雨音とチェロ
初めてこちらのサイトに投稿させていただいておりす。もしよろしければご覧ください。
がらんとした部屋の真ん中で、雨宮雫はぽつんと一人、立っていた。
三年間住んだワンルームマンションは、全ての家具が運び出され、見知らぬ箱のように素っ気ない顔をしている。壁に残ったポスターの跡、床にかすかに残るテーブルの脚の窪み。
そういった生活の痕跡だけが、ここにかつて自分の暮らしがあったことを、幻のように教えていた。窓の外では、五月の雨がアスファルトを黒く濡らしている。引っ越し業者のトラックが走り去っていくエンジン音が、雨音に溶けて遠ざかっていった。
これで、本当に終わりだ。
雫は、空になった部屋の真ん中で、ゆっくりと息を吐いた。吸い込んだのは、埃っぽい、空虚な空気だった。解放感があるはずなのに、胸のあたりに溜まった澱のようなものは、まだ消えずにそこにある。
◇
三日前、雫は勤めていた都心のデザイン事務所に退職届を出した。最後の挨拶を終え、自分のデスクを空にした時、上司は最後まで嫌味な口調だった。
『雨宮さんさあ、フリーでやってくなんて甘いと思うよ。うちの看板があったから仕事もらえてたってこと、わかってる?』
わかっています、と雫は答えた。声は、自分でも驚くほど平坦に響いた。その通りだったからだ。けれど、もう限界だった。心が、悲鳴を上げていた。
真夜中のオフィスで、青白いモニターの光だけを浴びながら、終わりの見えない修正作業に没頭する日々。クライアントからの深夜の電話。
「申し訳ないんだけど、このイラスト、やっぱりもう少しキラキラした感じで、でも上品さは失わずに、もっとこう、ドーンとくるインパクトが欲しいんだよね。わかる? 明日の朝までによろしく」。
わかるはずもなかった。けれど、「わかりました」と応えるしかなかった。
カフェイン剤を錠剤のまま水で流し込み、ほとんど意地だけでマウスを動かす。始発が動き出す頃に会社を出て、シャワーだけを浴びるためにこの部屋に帰り、またすぐに出社する。そんな生活を続けているうちに、雫はゆっくりと色を失っていった。
ある朝、駅のホームで電車を待っている時、ふと線路に吸い込まれそうになった。自分の足が、自分の意志とは関係なく、一歩前に進もうとする。慌てて柱にしがみつき、激しい動悸が収まるのを待った。その時、はっきりと理解したのだ。
逃げなければ、壊れてしまう、と。
その日のうちに、退職の意思を伝え、ほとんど衝動的にこの部屋の解約手続きをした。故郷に帰るという選択肢はなかった。心配をかけたくないという見栄と、今さらあの閉鎖的な田舎町には戻れないという意地があったからだ。どこか、誰も自分を知らない、静かな場所へ行きたかった。
スマートフォンの賃貸情報サイトを、目的もなくスクロールし続けていた時だった。膨大な物件情報の中に埋もれるようにして、その写真を見つけたのは。
蔦の絡まる、古い洋館。
添えられた名前は、『月影館』。
他の物件とは明らかに異質なその存在感に、雫は釘付けになった。まるで時が止まったような、物語の中の建物。非現実的なほどに美しく、そしてどこかもの悲しいその佇まいに、強く心を惹かれたのだ。
ここなら、何かが変わるかもしれない。ううん、変わるのではなく、失ってしまった自分を、取り戻せるかもしれない。ほとんど祈るような気持ちで、内見もせずに契約を決めた。
「……行こう」
ぽつりと呟き、雫は部屋の鍵を郵便受けに入れた。ドアを閉めると、オートロックがかかる重い音が響く。もう、この部屋に入ることはない。
スーツケースを引き、雫は雨が降る東京の街を後にした。
◇
新幹線の車窓を流れる景色は、雫の感傷などお構いなしに、目まぐるしくその姿を変えていく。灰色のビル群が途切れ、住宅街になり、やがて水田の緑が車窓の多くを占めるようになる頃、雫はようやく自分が東京から物理的に引き剝がされたのだという実感を得た。
