第22話 怪しい美術商
七月の最終日。夕方からの警護勤務の前に、時也は県警本部にある情報技術推進室を訪れた。
情報技術推進室では、K県をはじめ全国で起きたあらゆる事件のデータベースや前科者リストなど、犯罪に関わる数多の情報を収集できる。かつて警察機関の情報といえば分厚いファイルに紙資料をまとめたものが一般的だったが、この数年間で文書類の電子化が急速に普及し、現在ではネットワークでの管理が主流になりつつある。ネットワーク上であればK県警が独自にまとめた県内のあらゆる犯罪データのほか、全国の犯罪情報を網羅する警察庁データベースへのアクセスも簡単だ。資料室のファイルをひっくり返したり、電子データと紙の資料を見比べたりといった手間が省かれ、近年の捜査は大幅な効率化が進んでいる。
一方で、切っても切り離せない課題の一つがセキュリティだ。かつて警察機関では、職員が業務上のデータを無断でコピーして持ち出す事案が発生。以後、全国の警察組織ではセキュリティシステムの大幅な見直しが断行され、情報管理体制の一層の強化が図られるようになった。
K県警察本部では、情報技術推進室への入退室に際して担当職員によるボディチェックを受ける。入室の際には一度きりしか使用できないログイン用パスワードを口頭で伝えられるが、筆記用具やメモ帳の類は持ち込み禁止のためパスワードは頭の中に叩き込まなければならない。必要情報は印刷可能だが、部屋を出る際に書類持ち出しの許可印が必須という徹底ぶりだ。警官泣かせのこのシステムのお陰で、K県警察本部の情報管理体制は全国警察組織の中でも高い評価を受けている。
入念なボディチェックを通過した時也は、モニターの前に座ると十数文字にわたる意味をなさない英数字を難なく画面に打ち込んだ。警察庁のデータベースで調べるのは、株式会社アーステクノロジー研究所の葛西文明に関する犯罪歴。だが念入りに検索したものの、葛西と犯罪を結びつける結果は一件もヒットしない。少なくとも葛西個人に前科はなく、警察がらみの不祥事は起こしていないようだ。
次に、国内で活動する環境保護団体や動物愛護団体が過去に起こした事案を検索する。葛西がかつて所属していた組織でヒットしたのは、加入者が傷害罪で警察に拘束された事案二件のみ。しかし、そこにも葛西文明の名前はない。
「彼は穏健派の活動家だったのか」
葛西文明に建設コンサルタント以外の顔が存在することは、図書館から借りた彼の自叙伝で知った。大学在学時からおよそ十年にわたり、葛西は環境保護を訴える活動に邁進していたようだ。彼が地学研究者の道を志したのも、自然が人の手によって次々と破壊される現実を目の当たりにしたからだと著書で語っている。
マンションや商業施設の建設において、建設地の森林伐採や地面の掘り起こしといった作業は不可欠だ。だがそうした工事は、周辺に棲息する動植物の生態系を大きく歪めるほか、付近の住民が騒音や粉塵などのいわゆる建設公害に悩まされるといった二次被害も引き起こす。文明発展の裏に巣食う犠牲の数々から目を逸らしてはいけない——若き日の葛西が胸に抱いた正義感は、やがて彼を地学科教授の道へ、そして建設コンサルタントの道へ押し進める結果となった。
現在葛西が所属する株式会社アーステクノロジー研究所では、建設工事の計画策定や地質調査、防災のリスクマネジメントなどの幅広い業務を担っている。中でも、建設の土台とも言える土地へのダメージを最小限に抑えつつ、生態系への影響や近隣住民への被害にも配慮した建設計画事業に注力している点が著書の中で殊更強調されていた。
「葛西本人から直接話を聞きたいところだが、流石にそれはやり過ぎだよな」
