第40話 処刑
「次で最後か。何としてでもここに賭けたいが」
助手席に乗り込みながら、時也は知らずのうちに舌打ちする。手帳に書かれた三つの廃教会のうち、二ヶ所は外れくじを引いた。時代から取り残されたような建物の中を隈なく探索したが、どちらの教会跡にも滝野の姿は見当たらなかったのだ。
「最後の場所は、春の里緑山……中木霊園の近くにある廃教会ですね」
カーナビに住所を入力する内海。その手はどこか焦っているように、何度も文字を打ち間違えている。二人の中で、目に見えない焦燥感が募っていた。
最後の目的地は、〈中木つつじヶ丘公園〉の中を突っ切るように進んだ先の霊園に指定されている。そこから徒歩圏内に、廃教会が存在するはずだ。
「あの、先輩」
ステアリングを切りながら、運転席の後輩がおずおずと話しかける。時也はフロントガラスを真っ直ぐ見据えたまま「何だ」とぶっきらぼうに返した。
「先ほどはありがとうございました。ボスから叱責を受けるのは私のはずなのに」
ひとつ目の教会を探索した後、内海の業務用携帯に東海林警部から着信が入ったのだ。普段は大抵のトラブルに寛容な彼も、流石に怒りを抑えた声で「黙って抜け出してどこに行っている」と状況報告を求めた。しどろもどろに話す内海を見かねた時也は、彼女から携帯電話を半ば奪い取るようにしてボスにすべての経緯を説明。最後に「内海を連れ出したのは俺です。デスクで真面目に仕事していた彼女を強引に引っ張り出しました」と添えて、何とか作業の継続を許可してもらったのである。
「別に何も。俺はただ事実をそのまま報告しただけだ」
「ですが、先輩について行ったのは私の自己判断ですし」
「今はそんな些末な問題を言い合っている場合じゃない。何よりも滝野の安否確認が最優先だ」
ピシャリと遮った時也に、内海は何も言い返さずただ「はい」とだけ応じる。心なしか車のスピードが上がり始めていた。フロントガラス越しの空は橙色に染まり始め、程なくして夜が訪れる。
二人を乗せた覆面パトカーが霊園の駐車場に到着したのは、日の入り間近の十九時過ぎだった。通常ならば十七時三十分には閉園のはずだが、管理人に事情を説明して特別に入れてもらう。霊園付近は狭い道が多いため、駐車場から先は徒歩でひたすら探し回るほかない。
「このあたりに教会なんて、見たことも聞いたこともありませんがねえ」
曲がりかけた腰に手を添えて答える、霊園の管理人。ここでの仕事も今年で四十年目になるらしく、少なくとも近隣の地理には時也たちよりずっと詳しいはずだ。その彼が知らないのだから、修道女の話も今となっては眉唾である。それでも、二人は管理人の許可を得て周囲の捜索に取りかかった。
滝野が廃教会にいるという具体的かつ論理的な根拠はなく、捜索隊の応援も呼ぶに呼べない状況下。それでも時也は、ふらつく足を必死に動かしながら霊園の周囲をひたすら駆けずり回る。次第に濃く深くなる闇を、懐中電灯の頼りない明かりで薙ぎ払う。
もう仲間を失うのは御免だ——猫のように気怠げな愛煙家の顔が、瞬間的に脳裏を過った。
「先輩! 教会、ありましたか」
霊園に着いてから三十分後。予め決めておいた合流地点に向かうと、暗がりの中から内海の声がした。細い光の筋が合図を送るかのようにチカチカと点滅している。
「いや、こっちにはなさそうだ」
「私が見たエリアもありませんでした……もしかして、徒歩じゃ入れないほど山奥に建っているんでしょうか」
「そんな辺鄙な場所に建てたって誰も通えないだろう。教会というからにはそこに通う信者やシスター、牧師たちがいたはずだ」
「もし教会自体がとても古いものだとしたら、かつては道が通っていたけれど今は通行止めになっているかもしれませんよ」
内海の推測も尤もだった。仮に歩道が埋め立てられているとしたら、そこへ辿り着く術を今の時也たちは持ち合わせていない。本部に応援を求めるよりほかに手段はないのだ。
「まだ探していない範囲があるはずだ。木々に紛れて見つけづらい可能性もある。あと一時間も経てばこの一帯は完全な闇だ。捜索が難航する前に探せるところはすべて探し尽くそう」
