第27話 海底に沈む謎
「葛西が事故に遭ったのは、二〇〇六年八月のことです。当時、彼と私は東北のある海洋研究施設に在籍していました。詳しい内容は割愛しますが、私は日本の捕鯨問題、葛西は温暖化が海洋に及ぼす影響について研究していました。
事故が起きたあの日、葛西は施設が所有する調査船でI県の沖を出発しました。当日の天気は良好、波も穏やかで不吉な事故の予感は何一つありませんでした。私は港で彼を見送ってから施設に戻り、普段通り自身の研究に没頭しました。
事故の連絡を受けたのは、夕方頃だったでしょうか。私が所属する研究チームの主任が血相を変えて部屋に飛び込んできたので、何事かとその場にいた全員がびっくりした顔をしていました。主任は息も絶え絶えに『うちの調査船が他所の船と衝突事故を起こした』と告げました。私も含めて皆が事情を知りたがりましたが、主任も具体的な話はまだ報告されていなかったのでしょうね。それだけ言ってからすぐ部屋を出て何処かへ行ってしまいました。その日、うちの施設から出た船は葛西が乗っていたものだけでしたから、すぐに彼の顔が浮かびました。研究も手に付かず、続報をただぼんやりと待ち続けていたのを今でも憶えています。
どうか乗船者が全員無事であるように——誰もが切に祈っていましたが、その想いは残念ながら届きませんでした。葛西を含む四名の訃報が私たちのもとに届いたのは、その日の夜遅くです。あまりに唐突な不幸で、とても現実とは思えませんでした。何かの間違いじゃないか、まだ蘇生の余地があるのではないか……無駄な足掻きだと頭では解っていましたが、それでも信じたくありませんでした」
そこまで聞いたところで、時也は「ちょっといいですか」と口を挟む。
「四名の遺体は、その日のうちにすぐに見つかったのですか」
「ええ。事故が発生してすぐに海上保安庁へ連絡がいき、救助活動が速やかに開始されたようです。うちの調査船に七名、相手の船には五名が乗っていたと伺いました。亡くなったのは葛西とその妻である晶子さん、うちの船の船長、そして相手の船の船長です」
「葛西晶子さんについてですが、彼女はよく夫の仕事に付き添っていたのですか」
「新宮さんの仰りたい意味はわかりますよ。研究者でもない彼女が夫の勤め先について回るのは如何なものか……もちろん、晶子さんも常に同行していたわけではありませんでしたがね。これはあまり理解できない事情かもしれませんが、葛西自身が許可していたのです。彼女は、夫が船に乗ると悲劇が起きるのではないかと恐怖に襲われる日が度々あったのだそうです」
「虫の知らせ、ですか」
「それよりもずっと深刻そうでしたよ。オカルト風に言うと、彼女には未来が見えていたのです。それも、事故やトラブルのような悪い未来ばかりが」
俄には信じ難い話だった。室井も半信半疑だったらしく、「私はそれとなく流しながら聞いていましたけれど」と苦笑している。
「晶子さんは礼儀正しく美しい女性でしたが、少々変わり者でしてね。時々、研究施設を訪ねてきたとき、必ず私たちに告げていました。『海の事故に気を付けてくださいね』と。彼女の未来予知については施設内でも噂が広まっていましたから、その言葉が妙に頭に残るのです。忌まわしい呪詛のようにね」
「二人が巻き込まれた事故も、彼女が予言した未来だと?」
「まさか。そもそもあれは単純な衝突事故じゃない」
「その点について詳しくお聞かせ願えませんか。室井さんなりのお考えがあるようですね」
すっかり熱がとれたコーヒーを喉へ流し込むと、室井は小さく息を吐いた。
「最初に違和感を覚えたのは、警察の態度でした。事故の話を聞かされたとき、衝突した相手の船に関する情報だけ曖昧にしか伝えられなかったのです。相手の船長さんが亡くなったこと、船長以外の乗船者は無事であったこと、向こうさんの誤操縦が事故の原因らしいこと。それだけでした」
「旅行船か何かだったのですか。それとも漁船とか」
「それを一切話してくれなかったのです。相手の素性が知られると不都合だったのか、私がそこに食いつこうとすると警察は邪険になって話を切り上げようとしました」
衝突相手はただの旅行船や漁船ではない。真っ先に浮かぶのは軍艦や政府関係の船だ。中国や北朝鮮の船舶であればたしかに厄介であるし、事情によっては隠蔽の可能性も出てくる。だが、室井の話の先には意外な事実が待っていた。
