変容
〈side:others〉
はじめ、それに気づいたのは迷宮前の阿漕な露天商だった。
「あん?」
なんとなしに見上げた、見慣れた迷宮の奇怪な外形。
それがぐらぐらと、なにやら揺れ動いているように見える。
「……?」
地鳴りか。そう思うが、自身は揺れを感じない。
もう一度迷宮へ目を凝らせば、やはりなんだか、まるで身じろぎしているかのような……
雷鳴のような轟音。
「な、なんだぁっ?!」
見れば巨大な迷宮、その構造全体が、
蹲る姿勢から立ち上がるように、起立しているではないか。
『……ズ、ズズ』
元の高さの倍近い、歪な形の巨人。
『ズズズズ……』
それが巨石を引きずるような音を発しながら、おもむろに振り上げた拳を、
『――ズズン!!!』
大地に、振り下ろす。
「っ!!?」
今度こそ事実、足元が揺れる。
凄まじい土煙で閉ざされる視界。
それがやがて、ゆっくりと晴れれば……
巨人が拳を振り下ろした、街の一角は、
見るも無残な瓦礫の野と化していて――
呆然。それから、
「……うわああああああああっ!!」
泡を食って逃げ出す露天商。
当然周囲もすでに異常事態に気づいていて、露天街全体が恐慌に陥る。
そこらじゅうで上がる悲鳴。我も我もと逃げ出し、押し合う人々。
不意に、空が翳り、
爆裂する大地。
瓦礫と化す露天街。
「う、ぐ、あ、ああ……」
奇跡的に、巨人の拳にも瓦礫にも下敷きにされなかった露天商。
しかし絶望により、もはや逃げる意思は砕かれた。
あんな巨大な相手から、そもそもどうやって逃げるというのか。
巨人が最初に拳を振り下ろした場所。そこからここまで人間の足なら数分。
だがあの巨人はほんの半歩、立ち位置をずらすだけでこの場を打ち砕いてみせた。
彼我の規模が違いすぎる。
あるいはこの迷宮都市は、半時とかからず瓦礫の山と化すのではないか――
「――フン、これはさすがに予想外だったな」
不意に、付近から声。
見やる露天商の目に、かすかな希望が宿る。
「迷宮自体が魔物と化した、か。明らかにジャンル違い。これじゃファンタジーじゃなくて怪獣モノだ」
「まさか本当に、迷宮を糧とした魔物が……? だとしたらこの街にはすでに魔族が、潜んで……」
「ヤバ……ね、ねえこれって、どーにかなるもんなの……?」
黒き鎧纏いし探索者――
この街で最も名の知れた隊伍、“黒曜”の筆頭。
勇者でもある彼ならば、常識外のあの巨人にも対抗できるかもしれない。
否、ひょっとしたら倒してすらしまえるのかもしれない……
「臆するな。俺の力は知っているだろう?」
「でも、……うん、だよね。デカいったって魔物は魔物。勇者が負けるわけない、し」
「そういうことだ。まあ迷宮攻略がおじゃんになったのは残念だが……」
露天商の見る先で、やおら両腕を広げるその男――奥田。
すると手甲の先から、光る剣のようなものが生じる。
さらには背中の装飾が輝いたかと思うと、その身がふわりと宙に浮かびさえする。
狙い定めるように、巨人に光る剣を突きつけるその様は、
さながら天の使いのような、勇者と呼ぶに相応しい姿に見えて。
「代わりに迷宮そのものを倒す、ってのも悪くない。今日は俺の、勇者タクマ・オクタの名が、このレガスに轟く日になるだろうさ――」
○
「う……」
目を覚ます。
最初に目に飛び込んできたのは、廃墟。
いや、瓦礫の山というべきか。どこもかしこも崩れきっていて、水平な床も垂直な壁もどこにも見当たらない。僕が倒れ、もたれかかっていた場所も、部屋というより崩れた瓦礫に奇跡的にできた隙間のようなところだった。
見える範囲には、僕一人。
ヤスナさんたちは、見当たらない。
別の場所へ分断されてしまったのか、もしくは崩落に巻きこまれて……
これではもはや、埋葬も叶わないかもしれない。
(すみません、皆さん……最後まで、こんな……っ)
不意に、周囲が揺れる。
パラパラと降ってくる破片。幸い、今すぐに崩れるという感じではなさそう。
しかし、この揺れ。
地震とは違う。まるで電車とか船とか、大きな乗り物の中にいるときのような……
加えて周囲の瓦礫、その意匠。
記憶が確かなら迷宮の内装、その一部と一致している。
そしてこの異変の直前、崩れ去った魔物。
活動のためのエネルギーを突如失い、否、奪われたかのような倒れかた。
「まさか、いやでも……」
浮上する可能性。
それは崩れる魔物を見たときの思いつきよりも、さらに差し迫ったもの。
迷宮と引き換えの魔物の創造――
それを阻止するための迷宮の廃棄は、悔しいがおそらく間に合わなかった。
さらにこの現状を見るに、迷宮から魔物が生じるどころか、
迷宮自体が魔物になってしまった。
そしてここは、おそらくその体内。
……信じがたいが、大きく外れた推測ではないはず。
僕も“迷宮都市”に来て、魔物と対峙する機会が格段に増えたが、
魔物には共通の気配がある。
その気配が今、そこらじゅうから感じられる。
どこかに魔物が潜んでいるとかではない。周りすべてが魔物であるかのような、気配。
あるいは魔物であれば――と、僕はひとつ試してみる。
「……駄目か」
床に手を触れて、【弱体化】を発動。
しかし効いた手応えがない。
つまりこれ自体は、ただの瓦礫。
おそらくは“本体”と呼ぶべき部位があって、かつそれはここから八メートル圏外。
それでも魔物の気配が充満しているのは、その規模の巨大さゆえだろうか……?