指定された駅で、ローカル線に乗り換える。二両編成の電車は、空席が目立っていた。ゴトン、ゴトン、と規則正しく揺れる車体。開け放たれた窓からは、雨と土の匂いが混じった、湿った風が吹き込んでくる。都会の、アスファルトと排気ガスと無数の人々の匂いとは全く違う、生命の気配に満ちた匂いだった。雫は目を閉じ、その匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。胸の澱が、少しだけ洗い流されるような気がした。
目的の駅に着いた頃には、雨は霧雨に変わっていた。古い木造の駅舎を出ると、ロータリーに一台だけタクシーが停まっているのが見えた。
「月影館まで、お願いします」
雫が行き先を告げると、初老の運転手はバックミラー越しにちらりと雫を見て、興味深そうに眉を上げた。
「月影館? ああ、あの丘の上にある洋館だね。お嬢さん、あそこに越してくるのかい」
「はい。今日からなんです」
「そうかい、そうかい。あそこは昔、貿易商の立派な別荘だったんだよ。持ち主が変わって、三十年くらい前からアパートになったんだがね。住む人も風変わりな人が多いなんて噂だねえ」
運転手は楽しそうに語る。雫は曖昧に相槌を打ちながら、窓の外に目を向けた。車は古い商店街を抜け、緩やかな坂道を登っていく。道の両脇には、雨に濡れた紫陽花が、しっとりとした青や紫の花を咲かせている。
「まあ、建物自体は本当に立派なもんだよ。ただ、いかんせん古くてね。それに、少し薄暗いから、夜は一人で歩くのは少し怖いかもしれんねえ」
そんな他愛もない話をしているうちに、タクシーは速度を落とした。
「お客さん、たしかこの辺りなんですが」
運転手の声に促され、雫は窓の外に目を向け、息をのんだ。
そこに建っていたのは、写真で見た以上の、圧倒的な存在感を放つ洋館だった。現実の建物というより、誰かの記憶や夢が形を成したかのような、幻想的な佇まい。雨に洗われた蔦の葉一枚一枚が、まるで呼吸をしているかのように艶めかしく光っている。
「……ここで、合っています。ありがとうございます」
雫は料金を支払い、運転手に手伝ってもらいながら、いくつかの段ボール箱とスーツケースを歩道に下ろした。再び走り去っていくタクシーの赤いテールランプが、霧雨の中に溶けて消えるのを見送ると、雫は完全に一人になった。
ざあ、と風が吹き、木々を揺らす音がする。雫は改めて、これから自分の家となる建物をじっと見上げた。高い屋根、いくつも並んだアーチ窓、屋根の上の風見鶏。そのすべてが、雫を異世界へと誘う門のように見えた。
雫はぎゅっとスーツケースの取っ手を握りしめ、錆びついた鉄の門扉を、両手でゆっくりと押し開けた。
◇
ギィ、と錆びた蝶番が悲鳴のような音を立てた。門扉の重さは、雫の細い腕にはずしりとこたえる。敷石で舗装された短いアプローチは、雨に濡れてしっとりとした黒色に変わり、石と石の隙間からは背の低い苔や名も知らぬ草が健気に顔を覗かせていた。
両脇には手入れされているのかいないのか、紫陽花やツワブキが鬱蒼と茂り、その葉の上で雨粒がきらきらと輝いている。雫はスーツケースの車輪が敷石の窪みにはまるのに難儀しながら、ゆっくりと玄関ドアへと向かった。
辿り着いた玄関ドアは、まるで教会の扉のように重厚な造りだった。濃いマホガニーの色をした分厚い一枚板で、中央にはライオンの顔をかたどった真鍮製のドアノッカーが取り付けられている。
雫はそれに触れるのを一瞬ためらい、ドアノブに手をかけた。ひんやりと冷たい金属の感触が、手のひらにじわりと伝わる。長い年月を経て、無数の人々の手に触れられてきたのだろう。角は滑らかに磨り減り、鈍い光を放っていた。
不動産屋から受け取った、どこか古風なデザインの鍵を鍵穴に差し込む。少し引っかかるような感触の後、カチャリ、と控えめながらも確かな手応えがあった。
雫は一つ、深呼吸をする。そして、これから自分の世界となる場所への扉を、ゆっくりと押し開けた。
ドアを開けた瞬間、ひんやりとした空気が雫の頬を撫でた。古い木と、湿った土、それから本のページの匂いにも似た、乾いたインクと紙の香り。微かにカビの匂いも混じっている。
けれど、それは決して不快なものではなかった。むしろ、雫のささくれだった神経を優しく鎮めてくれるような、不思議な懐かしさを感じさせる香りだった。図書館の書庫や、祖母の家の屋根裏部屋に迷い込んだ時のような、秘密めいた匂い。
