第21話 偶然あるいは必然
金澤氏の警護番を替わる二時間前。時也は単独でけいあい病院を訪問した。訪問予約を受け付けた看護師によれば、内海巡査部長の容態は安定しており週末にも退院できるとのこと。精密検査も一通り終了し、担当医からも「問題なし」と太鼓判を押されたようだ。
およそ十二時間ぶりに病室を訪れると、内海はベッドから起き上がって簡易テーブルの上に手帳を広げていた。右手で握ったボールペンを顎先に当て、思案に耽るような表情をしている。
「仕事熱心なのは結構だが、あまり無茶をするな。休めるときにしっかり休むのも仕事のうちだぞ」
「すみません……昨夜のことをもう少し鮮明に思い出したくて。何か重要な点を見落としているのではないかと考えていたんです」
「咄嗟の出来事だ。記憶の一部が曖昧になっていても無理はないさ」
部屋の隅に立てかけられていたパイプ椅子をベッドの横まで引き寄せる。窓から吹き込む夏風が洗い立てのような純白のカーテンをふわりと膨らませた。傍らに置かれた棚の上で、ドーム型のガラスケースに護られるようにして鮮やかな紫色の花が咲き誇っている。
「本当は、病室に生花を置いてはいけないのですが、部屋が殺風景だから寂しくて。それで、加工されている花ならと許可をいただいて友人に買ってきてもらったんです」
「綺麗な花だな」
「ライラックです。本来は春に旬を迎える花ですが、プリザーブドフラワーは生花を長期間楽しめるように特殊な加工を施した商品なので、どの季節の花でもこうして鑑賞できるところが魅力です」
「内海は花に詳しいんだな」
「詳しいというほどでは……フラワーアレンジメントを趣味にしている友人がいて、その子から時々話を聞く程度です。ライラックは青春や友情のシンボルとされていて、北淮道の佐幌市では市民の花としても親しまれているそうです」
「北淮道、か」
内海が「どうかしましたか」と頭を傾ける。化粧っ気のない顔は普段の凛々しい雰囲気が抜け、良い意味で柔らかさが滲み出ていた。仕事仲間のプライベートな一面を覗き見たようで気恥ずかしさが押し寄せ、時也はついと顔を逸らす。
「いや、別に……まあ何だ、思ったよりも元気そうで安心したよ」
「そうですね。私としては今日にでも復帰したかったのですが、週末を挟んで静養しろとボスからお達しが出ていまして」
「東海林補佐も、万全の調子になってから戻ってほしいんだろう。現場に戻ったらまた休む暇もなくなるだろうからな」
さりげない一言だったが、後輩の顔色が僅かに曇る。
「佐野の一件については私に大きな落ち度があります。一日でも早く真相に辿り着くためにも、人一倍動かないと」
「その気持ちは解らないでもないが、佐野の件は殺人課の管轄だから事件そのものについて俺たちはタッチできない。調べを進めるならAPARや議員失踪の方面からになるだろう」
言いながら、脳裏では今朝方のボスとの会話が何度もループしていた。もし、現在公安一課が進めている作業の主導権が二課に移行すれば、自分たちは一連の捜査から外されるのではないか——だが、現段階ではそれも単なる憶測で彼女に打ち明けるわけにはいかない。
もどかしさを胸の裡に抱えながら、窓辺に咲くライラックをじっと眺める。花を見つめていても事件の答えなど浮かび上がるはずもないが、艶やかな紅紫色は乱れた思考を不思議と鎮めてくれるようだった。
時也がけいあい病院にいる頃、落合巡査部長は立浜市内にある古旅館に足を運んでいた。暴力団界隈の情報通から「ちょいと耳寄りな情報を掴んだ」と一報を受けたのである。
情報提供料として道すがらで水羊羹を購入し、風雷館の三和土を跨ぐ。前回と同じ部屋で煙管を吹かしていた元暴力団員は、パーマ頭の客人が手にしている和菓子屋の袋に素早く目を留めた。
「お、〈松風庵〉じゃねえか。顔に似合わず店選びのセンスは良いな」
「一言余計だよ。ほら、新発売の水羊羹を買ってきたぜ」
汗が吹き出す首元にハンカチを当てがう。オンボロ旅館らしく客室にクーラーは見当たらないため、古びた扇風機のスイッチを「強」に入れた。窓辺に吊るした金魚模様の風鈴が、扇風機の風を受けて涼しげな音を立てる。
「それで、事件の関係者について耳寄りな話があるんだって?」
畳の上にどっかりと胡座をかく落合。大林廉は焙じ茶入りの湯呑みを口元に運びながら、
「そう急かしなさんな。まずは土産物を楽しませてくれよ」
「悪いが、老後を満喫している爺さんと違ってこっちの持ち時間は限られてんだ。話は手短に頼むぜ」