モニターを睨みながら独り言つ。時也に課せられた任務は、あくまで市議会議員である金澤氏の警護に限定されている。今の時也には葛西文明と個人的に接触するための動機がない。勝手な行動は組織の統率を乱すのみならず、県警の信用に瑕をつける虞がある。
「くそっ、佐野渉と金澤氏の接点が見つかったってのに身動きができないなんて」
もし、佐野と葛西が環境保護団体を通してどこかで繋がっていれば、葛西が中継点となり金澤氏と佐野に関連性が生まれる。バラバラだったパズルのピースは着実に埋まりつつあるが、肝心なところを今ひとつ攻めきれない。
もどかしさを裡に秘めたまま情報技術推進室を出ると、公安課がある十四階フロアで滝野の姿を見かけた。廊下の自販機があるスペースで、壁に背中を預けてぼんやりと宙を見つめている。その虚な視線が時也を捉えた瞬間、瞳に小さな輝きが灯った。
「新宮部長! お疲れ様です」
壁から身を離し、締まりのなかった顔に緊張の色が帯びる。時也は挨拶代わりにゆるりと片手を挙げた。
「監視を交代したのか」
「ええ、つい先ほど。今日は三番ですか」
三番は、一日の中で最後に監視当番が回ってくる。今日は夕方四時から日付を回る零時までが時也の担当だ。
「ああ。市民が寝静まる頃に仕事ってのは気が滅入るな」
「新宮部長でもそんな気持ちになるんですね」
「お前は俺をロボットとでも思っているのか」
冗談めかして返すと、若き公安刑事は「滅相もない」と慌てて両手を振る。
「ただ、新宮部長はいつでも完璧といいますか、どんなときでも弱音を言わない印象があったので。ちょっと意外ではあります」
「俺だって人の子だ。歳相応に疲れるし戦闘意欲を失くすときもある」
自販機の前で立ち止まり、無糖コーヒーのボタンを二回押す。左手で取り出した分を滝野に投げると、床に落ちる寸でのタイミングでキャッチした。
「あ、ありがとうございます」
「そうだ。ちょっと滝野に訊きたいんだが」
さりげなく周囲へ目を配り、人気がないことを確認してから話題を振る。
「金澤氏から、アーステクノロジー研究所に関する話は聞いているか」
「アーステクノロジー……ああ、立浜ネクストワールドの設計を依頼している会社ですよね。朝丘区にある天文ドームみたいな建物でしょう」
「行ったのか」
「いえ。金澤氏が朝丘区方面で街頭演説をした日に同行して、施設の近くを通りすがっただけです。中までは行っていませんよ。たしか、葛西という人が設計責任者だとは伺いましたけど」
「それだけか」
「そうですね……それがどうかしましたか」
佐野渉と葛西を結ぶ共通項は見つけたが、彼が市議会議員失踪や徳光殺しに関係している根拠や証拠は今のところ皆無だ。不用意な発言は捜査員の間に混乱を招きかねない。
「ちょっと気になることがあったが、どうやら俺の勘違いらしい。変な話をして悪いな、放念してくれ」
後輩に背を向け、公安課室を目指そうと片足を踏み出したときだ。「新宮部長」と、今までにない真剣な滝野の声が背中にぶつかる。振り返ると、物言いたげな顔の青年と視線が交錯した。
「どうした」
「いえ、その……すみません、何でもないです。コーヒーご馳走様でした」
足早に遠ざかる滝野の後ろ姿を、無言で見送る。労いの一言でも返すべきだったと思い至ったときには、後輩の影は既に視界から消えていた。
時也が金澤氏の自宅で夜間警護に当たっている頃、落合巡査部長は市内の老舗居酒屋で捜査二課の諸伏刑事と会っていた。「例の地下競売に関する捜査が進展しました」と一報を受けたのだ。
「競売の主催側について調べを進めていたのですが、出品者の中に怪しげな業者が存在していました。県内に拠点を置く〈影山美術商〉という絵画専門の卸商ですが、事業活動の記録もなければここと商売をした取引先も見つけられていません。いわゆるペーパーカンパニーですね」
