嫉妬すら上手にできない不器用な王太子妃さま
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王太子妃の手の中で、バサバサと扇形に広がった紙の束。
それを見つめる彼女の夫は、静かに瞬きをした。それだけで微かに冷風が吹きそうな長いまつ毛をしている。
冷静な夫の前で、ノルウェンナは使命に燃えていた。
なんとしてでも、目の前の男の優秀な遺伝子を数多く世に残さねば、と。そのために複数の女を囲ってもらう。
誤解のないように言っておくと、ノルウェンナは彼を愛し彼に愛されるただひとりの正妻である。
美を司る女神も嫉妬するどころか骨抜きにされるであろう美貌。一を聞いて十手先のことを理解する頭脳。上に立つに相応しい誇り高い品格。性格も穏やかで声を荒げたことはないが、悪いことははっきり悪いと指摘することができる。
そんなフィニアンが王太子になり婚姻したのはノルウェンナ。
よく「常識的な方ですね」と評価される。
一歩抜きん出ることもなく、ひらめきを有せず、勘も鋭くなく、ただただ平凡ですね、という意味だ。
夜も更けようかというころに、ベッドの上に座り何枚もの紙を広げられた。ノルウェンナは特別な夜着の上に羽織をしている。フィニアンはこれから待ち侘びた夫婦の時間を過ごすつもりだったので、思わぬ展開に肩透かしを食らっている。
紙には年若い女性たちの特徴が書かれていた。家系や性格、好物、体型、休日の過ごし方など。
「フィニアンさまのお気に召す女性をお教えください」
要はこの中から側室を選び子作りをしろ、との提案だった。
「きみは私のことが嫌いなのか……?」
普段から隠しきれない好意を表に出しては教育係から窘められるような令嬢だったノルウェンナ。王太子一筋のはずがなぜか新郎に公認の浮気を勧めている。夫として気づかぬうちに下手な言動をしてしまっていただろうか。
「本日誓いましたとおり、愛しております」
式を挙げて数時間の新婚ほやほやの二人である。フィニアンも愛していると公然で彼女に告げた。
「ではなぜそんなことを言い出すんだ」
「だって……」
男女として枕を交わす目的であり副産物がある。
「フィニアンさまの遺伝子と、わたしの遺伝子が混ざってしまうのですよ……? 許せません」
「どういうことだい?」
「フィニアンさまの完全なる遺伝子を、わたしのマイナス要素満載の遺伝子で台無しにしてしまうなんて……罪が深すぎます」
王太子妃教育はノルウェンナの出来が悪く、予定通り進まなかった。結婚までに休日返上で詰めに詰めてなお、ノルウェンナはこなしきれずいくつか簡略されてやっと修了した。と思いきや教師や講師たちから最後の授業に幾度となくため息をつかれながら、では結婚後に引き続きーーと告げられて絶望したものだ。国内外に公表して予定された式をずらすわけにはいかなかっただけで、臣下たちからはあまり信頼されていない。
そんな落第生が、将来に希望と栄光しかない王太子に嫁ぐなど許されざる暴動が起こりそうだ。これまでも反発はあった。
王太子の強い希望で通った婚姻ではあるが。
ノルウェンナの表情で側室の件に至極真面目なのだけは伝わる。
「百歩譲って、フィニアンさまの遺伝子のみで作られたお子をわたしが産むのでしたら、ええそれはもう、十人でも二十人でも喜んで!」
世間はそれをクローンと呼ぶ。人為的には倫理観の問題で成功した試しはないが。
「惜しいことに、男と女の組み合わせでなければ子は生まれません。ですから私よりも優秀な方と成したお子を残したほうが、この国のためなのではないかと……」
結婚までしておいて、なにが「ですから」以降の帰結になるのか、フィニアンの頭脳を持ってしても不可解だった。結婚の契約を交わした以上、ノルウェンナがゆくゆくは王妃となることは覆らない。フィニアンも正妃に子どもを産んでもらうつもりでいる。正妃だけにしか求めたくない。
「きみは決して、マイナスの存在ではないよ」
「もったいないお言葉です……」
夫の優しさに涙すら出そう。
「きみがいてくれることが私の幸せなんだ。苦手なことは私が補おう。だから悲観的にならないでくれ」
どうにも嫁は悲しんでいる様子ではないのだが、夫婦として前向きに関係を進めていきたい。
「フィニアンさまは欠点のない素晴らしいお方ですもの。苦手なことってございますの?」
「そうだね、きみが悲しむ姿を見るのはとても苦しい」
それを聞いて、感極まったノルウェンナは自分の太ももをぺちぺちと叩いた。
「ああっもう満点! 殿方としてこれ以上ない回答ですわ!
