一、美根我、東奔西走する。
一、美根我、東奔西走する。
N国は、数年間に渡る“黄平洋戦争”により、敗色濃厚となって居た。しかし、情報統制により、国内に、伝わる事は無かった。
けれども、時の流れは、関係無く新年を迎えた。
靄島物産館勤務の美根我家の家主美根我富士雄にも、予備動員の召集令状が、届いた。しかも、翌日には、入隊なので、細やかながら、出征の壮行と半年後の一人娘“富士枝”の誕生日を兼ねて、急遽開く運びとなった。
美根我は、手短に、同僚との別れの挨拶を済ませるなり、表通りへ出た。今生の別れになるかも知れないので、富士枝には、寂しい思いをさせない為にも、自分の身代わりになるような人形でも贈ろうかと考えたからだ。しかし、玩具の類いの物を売っている店は、残って居ないので、雑貨屋を手当たり次第に、入った。だが、この御時世、こけし人形のような民芸品だけしか置いて無かった。そして、西端の雑貨屋の前で、立ち止まり、「ここで無かったら、諦めるしかないですね…」と、悲観的になった。娘に、誕生日の人形を用意してやれない自分の無力さが、情けないからだ。少しして、入店した。
その直後、縮れ毛で、にきび顔の男性が、出迎えた。そして、「何か御用ですか?」と、問うた。
美根我は、面食らった表情で、固まった。不意を突かれたからだ。
「あのう、大丈夫ですか?」と、にきび顔の男が、尋ねた。
間も無く、美根我は、我に返り、「え、ええ…」と、頷いた。そして、「こ、ここは、雑貨屋ですよね?」と、おどおどしながら、問い掛けた。
「表向きは、ですけどね」と、にきび顔の男が、含みの有る返事をした。
「表向き?」と、美根我は、訝しがった。妙に、引っ掛かる物言いだからだ。
「憲兵さんも、たまに来ますから、大丈夫ですよ」と、にきび顔の男が、背を向けるなり、奥へ歩き始めた。
美根我も、半信半疑で、付いて行った。求めている物とかけ離れているような気がするからだ。
しばらくして、二人は、裏庭へ出た。そして、離れ屋へ辿り着いた。
にきび顔の男が、引き戸を開けるなり、中へ入った。
少し後れて、美根我も、続いた。次の瞬間、「おおーっ!」と、感嘆した。びっしりと、人形が、置かれて居るからだ。
「どうですか? 夜のお供にでも…」と、にきび顔の男が、戸口のセルロイド製の等身大の人形を勧めて来た。
「わ、私は、娘の誕生日にと…」と、美根我は、困惑しながらも、用件を口にした。人形に、興味は無いからだ。
「おいくつの娘さんですか?」と、にきび顔の男が、元なりした表情で、なげやりに尋ねた。
「六つですね」と美根我は、回答した。そして、「どうやら、ここにも、娘に相応しい人形は、在りませんね…」と、溜め息を吐いた。女の子が持ち回るのには、不適切な物ばかりだからだ。
「今日じゃないと駄目ですか?」と、にきび顔の男が、神妙な態度で、尋ねた。
「ええ…」と、美根我は、小さく頷いた。そして、事情を説明し始めた。
しばらくして、「この御時世でなければ、娘さんに相応しい人形を作って差し上げられましたのに…」と、にきび顔の男も、悔しがった。
「娘に、こけし人形でも買って、帰ります…」と、美根我は、告げた。民芸品でも、無いよりはマシだからだ。
「ちょっと、待って下さい!」と、にきび顔の男が、呼び止めた。そして、「人形は有りませんが、ぬいぐるみで構わなければ、御用意出来ますよ」と、提言した。
その刹那、「構いませんよ!」と、美根我は、二つ返事をした。この際、何でも構わないからだ。
「ちょっと、待ってて下さいよ」と、にきび顔の男が、セルロイド製の人形を押し退けて、裏側を探し始めた。
美根我は、その様を見詰めた。
しばらくして、「在ったどーっ!」と、にきび顔の男が、歓喜の声を発しながら、紐の様な物を引っ張り出した。程無くして、それを突き出すなり、「これなんですがね?」と、蛸顔に、兎の耳と胴体を付けたぬいぐるみを差し出した。
「これは、兎ですか? 蛸ですか?」と、美根我は、ドン引きしながら、質問した。兎なのか、蛸なのか、訳が判らないからだ。
「兎じゃないでしょうか? 戦前に、輸入した物ですので…」と、にきび顔の男は、言葉を濁した。
「まあ、娘には、兎として、贈りましょう」と、美根我は、受け取った。不本意だが、無いよりはマシだからだ。そして、「お代は?」と、問うた。
「出征される方からは、頂けません。早く、誕生日会の準備をして下さい」と、にきび顔の男が、促した。
「じゃあ、御言葉に甘えさせて頂きますね」と、美根我は、聞き入れるなり、踵を返した。そして、足早に、立ち去るのだった。