ペーパーカンパニーは、文字通り書類上にのみ存在する会社を意味する。登記上では設立が認められるものの、記録された住所に会社の建物がなかったり、ビジネスの実態が把握できなかったりするケースはペーパーカンパニーの可能性が高い。ペーパーカンパニーの設立自体は違法ではないが、脱税や資金洗浄の温床になりやすく、否定的な意味も込めて「ダミー会社」「幽霊会社」などとも呼ばれる。
「登記されている住所ですが、バーチャルオフィスを運営する〈株式会社VOS〉が提供していると判明しました。ところが、この会社もすこぶる奇妙でして」
「奇妙?」
諸伏は空になったビールジョッキを脇へ押しやりながら、
「そもそもバーチャルオフィスのメリットは、経費を最小限に抑えつつ一等地の住所を利用できる点にあります。ですが、VOSが提供する住所は駅から少々距離がある上にオフィス街からも外れたエリアがほとんどです。バーチャルオフィスとしてそんな場所の住所を借りるかと訊かれたら、二課の連中も首を傾げていましたよ」
「そのVOSって会社も、影山美術商とグルになって地下競売に関わっていると言いたいのか」
「断定はできませんが、調べる価値はあると思います。仮にVOSが訳ありのお得意先ばかりを抱えていれば、地下競売以外の犯罪が芋づる式に飛び出すかもしれません。二課としてこのチャンスを不意にする理由はありませんよ」
「けど、ペーパーカンパニーもバーチャルオフィスも設立や利用そのものは法に触れないんだろ? それに、葵組の話はどうなったんだ。地下競売を主で取り仕切っているんじゃないかって言っていただろ」
「ご心配には及びません。これが証拠です」
自信満々の顔で諸伏刑事が懐から取り出したのは、影山美術商の登記事項証明書。もちろん原本をコピーしたものだが、落合は感心したような顔で諸伏を見返した。
「流石は捜査二課だな。証拠集めに抜かりなしってわけか」
「ハムの刑事に褒められるのは、悪い気はしませんね」
鼻の穴を膨らませる諸伏から証明書のコピーを受け取る。影山美術商はK県に本店を構える合同会社で、経営の目的は美術商品の取引販売と明記されていた。資本金は五十万円と合同会社の中では少額だが、ペーパーカンパニーであればそもそも開業資金も不要なのだから金額の大小も関係ないだろう。ずらりと情報が並ぶ中で落合が目を留めたのは、「社員に関する事項」の欄に載っているある人物の名前だった。
「代表社員、佐野渉……んな馬鹿な」
憮然とした声を漏らすパーマ男に、諸伏が「それだけじゃありません」とさらに追い打ちをかける。
「先ほどお話しした株式会社VOSに問い合わせたところ、たしかに影山美術商の佐野と名乗る男がバーチャルオフィスの契約のためにVOSの会社を訪ねたと証言しています。細かな人相までは流石に憶えていないようでしたが、契約日は二年ほど前の日付になっていました」
「この佐野渉って代表社員は、殺された元葵組の佐野渉と同一人物なのか? 同姓同名の別人って可能性は」
「ゼロではありませんが、何とも言えないですね。影山美術商は実態のないペーパーカンパニーですし、社員が本当に実在しているかなんて調べようがありません。ただ、もし影山美術商の佐野渉なる人物が元葵組の佐野渉と同じ人物であるならば、面白いストーリーが成り立つと思いますよ」
「どういう意味だ」
「寛さんのお仲間さんが調べた話では、その佐野ってヤメ暴は定職にも就かず単発のバイトでその日暮らしをしていたわけでしょう。ですが、もしほかに裏収入があるとすれば」
八の字の眉を器用に持ち上げる諸伏。落合は後輩刑事の言わんとする先をすぐに察した。