ありがとうございます!!」
それなのに、とノルウェンナは悔しげに唇を噛む。
「どうしてフィニアンさまはこんなにも完璧ですのに、単体生殖できませんの……?」
かねてより考えていた心の底からの、純粋な疑問だった。
ひとりだけで生殖ができたらもはや人ではない。
「いや、私も人間の男だから」
「こんなに無欠なのに、フィニアンさまったら人間でしたの?! 神が手違いで地上に降ろしてしまった芸術作品ではなく? ああでも神さまそれでしたらありがとうございます!!」
なんでノルウェンナは驚いているんだ。
人間なのだから飲食は不可欠だわ、あくびもすれば涙も流す。それをこの娘はそばで見てきたはずなのに。
「嫌がるきみを手籠めにはしたくない。だからほんとうに私が生理的に受け付けないとかなら言ってくれ」
結婚までは貞潔に、と大事だいじに接してきた女性だった。よもやいまからキス以上の触れ合いをできぬとは信じたくない。
「そんな。愛してますわ……」
「私も愛している。私は欠点のないように見せてはいるけれども、そうではない」
ノルウェンナは首を振る。フィニアンはその頬に手を添えた。このささやかな触れ合いだけでぽっと目元を染めてうっとり無防備にする姿をかわいいと思う。
「きみは私のためにたくさん努力してくれている。だから私もそれに恥じないように振る舞っているだけなんだ。本当は情けない。幻滅したかい?」
「しません。フィニアンさまの婚約者として選ばれて、結婚まで進められてわたし真実嬉しいです。幸せです」
フィニアンがフッと口元を緩めた。ぎゅっと胸の奥が熱くなる。はぁっと口から熱を逃す。
「わたしは、フィニアンさまの婚約者候補選出の時点でも評価としては最下位だったじゃありませんか。それが、どうして?」
「それはきみが感じた周囲からの印象であって、きみへの正当な評価ではないよ。現にきみはこうして婚約者に選ばれた上で私と正式に婚姻している」
ノルウェンナはフィニアンの婚約者候補として選ばれてはいたが、選定時の面接、いわゆるお見合いの席で二人は顔を合わせることがなかった。どういうことかと言うと昔に遡る。
当時七歳の王子のお見合いのために、数人の令嬢たちが連日王宮へ招ばれていた。
待合室のように整えられた観覧部屋で、大人しく座り壁に飾られた肖像画たちを眺めていたのがノルウェンナ。交流のある各国の主要人物や、はたまた嫁がれた姫たちの絵に非日常を感じてわくわくしていた。
隣の席のご令嬢が背を丸め、うっと口を押さえた。春の空を思わせるうるうるの瞳と柔らかい金髪をした子だった。名前ははじめのうちに教え合っていたが、控えめな彼女はガチガチに固まっていて会話も続かなかったのでそれっきり。慣れない王宮に上がること、家名を背負ってこの場にいる重責を思えば理解できなくもない。深呼吸してほしい。
「ソレナさま、どうかなさいました?」
様子のおかしい少女に話しかけたのがいけなかった。ソレナは身を捻って顔を上げると、口を開こうとして、呻く。
ノルウェンナは体を折る彼女の背をさする。きっと不安に押しつぶされてしまったのだろう。
びちゃ、と固形物と水が混ざったものがノルウェンナのドレスに落ちて染みていく。
少女は緊張のあまり胃の中身を逆流させてしまった。
それでノルウェンナは家の手前それなりに頑張ろうとしていたお見合いを完全に諦める覚悟がついた。汚れたドレスでは王族に見えることなどできない。
ソレナはかわいそうなほど蒼白になっていたがノルウェンナは笑いかける余裕ができていた。左右を見る。
「お口を漱ぐ冷たいお水と、タオルをご用意いただけますか?」
壁際にいたメイドに指示していた。
「ノルウェンナさま、ごめんなさい。わたくし、……ごめんなさい」
ノルウェンナにハンカチで口元を拭かれながら、ソレナは謝罪を繰り返した。