エントランスホールは、雫の想像していた以上に広々としていた。そして、薄暗かった。高い天井には豪奢なシャンデリアが吊り下がっているが、今は明かりは灯っていない。
唯一の光源は、正面の螺旋階段の踊り場に設けられた、大きなステンドグラスの窓だけだった。曇り空の柔らかい光が、そこに描かれた葡萄の蔓と青い鳥の絵を透かし、床のタイルに色とりどりの影を落としている。それはまるで、深海の底に沈んだ教会のようだった。
外で降り続く雨の音は、この分厚い壁と扉に遮られて、どこか遠くで響いているように聞こえる。しん、と静まり返った空間に、雫がスーツケースを置く音がやけに大きく響いた。
雫は吸い寄せられるように、螺旋階段へと歩み寄った。踏み板の中央は、多くの人に踏まれたせいだろう、緩やかに窪んでいる。マホガニーでできた幅広の手すりにそっと手を触れると、ひんやりとしていて、驚くほど滑らかだった。雫は顔を上げ、階段が描く美しい曲線を見上げる。光と影が織りなすその光景は、一枚の絵画のようだった。
階段の脇には、古い木製の集合郵便受けがあった。それぞれの部屋番号が記されたプレートは黒ずみ、いくつかの差し込み口には埃がたまっている。雫の部屋になる「101」の札は、少し傾いていた。人の出入りがそれほど多くないのかもしれない。壁にかけられたコルクの掲示板には、画鋲の跡が無数に残っているだけで、一枚の貼り紙もなかった。
まるで、建物そのものが深い眠りについているようだ。雫は、その眠りを妨げてしまった侵入者のような気分になった。けれど同時に、この静けさは、今の雫が何よりも求めているものでもあった。誰にも邪魔されず、ただひたすらに、自分だけの時間を過ごせる場所。
雫の部屋は一階の突き当たり、101号室。スーツケースと段ボール箱をよいしょと持ち上げ、きしむ音を立てる廊下を進む。自分の部屋のドアの前まで荷物を運び終えると、雫ははあと息をついた。そして、改めて隣のドアに目をやった。
102号室。
雫の部屋と同じ、濃い茶色の木製ドア。けれど、雫の部屋のプレートが真新しく磨かれているのに対し、隣の「102」という真鍮のプレートは、緑青が浮き、くすんでいた。
タクシーの運転手の言葉が、ふと頭をよぎる。
『住む人も風変わりな人が多いなんて噂だねえ』
どんな人が住んでいるのだろう。年配の男性だろうか。それとも、物静かな女性だろうか。あるいは、学生だろうか。引っ越しの挨拶は、しておいた方がいい。ご近所付き合いは得意ではないけれど、最低限の礼儀は尽くしておきたかった。それに、ほんの少しの好奇心もあった。この不思議な建物の住人とは、一体どんな人なのだろう、と。
雫は自分の荷物を壁際にきちんと寄せると、少しだけ呼吸を整え、102号室のドアの前に立った。ドアの横には、雫の部屋にはない、古いタイプの黒い押しボタン式の呼び鈴がついていた。人差し指で、そっと押してみる。
……。
音は、鳴らなかった。やはり壊れているのかもしれない。雫は仕方なく、ドアを直接ノックすることにした。
右手を握り、人差し指の第二関節で、軽く二度。
コン、コン。
乾いた音が、静寂な廊下に響き渡った。雫は息を殺し、ドアの向こうの気配に耳を澄ませる。足音、咳払い、誰かが「はい」と応える声。何か、反応があるはずだ。
しかし、返ってきたのは沈黙だけだった。
雫は少しだけ間を置いて、もう一度、今度はさっきよりも少しだけ強くノックした。
コン、コン、コン。
木の板の硬質な感触が、指先に伝わる。けれど、結果は同じだった。まるで、分厚い壁に隔てられた別の世界のように、ドアの向こうは静まり返っている。
留守なのだろうか。平日の昼間なのだから、仕事に出かけているのかもしれない。そう思うのが一番自然だ。
けれど、雫の心には、別の可能性も浮かんでいた。居留守、という可能性だ。引っ越しの挨拶が億劫で、無視を決め込んでいる。あるいは、そもそも人と関わるのが極端に苦手な人なのかもしれない。
いや、もしかしたら、この部屋には誰も住んでいないのでは?
