第32話 疑惑
同日の十七時過ぎ。時也は金澤氏の事務所内で警護に当たっていた。今日は終日を事務所で過ごしたらしく、デスクに堆く積もっていた書類の山がすっきりと片付いている。
「ところで新宮さん。誘拐事件の捜査は捗っているかね」
市議会議員の連続失踪事件に言及しているのだ。当初は「地方議員の謎めいた失踪」「立浜の神隠し事件」などとニュースで騒がれていたが、今ではその熱もすっかり冷めて話題に取り上げるメディアもほとんどない。新たに報道すべき情報が何もないのだ。事実、公安一課の捜査も暗礁に乗り上げているため、時也としては痛いところを突かれた気分だった。
「捜査員が全力を尽くして調べています。仔細はお答えできませんが、一進一退といったところでしょうか」
苦し紛れの返答だったが、金澤氏はそれ以上追求はせずに「警察の皆さんも頑張っているのだね」と時也たちを慰労する。
「そうそう。実は新宮さんに折り入って相談があるのだが」
書類を机上のボックスに放り込みながら、氏はふと声のトーンを落とす。内密の話をする声色だ、と瞬時に察し、金澤氏が座るデスクに身を寄せた。
「君の仕事仲間に、滝野くんという若い子がいるだろう。背が高くて凛々しい顔立ちをしている」
「滝野がどうかしましたか」
「その、何だね……どうにも、私は彼に疑われているかもしれなくてね」
「疑われている? 一体何をです」
思いがけない言葉に、語尾が上がる。金澤氏は落ち着かない様子で足をそわそわ動かしながら、
「それがよく解らないんだよ。ここ数日、滝野くんが佐伯とコソコソ話しているところを何度か目撃してね」
「運転手の佐伯さんと、ですか」
「そうだ。世間話や雑談の雰囲気じゃない。どうにも、私に聞かれたら不都合な会話をしている節がある。ただの勘違いかもしれないが、私はこういうことに関しては勘が冴える男でね」
自虐的に笑いながらも、その目は不安に揺れている。時也は少し考え込んでから、
「私から滝野に話をしてみましょう。彼も事件解決のため懸命に捜査していますが、先生を不快にさせる言動を取っていたのなら注意する必要がありそうです」
「もちろん、滝野くんには何の悪気もないのだろう。来月の議会が近づいていて、私も少し神経質になっているのだ。気を遣わせてすまないね」
その日の夜、時也は金澤氏の自宅付近で監視を続けながら渦中の人物に連絡を取った。好都合にも、警護番を代わるタイミングで直接話すチャンスがある。
任務交代の三十分前。氏の邸宅から十数メートルほど離れた公道に車を停めていると、滝野巡査が姿を現した。ひょろ長い肢体を後部座席に滑らせ、「お疲れ様です」と普段通りの挨拶を交わす。
「どうしたんですか、交代前に話があるなんて」
呼び出される理由に心当たりがないのか、声に緊張の色は伺えない。時也は威圧感を与えないようにごく自然を装いながら、
「大した用件じゃない。仕事の調子はどうか少し話を聞こうと思ってな」
「珍しいですね。新宮部長がそんな話をするなんて」
薄暗い車内で、外の街灯に照らされた滝野の顔が微笑んでいる。
「後輩のメンタルケアも先輩の役目だ。最近はうちの部署も人手不足だから、一人でも欠けたら任務全体に支障が出る……それに、この前の滝野の様子も気になっていたし」
「この前?」
「先週の水曜あたりだったか、庁舎内の休憩所で少しだけ話しただろう。自販機のところ」
滝野は一瞬だけ視線を虚空に彷徨わせ、すぐに「ああ」と頷く。
「新宮部長がコーヒーを奢ってくれた日ですね。俺、変な様子でしたか」
「別れる直前、何か俺に言いかけただろ」
「そうでしたっけ」
本気で忘れているのか惚けているのか、滝野の挙動からは判断できない。公安警察官は感情表現に敏感な者が多い。些細な表情や視線、仕草などから情報を盗まれ利用されるリスクがあるからだ。その危険性をよく解っているためか、公安課の捜査員は揃ってポーカーフェイスが得意なのだ。
「まあ、俺の勘違いならいいか……ところで金澤氏の警護だが、実はちょっと厄介な事態になっているんだ」
「厄介?」
首を傾げる滝野の前で、スーツのポケットからおもむろにある物を取り出す。
「これが、金澤氏の公用車に仕込まれていた」
公安が任務の中でも度々使う、超小型の盗聴器だ。警察バッジほどの大きさしかない黒く丸い物体は、設置場所を少し工夫すれば容易には発見できない。時也は盗聴器を掌の上で転がしながら、
「金澤氏が見つけるより先に運よく回収したが、十中八九俺らの中の誰かが仕込んだものだ。メーカーも公安御用達のところだし、お前も一度くらい使っているだろう」
滝野の顔に戸惑いの色が滲む。彼は内海と同じく、公安課に配属されてまだ一年と数ヶ月しか経っていない。