「ですが、二人で探すにも限界があります。ボスに事情を説明して応援を待つべきでは」
「事は一分一秒を争うんだ。助っ人を待つ暇なんてない」
感情が昂り、つい語調が荒くなる。言葉を詰まらせる後輩にくるりと背を向け、再び闇の中を歩き出した。思考は既に冷静さを欠いている。闇雲に歩き回ると却って危険であることも頭では理解していた。だが、体が思考に追いつかない。
背後から急いた足音が聞こえてくる。隣に並んだ内海が、肩で息をしながら「先輩」と呼びかけた。
「せめて、二人一組で行動しましょう。この辺りは電波状況もあまり良くないみたいですし、万が一どちらかの身に危険が迫れば最悪お陀仏です」
長岡稔の一件を経験した内海の言葉には、説得力があった。時也は僅かに歩調を緩めながら、
「そうだな……悪い、焦る気持ちばかりが先走ってしまった。今の俺は警官としても先輩としても失格だ」
「そんなことありません。私こそ、こんな状況で呑気に応援を待とうなんて、軽率な発言でした」
相手の表情がかろうじて判別できるほどの薄闇の中、二人は苦笑を交わし合う。肩にのしかかっていた重荷が降ろされたように、ふと体の力が抜け足取りが軽くなった。
「あれ……先輩、ちょっとあそこ見えますか」
不意に足を止めた内海が、懐中電灯の明かりをある一点に向ける。右手のガードレールを越えた十数メートル先。一見すると雑木が生い茂るだけの空間だが、たしかに白っぽい壁あるいは看板のようなものが見え隠れしている。勿論、ガードレールの先に人が歩けるような道は続いていない。草木が好き膨大に伸びた様はまさに人跡未踏の地だ。
「あれって、建物ですかね」
「外壁に見えなくもないが、この位置からは判断しかねるな」
「ここから直進はできそうもないですよ」
ガードレール越しに首を伸ばす内海。防護服もなく視界不良とあっては、最短距離で白壁の場所を目指す策はないに等しい。時也は霊園の管理人から貰った紙の地図を広げ、懐中電灯で照らし出す。
「どこかに迂回路は存在しないのか——くそっ、この地図じゃ参考にならん」
アスファルトに地図を叩きつけたくなる衝動は、寸でのところで抑えた。内海が来た道に明かりを向けながら、
「とりあえず、来た道を戻りながらあの外壁の詳しい位置を特定しましょう。もしあれが建物ならば必ずどこかに通路があるはずです」
車がやっと離合できるほどの道路を五十メートルほど引き返すと、左手にごく細い道が伸びているのを発見した。進入禁止を示すアーチスタンドが設置されているが、幼児ほどの背丈しかなく大人が乗り越えるには差し支えない。二人は何の躊躇いもなくスタンドを跨ぐと、道なき道同然の難路に足を踏み入れた。
「何だかこの道……昔読んだ詩を思い出します」
内海が出し抜けに口を開いた。二人の侵入者をひと口で飲み込んでしまいそうなほどに、深く黒い闇が前方に広がっている。懐中電灯の光源がなければ足元さえ覚束無い。地獄への道を歩んでいるようだ、とぼんやり考えながら内海の言葉に相槌を打つ。
「アメリカの詩人が書いた『選ばなかった道』という詩です。一人の旅人が二手に分かれた道を前に、どちらの道へ進もうか迷っている。一方は人が踏み慣らした痕跡のある道、もう一方は人があまり通っていないように見える道。そこから時が進み、この日の出来事を旅人は振り返るんです。あのとき、私は人が踏み荒らしていない道を選んだ。そしてそれがすべての違いを生んだのだ、と」
「哲学的な詩だな」
深山幽谷のごとき森の中で、アメリカ詩人の講座を聞かされるとは思ってもいなかった。ミスマッチな会話の中身に、だが不思議と興味を惹かれる。
「この詩の最後に旅人が言う『And that has made all the difference.』の言葉は、人によって様々な解釈のパターンがあるのだそうです。直訳すると〈それがすべての違いを生んだ〉ですが、その違いは何を指しているのか……」