そんな考えさえ頭をよぎった。郵便受けには、特に郵便物が溜まっている様子もなかったが。
どちらにせよ、これ以上ドアの前に立ち尽くしていても仕方がない。雫は諦めて、くるりと身を翻した。まあ、いいか。また改めて来よう。そう思いながら、自分の部屋の鍵を鍵穴に差し込む。
これから始まる新しい生活の、ほんの始まり。隣人との最初の接触は、空振りに終わった。それが何かの兆しでないことだけを、雫はぼんやりと願っていた。
◇
101号室のドアノブを回し、雫は自分の部屋へと足を踏み入れた。
がらんとした、何もない空間。けれど、そこには先ほどの東京の部屋で感じたような空虚さはなかった。代わりに満ちていたのは、これから始まる新しい生活への、静かな期待感だった。
天井は驚くほど高く、圧迫感がない。正面の大きなアーチ窓からは、曇り空の柔らかい光がたっぷりと差し込み、部屋全体を明るく照らしていた。
窓の外には、雨に洗われた緑が美しい小さな中庭が見える。雫は窓辺に歩み寄り、そっとガラスに触れてみた。ひんやりとした感触。古いガラス特有の、わずかな歪みの向こうで、名前も知らない草木が風に揺れている。
床は艶のある寄せ木張りで、一歩踏み出すたびに、キュ、キュ、と心地よい音が鳴った。それはまるで、古い建物が雫の来訪を歓迎し、挨拶をしてくれているかのようだった。壁紙はシンプルなアイボリーだが、よく見ると葡萄の蔓をかたどった地模様が織り込まれている。部屋の隅には、今は使われていない古い暖炉の跡まであった。
雫は小さな探検家のように、部屋の隅々を見て回った。そして、バスルームのドアを開けた時、思わず「わあ」と小さな歓声を上げた。
そこに鎮座していたのは、夢にまで見た猫足のバスタブだったのだ。丸みを帯びた純白の陶器は、まるで芸術品のように美しい。雫はそっとその縁に触れてみた。冷たく、滑らかな感触。ここでなら、東京で溜め込んだ疲れを、すべて洗い流せるかもしれない。
一通り部屋を見て回り、満足のため息をつくと、雫はようやく現実的な作業に取り掛かることにした。玄関脇に積み上げた段ボール箱との、長い戦いの始まりだ。
「まずは、画材からかな」
雫はカッターナイフで一番大きな箱のテープを切り開いた。中から現れたのは、無数の絵の具のチューブ、使い込まれた筆やペン、そしてスケッチブックの山。それらは、雫にとって仕事道具であると同時に、唯一の聖域でもあった。
事務所にいた頃は、この道具で描く絵が、いつしか苦痛になっていた。モニターに表示される修正指示の赤字、納期に追われるプレッシャー、そして何より、自分の描きたいものではなく、「クライアントが求めるもの」を寸分の狂いもなく描き出す作業。それは、感性をすり減らすだけの労働だった。絵を描くことが、嫌いになりかけていた。
雫は、箱の底から出てきた一冊の、角が擦り切れた絵本を手に取った。子供の頃、何度も何度も繰り返し読んだ、宝物だ。日本名で『星をさがす旅』というタイトルの、外国の絵本。
緻密で、どこかもの悲しく、それでいて温かいその絵に憧れて、自分はイラストレーターを志したのだ。初心、というにはあまりに遠い記憶。雫は指先で、絵本の表紙をそっと撫でた。
この場所でなら、もう一度、あの頃のように純粋な気持ちで絵と向き合えるだろうか。
カッターナイフを持つ手に、自然と力がこもる。次々と箱を開け、中身を分類し、あるべき場所へと収めていく。本棚に本を並べ、クローゼットに服をかけ、キッチンに食器を仕舞う。ガムテープを剥がす音、段ボールを引きずる音、食器がカチャリと触れ合う音。がらんとした部屋に、雫が立てる生活音だけが響き渡った。
ふと、雫の手が止まる。
こんなに物音を立てて、隣の部屋に迷惑ではないだろうか。壁一枚隔てただけの、102号室。挨拶に応答はなかったけれど、もし人がいるのだとしたら、この騒音は不快に違いない。雫は急に心配になり、動きをそっと忍ばせるようにした。壁が薄いのかもしれない。だとしたら、こちらの生活音は、すべて筒抜けなのだろうか。
その考えは、雫を少しだけ憂鬱にさせた。