笑い声に目をやると、数人の娘たちが汚らわしいとばかりに距離をとっている。
「うそでしょ、こんな場所で吐くなんて」
「ドレスの上よ。かわいそう」
「王宮が臭くなるわ」
それらは同情のかけらもなく、嘲笑と侮蔑だった。
「他人の体調不良を笑うなんて酷いわ」
表立って瑕疵や難点のある家の娘たちはあらかじめ除外されていたので、この場には高位で育ちの良い者ばかりが集められた。とはいうものの、性格までは深く調査されていなかったらしい。
普段ノルウェンナは気の強い子どもに押されていたと思うが、そばに自身より臆しているソレナがいること、もう彼女らには二度と会うまいとの考えから意見を素直に出すことができた。
「大丈夫ですよ。ソレナさまの服はお綺麗なままです。緊張なさるほど、今日のことを重く受け止めていたのですよね。お腹は楽になりましたか?」
こくこくと頭を上下した。メイドの一人が別室へソレナを連れていく。別なメイドがノルウェンナのドレスをどうにかしようとしてくれたが、時間には間に合わず王族との面会の呼び出しがかかる。
「ノルウェンナ・メタイヤル、本日は辞退いたします」
別室にいた保護者がすぐに駆けつけて、ノルウェンナは帰宅した。
その日のうちにケルマレック侯爵家から娘ソレナの行動への謝罪と訪問の許しを請われ、翌日には親子でやってきた。
「この度は大事なお嬢さまに恥をかかせてしまい、申し開きもありません」
家格の下である伯爵家にも衒いなく頭を下げる彼らは誠実であった。父はまぁまぁ、と穏やかに接する。
「我が家としては問題ありませんので、お気になさらず」
「しかし、ノルウェンナ嬢は殿下にお会いすることもなく……」
「ノルウェンナはどう思う?」
父は当人の意見を求めた。
「わたしが王家に入るなど、とても難しいのはわかってます。だから王子にお会いしてもしなくても、変わらなかったです。中を覗いてはみたかったので王宮へは行きました」
未踏の王宮に入れるのが嬉しいとそれだけで、王子の婚約者の座を射止める気はさらさらなかった。メタイヤルの家にも問題がなかったから王家からの悪意はないと示すために招ばれたのは両親が理解していたことだし。
「なんと謙虚な……」
「お父さま、ノルウェンナさまはお優しい方ですとさっきも言いました」
ソレナは血色の良い顔でノルウェンナの手を痛くなるほど握った。
「あの子たちのいじわるに負けるものか、と胸を張ることができたのは、ノルウェンナさまのおかげなのです。ありがとうございました」
選定期間を終えて、婚約のための通知が届いたのはケルマレック侯爵家。ソレナは決断を渋り、王家に条件を相談した。
それによって、お詫びのドレスのデザインについて話し合いながら意気投合し、それ以降親友となった女子二人は仲良く王宮での時間もプライベートの時間も共に過ごすようになる。
フィニアン殿下は始めから肩の力の抜けたソレナしか知らない。お見合いで同席した令嬢たちは自己主張の強い者たちばかりだったが、ソレナは凛として、質問への受け答えにより生来の聡明さを証明した。
控え室で一度吐いたことでこれ以上の恥はなしと吹っ切れ、庇ってくれたノルウェンナの敵討ちとばかりに奮闘した結果である。
ソレナから王子へ緊張しいであると申告されたが、それも場数を踏めば克服できると見込んだ。だから王子はソレナを婚約者に選ぼうとしたのだが、当のソレナが頑として頷かない。返事の代わりに彼女の口から出たのがノルウェンナという名前だった。
お見合いにきた子どもたちの顔を記憶の中から浚ったが、引っかからない。それもそのはず、彼女は直前に辞退したのだから王子とは面識がないのだ。
ソレナの出した条件は、婚約者「候補」の席をもうひとつ設けること。二人を同等に扱うこと。
婚約者候補の筆頭はソレナなのに、王子と会うときはノルウェンナも毎回必ず同伴した。どこにでも三人で行った。王太子、王太子妃共通授業も三人で受けた。ノルウェンナがそのうちついていけなくなり、追加で個別指導を受けるまでは。
