遠く霞んだ翡翠の音色
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「君、大丈夫かい?」
「…だれ。」
──6歳の頃。ボロ雑巾のようだった私は影を作る橋の下で、緑に身を包む先生と出会った。
「ああ、ごめん。名乗ってなかったね。私の名前は「飛近 翠鳴。音楽教室をやっているんだ。」
誰にも見つからないように生きていた私は、先生のまっすぐな緑色の瞳に嫌悪感を抱いた。
しゃがみ込んで私に視線を合わせる行動に困惑していた。
今はいない両親を思い出す。
どうしても重ねてしまう…
「…そうなんだ。」
逃げるようにして、素っ気なく私は答えた。
「…ずっと一人なのかい?」
「…」
「じゃあ…保護してもらえる場所に──」
「いやだ!」
その場から立ち上がって大きな大人に小さな威嚇をする。
「私に近づかないで……」
「…そう…分かった。」
そう言って先生は立ち去っていった。
魔女が被るような大きな帽子で顔が見えなかったからどんな表情をしていたのかは今でも分からない。
…周りの大人は下なんか見ていない。
みんな忙しそうな声を出しながら歩き回っている。
私の声なんか届きやしない。
そう思って、私は声を出すのをやめていた。
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「やっぱりいるんだね。」
次の日、同じ時間にまた緑に身を包んだ男が現れる。
片手に白色ビニール袋を引っさげていた。
「えっと…何が好きか聞いてなかったから、おにぎりとか飲むヨーグルトとか色々買ってきたんだ。気になるものがあったら食べていいよ。」
「いらな──」
─グゥ〜
「ふふ…」
朗らかに笑ったあと先生はビニール袋を私の目の前に置いて、数歩離れたところに座った。
私は恥ずかしさを紛らわすように、袋に入っているものを取り出し、がっつき始めた。
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「どうだい?お腹は膨れたかな?」
コクっと頷き、離れている先生の事を見つめ返す。
ジロジロと服装を見ている中、とある物が目に留まった。
「ん?これが気になるかい?」
先生は立ち上がって私の目の前に移動して、腰にかけているホルダーから笛を取り出した。
「頼みがあるんだけど、試しに聴いてみてくれないかい?」
首を傾げる私に先生は自信満々な声をして、木製の笛を口元へと近づけた。
ニヤリと笑うその顔に怪しさはなく、ただ一人のアーティストとして観客である私に安心を与えてくれるようなものだった。
〜♪
橋いっぱいに古い木材が反響する特殊で癒されてしまいそうな音が響き渡った。
音は川を流れ、光を浴びながら、空へと羽ばたき立つ。
そんな自由で明るく、胸が温かくなるような音が私の鼓膜を優しく撫でた。
引きこもる私の部屋の扉をノックするように、その扉の先にまた新しい世界が広がっているように。
──私はそこで音楽を知った。
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「どうだったかな?」
「…よかっ…た……」
「そうかい?ふふ…ありがとう。」
笛をホルダーにしまって紳士のようにお辞儀をする。
「…ん?どうしたんだい?」
「あっ…いや……」
私はいつの間にか、笛の音色に釘付けになっていた。
目を逸らすこともできないほど。
アンコールを求めてしまうような瞳をして。
「聴きたい?」
「っ…」
「何も遠慮しなくていい。だって今日は君だけの特別公演なんだからね。」
「……たい。」
「もう一度!」
「聴きたい!」
気づいた頃には、もうそこに影はなく、オレンジ色のあたたかい光が私たちを照らしていた。
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「今日も聴くかい?」
「うん!」
あれから数日が経った。
いつの間にか、私の日常は1色の緑に彩られていた。
宝石のように輝いていて、そこに居ると悪いのが寄ってこないような、安心できる居場所になっていた。
「ねえ…」
「ん?どうしたんだい?」
「どうして…私なんかにかまうの?こんな何もない私にいいことなんか…」
「違うよ。」
食い気味に先生は否定した。
隣に座る先生は穏やかに笑いながら私を見つめる。
「私の笛は利害で吹いているものじゃない。まず、『何もない』だなんて悲しい言葉、言わないでおくれ。」
先生は懐かしそうな瞳で右手に持つ笛へ視線を移した。
「すごく昔のことなんだけどね、君みたいに自分には何もないって思っていた時期があったんだ。寒い寒い冬の時期だったかな。でもその時に、恩師と出会ったんだ。私に夢を教えてくれた恩師に…」
当時の私が感じた先生の声はとても悲しそうな声だった。
きっと嫌なことがあったのだと、そう思っていた。
「その出会いがあったから私は前へ進めるようになったんだ。自分の未来に確信が得られたんだよ。」
「わかんない…」
「え?」
「悲しそうな声なのになんで嬉しそうなの?悲しいなら嫌なことがあったんじゃないの?」
