルークほどの使い手ともなれば領域内の大気を全て操り瞬時に相手を投げ飛ばすこともできる。本気になれば空間内を真空にして窒息死させることも容易い。未熟な戦士一人如き造作もない。
セージは強くなりたいと願っていたことと、無鉄砲な自分の体を省みない性格が重なり、無謀な攻撃を仕掛けてはやられるのが常だった。それでも回数を重ねるごとに接近の巧妙さが上手くなり魔術の扱いに成長の兆しがみられるようになったのは一重に努力の証であろう。
今日も今日とて気を失ったセージを起こそうとして肩を揺り動かしていた。
「セージ起きてください。必要ならば医務室運びますから」
「………ぅー……」
返事がない。うつ伏せに倒れ顔をべったりと地面に接した体勢のままでピクリともしない。顔を上げてみればセージと組み合っても髪の毛一つ乱れないルークの姿があった。
ルークがひらりと手を振ると、その場を去っていく。去り際に一言残して。
「後の処理は任せたぞ」
「はい。かしこまりました」
両足を揃え頭を低くして送る。
公共の場では兄弟であってはならないので、ルークの口調は長老としてのもの、ルエの口調は部下としてのものである。ルークが去ったのち、セージを起こす工程に取り掛かった。肩を揺すり声をかけて意識が戻るのを待つ。緊急救命と大差ない手法である。
一向に起きずうめき声を燻らせる彼女の乱れた前髪を整えてやる。髪の毛は細く柔らかい。きちんと梳かせば天使の輪のような光沢が生まれることを知っている。もしドレスで着飾ったらどうなるのだろうという妄想が膨らむ。
「……セージ、起きてください。聞いてますか? 大丈夫ですか?」
首を振って妄想の魔の手を追い払うと、すぐに起こす作業に戻る。肩を揺らし、顔を近づけて美味しそうな唇に―――と思考が邪な方向に逸れるのを客観的視点の自分によって戒めつつ、次の対処を考える。起きない。放置はできない。運ぼう。カチカチと頭の中で歯車が出来上がっていく感覚。気がつけば、セージの背中と足に手を潜らせ抱き上げていた。
背中と脚部の肉の柔らかさに心の臓腑がたまらなくなる。汗のにおいと女性特有のかおりが鼻をくすぐる。今すぐ胸元を、白い首筋を、すらりと長く肉付きのよい足を、貪りたい。駄目だと理性が押しとどめる。理性の強靭さたるや無双の戦士であった。欲望は拘束された。
ルエという男性は年頃である。愛おしい相手を前に欲望を制御するのがいかに難しいことだろうか。
いわゆるお姫様抱っこをして歩いていく。道中で仲間のエルフたちにからかわれても毅然として態度を崩さない。二人の関係を知っている者からはからかいよりもむしろ生暖かい視線が送られた。
セージの部屋に入ると、その体をベッドに横たえる。すやすやと眠る彼女を見下ろして後ろ髪引かれる思いで部屋を後にした。
暫くしてセージは目を覚ました。誰が運んでくれたのだろうという疑問を解消できないまま。
そんなある日のことだ。
セージに食事に誘われてワインを飲んだ時のこと。
事前の下調べでセージがどうして里を出たがっていたのか、わかっていた。ロウとの文通、ルークからの情報、そして独自の調査によって。別の世界に渡る術を持っていたという少数民族の遺産を求めているらしいこと。今もなおそれを目標に行動しているらしいこと。
旅路は辛いだろう。少数民族の遺跡は魔界と化しており帰還するものがないという。もし潜るのを止められないのならばセージは死んでしまう。死なせない。絶対に。心に誓っていた。
だから、募った想いを告げた。高揚に任せて唇を奪った。ファーストキスだった。
そして旅の同行まで漕ぎ着けた。
彼女の身に何かがあれば命を差し出す覚悟であった。君のためなら死ねる。
覚悟が揺るぐことはないだろう。初恋で、今も恋していて、危なっかしい相手を手放すことなんて考えることができないのだから。
恋は盲目だ。足元どころか一寸先さえ暗闇に変貌させる。自覚はあった。もしかしたら死ぬかもしれないと。構わないという覚悟も決めていた。
部屋から追い出された。彼女の感触の残滓に触れるかのように指を唇に触れる。その指を順々に折りたたんで拳とすれば胸元に置いて、背後の扉の向こうに通らぬよう抑制した小声を口の中で反響させる。
「―――……もしよければ、最期までついていかせてください」