政や国の問題についての議論に食いついてくるのはソレナだった。十三歳にもなって、ノルウェンナは所在無さげに曖昧に同意するばかり。無関心ではない。ただ萎縮しているように見えた。フィニアンとソレナの一歩後ろを心がけているようだった。
王子もソレナもお互いに尊敬を含む友情は育てていた。しかしソレナからははっきりと一線を引いており、フィニアンもどうしてか踏み入る気になれなかった。客観的に優れた美人だと言えるのはソレナだと周囲から突かれもしたが、フィニアンはノルウェンナだって可愛いと思っていた。
「殿下は歩く姿だけでも世界が取れますわ!」
「峻厳な目配せ、臣民は虜でございましょう」
「いまの微笑み、殿下しかできません! とても王子さまらしかったです!」
こんな調子で褒めに褒め、わーっと拍手する。
王子ならばできて当たり前、と傑物の歴代王の幼少期と常に比べられ自信もプライドもぺしゃんこだったフィニアンに絶え間なく手放しの賞賛を送るノルウェンナ。たった一人に認められるだけで、こんなにも心強いとは知らなかった。
隣国のエツィスタン国と交流を深めるため訪問したときに、フィニアンは決断した。
同い年の男子がいるという公爵家に逗留する予定で、当主のティエルンベルとその孫だというギスカード少年と、子ども三人は挨拶を終えた。
かしこまった話をしている横で、ノルウェンナはこっそりギスカードに話しかける。
「私の思い違いでしたらごめんなさい。黒い犬は、こちらにいるのですか?」
「ああ。いますよ。お祖父さま、ノルウェンナ嬢が愛犬のことをお尋ねです」
ティエルンベルと対話していたフィニアンとソレナは揃ってきょとんとした。ここに来るまでも、犬はついぞ見かけなかった。
「犬? どんな犬のことかね」
わかっているくせにお祖父さまはすっとぼけて、と孫の目は冷ややかだ。
「あの、お耳がツンと立っていて、黒い毛の。体の伸びやかな細い子です」
詳細を聞いてティエルンベル公爵は破顔し、声の調子を変えてノルウェンナに向き合う。
「スムーチャーのことをご存知か!」
「いえ、名前までは……。公爵さまの肖像画には隅の方ですが、かっこいい犬がいつも描かれていたものですから、気になっておりました」
あれは雰囲気を出すための飾りの小物のようなものだ、と教師は他国の貴族の名前と顔こそを覚えなさいとノルウェンナを叱った。それで隣国に行くことがあれば聞こうと温めていた質問。まさか本人に直接聞けるとは思っていなかったけれど。
公爵が懐から犬笛を取り出して吹くと、足の長い細身で短毛の黒い犬が舌を垂らしながら部屋に入ってくる。扉には彼が自由に出入りできるように、潜り戸が取り付けられていた。
「人の顔を舐めるのが好きなのだ、気をつけて」
だから”Smoocher”と名付けた、と嬉しそうに紹介してくれる。膝をついたノルウェンナの肩に前足を置いて、熱烈なキスを始めた。
「絵よりも、かわいいです」
少年少女が一匹の犬を取り囲んで撫でたり代わりばんこに抱きしめたりしている。ノルウェンナは楽しくて、公の顔を忘れて締まりのない笑顔を振りまいていた。
「ノルウェンナ嬢はとってもかわいらしいですね」
「……えっ……?」
さらっと褒めた後、舐めるのはそこまでだ、とギスカードはスムーチャーを抱き上げて横に置いた。ノルウェンナはメイドが持ってきてくれた濡れタオルで顔を拭い、赤くなった顔を隠した。
同世代の男の子に真正面から褒められたのは初めてだった。
「お祖父さまは根っからの動物好きなんです。屋敷にはいろんな種類の動物がいますよ」
屋敷の一角を飼育部屋にしているからと見せてくれたのは、一頭の獅子だった。顔を取り巻くふさふさの襟巻き。人間の子どもよりも大きい体をして、立派な爪を備えている。