「…そうだね。嫌なことがあったのは確かだよ。ははは、そうだね…この気持ちは『懐う気持ち』とでもいうのかな。」
「……わからない。」
「今はわからなくてもいいんだよ。いずれわかる日が君にも来る。」
困惑して考え込む私に先生は少し笑っていた。
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そんなある日のことだった。
「うっ…」
「なっ!どうしたんだい?傷だらけじゃないか!」
川の水で傷を洗う私を見るや否や、手に取っている袋を放り出して私の元へと駆け寄ってきた。
「なんでもない…」
「ダメだ!ちゃんと教えなさい。」
「っ…」
初めて聞いた緊迫する先生の声に体が震えてしまった。
「…ごめん、少しうるさくしてしまったね…何があったか教えて──」
「居たぞー!あのガキだ!」
その瞬間、怒りに満ちた大人の声が鼓膜に突き刺さった。そして数人、わらわらと足音を立てながら声を発した男の元に集まる。
「ごめんなさい…ごめんなさい……」
「ちょっと待ってください。何があったんですか?」
「なっ!テメー!夢見野郎じゃねぇか!そのガキを庇うつもりか!」
「庇うも何も、状況を説明してもらえないと判断がつきません。」
先生は体を丸める私を隠すようにして大人達の目の前に立ちはだかった。
普段の穏やかな先生とは想像もつかない、厳しくハッキリとした口調で大人達に説明を求める。
先生の声に私の中で小さな安心が芽生えた。
「このガキが俺たち商売を邪魔しやがったんだ!食いもん売って暮らしてんのに、盗みやがって!」
「…売ってる物だなんて、知らなかったんです……ゆるして──」
「知らなかったで済むほど世の中甘くねぇんだぞガ──」
「そこまでです!」
何度も浴びせられる罵倒は鋭く水を差した声によって静寂へと変わった。
「…はぁ?」
「もう十分でしょう?本人も反省していますし、相手はまだ幼い子供です。服装から見て分かるように食べさせてくれる保護者もいないんです。」
「だからって盗まれたことを見逃せと?現実見やがれ夢見野郎が!テメーだってわかるはずだろ、そのウルセー笛で稼いだ路上の金を取られたらどう思う?いいか、こいつには現実を知ってもらう必要があるんだ!」
そうだそうだと周りの大人も声も上げ始める。
徐々に大きく、耳を塞ぎたくなるほどに。
「それが…いたぶることだと……?こんな幼い子供を…?」
「それが手っ取り早く済むんだよ!」
「…わかりました。」
「ふん。わかりゃ──」
「払います。」
「…は?」
「盗まれた分。私が払います。私が買って、彼女に与えた。それでいいでしょう?」
わからなかった。
知らなかったとしても、犯罪を犯した私に先生は手を差し伸ばしてくれた。
──沢山の大人に嫌われたらもうそこでは生きてはいけなくなる。
幼い昔の私はそのことを理解していた。
幼いが故、より一層理解に苦しんだ。
先生には夢というものがある。
きっとここで成し遂げたい夢だ。
私と同じく嫌われている先生がもっと嫌われてしまう。そうなれば夢が叶えられなくなる。
私なんかに夢を投げうつ程の価値はない。
その時の私は自責の念と後悔が重くのしかかり身動きが取れなくなっていた。
「こ、この…夢見野郎がぁーっ!」
怒りが最高潮に達した先ほどの大人が拳を構えて先生の顔めがけ殴りかかった。
先生はそれに反応して、少し体をずらし、拳を流した。
バランスを崩した大人はその場に倒れ私と目が合ってしまう。
怯える私を見て、大人は歯ぎしりを立ち始め、よろめきながら立ち上がった。
憎い相手を見るような目で私を見る。
大人は再び拳を握った後、私の元へと走り出した。
「お前さえいなければぁーー!」
硬い拳が近づいてくる刹那。
〜♪
笛の音が辺りを包んだ。
大人は勢いよく力が抜けたようにして倒れ込んだ。
周りの大人も一斉にその場に倒れ込む。
「少し…頭を冷やしててください。」
先生は笑顔を見せずに、私の元へと歩いてくる。
きっと殴られる。怒られる。嫌われる。
もうここから離れようと立ち上がった瞬間…
「…っ!?」
「ごめんね。私が拳を受けていればこんな怖い思いさせてなかったはずだよね…本当にごめん……」
先生は優しく抱きしめてくれた。
とても温かい体温が、川の水で冷え切った私に、より一層温かみを与えてくれる。
世界がぼやけて見えていた。
熱い感覚が頬に伝っているのを感じた。
……きっと泣いていたんだ。
久しぶりの抱擁に。
孤独だった私に初めて与えてくれた安心に。
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「うぅ…ぐすっ…」
「大丈夫?」
「ぐすっ…うん…」
白いアスファルとは黄色に染まっており、カラスの声や子供が走る音などが自然と耳に入ってくる。
「なんで…こんなことしたの…?」
「『なんでこんなこと』…か。」
先生はいつものような穏やかな笑顔を見せた。
「そうだよ!こんなことしたらみんなに嫌われちゃうじゃん!そしたらもうここで生きていけなく……」
