第31話 聖ヨハネ
会議室を出た時也は、公安課室へ向かう途中に懐かしい人物と遭遇した。刑事部捜査一課の伍代克之警部補だ。
「ご無沙汰しています。その節はどうもお世話になりました」
「ああ、あんたか。四月の不動産社員殺し以来だな」
鷹の目を彷彿とさせる鋭い眼光は、「睨みのショウジ」の異名を持つボスとは違った意味で相手を萎縮させる力がある。刑事の世界に生きる者が持つ特有の目つきだ。
「ちょうど公安課に行こうとしていたところだ。あんたがいるなら時間を節約できる」
言うやいなや、伍代刑事は半ば強引に時也を近くの会議室に押し入れた。そして、自身も素早く扉の隙間から身体を滑り込ませる。
「西港区で元葵組の残党が殺された事件、知っているな」
「ええ、まあ。それがどうかしましたか」
「俺は周りくどい話が苦手だから、単刀直入に訊く。殺された男が右翼よりの動物愛護団体に所属していた事実も知っているだろう」
胸の裡では困惑しながらも、表面上は努めてクールに装う。
「知っていたとすれば、それが何でしょう」
「殺された男について、ハムは何を調べている?」
「殺人事件の捜査が行き詰まっていて情報が欲しいのなら素直にそう申し上げれば良いのでは」
伍代は時也の皮肉を鼻息で受け流し、スーツの懐から一枚の写真を取り出す。
「ガイシャの所持品だ。遺体のズボンの内ポケットに入っていた。もちろんこれはコピーだが」
太い石の柱が二本、写真の中で左右に並んでいる。柱の間に立つ観光客らしき人物の背丈と比べると、石柱がいかに大きいかは一目瞭然だ。明らかに日本国内の風景ではない、と直感が働く。
「その写真の場所は、トルコのアラシェヒルだ」
「アラシェヒル?」
「かつてはフィラデルフィアという地名だったらしい。写真の中の石柱は、聖ヨハネ教会と呼ばれる歴史建造物だ。正確には教会の跡地だが」
「トルコ、聖ヨハネ教会……佐野はどうしてこんな写真を」
時也の呟きに、伍代は目を細める。
「やはり、佐野渉の殺しを追っているな」
「現在進行で捜査中の事件については、マルガイの人定くらい把握しています」
澄ました口ぶりで返す。伍代はチッとこれみよがしに舌打ちすると、
「上手いこと逃げやがって」
「マルガイの遺留品はこれだけですか」
「携帯電話は犯人が持ち去ったのか、現場には残されていなかった。だが財布は身に付けていたから身元の判明は早かった。あとは、この写真だけだ。内ポケットの奥に捩じ込むように入っていたのもあって、鑑識も最初は気付かなかった」
「まるで、誰かに探られるのを見越していたかのようですね」
鷹の如き双眸に鋭利な光が宿る。片眉を器用に持ち上げると、
「ガイシャの遺留品の中にも自宅アパートにも携帯電話の類はなかった。十中八九、殺しの犯人が奪ったんだろう。そこにガイシャと犯人の繋がりを示す確かな証拠が残っていたからだ。ガイシャの身元を隠す必要はなかったから、財布は置き去りにした——ならば、この写真は?」
時也から受け取った写真を、指先で弾く。
「一課の中では、ガイシャは犯人に呼び出されて現場へ向かった公算が高いと見ている。人に会いに行くのに、どうしてこんな写真を大事そうに隠し持っていたんだろうな」
「写真の建造物は、教会の跡地だと言っていましたね」
「ああ。トルコ自体はイスラム圏の国だが、古くはキリスト教と所縁のある地域らしい。聖書の中にも、フィラデルフィアやトルコの地名が登場するんだと」
「佐野はキリスト信者だったのですか」
「ところが、ガイシャと宗教を結びつける物証も証言も何一つ出てこない。その代わり湧いて出た新情報が動物愛護団体だ」
APARの一件だ。捜査一課が現場入りする直前、田端警部補が先回りして佐野の自宅アパートを捜索していた。APARの会員バッジやパンフレットなどが見つかったという報告も挙がっている。
佐野とAPARの事案は公安二課が既に時也たちから引き継いでいる。おそらく刑事部の捜査に二課が割り込んできたのだ。刑事部がAPARについて探る前に、公安からストップがかかったのだろう。伍代刑事の不満げな表情から察するに、協力的な関係を築けていないのかもしれない。二課は手の内の情報を刑事部に出し惜しみしている。そこで、APARの情報を他から引き出そうと標的にされたのが——伍代と《《たまたま》》鉢合わせた時也というわけだ。
「佐野とトルコの関連性はまだ何も判っちゃいないが、動物愛護団体についてはいくつか重要な証言も取れている。だが、この手の事件は俺たち殺人課は門外漢だ。蛇の道は蛇、餅は餅屋。言いたいことは判るよな?」
APARの情報を要求しているのだ。突っぱねる選択肢もあるが、佐野の所持品にトルコの写真があった話は初耳だ。フェアプレイを信条とする時也としては、このまま伍代を手ぶらで帰らせるのは多少の罪悪感もない、と言えば嘘になる。かといって、佐野渉に関する情報が乏しいのは公安一課も似たり寄ったりだ。
「佐野渉は、現在消息不明の市議会議員をSNS上で誹謗中傷していました」
「SharingとかいうSNSで、特定の市議会議員に幼稚な悪言を吐いていたんだろう」
「ええ。その標的になっていた市議会議員にはある共通点があります。いずれも、立浜ネクストワールド建設計画の中心人物です」
