1話 門出
ある日客船が海の真ん中で沈んだ。
その船には女が乗っていた。
女は天に向かって歩いている途中で
肩を叩かれた。
振り返る女に微笑みかけるのは神だった。
───この宇宙に、
世界は1つではなかったらしい。
「君とまったく同じ時間に魂を手放した若い男が別の世界にいた。」
その青年の生きる世界は、人の違いを簡単に受け入れてしまうような優しくて暖かい世界。
神は時間をかけて話した。
彼には恋人がいること、恋人は男であること。
彼の恋人の悲痛な願いをどうしても聞きたくなってしまったこと、
私の魂をどうしても失いたくなかったこと。
その理由を、今は言えないこと。
彼の魂の核はすでに壊れてしまったらしい。
魂の核が壊れるとあとは肉体の死を待つだけ。
神は、私の魂に彼の体で生きろと言っている。
神が口に出している時点で、きっと拒むことなどはなからできないのだろう。
────目を開くとぼやけた天井が映る。
誰に聞かずとも、視界がはっきりしなくとも
分からないわけが無い。
無機質で、消毒の香りが充満する白い空間。
病院だ。
響く機械音に、視界の隅に映る何本ものチューブたち、隔離されてるであろう部屋には大きな窓がある。忙しなく動く影も見える。
、、さては重症だな、と思いかけて留まる。
彼はほとんど死んでいたのだ。
大きな窓に1人の男が立っている。
“目を開いた彼の姿”を目にして、
酷い安堵と後悔、そして見ていられないほどの愛しさを含む表情が見えた。
その目を見た時、分かってしまった。
あぁ、なんて残酷なのだろう。
神でも人の心を知り得ないという事実に、
私は酷く絶望してしまった。
これからも彼はここには生きていないのに
この男はこれからも愛する人の見た目をした
他人を愛することになるかもしれない。
なんて吐き気のする話だろう。
このままこの男にとって彼を、
本当の彼を永遠のものにしてやればいいのに。
これから先、この男はどうなるのだろう。
…逃げ出したくなるな。
目に涙をいっぱいに溜めてこちらを見つめているあの男を、いっその事殴って海でも渡ろうか。…海か。
またあのドス黒い塩水に、
私は触れられるだろうか。
──神は、私に一つだけ特別なものを与えた。
強く、強く念じれば1度だけ目覚めたその瞬間からやり直せる機会を与えられるというもの。
「─!良かった…生きて…また、暖かくて…。」
傍にやってきた男が、彼の手を握って呟く。
その声が空気を震わせ鼓膜に触れる。
私は何故か涙が止まらなかった。
脳内に、この体の記憶が流れ込んだのだ。
実感は無い、長い映画を浴びているようだった。とても生々しい映画を。
彼は愛想が良くて、明るくて、この男が大好きで、素直で素朴な犬のような人だった。
私とは真反対だ。
私は結局自分が女として男を好きだったのか、
男として男が好きだったのか分からないまま
死を迎えた。
無抵抗に、こうして幸せな2人を奪わないためにもっと酷なことをする神の手を取った。
後ろめたい気持ちとは反対に、私は無慈悲なことを考えてしまっていた。
…これで、この男を利用することで、私は自分の心を守らずに真正面から傷つけるのだろうか、と。