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壁一枚分のその先へ

あの夜から、世界は、新しい季節へと入った。

 夏の陽射しは、これまで以上に力強く、そして、優しく、月影館つきかげかんの古い壁を、照らしていた。雫の心の中にも、確かな、そして、揺るぎない光が、灯っていた。


 翌朝、雫は、いつもより少しだけ、丁寧に、食事の支度をした。

 冷たいコーンスープと、焼きたてのパン。そして、デザートに、小さなサクランボを数粒。それらを、トレイに乗せて、彼のドアの前へと運ぶ。

 ドアの前に立った時、雫の心臓が、とくん、と、小さく、しかし、はっきりと、跳ねた。

 このドアの向こうに、彼はいる。

 あの瞳で、こちらの気配を、感じているかもしれない。

 雫は、食事を床に置くと、いつものように、軽くドアをノックし、自室へと戻った。そして、自分のドアを、ほんの数センチだけ、開けておく。

 昨日と同じように、彼のドアが、静かに開くことを、期待して。


 しかし、その日、彼のドアが開くことはなかった。食事は、雫が一度部屋に戻り、しばらくしてから、静かに、受け取られたようだった。

 その次の日も、また、その次の日も、同じだった。

 雫は、少しだけ、落胆した。けれど、すぐに、その感情を、打ち消した。

 焦ってはいけない。

 彼には、彼のペースがあるのだ。あの扉の隙間は、彼が、人生の全てを懸けて、ほんの少しだけ、開けてくれたもの。それを、私が、こじ開けようとしては、いけない。


 二人の間の、穏やかな、食事と花のやり取りは、続いた。夜ごと奏でられるチェロの音色も、変わらず、雫の心を、満たしてくれた。

 けれど、雫の中には、一つの、消えることのない渇望が、生まれていた。

 もう一度、聞きたい。

 彼の、声を。

 その機会は、セレナーデの夜から、五日後の夜に訪れた。


 その日も、雫は、彼のために、夕食の支度をしていた。夏野菜をたっぷり入れた、冷たいラタトゥイユ。それを、ガラスの器に盛り付け、彼のドアの前へと運ぶ。

 そして、雫は、賭けに出た。

 いつものように、軽くドアをノックする。そして、自室には戻らず、その場に、じっと、たたずんだのだ。

 壁の向こうの、沈黙。

 雫は、自分の心臓の音だけを、聴いていた。

 やがて。

 ガチャリ、と、錠前の開く音がした。

 そして、ギィ、……と、彼のドアが、あの夜と同じように、ほんの、数センチだけ、開いた。

 雫は、固唾かたずをのんで、その隙間の向こうの、闇を見つめた。

 そこには、案の定、彼の、静かな瞳があった。彼は、ドアの前に立つ雫の姿を、驚いたように、しかし、拒絶する色なく、ただ、じっと、見ていた。

 今だ。

 雫は、震える唇を、必死に動かした。


「……あの……」


 声が、かすれて、うまく出ない。


「セレナーデ……とても、綺麗でした」


 その言葉は、夏の夜の、静かな廊下に、吸い込まれていく。

 長い、長い、沈黙。

 彼の瞳が、微かに、揺れた。

 やがて、その、闇の隙間から、声が、聞こえた。


「……聴いて、いてくれたんですね」


 嵐の夜に聞いた、あの、息のような囁き声ではない。

 少し、掠れて、そして、長い間、使われていなかったかのように、ぎこちない。けれど、確かに、彼の、本当の声だった。低く、落ち着いた、チェロの音色によく似た、声。

 雫は、涙が、溢れそうになるのを、必死に堪えた。


「はい。……毎晩」


 そう答えるのが、精一杯だった。


「私の、本……読んで、くれたんですね」


「……はい」


 彼の声が、続く。


「……綺麗、でした。あなたの、絵も、物語も」


 その言葉は、どんな賛辞よりも、深く、雫の心を、貫いた。

 もう、何も、言うことはなかった。

 ありがとう、という、想いだけが、胸いっぱいに、広がっていく。

 やがて、彼が、静かに言った。


「……ありがとう、ございます。……食事」


 そして、するりと、ドアは、閉じられた。

 後に残されたのは、夏の夜の匂いと、そして、雫の耳の奥に、いつまでも響き続ける、彼の声の、余韻。


 雫は、その場に、しばらく、立ち尽くしていた。

 そして、込み上げてくる、温かい感情に、身を任せるように、ゆっくりと、微笑んだ。


         