「生き急いだってろくなことがねえぞ。ま、ヤクザの世界に身を焦がした奴が言えた義理じゃねえが」
葡萄茶色の羊羹をから視線を外し、男は億劫そうに右手を伸ばした。丸テーブルに置かれていた茶封筒を引き寄せて、そのまま落合にスライドさせる。
「解散後の葵組について、可能な限り今の動向を洗い出した。お前さんにとっちゃ既知の情報もあるかもしれねえが」
封筒からA4サイズの資料を取り出し、無言で速読する。大林が羊羹を咀嚼する音、扇風機の稼働音、そして風鈴の繊細な音色による三重奏はさながら店内で流れるBGMのようだ。顎から垂れる汗もそのままに、食い入るような顔つきで資料を読み耽る。
時間にして、五分ほど経っただろうか。大林が羊羹を食べ終えたのと同じタイミングで、落合は資料を膝の上に放った。スラックスの尻ポケットからハンカチを取り出すと、おもむろに額や首筋の汗を拭う。
「やっぱり、葵組は転んでもただでは起きない連中だったか」
大林が提供した資料には、葵組の構成員一人ひとりについて解散後の動向が細かく記録されていた。その多くは、トクミツ建設の従業員として雇われているという落合も周知の事実であったが、興味深いのは幹部クラスの現状だった。
「深水史郎といえば、解散直前まで葵組のナンバーツーだった野郎だな」
「ああ。組長だった時任の右腕的な存在だったが、風の噂じゃ内部対立していたらしいぜ」
「時任と不仲だったのか」
落合の言葉に、禿頭の元暴力団組長は「はっはっ」と可笑しそうに肩を揺する。
「不仲なんて可愛いもんじゃねえ。互いに殺し合いのタイミングを狙っているような間柄さ。深水は、時任を組長の座から蹴落とさんと常に機会を窺っていた。一方で時任は、切れ者ではあるが何かとトラブルメーカーな深水を邪険に思っていた」
「水と油の関係だったわけか」
「これもあくまで噂だがな、野嶋組が葵組に奇襲を掛けたとき、野嶋組に奇襲のタイミングを漏洩した裏切り者がいるとか」
「それが深水だと? 時任を破滅させるために、自らの組を生贄にしたってのか」
「今となっちゃ、すべての真相は藪の中さ」
「その深水が、暴力団の伝を使って闇商売に一役買っている……か」
四年前に葵組が解散して以降、深水は表社会から姿を消してその行方は杳として知れなかった。ところが一年半前に突如として裏社会に復帰し、新たな商売に手を染める。それが地下競売だった。
「深水は葵組時代、海外に独自のルートを持っていて拳銃や麻薬の密輸を行なっていた。葵組のシノギは、深水の商売で成り立っていた部分も大きい。だからこそ、時任も奴を切るにきれなかったのさ」
「んで、今はそのときのルートを利用して海外から宝石や美術品を買い付け、闇のオークションで売り捌いているってわけか」
「情報を寄越した奴によれば、かなり羽振りが良いんだとさ。年一で外車を買い替えて、会う度にブランドが異なる高級腕時計を見せびらかすらしい」
「しかし、そんなことをやってりゃ組対も目を付けないはずがないんだが」
「そこを上手く掻い潜るのが連中だろうよ。一枚上手の奴らってのは、自分が表舞台に立つことは決してない。操り人形となる役者を立て、自分は裏でそいつらを自在に操作する。常に安全地帯に身を潜め、危険な場所には絶対に赴かない」
「地面師の主犯格と同じだな」
土地や物件の所有者に成りすまし、買主から多額の資金を騙し取る詐欺の一種が「地面師」だ。近年は地面師による詐欺事件が増加傾向にあり、全国の警察機関が注意を呼びかけている。
「深水を知る奴の話では、古美術関係の会社を県内で経営しているようだな。だが、詮索するとヘラヘラ笑いながらお茶を濁すらしい。まともな商売をやっていないと、すぐにピンときたんだと」
「その古美術会社を探し当てれば、深水の居場所もわかるかもってことか……んで、ほかに掴んだネタは?」
資料を団扇代わりにして首元を仰ぐ落合。大林はほぼ消えかけた眉を逆八の字に寄せると、
「何を贅沢言ってんだ。お前さんが望んだ情報としては必要十分じゃねえか」
「そっちこそ甘いこと言ってんじゃねえよ。俺があんたに依頼したのは、解体後の葵組の動向に加えて、葵組とトクミツ建設との関係を探るって内容だ。深水の情報だけじゃ大福ひとつ分にしかならねえぞ」
大林は唇を尖らせると、「その中をよく見てみろや」と落合の足元に放っている茶封筒を顎で示した。中身を再度確認してみると、封筒の裏地に張り付くようにして一枚の紙資料が残っていた。