檻もなく首輪はしているがそれを繋ぐ鎖はない。
くわ、とあくびとともに現れた牙に、幼いフィニアンも後ずさった。ソレナは色を失くして立っているので、彼女を庇う形で。
ギスカードはなんてことないようにライオンに寄り添った。
「ただの大きな猫ですよ」
足の動かないフィニアンとソレナの横を通り過ぎる影があった。その口には彼女の頭が簡単に収まりそうなのに、太ももよりも大きな脚もしているのに。
ところが、獅子も威嚇する様子はない。ちらりと目をやったが、ノルウェンナがたてがみに触れても関心がなさそうだ。
「眠そうなお顔ですね」
「ほとんど一日中寝てるんだ、ハイバネイトは」
「『 冬 眠 』、ですか。ぴったりのお名前ですね」
「ノルウェンナ嬢は怖がらないのですね」
「ギスカードさまは『大きな猫』とおっしゃいました。なら怖いことはありません。わたし、猫も……生き物は大好きなのです。それに、こんなふうに獅子に触れられる機会は二度とないと思って」
もとより危険な生き物であれば綱をつけておくだろうし、隣国の要人には存在を伏せて隔離くらいはする。
「そんなこと。またうちに触りに来てください」
「いいのですか?」
これには家主の公爵が答えた。
「もちろんだ。いつでも歓迎するとも、ノルウェンナ嬢」
ティエルンベル公爵はこの出会いに収穫あり、と紳士の仮面の下でほくそ笑んだ。
ギスカードの婚約者を探すのに手間取っていた。いずれはこの屋敷を引き継ぐため、当然ついてくるペットの動物たちを愛する娘がよいと打診していたが、国内の高位貴族には逃げられた。そんなところに飛んで火にいる夏の虫。フィニアンの婚約者候補と呼ばれてはいたが、明らかにソレナのほうが堂々としている。フィニアンとソレナの将来は決まったもの同然。それならばノルウェンナくらい隣国がもらっていっても構わないだろう。
政治の裏首領と呼ばれていたティエルンベル公爵に気に入られたノルウェンナの功績において、両国の関係は円滑化し盛栄した。
いつも会うときはソレナのおまけのように、ただ邪魔をしたくないとばかりに肩を狭める以外のノルウェンナのことをフィニアンは幼心にも異性としては見られずにいた。幼馴染のひとりで、ちょっとぼんやりした子、くらいにしか。
それが獅子を前にして、自分ができないこと、恐れるものへ少女は喜んで向かっていくところを目の前にして意識に改革が起きる。
王子として期待され教育され、なんでもできると積み上げてきた努力の矜持を軽々と越えられていった気分だった。気取られないようにしていた王子の弱点は動物であったから。
翌年以降、ノルウェンナは単身でエツィスタン国へ遊びにくるようになった。獅子のハイバネイトに会うためだったが、ギスカードはこれみよがしにデートに誘ってくるし、プレゼントも欠かさなかった。
また別のスミューヴ国へ行った際には、首相の息子とハイキングをしていた。休憩中に歓談する首相息子、フィニアン、ソレナの背後に忍び寄る蛇を、会話からあぶれ、よそ見していたノルウェンナが発見し捕まえてみんなを仰天させた。
「見たことある蛇だったので……毒さえ抜けば安全ですよ。薬にもなりますし」
と、自ら毒を抜いて野に放した。
エツィスタン国のティエルンベル公爵の家で蛇とも戯れていたノルウェンナは毒蛇の取り扱いも習っていたのが役に立った。
またそれが偶然を装った暗殺だったりもして、秘密裏に処理されたその全貌を未成年だった少年少女は知らない。
結果首相の息子の命を救ったなどと言われ国交が活発になり、益をもたらした。
そういうことが度々起こった。各国での彼女の立ち居振る舞いは要人やその周囲の人間を外交の相手ではなく、友人として見て人柄に触れるもの。それを気に入る者も多かった。
貢献が認められ、ノルウェンナを持ち上げる家も出てきた。勉強を重ね、なんとか問題ない程度に仕上がった。