          ◇



その夜を境に、二人の間には、また一つ、新しい、そして、ひどく臆病な習慣が生まれた。

 毎日ではない。三日に一度、あるいは、週に一度。雫が、夕食を彼のドアの前に置き、そして、立ち去らずに、その場に、じっとたたずむ。すると、彼が、ほんの少しだけ、ドアを開ける。

 その、十センチほどの隙間を通して、二人は、短い、途切れ途切れの会話を、交わすようになった。

 それは、他愛もない会話だった。


「今日のスープは、トマトです。夏なので」


「……ありがとう、ございます。……いい、匂いがします」


「中庭の、紫陽花あじさいが、もうすぐ、終わりそうですね」


「……そう、ですね。……次は、何が、咲くんでしょうか」


 ほとんどは、雫が、一人で話していた。彼女は、彼が返事に困らないよう、慎重に、言葉を選んだ。天気の話。読んでいる本の話。新しく描き始めた、イラストの話。


 彼は、ただ、静かな相槌あいづちを打つだけ。けれど、その短い言葉の中に、彼が、確かに、雫の言葉に耳を傾け、その世界を、共有しようとしてくれていることが、伝わってきた。

 その、穏やかで、危うげな均衡が、破れたのは、ある夏の終わりの夜だった。


 その日、雫は、新しい仕事の話をしていた。東京のデザイン事務所時代の、元同僚から、小さな個展を開かないか、と誘われたのだ。


「私なんかが、って、一度は、断ったんですけど……。でも、少しだけ、やってみたいなって、思い始めてて」


 雫は、少し、はにかんだ。


「東京にいた頃は、いつも、誰かの期待に応えることばかり考えて、自分のために絵を描くなんて、忘れてしまっていたから。……なんだか、とても、苦しかったんです」


 そう、何気なく、口にした瞬間。

 ドアの隙間の向こうの、彼の気配が、ぴたり、と凍りついたのを、雫は肌で感じた。

 しまった、と、雫は思った。余計なことを、言ってしまった。彼の、一番、痛い場所に、触れてしまったのかもしれない。


「……ごめんなさい。私の話なんて…」


「……期待」


 雫の言葉を、遮るように。

 ドアの隙間から、彼の、か細い声が、聞こえた。彼は、ただ、その言葉を、反芻はんすうするように、呟いた。


「……それでした。おれが、壊れたのは」


 雫は、息をのんだ。

 彼が、初めて自分のことを語った。そして、初めて、くだけた本当の口調で。

 そこから、彼の途切れ途切れの告白が、始まった。

 それは、懺悔ざんげのようであり、あるいは、長い間、誰にも言えずに、心の中で腐りかけていた、うみを、少しずつ、絞り出すような、痛々しい作業だった。

 彼は、扉の隙間から、ぽつり、ぽつりと、語った。


 神童しんどうと呼ばれた、子供時代のこと。自分の意思ではなく、周りの大人たちの期待という、見えないおりの中で、ただ、チェロだけを、弾き続けていたこと。

 そして、心から信頼していた、師のこと。その師が、自分の父親代わりであり、世界の全てだったこと。

 その、世界の全てが、ある日、自分を裏切ったこと。自分の音楽を、自分の魂を、金のために、名声のために、売り渡していたこと。

 凱旋がいせん公演の、あの日。

 ステージに上がる、ほんの数分前。楽屋に届けられた、一冊の週刊誌。そこに、全ての真実が暴露されていたこと。


「……頭が、真っ白になって。……何が、本当で、何が、嘘なのか……」


 彼の声は、震えていた。


「……ステージに出たら、スポットライトが、無数の目に、見えたんです。俺を値踏みする目。俺の、不幸を、笑う目。……客席の、拍手が、全部、嘲笑ちょうしょうに、聞こえて……」


 弓が重くなって。

 弦が見えなくなって。

 息ができなくなって。


 雫は、ただ、黙って、彼の言葉を、聴いていた。

 相槌も、打たない。同情の言葉も、口にしない。

 ただ、彼の、その地獄の記憶の、唯一の、証人になる。それだけが、今の自分に、許された、役割だった。

 彼の言葉の、一つ一つが、これまで聴いてきた、彼のチェロの音色と、重なっていく。あの慟哭どうこくが、あの不協和音が、今、ようやく、その意味を、雫に、告げていた。


 長い、告白が終わった時。

 彼は、まるで、全ての力を使い果たしたかのように、消え入りそうな声で、言った。


「……それで、全部、終わったんです」


 そして、その言葉を最後に、ドアは、静かに、閉ざされた。

 雫は、一人、薄暗い廊下に、立ち尽くしていた。

 彼の、あまりに重い過去を、その両手に、受け取ってしまった。

 それは、ひどく、重かった。

 けれど、それ以上に、彼が、自分を信頼してくれたことが、雫の心を、震わせていた。

 私はもう、ただの隣人ではない。

 彼の秘密の、共犯者なのだ。


       

