塔伐-1
塔の根本には、歪な穴が空いている。差し込む陽光すら飲み込む深い闇が穴の向こうで渦巻いて、その奥の景色を塗り潰している。漆黒の穴――あれが塔の入り口。あそこに飛び込めば、自壊は止まる。
入り口まで残り十メートルをきったとき、猛然と走っていた竜秋は突然なにかに足をとられ、見事に転倒した。口に黒砂が入る。とっさに受け身を取ったが、足首になにか細いものが絡まっていて、動かせない。
なんだ、これ――糸……!?
「無謀なマネはやめてください、巽くん」
背後から、少しだけ焦ったような怒ったような、伊都の声が近づいてくる。彼女が指先から伸ばした白い糸が、竜秋の足首を見事に絡め取っていた。
あんな細い糸一本で、俺は転ばされたのか……!?
「死ぬつもりですか?」
「違う、ただ塔伐者共がくる時間を稼ごうと……」
「一度人間を飲み込んだ塔は、確かに自壊を中断します。しかしその人間が塔を攻略するか――もしくは中で全滅するまで、入り口も閉ざしてしまうんですよ。授業で習ったはずでしょう?」
「んなこと言ってる場合かよ!? 見ろよこれ、今にぶっ壊れるかもしれねえんだぞ! 誰かがやんなきゃ、人が大勢死ぬだろ!」
確かに竜秋は、冷静ではなかった。唯一あの場で考えられたのは、この壊れかけの塔に今すぐ誰かが飛び込まなければ手遅れになるということだけで。
「事故でピンの抜けた手榴弾に覆いかぶさるような殉職のしかただけは、お願いだからやめてください。とっさに体が動く人ほど、そんなもったいない死に方をするんです」
笑っていない伊都の顔を初めて見るからか、かなりの迫力があった。思わず口を閉じた竜秋のもとへ、遅れて級友たちが駆けつける。
「おぉいたっつん!! お前バカ、マジほんとバカ!! なに考えてんだよこの……ッ、バカッ!!!」
半泣きで飛びかかってきた爽司を皮切に、全員から「バカ」の乱射撃を浴びる。「なに入ってきてんだお前ら、ここ立入禁止だぞ!」と怒鳴ったら、四方八方から頭のおかしいやつを見るような目を向けられた。
「皆さん、時間がないので静粛に。これから私が言うことをよく聞いてください」
ピリついた眼差しで全員を見渡して一瞬で静寂をつくると、その口元に優しい微笑を浮かべて、伊都は言った。
「私は今から、この塔の単独攻略に挑みます。皆さんの校外学習はこれで終了。申し訳ありませんが、帰りは皆さんだけで。佐倉先生によろしくお伝えください」
一人残らず絶句したものだから、塔のヒビが広がる壮絶な音だけが、この世の終わりみたいに響いていた。
「ひ……一人で!? 無茶ですよ、いくら先輩でも!」
「たかが階級80程度の塔なんて、今まで何度も攻略してきました。一人でも問題ありませんよ。それに、巽君の言うとおりです。今にもこの塔は崩壊するかもしれない。他に戦える人間を待っている暇はありません」
淡々と事実を述べるような伊都の美貌が、一瞬吹けば消えてしまいそうなほど儚く薄れて見えた。
――校長は、稀に外見と全く釣り合わない危険度の塔があると、入学説明会で言っていた。
これが、そうなんじゃないのか? だって、こんな無茶苦茶な塔なんて、聞いたことがない。
もしそうなら、そんなところに一人で飛び込んだら、伊都は――
「俺も――」「私も――」
竜秋と沙珱が、同時に声を張り上げた。
「連れて行ってくれ」
「お願いします」
爛々と光る、燃えるような二人の瞳を交互に見て、伊都は半分予期していたように苦笑した。
「無理です、階級の足りないあなたたちには許可が降りません。重大な校則違反ですよ。ただでさえ佐倉先生に禁止されているんだし。この禁をやぶれば、まず退学は免れません」
「うるせえッ!!!」獅子の咆哮のような怒声だった。気迫を漲らせる竜秋の瞳が、小刻みに揺れて潤む。
苦労してようやく入学できた学園。これほど充実した三ヶ月は記憶にない。これからも、学びたい。最高の塔伐者になって卒業するまで、学びたいに決まってる。
でも――
「ここであんたを一人、みすみす行かせるような腰抜けなら、これ以上あそこで学ぶ価値なんざねぇッ!!!」
行かせたくない。ただ、一人で行かせたくないだけだった。悪い予感がするのだ。とてつもなく悪い予感。二度と会えなくなるという、予感よりももっと、確信に近い直感。塔が悲鳴を上げる。ミシミシ、メキメキと、大木が爆ぜるように。
「わがままはやめてください。あなたたちに勝手なことをされたら、監督係の私の責任問題になるんです」
埒が明かないと思ったのか、伊都は説得の方向性を変えてきた。ぐっと舌鋒を封じられた竜秋と沙珱の背を、背後から伸びてきた手がそっと支えた。
「先輩の立場も、僕らと変わらないんじゃないですか」
幸永だった。同時に振り返った竜秋と沙珱の顔を、やや強張った笑顔で交互に見てから伊都へ向き直る。
「僕らだって塔の基本事項は学んできています。塔攻略班の人数は必ず三人以上って決まってる。ですよね? 先輩がやろうとしてる単独攻略は、階級無視と同じかそれ以上の規則違反だ。ただでさえこんなヤバそうな塔に、一人でなんて行かせられない。ただ指をくわえて帰りを待っているなんて、できるはずがない。僕らも連れて行ってください」
幸永がここまで熱を持って誰かに反抗するのは、三ヶ月の付き合いでも初めてのことだった。彼は良く言えば優しく、悪く言えば甘すぎる男だと思っていた。何も否定せず、自分の意見は簡単に曲げて、いつも周囲を立ててまとめ役に徹するような彼の、初めて肉声を聞いた気がした。
「この場にいる全員、単独で塔に挑める人間がいない時点で、立場は対等でしょう。規則を犯して先輩が行くというなら、あなたに僕らを止める権限はありません。佐門幸永、巽竜秋、白夜沙珱三名、あなたに同行します」
何も言わない伊都に、「ちょっと待つだよ」と新たな声が割って入る。
「四名だよ。相宮閃も追加で頼むだ」
「桃春恋もね」
「早川飛遊もよろしく!」
「みんなズルい! ウチも行くー! はいはーいっ、大俵小町です!」
「天堂一査、志願します」
「えっ、えっと……お役に立てるか分かりませんが、私も……い、行きたいですっ! 増井ひばり、よろしくおねがいしますっ!」
続々と名乗りを上げて、級友たちが竜秋の左右に進み出る。唯一出遅れた爽司が、「ま、マジ……?」と狂人を見るような目で彼らを見回す。
「皆さん……気は確かですか」
「いや……正直この展開は予想外だったが」
白黒させていた目を伏せて、竜秋は苦笑した。
「そりゃそうか。俺たち全員、このガッコーに来た目的はたった一つだ。こんな大チャンス目の前におっ建てられて、日和るヤツなんざウチにはいねえか」
ちょうど稲妻のように亀裂を走らせた巨塔を見上げて、口角を上げる。
「つーわけで、全員参加希望だ。連れてけよ、隊長。足手まといになるようなら、いつでも捨て置いてもらって構わねえから」