「警察の煮え切らない態度が気に入らなかった私は、研究員数名を引き入れて密かに事故の調査チームを立ち上げました。施設にも警察にも公表していない非公式の調査部隊です。葛西がなぜ海の上で死ななければならなかったのか。彼の死がうやむやになってしまわないように、事故に隠された真実をどうしても知りたかったのです。
仔細は省きますが、地道な調査の結果いくつか判明したことがあります。まず、相手の船は中国や朝鮮といった他国の船ではありませんでした。そして、乗船者の数からも想像できますが船の規模も決して大きいものではなかった。さらに、相手の船は故意的にうちの調査船に衝突した」
「故意的……仕組まれた事故だったと?」
思わずソファから尻が浮き上がりそうになった。室井は眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、
「うちの船に乗っていた調査員が証言しているのです。相手の船がスピードを上げてこちらの船体に突っ込んできたと。避ける暇もなく、気づいたときには両者の船が傾きはじめていたそうです。悪天でないのが不幸中の幸いでした。これで波が立っていれば、船の残骸も乗船者もあっという間に流されていたはずです」
「事故が起きてすぐ、海上保安庁へ連絡が入ったと話していましたね。通報者はどちらの乗船者ですか」
「相手側の一人だったと聞いていますが」
猛スピードで衝突した船、素早い通報、船長のみが死亡。これらの事実から時也はある仮説を立てたが、それは室井に語るべきではないと判断する。代わりに二杯目のコーヒーを奢ってから、話の続きを促した。
「相手の船を見た調査員から、私はできる限りの情報を引き出そうと試みました。ですが彼も突然の事故に混乱状態でしたし、記憶もかなりぼんやりとしていたようです。無理もありませんが……ただ、ひとつ引っかかる証言が得られました」
「引っかかる証言?」
「相手の船体に、男性の絵が描かれていたと」
「男性の絵、ですか」
「絵と言っても、美術的な技巧を凝らした絵ではありません。おそらく、その船のロゴマークみたいなものではないかと私は考えています。豊かな口髭を生やした、外国人風の男の絵だったと彼は話していました」
「ボディ部分に船名や社名はなかったのでしょうか」
期待を込めて問うたが、室井はゆるりと首を横に振る。「そこまで見ていたら大きな手がかりだったのでしょう。口髭の男というだけでは絞りきれませんでした。警察はその船の主を探す気など毛頭ないですし、八方塞がりのまま調査隊は空中分解しました。あれから二十六年が過ぎ、真実は今も藪の中……海に例えるなら、真相は海の底に消えたといったところでしょうか」
室井は二杯目のコーヒーに角砂糖を投入する。店内のBGMはいつの間にか一周し、聴き慣れた女性ボーカルの曲が流れていた。
「この曲は、ファドですね」
元海洋研究者は、不意に呟く。時也は「ファド?」と鸚鵡返しで訊いた。
「ポルトガル生まれの音楽です。ファドはポルトガル語で運命や宿命を意味する言葉で、リスボンの街が発祥とも言われています」
曲のメロディを奏でている楽器はギターだと思っていたが、正確にはバンドリンという弦楽器の一種だと室井が教えてくれた。切なげだがどこか生命力に満ちたこの曲の名が〈難船〉だとも。
「幼いうちに両親を同時に事故で亡くした文明くんが、私は不憫でなりませんでした。長い月日が経って、彼が研究者の道を歩んでいると噂で耳にしたときは驚きましたよ。研究分野は違えども、血は争えないなと感慨深くなりました」
「葛西文明さんと、交流がおありで?」
「幼少期に数回会った程度です。向こうは私の顔すら憶えていないでしょうが……葬式のとき、涙を堪えて両親の遺影に真っ直ぐ目を向けていた光景を私は今でも忘れられません」
時也は迷った挙句、事件の捜査で葛西文明と面識があること、研究者として成功を収めていることなどを簡単に報告しておいた。室井はコーヒーカップを傾けながら嬉しそうに微笑むと、
「せめて、彼には幸せな未来が訪れてほしいものです。研究者としての彼に神の御加護があらんことを」
両手を組み、噛み締めるようにそう告げた。