いや、今は考えるよりも、動くべき時。
これ以上手遅れになる前に、どうにかしてこれを、止めなければ――!
〈side:others〉
『はあ……ったく、話が違うぜがらくた頭め』
迷宮がその姿を変えた巨大な人型魔物。
その肩にあたる部分の上、呆れたように呟くのは、幌馬車を御していた魔族の一体。
『生じる魔物は大型になる傾向……ヤツの言うとおりだったではないカ、テンキョウ』
『だからって迷宮がそのまま立ち上がると思うか? ムジョウ。踏み潰されたらどーするってんだ』
『異なことヲ。避けるなど容易かろウ?』
『まぁそりゃそうなんだが』
応じるもう一体の魔族も同様、今は外套を脱ぎ去りその姿を晒している。
六臂にそれぞれ武器を携えた、白骨と見紛う痩身の異形――テンキョウ。
およそ生物らしさを感じさせない、女性型の人形のような異形――ムジョウ。
『予想外といやあれもそうだな。予想外っつうか拍子抜けか』
呆れを隠さぬ様子で、テンキョウが三対の肩をすくめる。
「う、う゛う……」
一瞥した先、巨像の反対側の肩の上に倒れる黒い人物。
【付術士】の勇者、奥田である。
鎧はあちこち破損し、当人も立ち上がる気力すらないほどに消耗している。
『言ってやるナ。相手がガエン様では当然の帰結ダ』
『俺とお前でも事足りた気もすっけどな。一対一だったから一応合わせてやったが』
彼を倒したのはもう一体の、巨躯の魔族。
ガエンと呼ばれたその者もまた、外套を取り去り正体をあらわにしている。
筋骨隆々の上半身を晒した姿形は、この場の魔族では最も人間に近い。
ただし肌は余すところなく青黒く金属的な質感。
逆立った金の頭髪も風になびくことなく、そういった形の兜のようでもある。
炯々とした赤い瞳。
険しい表情も相まって、日本人であれば仁王か明王といった印象を抱くだろう、そんな風貌。
『にしてもニンゲンってのは本当に脆い。なんの歯応えもなかったぞ』
『勇者でなければあの程度だろウ。もっとモ、勇者であってもあの体たらくのようだガ』
巨像が動き出してほどなく、
仲間二人を伴い宙に躍り出た奥田の存在には、魔族三体共々多少なりとも興味を引かれた。
だが蓋を開ければ、なんということはない。
色の黒い女はテンキョウの凶刃に瞬く間に寸刻みにされ、ローブのほうはムジョウの術出力にあっさり競り負け、二人共々いまや地の染みとなっている。
そして奥田。
鎧とともに身に纏った多種多様な付与術には目を見張ったが――
『まあでもたしかに、相手が悪かったな』
『うム。“術的補正の一切を無視する”ガエン様の“加護”……こうしてかち合うなド、余程日頃の行いが悪かったとみえル』
「……っ! ふざけんなよ、チート使ってんじゃねぇよやられ役のクセによぉ……!」
このとおり。魔族が形ばかりの同情を示すほどの巡り合わせの悪さ。
『なんだ? “加護”を持つのが勇者たちだけとでも思ってたか?』
『ニンゲンの勇者にはニンゲンの神の“加護”。そして我らには我らの神の“加護”……考えるまでもない必定だと思うガ』
「聞いてねーよそんな話! 詐欺だ! 騙しやがったな王国のヤツらぁ!!」
魔族の幹部級もまた、邪神の“加護”を持つ――
実際はそのあたりも王女からの説明はあったが、その前に独断で王都を抜けた奥田にそれを知るよしもなく。
『あのな、手前ごとき、加護なしの俺やムジョウでも十分捻れるんだよ』
「!?」
『キサマが永らえているのは、ひとえにガエン様の手心ゆエ。喚く気概があるのなラ、今より我らが相手してやってもいいのだガ……?』
「……ぅ、う」
気づけば、至近距離から見下ろす冷徹な二対の視線。
その身のこなしを、奥田は見切ることすら出来なかった。すべての付与術が尽きているのもあるが、そうでなくてもはたして反応できたかどうか。
『よせ。敗者をいたぶろうと、得るものはなかろう』
『はっ』
『御意ニ』
やや離れた位置に立つガエンが、部下二人を制する。
赤い双眸は奥田を一度捉えるが、それも一瞬。
もはやこちらに、わずかな関心すらない――それを思い知った奥田の自尊心は、今度こそ完全に砕ける。
『それで、これからどうします? このまま王都に進軍ですかね』
『まずはこの地を平らげるべきだろウ。こやつの力も、まださほど試せていないしナ』
テンキョウが伺い、ムジョウがコツコツと爪先で足元を叩く。
奥田を相手取る間、巨像は待機状態にあった。さしもの魔族も、足場が暴れたままでは戦闘もままならないからだ。
しかしいまやその枷もなく、
この類を見ないまでに巨大な魔物の暴虐を、止める術もまた、ない。
『ふむ……』
部下の発言を受けた巨躯の魔族、ガエンは、
組んでいた丸太のような腕を解き、顎に手をやりひとつ思案し――