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小説「氷点下0」

作者: 有原悠二

 高校の同級生だったSから電話が掛って来るたびに、私はいつも激しい緊張に襲われた。はっきりと見える、氷のような緊張だった。

 その頃の私は、阿呆の代表みたいな人間だった。陳腐な幸福論と下劣な虚無主義、まるで眠り姫さながら半開きの目で堕落に生きていた。いささかオーバーかも知れないが、私は自分を持っていなかった。アイデンティティの欠如というよりは、ただ単に何事も全てが蚊帳の外であった。やる気も根気も熱意も好意も、何も無かった。ぼんやり空を眺めては虚しい時間が流れていった。勿論、不良でも優等生でもなく、路傍の石さながら苔のように毎日を過ごしていた。

 ただ私は、みんなも同じだと信じて疑わなかった。

「はい、では次のページを読んで下さい。えーっと君、えー窓際の前から三番目の」

 今でも覚えているこの先生の一言で、私は初めて自分が名前すらも覚えられていない人間だということを自覚した。とても衝撃的だった。そしてとても悲しかった。悲しいことがこんなにも辛く痛いなんて知らなかった。心が溶けて、ぐにゃりと水に溶解していった。

 みんなと自分は同じ世界を共有してはいなかったのだと考えると、絶望的になった。そして怒りと憎悪が沸き上がり、恐ろしくなった。薄い氷が、私の水面に凝固していった。

「僕さ、今度引っ越して一人暮らしするんだ。もしよかったら、遊びに来ないか」

 私は友達がいなかった。親の反対を押し切って学校近くのアパートに引っ越したのはそれだけではなかったが、なぜか家族といると、私は壊れる気がした。氷は衝撃より熱に弱くできていた。

「お前、酒飲んだことあるか?」

 私は友達ができた。それがSだった。Sは私とは違う、不具な人間では無かった。自分をしっかりと持っていた。いつも輪の中心にいた。私は自分の部屋が都合のいい溜まり場になろうが、それでも嬉しかった。僅かな場所でも、蚊帳の中は安心感があった。

私の部屋にはいつも数人のクラスメイトが集まり、酒を飲んだり煙草を吸ったり、まがりなりにも、私はそれを喜んだ。けっして寂しくは無かったはずだが、時として私はみんなの輪に入れず、深い孤独感を覚えた。かりそめの友達、嘘つきな自分、私は、私の幼い精神と心の冷たさが悲しかった。

 ある夜、私は左の耳に、小さなピアスを開けた。

「悪いけど、暫くそっちには帰らないから。うん、別になんともないよ。じゃあ」

 古い親の事もあって、穴の開いた自分を見せるのはなんとも悪いことのように思えた。今更だが、そのどちらもがいけなかった。

 わずかに入ったひびなんて、すぐに修復できると思っていた。私は塞ごうとしてはその上に薄く氷を張り、また塞ごうとしてはそれを繰り返した。未成熟な私には、修復と偽造の区別が分らなかった。たとえもし分かったとしても、同じ事だったと思う。

いつの間にか、私の心にはいびつな音でざわめく分厚い氷陸がきしんでいた。もはや生物の住める土地では無かった。

「卒業しても、また絶対集ろうぜ。連絡しろよな」

 Sの少し泣きそうな言葉に対し、私は笑顔でうなずいた。その裏では、冷たい風が吹いていた。氷点下の土地が、ほんの少しだけ湿った気がした。

 卒業は私にとって一筋の希望だった。上京し、新しい環境を早く作りたかった。そうすれば全てがうまくいくと思っていた。もう会いたくない人とは会わなくてすむ。もう会いたい人とも会わなくてすむ。誰も自分の事を知らない豊かな処女林。開拓すれば自然に氷も解けるだろう、そうしたら今度こそ、本物の、友達のSと会うことだってできるはずだと。――ああ、私はなんて阿呆なんだろう。

「おい、電話なってるぞ。出なくていいんか?」

 何年経っても同じだった。本当に今更だが、今あの頃に戻れるなら。いや、きっと何も変わらないだろう。溶かす事もできず、砕く事もできず、そして忘れる事もできない。死ぬまで無かった事にはできないのだ。

 私の心には、不毛の大地が地下で眠っている。

「ねぇ、電話なってるよ。出なくていいの?」

 分かっている。電話に出れば、少しはこの氷が解けることを。私は分かっている。電話に出ればまた繰り返すことも。私は自分の幼い精神と冷たい心が悲しいのだ。

 携帯を握っている手の平が、ギシギシときしむ様に震えている。ああ、これは氷の音なんだ。私の心は今も凍っている。氷点下0だ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 抽象的な心の有り様を、感触として物質化させて表現しているところが、素晴らしいと思いました。 好きな作品です。 [一言] 話の筋はよくわからない(ないしは、わかりたくない)が、感覚的にはよく…
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