荷解き作業は、遅々として進まなかった。夢中になって片付けていると、あっという間に窓の外は藍色の闇に包まれていた。
雫は作業を中断し、近くのスーパーで買ってきたパンと、パックのクラムチャウダーで簡単な夕食をとることにした。まだテーブルも椅子もない部屋の床に、ブランケットを広げて座る。電子レンジで温めたスープの湯気が、心細さを慰めるように立ち上った。
窓の外では、雨がまだ降り続いている。しとしと、しとしと。静かな雨音が、この建物の沈黙を一層際立たせていた。
強烈な孤独感が、波のように押し寄せてくる。東京にいた頃も、もちろん孤独だった。けれど、それは常に喧騒に紛れていた。窓を開ければ車の走る音、遠くで鳴るサイレン、上の階の住人の足音。街は決して眠らず、光と音に満ちていた。孤独を感じる暇さえなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
でも、ここの静寂は違う。それは、雫自身の内面と向き合うことを強いる、深く、純粋な静寂だった。
雫はスープを一口すすった。味気ないはずの既製品のスープが、なぜかとても温かく、じんわりと体に沁みた。
これでいいんだ、と雫は思った。この静けさを、自分は求めていたのだから。
食事を終え、食器を洗い、歯を磨く。やるべきことを終えると、あとはもう眠るだけだった。一日中体を動かした疲れと、精神的な緊張感から、体は鉛のように重い。
雫は床に敷いたばかりのマットレスに、倒れ込むように体を横たえた。まだ自分の匂いのしない、真新しいシーツの感触。天井は高く、暗闇に溶けて見えない。目を閉じると、雨音だけが子守唄のように優しく響いている。
このまま深い眠りに落ちていける。東京で失ってしまった、穏やかな眠りを取り戻せる。そう思った、矢先だった。
不意に、何かの音が聞こえた。
とても、静かな音だった。雫は寝返りを打つ手を止め、息を殺して耳を澄ませる。雨音の向こう側から、壁を通り抜けてくる、微かな響き。それは、先ほどまで雫自身が立てていたような、生活音ではなかった。
何かの、旋律。
低く、長く、そして豊かに響く弦楽器の音色。
チェロだ、と気づくのに、そう時間はかからなかった。隣の、人の気配すらなかった102号室からだ。誰かが、チェロを弾いている。
その事実に、雫の心臓がとくん、と大きく跳ねた。留守だと思っていた。あるいは、誰も住んでいないとさえ思っていた。なのに、いるのだ。この壁の向こうに。そして、こんな夜に、チェロを奏でている。
雫はゆっくりと体を起こした。マットレスから抜け出し、冷たい床に足をつけ、音のする方へ、壁へと、吸い寄せられるように近づいていった。
それは、バッハの無伴奏チェロ組曲だった。雫は音楽に詳しいわけではないが、そのあまりにも有名で、あまりにも孤高な旋律は知っていた。けれど、今までCDやコンサートホールで聴いてきたどの演奏とも、それは違っていた。
壁越しに、直に伝わってくる音の振動は、まるで奏者の息遣いや、弓が弦を擦る微かな摩擦、その感情の揺らぎそのものまでを、生々しく運んでくるようだった。
一音、また一音と、紡ぎ出される音の連なりが、薄い壁を震わせ、雫の体の中にまで染み渡ってくる。
それは、ただ上手いという言葉では到底足りない演奏だった。
CDから流れるような、完璧に磨き上げられた無機質な音ではない。コンサートホールで聴くような、遠くで響く洗練された音でもない。もっとずっと生々しく、もっとずっと切実な、一人の人間が絞り出す魂の音そのものだった。
雫は壁際に膝を抱えるようにして座り込み、全身を耳にしてその音に聴き入っていた。奏者はきっと、すぐそこにいる。壁の向こう、ほんの数十センチ先で、大きな楽器を抱え、目を閉じ、弓を手にしている。その姿が、ありありと目に浮かぶようだった。
寄せては返し、また寄せてくる波のようなプレリュードの旋律が、雫のささくれだった心の岸辺を優しく洗っていく。
東京で溜め込んだ無数の棘のような記憶が、その音の波に一本、また一本と抜き去られ、溶けていくような感覚。