折れた枝や小石が地面に散乱し、油断すれば足元を掬われて横転してしまいそうだ。内海の会話も次第に切れ切れになっていく。彼女が底の浅いパンプスを履いていたのを思い出し、時也は心持ち歩幅を縮めた。
「私、この詩が好きで定期的に読み返しているんです。仕事に悩んだとき、自分の判断を後悔しそうになったとき……読み返す度に、旅人が励ましてくれる気がするんです。君の判断は間違っていない、君が選んだ道は決してまちが」
後輩の声が突如、途切れた。鬱然とした視界が開け、十メートルほど先に小ぢんまりとした建物が姿を現したのだ。暗闇の中で識別は難しいが、先ほど見かけた白い外壁と似通っている。三角屋根の上には申し訳程度の十字架が添えられていた。
「教会、でしょうか。屋根に十字架がありますし」
頭上に懐中電灯を向ける内海。時也は建物の入り口らしき扉を睨みながら、
「内海、ハンカチは持っているか」
「ええ、ありますけど」
「中へ入る前に出しておけ。下手すれば入った瞬間に気絶するぞ」
息を呑む音が静寂の中に響いた。辺りに漂う微かな悪臭が、建物内部の異状を物語っている。時也は万が一の事態に備えて、傍に転がっている錆びた鉄パイプを手に取るとゆっくり右足を踏み出した。
腐りかけた木製の扉は、鍵穴こそあるが錠前もなければ施錠もしていない。取っ手を押すと、老婆の悲鳴めいた音を立てながらも九十度までしっかり開いた。後方に続く内海が「うっ」と蛙の潰れたような声を出す。
「誰かいるのか」
時也の問いかけに答える者は、いない。破れ被れの絨毯が中央に伸び、左右には横長の椅子が据え置かれている。背もたれ部分は所々ハンマーで殴打したように抉られ、人の管理が途絶えて久しい有様だ。
絨毯が続く先を照らしながら一歩ずつ忍び足で進む。鼻を突く異臭は、警察官になってから幾度となく経験してきた臭いだ。否が応でも、最悪の事態が頭の隅を掠める。乱れる鼓動を規則正しい呼吸で沈めながら、時也は胸の裡で何度も祈った。
「……うぅ……」
蚊の鳴くほどの呻き声がすると同時に、手元の懐中電灯で前方を照らしていた内海が「あっ」と短い悲鳴を漏らす。だが、時也の視線は呻き声の発生源——右手の長椅子に注がれていた。
「滝野!!」
長椅子の陰に隠れるように、滝野巡査が倒れていた。なぜか上半身は裸で、水を浴びたかのようにびっしょりと濡れている。口には細く筒状に巻いたタオルが三つも詰め込まれていた。くしゃくしゃに丸めたシャツとジャケットが足元に投げ捨てられている。
「滝野、おい聞こえるか滝野!」
骨張った肩が、ピクリと動く。口を覆っているタオルが猿轡になっているようだ。タオルを引き出すと、「ゲホッ」という声とともに何度も激しく咳き込み始めた。時也は金縛りが解けたかのように、その場に音もなく座り込む。
「先輩……新宮先輩っ!」
闇の中で内海が叫んでいた。血の臭いが滝野のものでないと確証できた時也は、気を引き締めなおすと後輩の傍へ駆け寄る。
「あれ……あの顔って……」
女捜査官の声はあまりにわかりやすく怯えていた。右手で握った懐中電灯がカタカタと音を立てている。その理由は、数メートル先の光景を見れば明らかだった。
まだ乾ききっていない血の海に、三つの遺体が折り重なるように横たわっている。そのうちの一人の顔に見覚えがあった。生前の面影などまるでない死に顔だが、何度も見返した写真の男だと直感が告げる。
「青木信一だ。間違いない」
上空に浮かぶステンドガラスから仄白い月光が差し込んでいる。ここがまだ信者の集会場として機能していた時代なら、オルガンの音に合わせてどこからともなく讃美歌の旋律が聴こえてきたかもしれない。
青木信一、小山内櫻子、難波英基。三人の屍を月明かりが柔らかく包み込んでいた。
彼らの処刑を終えた神が、遺体に祈りを捧げるかのように。
――To be continued.
【ヨハネの傲慢(上)】の連載はこれにて終了となります。
9月以降、【ヨハネの傲慢(下)】の連載を開始予定ですので、ぜひご覧いただければと思います。