「名前を貸す代わりに、影山美術商から分け前を得ていたのか」
「そう仮定すれば、風来坊のような暮らしぶりにも納得がいきませんか? あからさまに儲かっていれば周囲から怪しまれるでしょうし、敢えてうだつの上がらない様を装おっていたのかもしれません」
「マルBらしい綱渡りみたいな生き方だな。だが、会社の代表が死人となっちゃそのまま肩書を残すわけにもいかねえだろ」
「だからこそ、そこが影山美術商を攻めるポイントになるわけです。この佐野渉という男が、そもそも会社の代表なんて務めていない……その確定事実さえ得られたら、そこから切り込んで地下競売の実態もろとも白日の下に引き摺り出すって寸法ですよ」
「会社の代表に佐野の名義を利用できたのであれば、影山美術商の設立者は佐野の個人情報を入手できる人物……つまり、葵組の関係者である線が強い」
「ご明察です。まあ、影山美術商自体は実態も何もないわけですから、会社に直接殴り込むなんて荒技もできませんが」
「まさか、地下競売の会場に乱入する気か」
「そのまさかだと言ったら、どうします?」
テーブルから身を乗り出すように、前のめりの姿勢になる。キムチが盛られた皿に後輩のネクタイが触れそうなところを一瞥しながら、落合は次の言葉を待った。
「実は、最初に影山美術商の情報を流した匿名の密告者からオークション会場の住所を聞き出しています。密告者によれば、オークションが開かれるとその終盤で必ず次回の開催日時が発表されるらしいんです。で、次の開催が明後日の二十一時」
「オークション当日なら、主催側であるオークション会社やその関係者も十中八九会場にいるだろうな。無論、影山美術商も」
「その通りです。ちょうど、会場であるビルの向かいに空きテナントがありましてね。張り込みにはもってこいの場所で、既に袖の下を通して捜査に使えるよう押さえています」
「手回しが良いことで」
呆れた口調の落合。諸伏刑事は前傾姿勢を維持したまま、パーマ男に真っ直ぐな眼差しを向ける。
「そこで寛さんに頼みがあって……オークション会場の張り込みに、寛さんも同行していただきたいんです」
後輩刑事の思いがけない提案に、落合は暫し考え込む。ジョッキに残った僅かなビールを一口啜ると、ゆっくり口を開いた。
「その張り込みに俺が協力するメリットはあるのか? 佐野は既に殺害されているし、地下競売を挙げたところで二課の手柄にしかならない。俺の読みじゃ、地下競売と市議会議員の失踪も無関係だろうし」
「一概にそうとも言い切れないのでは? もし地下競売が組織犯罪で佐野渉も一枚噛んでいたとすれば、市議会議員の失踪も組織ぐるみの誘拐かもしれません。競売の裏に葵組の残党たちがいるとなれば、トクミツ建設の事件だって繋がっているかもしれない」
「お前の話はタラレバ論に過ぎないだろう。組み立てが甘い船じゃ沖に出てもすぐに転覆する。泥舟に乗るのは御免だぜ——悪いが、地下競売の件は二課だけで頑張ってくれや。そもそも、葵組の残党を追うのなら組対部に声をかけりゃいいだろ」
座布団から立ち上がった先輩を、諸伏は慌てた声で呼び止める。
「待ってくださいよ。二課の連中、先月起きたマルBの集団詐欺を組対部に横取りされて今も根に持っているんです。地下競売の事案は、何としてでもこっちで検挙まで持ち込みたいんですよ」
「んな内輪の事情なんて知るか」
「佐野渉はハムが追っているマル被なんでしょう。寛さんだって自分たちでホシを挙げたいんじゃないですか。佐野殺しは捜一の担当になったし、このままじゃ市議会議員の失踪だってほかの課が先に解決しちゃうかもですよ」
襖にかかった手が、ぴたりと静止する。その手が頭に移り、天然パーマを掻き乱した。