         ◇



その夜を境に、月影館つきかげかんの空気は、再び、その色合いを変えた。

 彼の告白は、あまりに重く、痛々しいものだった。けれどそれは、長い間、彼の心に突き刺さっていた、大きなとげでもあったのだ。

 その棘が、抜けた。


 もちろん、傷がすぐに癒えるわけではない。けれど、少なくとも、彼の魂をさいなみ続けていた、絶え間ない痛みは、和らいだはずだった。

 その証拠に、壁の向こうから聞こえてくるチェロの音色が、変わった。

 告白の後の数日間、隣室は、心地よい沈黙に包まれていた。それは、疲弊した魂が、休息を求めるための、必要な沈黙だと、雫にはわかった。


 そして、三日目の夜。

 チェロの音が、再び響き始めた。

 その音楽は、悲しみでも、喜びでも、なかった。それは、ひたすらに、穏やかで、静謐せいひつで、そして、全てを受け入れたかのような、澄み切った響きを持っていた。まるで、嵐が過ぎ去り、全てのちりが洗い流された後の、朝の光のような音楽。

 雫は、その音色を聴きながら、彼が、ようやく、長い夜の底から、顔を上げたのだと、確信した。


 二人の、扉の隙間越しの会話も、変わった。

 ドアの開く角度が、以前よりも、少しだけ、広くなったのだ。以前は、彼の瞳しか見えなかったその隙間から、今では、彼の顔の輪郭や、肩のあたりまでが、垣間見えるようになった。

 そして、会話の内容も、彼の過去という、重いテーマから、他愛もない、日常の断片へと、移っていった。


 ある日、雫は、買い物帰りに見かけた、子猫の話をした。電信柱の影から、必死に、蝶を追いかけている、小さな三毛猫の話。


「そのお手々が、全然届いてなくって。なんだか可笑おかしくて、可愛くて」


 そう、雫が、笑いながら話した、その時だった。

 ドアの隙間の向こうから、これまで一度も聞いたことのない、音がした。


「……ふふ」


 それは、微かな、息の音に混じった、小さな、小さな、笑い声だった。

 雫は、はっと息をのんだ。


 彼の笑い声。

 長年、使われていなかったせいで、少し、錆びついていたけれど。それは、確かに、温かい、喜びの響きを持っていた。

 その音を聞けただけで、雫は、世界中の全てを、手に入れたような気持ちになった。

 その夜の会話で、雫は、ずっと、心のどこかに引っかかっていた、最後の謎について、尋ねてみることにした。


「あの、月城さんが治してくれた時計、今も、ちゃんと動いていますよ」


 雫は、努めて、明るい声で言った。


「私の部屋で、一番、正確な時計です。……でも、一つだけ、わからないことがあって」


 ドアの向こうの、彼の気配が、少しだけ、緊張したのがわかった。


「あの時計、どうやって、私の部屋から……?」


 長い、沈黙が落ちた。

 やがて、気まずそうな、そして、少し、恥ずかしそうな、彼の声がした。


「……あの時、あなたの、部屋の鍵が……かかっていなくて」


 雫は、ああ、と、心の中で、小さく呟いた。


「……メモを、読んで。……どうしても、治してあげたい、と、思ったら、……気づいたら、あなたの部屋の前にいて。……本当に、すみませんでした。……勝手なことを、して」


 彼の、しどろもどろな謝罪に、雫は、思わず、笑みがこぼれた。


「……そうだったんですね」


 怖くも、なんともなかった。ただ、彼の、不器用な優しさが、たまらなく、愛おしかった。


「……だと思いました。ありがとうございます、あの時も、今も」


 雫が、そう言うと、ドアの隙間の向こうから、彼が、安堵のため息をつくのが、わかった。

 最後の、秘密が、共有される。

 二人の間の、壁は、もはや、ほとんど、意味をなさなくなっていた。


  

         ◇



季節は、夏から秋へと、そのよそおいを静かに変えようとしていた。

 あれほどけたたましく鳴り響いていたせみの声は、いつしか、りりり、と鳴く涼やかな虫の音へと変わっている。頬を撫でる風も、熱を失い、どこか、澄み切った、心地よい冷たさを、帯び始めていた。