「これが金澤氏の車に仕込まれていた。つまり、俺らの中で彼を探っている人物がいるわけだ。誰が何の目的でそうしているのか定かではないが、見つけた以上黙っておくわけにもいかない」
「東海林補佐に報告を?」
「もちろんだ。中身の録音データもボスの前で再生する。何が聴けるのか、開けてからのお楽しみってわけだ」
「中身は消去されていなかったんですか」
「録音時間から計算して、少なくとも一週間分のデータが残っているようだ。仕掛けた者も、まさか見つかるなんて想定していなかったんだろうな」
「一週間」
呟く後輩をバックミラー越しにちらと見てから、時也は運転席のシートベルトを外す。
「何にせよ、重要なのはこの盗聴器を誰が仕込んだのかよりも、この中にどんな情報が入っているのかだ。金澤氏の公用車に乗る人物は限られているし、車自体が密室になりやすく内密の話をするには都合がいい。誰のどんな暴露話が録音されているのか楽しみだな」
ドアノブに手をかけ、外へ出ようとした瞬間。「あ、あの」とつっかえたような声が後部座席から時也を呼び止めた。
「新宮部長。ちょっと話があるのですが」
頭の中で獲物が罠にかかる音を聞いた。時也は開けかけていたドアを静かに閉めると、後部座席の後輩にゆっくりと視線を戻す。
「この盗聴器、お前が仕掛けたのか」
「い、いえ。それは違います。そんな盗聴器、俺は見覚えがない……そうじゃなくて、別件で新宮部長に話さないといけなくて」
「何だ」
バックミラーに映った滝野は数秒ほど黙していたが、やがて心を決めたのか大きく深呼吸をすると「実は」と切り出した。
「新宮部長にも金澤氏にも内密で、佐伯さんについて調べていたんです」
予想外の答えに、思わず身体ごと滝野に向き直る。
「金澤氏の専属運転手か」
「佐伯さんが金澤氏の専属運転手として雇われたのは五年前。それまではタクシー会社で働いていた話は新宮部長もご存知ですよね」
「たしか、金澤氏を客として乗せた縁で専属運転手にならないかと誘われたんだよな」
「そうです。俺が佐伯さんを調べようと思ったのは、五年前という時期が引っかかったからです」
「五年前、か」
記憶を巡らせるものの、「タクシー運転手時代の佐伯」「五年前」の二つのキーワードは時也の頭の中で結びつかない。その答えは滝野が教えてくれた。
「五年前、新都でタクシー運転手が客に暴行を振るった事件をご記憶ですか。佐伯樹生は、その事件の加害者です」
「そんな事件があったのか。大した記憶力だな」
新聞の片隅に載る程度の事件をよく憶えていたものだ——と褒めたつもりだったが、素直な後輩はあっさりと弁明した。
「実は俺、その年に警察官になって初のハコ勤だったんです。俺の勤務地が事件現場と近くて、初動捜査に参加しました。捜査といっても、野次馬整理と簡単な聞き込み程度でしたけど」
「なるほど。それで印象に残っていたわけか」
「ええ。結局、示談が成立して事件自体は不起訴で決着がついたのですが、そのすぐ後なんです。佐伯が金澤氏に雇われたのは」
「つまり、金澤氏が示談金を工面して事件を収束させた。佐伯さんはその一件で金澤氏に恩義を感じ、彼の手足となるために専属運転手の身分に納まった……と推理したわけだ」
滝野の仮説が正しいとすれば、佐伯は金澤氏にある種の忠誠心を抱いているはずだ。彼のどんな頼みも断らず、すべての指示を忠実に遂行するかもしれない。たとえ、それが犯罪行為だと自覚していても。
「俺、一週間前の金澤氏の電話がどうにも気になるんです。もし彼が一連の事件にどこかで関わっているとしたら……金澤氏はたしかにやり手の政治家かもしれませんが、罪の意識を一人で抱え込んで平気な顔をできるほどの度量はないと思うんです。あの電話の声は明らかに怯えていました。犯した罪が世間に晒されるのではないかと恐れているようでした」
時也は金澤氏の電話を直接聞いていないため、滝野の証言をもとに判断せざるを得ない。警護相手を迂闊に黒と決めつけるわけにはいかないが、疑惑がないと言えば嘘になる。
「わかった。滝野はできるだけ隠密に動きながら、佐伯さんについてもう少し探ってみてくれ。ただし、金澤氏に勘付かれないようにくれぐれも注意しろ。疑われているぞ、お前」
「え」
目を丸くする滝野の顔前に、「それから」と盗聴器を突きつける。
「そもそもこんな盗聴器は誰も仕掛けちゃいない」
「それって……俺から佐伯さんの話を引き出すために」
「身内のハッタリも見抜けないようじゃ、そのうち敵に足元を掬われる。隠し事をするならもっと腕を上げるんだな」
盗聴器から手を離す。小型の黒い物体は滝野の膝の上に転がり、後部座席の足元に落ちた。時也は「交代の時間だ」と呟くと運転席の扉を開ける。思わず顔を顰めるほど、真夏の夜風は生ぬるく不快だった。