人の上に立つのだから、「問題ない」ではなく優れていなくてはならないのだけれど。頑張ってもソレナとの差は埋まった気がしない。
ノルウェンナがエツィスタン国を訪れれば、ティエルンベル公爵も年頃の孫と少女をことあるごとに二人きりにしようとする。ギスカードも紳士だったから側に寄ることを嫌だとは感じなかったけれど、なぜ自分がこんなにも懐に受け入れられているのか、と疑問しかなかった。
「ノルウェンナは、殿下に気後れしているだろう?」
ギスカードはなんでも知っているふうだった。否定できずに俯いてしまう。
「王族入りのための教育は厳しいだろう。嫁入りした後も苦労ばかりだよ。うちは公爵家だし、贅沢もさせてあげられる。姫や王妃より貴婦人としての制限は緩い。ノルウェンナはいますぐにでもうちに嫁に来れる器量だ」
「ギスカード……?」
「僕はきみが好きだ。将来は僕の奥さんに迎えたい」
「わ、わたし……」
ノルウェンナは初めて向けられる男性からの好意に戸惑っていた。
「きみの生国を離れることになるし、すぐには決められないだろう。ご両親とも話し合って。長期の休みにはうちにきてハイバネイトを撫でながら何度でも考えてほしい」
巧みに未来の約束を取り付けながら、ギスカードはノルウェンナに愛を囁く。ハイバネイトの毛並みも魅力的だった。
国家間の問題にもなるので、ノルウェンナは幼馴染のソレナにも当時親友のような関係にあったフィニアンにも正直にギスカードのことを話していた。
ノルウェンナを取られる。
そう痛感したフィニアンは、ソレナに婚約者候補から外れてもらいたい旨を本人に相談した。ノルウェンナが自国に戻ってからというもの、そばにいられる時間を最大限利用し彼女を口説いて口説いて口説き落とした。
もとより神聖視していた王子からの求愛によって、ついには恋に目覚めさせることに成功する。
ソレナはかっこつける王子を扇子の下で笑っていた。目論見が上手くいった、と。
どうして、とフィニアンは自問する。
将来素晴らしい王妃になるのはソレナであろうことは知っていたのに、心がノルウェンナしか認めなかった。
ソレナにこれまでのことを謝った時にフィニアンは言われた。
「よいのです。おそれながら、わたくしも殿下のことを男性としては見られません。高等教育を受けさせていただいたこと、感謝しております」
じわじわ自覚していった。ソレナには信を置いているし、国を動かしていくのに足る人物だと思う。国の一大事があっても、二人で冷静に議論を重ね解決策を導き出すだろう。
だが、そこに熱はない。愛がないのだ。
ならばその役は男の臣下でもよい。
人を突き動かすのは予想もしないなにか、なのだ。例えば愛とか恋とかいう。
フィニアンは絶望のどん底にいても、ノルウェンナがそばにいれば乗り越えられると思った。彼女を守りたいから頑張れる。勉強をできないながらも努力するノルウェンナを見れば己も負けじと奮起した。剣の鍛錬もソレナがお淑やかに手を振る応援でなく、ノルウェンナが大声で『頑張ってー!』と言えば教官から一本取れた。彼女は教育係から淑女らしくないと叱られていたので慰めた。
解決策のない大問題が起きても、何も言わないノルウェンナが手を握ってくれさえいれば、希望を失わずに立ち上がれる。
ノルウェンナは隠し事は下手だった。両思いになってからは、沈着なフィニアンに擦り寄るノルウェンナ、の図として周囲からは見えていた。
隣に立てば耳を赤くし名前を呼べば顔を輝かせ、手を取れば笑みがだらしなくなり、ノルウェンナの恋心はだだ漏れだった。
そんな月日を経て、十八歳となった二人は結婚した。
フィニアンは胡座をかいて苦悩する姿さえ美しく、歪んでいる唇なんてさらに魅力を増している。
ノルウェンナは正座して、令嬢たちの紹介カードを握ったままだ。
「ギスカードに心残りがあるとか?」
