死屍累々-3
まだ負けていないと、涙声でうわ言のように繰り返す彼の心は、もう折れてしまっている。
「はァァァ?」
馬城の足が、ガン、と竜秋の頭を踏みしめた。鼻骨の折れる音がした。竜秋はもう、呻き声も上げなかった。ただ静かに泣きながら、まだ、まだ、と鼻声で繰り返す。
沙珱の胸に、鋭い痛みが走った。何かが崩れるような痛みだ。
『あなたのことが、少しだけ羨ましい』
あぁ、なんて、失礼なことを言ったのだろう。私は、あなたの、強い心が羨ましかった。
無能力者でありながら、決して折れないあなたのことを、もしかしたら、超人かなにかだと、勘違いしていたのかもしれない。
あなたにも、弱さがあったのか。折れてしまう脆さがあったのか。それを微塵も感じさせななかったのは、あなたが――
『戦わなきゃ、生きてる意味がねぇ』
ずっと、弱い自分と、戦い続けていたからなんだ。
「――ぅ……ぅぅぅぅゔ……っ!」
身を切るような痛みに抗って、沙珱は、一歩足を前に踏み出した。それだけで氷水に全身を浸けたみたいに、ガタガタ体が震えだす。
「お? あいつ、やる気みたいだぜ」
「念には念だ、なんかやる前にトドメ刺してくる」と言って、両腕を硬質のブレードに変形させる能力者の少年が、沙珱を殺しに駆け出す。
「気をつけてー刃平、そいつの異能、やばいらしいよー」
残念、異能なんて使えない。今こうしているだけでも奇跡なくらい、心臓が悲鳴を上げている。沙珱の体の周りに、黒いスライムのような、冷たい、ドロリとしたものが現れて、押し寄せてくる。
幸せだった日常。突然家にやってきた反逆者。切り刻まれる父と母。沙珱に半身を奪われ、血に浸したような体で泣く姉。全ての記憶が、今起こった事実みたいに、鮮明に全身を舐め回す。
考えるな。戦え。彼のように、彼女たちのように。たとえ異能が使えなくても、アイツの足に齧りつくくらいできるはずだ。
キッ、と顔を上げて正面を睨んだ沙珱の目の前に、血まみれの姉の首が浮かんでいた。
呼吸が止まる。血が凍る。宿りかけていた一握りの力が、塵のように吹き散る。
事切れる姉の、黒い目の焦点がズレる寸前の、最期の顔――あれは、どうだった。あの目は、私を、呪ってはいなかったか。
冷気が足元から這い登って、沙珱を後ろから抱きしめる。寒くて、震えが止まらない。息ができない。あぁ、怖い……怖い、怖い――
『――ぜってぇー負けねぇ』
姉の顔に変わって笑いかけたのは、こちらに向けてまっすぐ人差し指を向ける、偉そうな銀髪の少年だった。
冷気の霧が切り払われて、指先に、足腰に、心に――炎のような力が漲った。
「――ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああッ!!!」
硬い殻を破るように、内側から、白い閃光が爆発した。
悲鳴を轟音が飲み込む。形容するならばそれは、逆巻く"白い闇"。すべてを飲み込む、黒よりも暗い白。
黒髪が、鳥がついばむみたいに、部分的に白く染まっていく。涙を流れるままにして、見開いた双眸、その右目だけに、チカチカと深紅の鬼火が灯る。
そうだ。こんな私に、竜秋は、まるで好敵手に向けるような顔で言ってくれたではないか。絶対に負けない、と。
そこまで言われて、今まで、なんて情けない姿を見せたことか。
「……――【憑鬼】ッ!!!」
手を伸ばした先に顕現した漆黒の鎌を掴んで、くるくると目まぐるしく回し、後ろ手に構えた沙珱の姿が、ついに本領を取り戻した。隙間なく染まった白い髪、紅血の瞳――力の代償、全身を駆け巡る痛みすら、今の沙珱には祝福に思えた。
「うおっ、変身した……!?」
「刃平、いったん退いて!」
竹組の少女が顔色を変えて指示するも、刃腕の少年は既に沙珱の間合いを侵していた。腕の長さ分しかないブレードと沙珱の鎌では、リーチは雲泥の差。なまじ後退するより突進するのが吉と踏んだか、あるいは棒立ちの沙珱を、仕留めるなら今のうちだと打算したか。少年は腕のブレードを一層鋭く尖らせて、一直線に距離を詰めた。
「殺った」
未だ小刻みに震える沙珱へ肉薄し、首筋めがけて刃を振るった少年は、勝ちを確信した顔のまま――鉄の硬度を誇る腕ごと、顔面を鬼ノ鎌に両断された。
「……ぇ……?」
悲鳴すら許さず、少年の体を黒い辻風が縦横無尽に通過する。鮮血を撒き散らして崩れた肉体が、間もなく光の粒子へ帰した。
血を浴びた白鬼の悍ましさと凄艶さに、戦慄が駆け抜ける。
「か……囲めっ!!!」
「全員でかかるぞ! 力彦! そんなやつ早く片付けて、こっち来い!!」
誰かの声に、沙底冷えするほど赤い目が、ギロリと反応した。ひっ、と声の主の顔が蒼白になる。
やらせない。
絶叫して駆け出した沙珱の体は、この場の誰をも置き去りにする速度で閃いた。包囲網が半ばも完成しない内にその一端に飛び込み、鎌の柄頭を握ってぐるりと振り回す。
黒い真円を描いた鎌が、逃げ遅れた三人を瞬く間に両断。巻き上がる血の雨を浴びて、鬼は獰猛に荒い息を吐く。
「ば、化け物があああッ!」
統率も何も一瞬で吹き飛ばされて、残った二十余名の行動は半分に分かれた。恐怖に呑まれて腰を抜かす者、逃げ出す者が七、八名。残りは異能を剥き出しにして、波状的に飛びかかってくる。
こんな私に「負けない」と言ってくれた、竜秋の期待に応えたい。命を賭して繋いでくれた、彼女たちの気持ちに報いたい。
桜組と一緒に、戦いたい。だから――
ごめん、お姉ちゃん。いくね。
「――あああああああアァァッ!!!」
第一波を飛び越え、空中で力いっぱい振り抜いた鎌が、手近の数人をまとめてぶった斬った。