 雫と、月城律の関係もまた、その季節の移ろいと共に、穏やかで、満ち足りた、熟成の時を迎えていた。

 扉の隙間は、今や、彼の顔の半分ほどが見えるくらいには、開かれるようになっていた。伸びた前髪の隙間から覗く、静かで、優しい瞳。時折、会話の合間に、はにかむように、その口元が、微かにほころぶ。


 雫は、その、ほんの僅かな表情の変化を見つけ出すことが、何よりも、愛おしい、宝探しとなっていた。

 彼は、まだ一度も扉の向こう側へと出てはこない。

 けれど、雫は、それで、よかった。

 この、壁一枚ぶんの、ほんの僅かな距離。

 それが、今の二人にとっては、最も、心地よく、そして、お互いを傷つけない、完璧な距離なのだと、わかっていたからだ。

 その奇跡が訪れたのは、九月の終わりの、ある日の午後だった。


 その日は、朝から気まぐれな空模様だった。晴れていたかと思えば、急に、分厚い雲が空を覆い、ざあ、と、激しい夕立ゆうだちが、世界を洗い流していく。


 雫は、自室の窓辺で、その様子を、スケッチブックに描き留めていた。

 やがて、雨が、止む。

 そして、西の空を覆っていた雲が、ゆっくりと切れていった。

 その、雲の切れ間から、まるで、世界に許しを与えるかのように、黄金色の、荘厳な光が、地上へと、差し込んだ。


 その瞬間。

 雫は、息をのんだ。

 月影館つきかげかんの、雨に濡れた中庭。その上空に、巨大な、そして、完璧な、七色のアーチが、架かっていたのだ。

 虹だった。

 それも、これまで見たこともないほど、鮮やかで、力強い、二重の虹。

 あまりの美しさに、雫は、言葉を失った。

 そして、ほとんど、衝動的に、椅子から立ち上がっていた。

 見せたい。

 この、奇跡のような光景を、彼に、見せなければ。

 雫は、駆け出した。

 彼のドアを、これまでで、一番、強く、叩く。

 コン、コン、コン!

 すぐに、ドアが、いつものように、僅かに開いた。隙間から、彼の、いぶかしげな瞳が、こちらを覗いている。


「……なにか?」


「虹が!」


 雫の声は、興奮に、上ずっていた。


「見てください、月城さん! すごく、綺麗な虹が、出てるんです!」


 雫は、自室の窓の方を、必死に指差した。

 ドアの隙間の向こうで、彼が、困惑している気配がした。彼のいる、闇に閉ざされた部屋からは、もちろん、虹など、見えるはずもない。

 その、あまりに、残酷な事実に、雫は、はっとした。

 そして、気づけば、雫は、行動していた。

 それは、理屈ではなかった。ただ、魂が、そう、叫んでいた。


「……一緒に、見ませんか?」


 ドアの隙間の向こうの、彼の気配が、凍りついたのがわかった。

 無理だ。そんなこと、できるはずがない。彼が、この五年間、一度も、破ることのできなかった、自分自身の、おり

 けれど、雫は、引かなかった。

 彼女は、自室のドアを、大きく開け放った。そして、廊下の光の中に、全身を晒す。

 さらに一歩、彼のドアへと近づく。

 そして。

 雫は、自分の右手を、そっと彼のドアの、その、十センチの隙間の中へと差し入れた。

 光の中から、闇の中へ。

 震える、彼女の、手のひら。

 それは、彼を、外の世界へと繋ぐ、唯一の、 命綱いのちづな

 雫は、彼の、見えない瞳を、まっすぐに、見つめた。

 そして、静かに、しかし、強い、意志を込めて、言った。


「……大丈夫。私が、いますから」


 虹は、空にある。

 けれど、本当の奇跡は、今この薄暗い廊下で、起ころうとしていた。

 雫が、差し出した、手のひら。

 それは、光の中から、闇の中へと、伸ばされた、一本のか細い糸。

 ドアの隙間の向こうの、彼の世界は、沈黙していた。

 嵐よりも、もっと深く、もっと恐ろしい沈黙。

 雫は、息をのんで、待った。

 心臓の音が、耳元で、うるさいほどに響いている。


 虹が消えてしまう。

 そう思った、その刹那。

 雫の指先に、何かがそっと、触れた。

 ひやりと、冷たい感触。

 ためらいがちに、震える、彼の指先。

 雫は、息を止めた。

 その指先は、逃げなかった。それどころか、まるで、暗闇の中で、唯一の光を、確かめるかのように、ゆっくりと、雫の手のひらを、なぞる。

 そして。

 その、震える指が、雫の指に、そっと、絡められた。

 それは、チェロを奏でる、音楽家の、しなやかで、長い指だった。けれど、長い間、人の温もりに触れていなかったのだろう、その指は、ひどく冷たく、そして、痛々しいほどにか細かった。