「ありません」
茶色の瞳が揺れる。今日の式にも参列してお祝いを告げた男。かつてされた彼からの求婚は正式に断ったし、いまはフィニアンだけだ。
「……私はいまとても不愉快だ」
「えっ。すみません……」
即座に謝った。けれど原因に思い至っていない。
「愛する妻に結婚当日に浮気を勧められるなど、思ってもみなかった」
「王族の娶る側室は法律で認められております。浮気ではないです」
「きみを愛するひとりの男としては怒って当然だと思わないか?」
「ごめんなさい。でも、わたしでは……」
「いいから。
きみから『愛してる』と言ってキスをしてくれ」
ノルウェンナの澄んだ瞳いっぱいにフィニアンが映る。
「愛しております、フィニアンさま」
色づいた唇には真実、想いが込められていた。
「私の妻はきみなんだ。きみが、私の子を産むのでなければならない」
フィニアンはノルウェンナの手から荒々しくカードを引き抜いて、床に投げ捨てた。
途中から息を切らしながらノルウェンナを求めるフィニアンは野生味溢れていた。ノルウェンナは新しいフィニアンに見えたことに気が昂り、痛みを超えた幸福の最中にあった。
これが、わたしだけしか知らないフィニアンさま。
事が終わって、ノルウェンナは目に涙を浮かべる。
「フィニアンさまの乱れたお姿を他の方にお見せするのは嫌です……わたしだけにしてください」
束縛するようなことを言うだなんて、大きな進歩だ。フィニアンは長めに、唇を合わせるだけのキスをする。
「もちろん、私にはきみだけだよ」
ノルウェンナがベッドの上でゴロゴロと左右に転がる。
「ああ〜〜〜!! もうっそんなお顔なさって! 国民の七割がフィニアンさまに魅了されているというのに、頬染めフィニアンさまやら苦悩フィニアンさままで見られては残り三割も惚れてしまいますでしょう?! 」
当然ながら事実とは異なる。ただし彼女の中ではフィニアンの国民支持率十割を突破しつつある模様。
こういう調子で広報インタビューもこなすので、愛嬌のある王太子妃さまだと下々からの好意は厚かった。
「……私が惚れているのはきみだけだよ。ノルウェンナ、じっとして。もう寝なければ。きみには無理をさせたばかりなのだから」
耳にかかる吐息で、落ち着きかけていた体の熱が戻ってきそうになる。
「うっ……あの、決して無理では……。
今夜はどうなるかは、教わっておりましたし……」
初夜本番に取り乱したり粗相がないように、指導があった。だから乗り越えられた。
「本当に? 私は、知らなかった。愛した相手と心身ともに繋がることがこんなにも幸せだなんて、言葉で教えられても理解できなかっただろう」
愛を直接的に教えられて、昇天寸前のノルウェンナ。目が潤む。フィニアンを幸せにできた。それ以上の幸せをもらった。
「はううっ……」
「明日の朝は寝坊しよう。おやすみ、ノルウェンナ」
「はい……おやすみなさいませ、フィニアンさま」
簡単にフィニアンの腕に収まった愛しい妻にキスを送る。
後に国を引き継いだ新国王夫妻は他国らとも良好な関係を結び、優秀な子を育て長く平和な治世を実現した。
ちゃんちゃん(おしまい!)。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
あなたがこれからも良き作品に出会えますように。
蛇足。
ソレナはスミューヴ国の首相の息子に嫁ぎました。
ギスカードはペットたちの世話役の子と結ばれました。
異世界(恋愛)日間ランキング入ってました。
ありがとうございます!
10位(Feb 27th, 2023 確認)
えっじゅ……じゅうい……。
別の連載もランキング入ってまして、みなさんに読んでいただけてるのが嬉しいです、ほんとに…ありがとうございます…!
Feb 26th,2023
誤字報告ありがとうございます!