続くアルマンドの荘重な歩みは、迷子の子供の手を引いてくれる大きな手のひらのように、頼りなく揺れていた雫の心を、確かな場所へと導いてくれるようだった。
けれど、最も心を揺さぶられたのは、緩やかで、内省的なサラバンドの楽章だった。
三拍子の、祈るような調べ。一つ一つの音符の間に、言葉にならないほどの深い感情が込められているのがわかった。それは、癒しようのない喪失感を悼む慟哭のようであり、暗闇のなかで一点の光を探し求める、か細い希望のようでもあった。
雫の脳裏に、東京での日々が蘇る。深夜のオフィス、青白いモニターの光、鳴り響く電話。自分の描いたイラストが、真っ赤な修正指示で埋め尽くされていた時の、あの無力感。大丈夫、まだやれる、と自分に嘘をつき続けた帰り道の、冷たいアスファルトの感触。心がすり減っていく音に気づかないふりをしていた、あの頃の自分。
その痛みを、壁の向こうのチェロが、すべてわかってくれているようだった。
「大丈夫、あなたは一人じゃなかったんだ」
そう言って、雫の代わりに泣いてくれているようだった。
気づけば、雫の頬を、一筋の涙が伝っていた。拭うことさえ忘れて、ただ、音の奔流に身を任せる。それは悲しい涙ではなかった。凍りついていた心の奥の方が、ようやく溶け始めたことで溢れ出た、温かい涙だった。
イラストレーターである雫の目には、その音が具体的な色や形を伴って見えた。深く、どこまでも沈んでいくような低音は、夜の海の底のような濃紺の色。切なく歌い上げる高音は、明け方の空に残る一番星のような、鋭い銀色。ヴィブラートがかかるたびに、その色彩は震え、滲み、混じり合っていく。奏者の弓の動きの一つ一つが、見えないキャンバスに、孤独と、悲しみと、そして言葉にならない優しさの絵を描いているようだった。
そして雫は、その完璧な技巧の奥に隠された、あるものにも気づいていた。
それは、痛々しいほどの脆さだった。一音一音は力強く、正確無比なのに、旋律全体を覆っているのは、まるで薄氷の上を歩くような、危うげな緊張感。何かを恐れ、何かに怯え、それでも必死に音楽にだけはしがみつこうとしているかのような、悲痛な響き。
この人は、きっとひどく傷ついている。音楽だけが、この世界と彼を繋ぎとめる、唯一の蜘蛛の糸なのかもしれない。
やがて、最後のジーグの快活な楽章が終わり、長い組曲の最後の音が、深い余韻を残して静寂の中にふっと溶けていった。
あとに残されたのは、先ほどまでと同じ、雨音の響く静寂。
しかし、雫にとって、その静寂はもう、孤独の色をしていなかった。
雫はしばらくの間、動けなかった。まるで長い夢を見ていたかのような、魔法にかけられていたかのような感覚。体中の力が抜け、代わりに、心の芯に温かい光が灯ったような、不思議な充足感が満ちていた。あれほど重く感じていた心と体の疲労が、嘘のように軽くなっている。
雫はゆっくりと立ち上がると、壁に歩み寄り、そっとその冷たい表面に手のひらを当てた。
ありがとう、と心の中で呟く。
声に出さずとも、この想いが伝わるような気がした。壁の向こうの奏者の体温が、その鼓動が、この手のひらを通して伝わってくるかのような、そんな錯覚さえ覚えた。
ここに越してきて、よかった。
心の底から、そう思った。この音と出会うために、自分はあの喧騒の街から逃れてきたのかもしれない。
壁の向こうに、誰かがいる。
あの音を奏でる、誰かが。
その事実が、雫にとって何よりも心強いお守りになった。自分はもう、この広い世界で一人ぼっちではないのだと、なぜか強く思えた。
――この壁の向こうにいるあなたは、一体、何者なのですか?
その答えを知る術はまだ、どこにもなかった。
けれど、その謎はもう、雫にとって恐怖ではなく、明日を生きるための、ささやかな希望の光となっていた。
雫は壁から手を離すと、自分のマットレスに戻り、シーツの中に潜り込んだ。雨音に混じって、まだあのチェロの音色の残響が聞こえるような気がした。
その夜、雫は久しぶりに、深く、穏やかな眠りに落ちていった。