 雫は、その冷たい指を、自分の、温かい指で、そっと、包み込んだ。

 そして、ゆっくりと、優しく、光の方へと、導く。


 ギィィ……、と、重い扉が、きしむ音。


 彼の世界が、開かれていく。

 そして、ついに、ドアの隙間から、闇の中から、彼が、一歩、廊下の光の中へと、その姿を、現した。

 雫は、初めて彼を、全身を、その目で見た。

 彼は、背が高かった。けれど、長い間、光を避けて、体を丸めて生きてきたのだろう、その背中は、自信なさげに、少しだけ、丸まっている。着ているシャツは、よれて、色褪せていた。伸びた黒髪が、その顔の、半分を覆い隠している。


 彼は、廊下に差し込む、午後の光に、眩しそうに、何度も、目を瞬かせた。

 まるで、何年も、冬眠していた生き物が、初めて、春の光を浴びたかのように。

 その姿は、痛々しく、危うげで、そして、どうしようもなく、美しかった。

 彼は、雫の手を、まるで、それが、自分をこの世界に繋ぎとめる、唯一のいかりであるかのように、固く、固く、握りしめている。

 雫は、何も言わなかった。

 ただ、その手を、引き、ゆっくりと、歩き出す。


 一歩、また、一歩。

 廊下を抜け、エントランスホールを横切り、そして、月影館つきかげかんの、外へ。

 彼が、五年ぶりに、外の世界へと、足を踏み出した、その瞬間。

 ふわり、と、雨上がりの湿った、しかし、清浄な風が、二人の頬を撫でた。

 彼は、はっと息をのむ。

 土の匂い。草の匂い。遠い、潮の香り。鳥の声。

 その、あまりに、情報量の多い、生命の奔流に、彼の全身が、微かに、震えた。


 雫は、彼を、虹が一番よく見える場所へと導いた。

 そして、二人並んで、空を見上げる。

 空には、くっきりと、七色の巨大な橋が架かっていた。

 彼は、その光景を、ただ、呆然と見つめている。

 やがて、その、青白い頬を、一筋、雫が、伝った。


 それはもう、悲しみの涙ではなかった。

 虹がゆっくりと、空に溶けていく。

 魔法の時間が終わる。

 けれど、その後に残されたものは、決して、消えはしなかった。

 彼は、空から、ゆっくりと、雫へと、その視線を、移した。

 そして、初めて、はっきりと、微笑んだ。

 それは、ひどく、不器用で、ぎこちない、笑顔だったかもしれない。

 けれど、雫にとっては、これまで見た、どんな芸術品よりも、美しい笑顔だった。


「……きれいだ」


 彼が、そう囁いた。

 それが、虹のことを言っているのか、あるいは、別の何かを、言っているのか。

 雫には、わからなかった。

 ただ、彼女もまた、彼を見つめ返し、心の底から、微笑んだ。


「はい」


 壁はもうない。

 彼のトラウマが、消えたわけではない。明日から、全てが、変わるわけでもないだろう。

 けれど二人は、もう一人ではなかった。

 同じ空の下で、同じ景色を見て、同じ風を感じている。


 壁一枚ぶんのセレナーデは、終わった。

 そして、ここから、二人のための、新しい楽章が、始まろうとしていた。


 手を取り合って、共に奏でていく、未来の音楽が。




この物語を、最後まで、読んでくださり、本当にありがとうございました。

 月影館つきかげかんの、雨の匂いや、床のきしむ音、そして、壁一枚を隔てて響き合う、二人の魂のセレナーデは、あなたの心に、どのように届きましたでしょうか。


 この物語は、「壁一枚を隔てた、音と気配だけの恋」という、一つの、あまりに美しく、切ない着想から始まりました。

 同時に、この小説は恋愛小説と、描写の練習で、書き始めた物語です。


 雫が聞く雨音の響き、律が奏でるチェロの音色の震え、二人の間の沈黙の、その重さ。それらを、ただの文章ではなく、読者の心に直接届く「体験」として描くこと。

 その挑戦こそが、この物語の執筆、そのものでした。もし、この物語の空気に、少しでも、肌で感じていただけたら幸いです。


改めて、この物語を読んでいただき、誠にありがとうございました。

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