****
Aug 17th, 2023
小話?です
本編に入れようかとも悩んだのですが分けておきます。
「彼女を口説いて口説いて口説き落とした」あたりにあった出来事とでも思っていただけたら。
****
女同士の幼馴染みでともに王子の婚約者候補として机を並べて成長してきた。足並みが揃わずノルウェンナだけ別室に分けられようとも、顔を合わせれば互いを励まし合う。そんなソレナと王宮で顔を合わせなくなったのはなぜだろう。
心配して手紙を書けば、「体調が悪いわけではない。近々説明する」と返ってきて首を捻った。
休憩時間にも、やってくるのはフィニアンだけ。
「ノルウェンナ、ここにいるのは辛いだろうか?」
思い詰めたように王子がまつ毛を伏せる。くっきりと頬に細い影が落ちた。
「辛いならやめてもいい」
彼は失望したのだ。ノルウェンナの出来が悪いから。勉学についていけずともここまで目をかけてくれたのに。
だから王宮を去れ、と優しく湾曲に伝えてくれる。
ついにこの時が来てしまった。
「わたしを排するのですか」
頭ではわかりました、と言うつもりだったのに胸のうちでは別のことを考えていた。
「違うよ。私がきみを諦めるという話だ」
王子がどうノルウェンナを諦めなければならないのか、全く想像がつかなかった。彼が一言「出ていけ」と言えばいやでも逆らえるわけがなく、反対に「王宮にいるように」と命じるならば、出て行こうとしても周りの人間が押さえつけてでも留めるだろう。王族貴族間ではそれがまかり通る。
表情からはまるで、欲しいものを惜しんでいる様子だ。
「わかりません」
「ひとりの女性として、ノルウェンナを見ている。私の心はきみのものだ」
薄い唇が信じがたい言葉を落としていく。
「好きだから……。
きみが苦しいと思うことに縛りつけておきたくない」
「こっちに逃げておいで、楽をさせてあげる」
というギスカード。
「ここにいなくてもいい、自由になって」
というフィニアン。
二つの選択を同時に叶えることは全く同じ道を辿ることになる。王宮を出てエツィスタン国へ行くという、真っ直ぐ引かれた一本道だ。ところがノルウェンナはそれを矛盾だと感じた。心がそれに逆らいたいと願っている。
エツィスタン国へ行けば、それなりに楽しくやっていける。けれど、ずっとフィニアンとソレナのことを反芻するだろう。一緒に勉強して、他国へ遊学して、励まし合った一つひとつの思い出を常に脳裏に思い描いては、ギスカードの隣で後ろめたいものを増やしていく。
フィニアンのそばにいられなくなる。将来が見えず暗闇に沈められる思いがした。王子という立場であれば「好き」という言葉はおいそれと使えない、重い意味を持つ。ノルウェンナは恋もよくわからず、軽率に返してはいけないと感じた。
それでも、大切にしてくれるであろうギスカードに嫁ぐことは、なんだか正しくない。ノルウェンナの幸せではないということだ。いまここで決めろというのなら、答えを出そう。
「わたしを、……どうか諦めないでください、殿下」
「無理をしなくていいよ。私の婚約者候補だからといっても、ギスカードが好きならそう言ってくれていい」
「本心です。わたしは、エツィスタンに行けば後悔します」
「ギスカードに恋をしているのではないのかい?」
「恋をしていたら、もっと話は簡単でした」
辛いかと問われたときに二つ返事でさようならを告げている。
友情ではないものを求めて、フィニアンは手のひらを上にして差し出す。間を開けず、ノルウェンナのほうから手を重ねた。
「きみを選んでいいんだね?」
この期に及んで選択肢をくれる彼に、ノルウェンナは頷いた。
「……ありがとう。ノルウェンナ。きみがいるから、私は『王子』をやっていける」
「殿下は、生まれながらにして王子さまでございましょう」
「きみが私を王子にしてくれたんだ」
この会話の前にソレナがとっくに婚約者候補から外れていたと知るのは、遊びに来た本人から聞かされた数ヶ月後のこと。ノルウェンナまでいなくなっていたら、彼はひとりで生きていくつもりだったのか。はじめから、ノルウェンナしか好きじゃなかった、とでもいうように。
この日からフィニアンは毎日ノルウェンナを抱きしめることを習慣にした。それから「好きだよ」と気持ちを伝えることも忘れずにいる。
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感想でいただいたご意見が嬉しくて、時間はかかりましたがフィニアンががんばるターン書きました。
とはいえ、口説く前の段階ですね。
フィニアンはどうやってノルウェンナを口説くのかな、と考えたところ、のちのち「きみが悲しむ姿をみるのはとても苦しい」と言っていることですし、ギスカードに幸せにしてもらう彼女を送り出そうとするのじゃないかな、と思いました。
よく言う、「欲しがるのが恋、手放すのが愛」のように。
予想されたものとは違うかもしれませんが、これが私なりに考えた「フィニアンのノルウェンナへの口説き方」です。
あともういちゃいちゃベッドインは本編でやっちゃってますし……。
とにもかくにもありがとうございました!
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