「おめえさんが望むような情報か知らねえが、殺された徳光仁と時任忍の間にはヤクザ以外の接点があったみたいだぜ」
資料をものの一分もしないうちに通読した落合は、小さく舌打ちするとパーマ頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。
「北淮道って地名を聞いたときから、何かが頭の片隅にずっと引っかかっていたんだ。そうだ、そうだったよ。時任忍も佐野と同じ北淮道の生まれなんだ」
調査資料によれば、徳光仁は二十代の頃、佐幌市内の居酒屋で喧嘩騒ぎを起こし傷害罪で逮捕されている。喧嘩の概要は「居酒屋で知人と口論になり、店を出て路上で言い争いを始めた。だが、そこに偶然通りかかった少年が二人の喧嘩を止めようと間に入り、やがて三人の取っ組み合いに発展。徳光は、知人が仲介者である少年に殴りかかろうとしたため反撃の意味で一撃を喰らわせた。その一撃が傷害罪となって徳光は現行犯逮捕された」というものだった。
「まさか、その喧嘩に巻き込まれた少年が当時中学生だった時任忍だったとはな……けど、徳光仁の出生は新都になっているはず。どうして徳光と時任が佐幌市内で会っているんだ?」
「その疑問には簡単に答えられるぜ。傷害事件が起きた当時、徳光が所属していた野嶋組は闇金業に手を出していた。徳光は、集金の一環で北淮道へ出張していたのさ」
「じゃあ、喧嘩した知人ってのは集金相手か」
「ご明察。徳光は通報を受け駆けつけた警官によって現行犯逮捕された。集金相手は全治六週間の怪我だとよ」
「けど、その怪我は徳光が時任少年を庇った末に負わせたものだろう」
「時任がそう証言すれば情状酌量の余地もあったかもな」
「言質を取らなかったのか?」
「いや、どうも徳光が時任に口止めしたらしい。『余計なことは喋るな。俺にやられたと言っておけ』とな」
「どうしてまた」
「徳光なりの気遣いじゃねえのか。中学生なんてまだガキだろうし、そんな奴をヤクザの喧嘩に巻き込むのは流石に罪悪感を覚えたのかもしれねえな」
「マルBが中学生のガキ相手に気遣い、ね」
半信半疑の声で返す落合に、元暴力団組長の男はニヒルな笑みを投げかける。
「世のヤクザ全員が悪人ってのは、低俗なマスメディアが生み出した偏見の塊だ。それはマル暴をやっていたお前が一番よく解っているだろうが」
「そりゃそうだけど、何の理由も見返りもなく他人に優しくできる人間もそうそういないもんだぜ。純粋に親切な人間ってのは、俺らが想像しているほど多くはいない。これはメディアの印象操作なんかじゃなく、刑事としてあらゆる人間を見てきた俺の持論だ」
「他人への親切なんざ、金も才能も必要ねえ、誰にだってできる最も簡単な行いのはずなのにな。どうしてこうも難しいものかね」
「おいおい、らしくないことを言うなよ。神話の世界の神々だって罪を犯すくらいだ、その神が作った人間に百パーセントの善人がいると思うか」
「てめえこそ、神話なんて洒落た話を持ち出すんじゃねえぞ。『俺は昔から無神論者だ』とかほざいていたのはどの口だ」
反論の余地を失い、白旗を上げる代わりに水羊羹を一口頬張った。とろりとした食感とともに、小豆の程よい甘味が口の中に広がる。付属していた商品の説明書きによれば、使用されている小豆は戸勝産のブランド品種。北淮道は全国有数の小豆の産地で、国内で収穫される小豆の実に九割以上を占めている。
「もしこれで、佐野渉と時任が北の大地で知り合っていたなんて展開にでもなれば、とんだ奇跡だぜ」
和柄模様の包み紙を眺めながらぽつりと呟く。生粋の和菓子好きを自称する男は、楊枝の先に付いた水羊羹までしっかり食べ切ってからパーマ男のぼやきに答えた。
「運命の神様ってのは、時に思いもがけない悪戯を仕掛けるもんだ」
「あんたが運命のあれこを語るとはねえ。今回の事件も、悪戯好きの神様が導いた出来事だってのか」
「偶然か必然か、それを調べるのがテメエの仕事だろうが」
楊枝を口の端に咥え、落合は部屋の壁に寄りかかる。
「そのあたりの詳細は道警に問い合わせりゃ判るだろうが……いや、この際だから現地捜査をしてみるか」
「それなら佐幌市内にある和菓子屋で土産を買ってきてくれ。その店舗でしか売られていない限定品があるらしくてな」
落ち窪んだ眼孔の中で両目が輝く。落合は乱れたパーマ頭を掻きながら、「話が早いよ爺さん」と呆れ声を上げた。