「ううん。いいんだよ。」
「…そんなの!」
「子供を守る。それの何がいけないんだい?大人として当たり前のことだ。」
「っ!」
「さて…これからどうしようか?またここにいればきっと現実でいっぱいの大人に見つかってしまうよ。」
「ふふ!」
「え?どうしたんだい?」
難しそうに私のこれからについて考えてくれる先生を見て私は少し笑ってしまう。
だってその時の私は、もうすでに決めていたから。
「教えてほしい!その笛を!」
「えっ!?こ、答えになってないじゃないか。」
「ううん!こたえだよ!オンガクキョウシツに住みたい!」
「ふふ、音楽教室は通うものだよ。…でも、そうだね。やってみようか。」
「やったぁ!」
飛び上がって喜ぶ私に先生も笑ってくれた。
「その前に一つ聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「…?なに?」
「『君、音楽は好きかい?』」
「うん!だーいすき!」
「ふふふ、よかった。じゃあ、君の名前…教えてくれるかな?」
「えーっと…白花 奏!6才!奏でいいよ!」
「わかった。よろしくね奏。」
「うん!じゃあ、あなたのことはえーっと…うーんと…」
「先生でいいよ。」
「…先生…?」
「うん。音楽が好きなら、君はもう、私の生徒だよ。」
「うん!」
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その後、先生は里親として私を迎えてくれた。
先生は普通の教育と同時に音楽についての教育も私に施してくれた。
生活のマナーも、人とのコミュニケーションも、同じ教え子を通じて学ぶことができた。
大人達から見ればこの小さな教室も、私から見ればこの楽器に囲まれている教室はとてつもなく大きな広い世界で、全てが未知に包まれた深いものだった。
そして2年が立つ頃…
「私の笛…習ってみるかい?」
「え?横笛はもうおしえてもらったじゃん!」
「ううん。違う。ただの笛じゃない。」
教室の2階にある食卓で曲を書いていた私は、突然真剣な表情をした先生の提案に戸惑ってしまう。
「この笛を使ったものだよ。」
そうして先生はいつもホルダーにしまっている笛を取り出し、机の上に置いた。
「え!先生の笛吹けるのー!」
作曲から笛へと思考が変わった私に続けて、座り込んだ先生は口を動かした。
「2年前。覚えているかい?私が君を殴ろうとした大人を眠らせたのを。そうだね…催眠をかけたって言ったほうがいいかな?」
「え…?」
催眠。そんな聞き慣れない言葉が唐突に突きつけられてしまう。…眠らせる音色。
あの時の私は恐怖に呑まれそのこと事に反応する暇もなかったのだろう。
「とても危険なものだけど、使い方を変えればこの笛は『夢を実現できる』技術になるのさ。」
「…夢を……実現。」
「といっても、この笛の技術だけで夢を実現できる訳じゃないと私は思うんだ。」
「それってどういう意味?」
「私が夢を実現できたのはこの笛じゃなくて、恩師がいたからなんだよ。きっと、笛を教えてくれた人が恩師じゃなければ、夢を見つけられず、あの様な大人になっていたんだろうね。」
「…先生……」
あの時、先生は『懐かしむ瞳』をしていた。
でも、その瞳と声はもう悲しくて嫌なものではないと確信できた。完全にではないけど理解できた。
「さて、過去の話はやめて、先を見ようか。」
「うん!」
緑色の瞳は真っ直ぐ私を見つめる。
「この『笛の技術』にはルーツがあるんだ。」
「るーつ?」
「そう、ルーツ。とある童話の話さ、とある笛吹きがとある町を訪れ、ネズミを追い出す頼まれごとをされる。しかし、報酬は支払われず、怒った笛吹きは子供達を連れて行ってしまう……そんな童話さ。」
「ホントにあったことなの?」
「さあね。実際この笛吹きが作った技術なのか、熱狂的なファンが作ったものなのかは分からないままさ。」
「ふーん。」
「そして受け継がれていったんだよ。笛と共にね。だから、ルールなるものがあるんだ。」
「る、るーる…」
「ははは、嫌いだよね!でも安心してほしい。そんな堅苦しいものじゃない。」
ルールを毛嫌いしていた私に微笑みながら、先生は指を4本立てた。
「ルールは4つ、1つ『この技術を露呈させるな』、2つ『技術の繋がりを断つな』、3つ『世界の均衡を揺るがすな』、4つ『夢想の息で笛を吹け』だね。」
「なんか最後だけちがう…?」
「はは、そうだね。でも、いいルールだとは思わないかい?」
「うーん…」
「ははは!まあ、感じ方は人それぞれだからピンと来ないのも仕方ないよ。……さて…」
「っ…」
先生の声色が逆転する。
言い表せない緊張感がこの食卓を包んだ。
「この世界には必ず代償というものがある。リターンが大きくなるほどリスクは増える。私はそれを教えられて実感した。そう…あるんだよ。」
先生の声と瞳は過ごしてきた中で一番暗く厳しいものだった。額に小さな汗が滲んでくる。
思わず息を呑んでしまう。
「……■■■■■■■■■■」
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