時也の言わんとする続きを察したのか、得心した顔で頷く伍代。
「先の建設会社社長殺し、そのマルガイもまた立浜ネクストワールド建設の関係者です。まあ、捜査一課は事件直後に佐野を訪問しているみたいですから、既にお気付きとは思いますが」
「お前、どうしてそれを」
動揺の色を浮かべる殺人課の刑事に、時也はにこりと微笑みかける。
「佐野と立浜ネクストワールドの関連性はまだ不明です。ですが、もし彼が本当に動物愛護団体の一員だったのなら、立浜の森林を切り開き、そこに棲む生き物の生態系を壊すような建設計画に良い顔はしないかもしれませんね。ああ、そういえばトクミツ建設は葵組の残党たちを匿っていたのでしたね。その中に佐野渉はいなかったのではないですか」
「あ、ああ。佐野以外の残党は全員がトクミツ建設に雇われていた……まさか、徳光殺しを計画していたから、佐野は標的がいる会社に就職しなかった?」
「社長殺しで真っ先に疑われるのは内部の人間ですからね。もし佐野が徳光殺しの犯人なら、外部の人間でいるほうが行動しやすかったかもしれない」
「徳光仁を殺害した犯人が佐野渉だとすれば、動機は立浜ネクストワールド建設計画を中止させるため。建設の中心メンバーだった市議会議員を誘拐したのも佐野である可能性が高い……それじゃ、佐野を殺した犯人の目的は何なんだ」
「すべては憶測の域を出ませんが、立浜ネクストワールドが一連の渦中にある点は重視すべきでしょうね」
口元を手で覆い、声にならない声で唸る伍代。取引もこの辺りが潮時だ。
「我々は佐野殺しについてはノータッチですが、大変興味深い話でした。ではこれで失礼します」
相手が何か言いかけるより先に素早く一礼する。公安課室へ足早に向かいながら、「アラシェヒル、聖ヨハネ教会」の言葉を呪文のように何度も口の中で繰り返した。
公安課室へ着くや否や、時也は庶務担当の杉崎警部を探した。デスクで作業しているところを運良く見つけ、「すみません」と話しかける。
「データ閲覧の申請をお願いしたいのですが」
一昔前は紙資料だった情報の多くは、今や電子データへの移行が完了していてネットワーク上での閲覧が可能だ。ただし、機密性の高い情報については担当者へ閲覧申請のうえ、立ち会いのもとでデータへのアクセスが許可される。閲覧申請の責任者は各部署の庶務担当で、警部以上の階級者に限られている。
「あれ、君は東海林班の……ええと、新宮部長だっけ」
シャツの上からでも鍛えていることが一目瞭然の体躯に、無精髭が目立つ顔。見た目は現役警察官よりも引退したスポーツ選手のようだ。一見するとデスクで事務仕事を淡々とこなすタイプではない。
「君、田端と同じ東海林班だよね。最近見かけないけど、彼元気?」
「田端係長ですか? 今は作業の関係で庁舎には出ていませんが、元気かと……あの、係長をご存知なのですか」
杉崎は手元のボールペンをクルクル回しながら、快活に笑う。
「ご存知も何も、あいつとは同じ釜の飯を食った仲だよ。警察学校の同期生なんだ」
銀縁眼鏡が似合う理知的な印象の上司と、髭面で恰幅の良い庶務担当者とではかなり毛色が違うように見受けられた。そんな時也の胸の裡を見透かしたように、
「田端とは随分タイプが違うな、と思っているだろう」
素直に頷くと、相手は肩を上下させながら忍び笑いする。
「警察学校時代もよく周りから言われてたよ。お笑い芸人もびっくりの凸凹コンビだって……んで、閲覧申請の内容は?」
時也が申請したのは、県警が把握している宗教法人や新興宗教団体、カルト団体などの一覧データだ。申請許可さえ下りれば、ノートパソコン一台と閲覧室を確保してすぐ求める情報にアクセスできる。
「そういや田端のやつ、今抱えているヤマが解決したらへそ踊りをするんだって?」
さりげなく雑談を再開した杉崎に、「へ?」と間の抜けた声を返してしまう。
「あれ、俺の周りじゃすっかり噂なんだけどな。今追っているヤマに決着がついたらへそ踊りを披露するって」
「存じ上げませんでした。係長がそんなことを」
「まあ、冗談なんだろうけどな。あいつは真顔で冗談をかます奴だから、嘘か本気か判らないんだよ」
空いている閲覧室に入り、業務のノートパソコンを机上に置く。杉崎に「どうぞ」と勧められ、時也は音もなく椅子を引いた。
「宗教法人に新興宗教団体、カルト……うげ、これ全部見るのかよ。すげえ量だぞ」
モニターに表示された膨大なデータを前に、杉崎は顔を顰める。時也は指を鳴らしながら「十分で終わらせます」と明言すると、すぐさま作業に取りかかった。
公安で培った速読術を駆使すれば、時也にとってはさほど苦になる情報量ではない。宣言通り、入室から十分ぴったりが経過したときにはノートパソコンの電源は落とされていた。
「やっぱりないか」
背もたれに上半身を預け、天井を見上げる。杉崎警部が真上から覗き込みながら、
「何がなかったんだよ」
「ヨハネ」
簡潔な答えに「ヨハネ?」と訊き返す。その目には好奇の色が浮かび、話の続きを聞きたくてうずうずしているようだ。だが、時也は視線で促す杉崎に対し「ありがとうございました」と礼だけ告げると、ノートパソコンを手に立ち上がった。




