9.「ババを引いた」
(泉生!? なぜ、彼女がここに?)
私様は驚愕した。この部屋に入るには、番人を通さねばならないはずだ。だが、目の前に立つのは、間違いなく泉生であった。
(まさか……番人が裏切り、泉生を通したのか?)
一番ありえそうな可能性を思い描いたとき、泉生は私様の心を見透かすように、口元を緩めてフッと笑った。
「フフ……なぜ、私がここにいるか驚いているようね。いいわ、教えてあげる」
冷ややかな微笑を浮かべながら、泉生はゆっくりと語り始めた。
「私は、元々二十五年以上この教団にいたのよ……施設の構造を頭に入れれば、従者に見つからないように――施設に潜入することも、番人の勤務時間、休憩時間のタイミングも知れば――この部屋に入ることも簡単なのよ」
「……なに!?」
「甘く見ていたわね。私のように教団へ恨みを持つ者が、この場に現れる可能性を、あなたは想定していなかった」
「……まあ、当然と言えば当然かしら。私たちを『従者』と呼び、ただ従うだけの者と蔑んできた、あなたたち母娘にとっては」
泉生はさらに一歩、また一歩と近づく。
「もし、あなたに危機意識があり、警備を強化していたなら――そもそも施設に入ることすらできなかったでしょうに」
そして、ついに私様の眼前まで迫った。
――逃げるか、あるいは叫んで従者を呼ばなければ殺される。
そんなことは頭でわかっているのに、私様の体は動かない。
――これは恐怖のせいなのだろうか。
それとも――。
「そんな甘い考えしているから――死ぬのよ。馬鹿な女」
泉生は包丁を握る手に力を込める。
「ハァ……ハァ……」
私様の鼓動が早くなる。――本当にやばい。そうわかっているのに。
そして――
グサ!
私様の体から、鈍い音がした。
己の身体に突き刺さる包丁を見つめながら、私様は――スマホがフリーズしたかのように無心となり、その場に突っ立っていた。
「なんで……なんで……なんで私たちばっかり失わないと、いけないのよぉおおおおおおおおお!!」
その決壊した怒りの叫びを耳にして――私様は全てを悟った気がした。
彼女が、私様を狙った理由も、私様の死も――そして、どこかでこうなることを望んでいた己のことも。
「こんな!」
ザクッ!
「こんな教団がなければ!!」
ゾクッ!
「私と夫は幸せな生活があったのに!!」
ギュッ!
「あんたの母や!!」
グサッ!
「あんたさえこの世に居なければ!!」
ラッシュのように、彼女は私様をグサグサと刺しつける。
そして――私様は、ついに倒れた。
「あ……ぐっ……」
それでもまだ息があった。それを幸と見るか、不幸と見るか――私様自身にも答えは出せない。
私様を見下ろしながら、彼女は問い詰めるように叫んだ。
「ねぇ……笑っていたのでしょう? 人の夫を奪って! 笑っていたのでしょう!! あんたら母娘で!!」
「私が教団を非難してから……当てつけのように夫を犯罪者にして清々したのでしょう?」
――彼女が本当に殺したかったのは、私様ではない。きっと、あの女だ。
だが、あの女の行方がわからない。だから、標的を私様へと変えたのだろう。
「わ……わら……」
「笑っていない」――「あなたの夫を犯罪者にして清々なんてしていない」――そう伝えたいのに、言葉が出てこない。
「ハァ……ハァ……ああああああああああああああああああああああああああ!」
彼女は馬乗りになり、狂乱したように叫びながら、何度も何度も私様の身体を突き刺した。
――刺されている最中、私様は思う。
この教団がいつまでも続くはずがなかった、と。
ついさっきまでは永遠に続くと思っていた。だが冷静に考えれば、従者たちの犠牲の上に成り立つ教団など、このような形で幕を下ろすに決まっていたのだ。
それは時限爆弾が爆発するように。
(……ババを引いたのが、私様になっただけだ)
どこか他人事のように、私様はそう考えた。
そして、私様は自らこの教団を変えようとしなかった。いや――止められなかった。
止めなかったからこそ、止めるために彼女の殺意を利用した。
それは、彼女に殺人という重い罪を背負わせる形で死を受け入れたのだ。
つまり結局、私様は最期まで、教祖として従者を利用したのだ。
――あの女のように。
「ハァ……ハァ、返して……返してよ……私と夫の人生を――」
私様に馬乗りし、刃を何度も突き刺した後、彼女は確かにそう告げた。
襲われている最中、私様の身体は様々な感覚を刻み込まれた。
ズキズキと襲う鋭い痛み。その痛みと同時に走る灼熱感。鋭利な刃が肉を裂き、深々と突き刺さる異物感。そして引き抜かれるたびに流れ出す命の液体のぬめる感触。
それらを何度も何度も繰り返し味わい、今やっと終わったところだった。
そして、背中を地に着けたまま、私様は確かに感じた。体温がじわじわと抜けていき、肉体が冷たさに染まっていくのを――。
(ああ……とうとう死ぬのだな、私様は)
死の淵に立ち、心に去来したのは、死への恐怖も、悲しみも、苦しみも、これまでの人生の走馬灯も、こんな事態に陥ったことへの後悔も、刺した女への怒りも――そんなものは一切なかった。
あるのは――こんな結果に至るまで迷惑をかけた人たちへの〝謝罪〟と、どこかでこうなる運命だったと悟ったかのような〝諦念〟だけだった。
そして、死ぬ前に――
私様は彼女に視線を向けた。
「あ……あ、みう……」
言葉はもう、うまく出てこない。だからせめて、謝罪の意だけでも目に込めて伝えようとした。
(……すまなかった。あんな女やこんな教団なぞに狂わされて)
そして今ここにはいないが、彼女の夫にも心の中で謝罪を捧げる。
(すまなかった……私様のせいで、あなたの人生まで狂わせてしまって)
やがて思考は徐々に薄れ、世界を閉ざすような暗闇が視界を満たしていく。
――ああ、間違いない。これが〝死〟なのだろう。
(……この教団は終わるのか? それとも私様が死んでも続くのか?)
(……いっそのこと、終わってしまえばいいんだ。こんな教団なぞ)
暗闇がすべてを覆い尽くす寸前、私様は最も謝らなければならない人物を思い出した。
この教団のいざこざとは何の関係もないのに、不運にも巻き込まれた人のことを。
ただ、その人ももう、この世にはいないのだが。それでも謝らなければならなかった。
(……すまなかった。寺島……光……当……)
そして、私様の視界は完全に暗闇に染まった。
私様こと、社陸幻鏡。享年二十六、ここにて死す。
今回のエピソードは、プロローグへと繋がる回となります。
ここ最近のエピソードでは、昼ドラのような別作品となりかけていますが、次回からこの作品らしい展開にやっと入ります!




