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屋根裏の小ネズミ



 銀狼がとびかかってきて、あたしをふみつけた爪が、ほほとかたを切りさいた。


「あつい……」


 じんじんとして、ぼーっとあったかい傷に、ぬるぬるとよだれにぬれた牙が近づいてくる。銀狼はいっぴきしかいない。でもすぐにたくさんあつまってくる。たぶんこのまま食べられて終わりだ。


「……どっちが」


 空が明るくなると見つかってしまう。だから夜のうちに村を出た。

 魔獣におそわれることなんて考えなかった。あのまま連れて行かれたら、あたしもお姉ちゃんみたいに死んでしまうのはわかっていたから。


「どっちが、よかったのかな……」


 連れて行かれたお姉ちゃんは、最初はうれしそうに笑っていたのに、次に会ったときは泣いていた……ううん、ちがう。生きているのに、死んでるみたいな顔をしていた。町の人のようなきれいな服を着て、さらさらの髪におおきな花のかざりをつけているのに、お姉ちゃんは死んでいた。

 だから父さんに「ヨンナ」と、花みつをなめるみたいな声で呼ばれたとき、次はあたしなんだってすぐわかった。お湯で体を洗われて、お姉ちゃんとおなじように花のかざりときれいな服をわたされて、「よかったね」ってばあちゃんに頭をなでられたとき、あたしはお姉ちゃんみたいになりたくないって思った。

 だから逃げた。


「……いたい」


 血のながれる手に銀狼がかみついていた。そのまま引きずられて、いやだと思った。

 お姉ちゃんみたいになりたくない。

 でも銀狼に食べられて死ぬのもいや。

 右手にあたった石をつかんで投げた。

 ギャン、と銀狼がほえて、左手をおとした。

 でもすぐにくわえなおそうとする。せっかく見つけたえさをのがしたくないのだろう。

 もう一回石を投げて、立てなかったから草むらをはった。


「あうっ」


 こんどは背中に銀狼がのしかかってくる。

 爪が服布をつらぬいて肉にささった。


「やだ――!」


 ハッ、ハッ、と息づかいがせまって。

 頭をかじられる、と目をつむった。

 でも牙はおそってこなくて、かわりに「おらー!」ってへんな声が聞こえた。


「生きてるよな? 間に合ったよな!?」


 耳のそばで大きな声がして、銀狼の重みがなくなって、熊みたいな大きくてあったかい手にだきあげられた。


「……っ」

「ひでー怪我だ。ちょっと待ってろ」


 黄色と紺の布をひたいに巻いた冒険者は、ポケットからとりだした細いびんをさかさにして、銀狼に食われたあたしの手になかみをかけた。


「……れんきん、やく」


 とてもあつくてじんじんとしていた手が、ひんやりときもちよくなった。それでわかったのだ、あたしはお姉ちゃんみたいにならないし、銀狼にも食べられないですんだんだって。

 ひんやりする体に大きな人のぽかぽかした体が気持ちいい。安心したとたんにねむくなって、目をあけていられなくなった。

 だからあたしは、助けてくれた冒険者があせって叫んだのにも気づかなかった。


   +++


「やべーっ、しくじった!!」


 緊急事態だと箱馬車を飛び出していったシュウが、血だらけの子どもを抱えて駆け込んできた。しかも「何とかしてくれ」と絶叫しながらである。まずは子どもの手当てをさせろとコウメイがなだめ、アキラは薬草の鞄をたぐり寄せた。

 毛布を畳んで子どもを寝かせたシュウは、何を失敗したのか説明しようとしてアキラに遮られた。


「傷の状態を確かめもせず、錬金薬を使ったな?」

「う、ごめんっ。銀狼に食われてて、間に合わねーかもって慌ててたんだよ。だから……どーにかなんねーか?」


 子どもは全身傷だらけだった。衣服は爪や牙で破られ、その下の体にも無数の傷がある。一番酷いのは左手だ。銀狼が食っていたというだけあって、治療薬で傷を癒やした手には、薬指と小指がない。

 痩せてはいるが子どもは健康体だ。失血量は多いが、回復薬で間に合うだろう。問題は傷と欠損した指だ。


「他の傷の治療をしているから、シュウはこの子の指を探してこい」

「わかった!」


 指さえ回収できれば、つなぐ方法はある。アキラの言葉を聞き、シュウは再び夜の草原に向け駆け出した。


「コウメイは」

「湯はもう沸かしはじめてるぜ。それとこの子の着替えだが、アキのシャツから探していいか?」


「頼む」と返し、アキラは肌に張り付く子どもの衣服を丁寧に剥がしていった。

 着衣は平民層では上等な部類のものだった。リボンやレースで飾られており、裕福な家の子だとわかる。少し痩せ気味ではあるが健康体だ。血の汚れを拭き、傷をあらためた。少女の体にあるのは銀狼による傷だけだ。かなり執拗に食いつかれたのだろう、牙による傷は深い。

 アキラは解毒に必要な薬草を選び出し、その場で錬金薬を調合してゆく。


「コウメイ、味見」


 差し出された一匙分をペロリと舐めて、コウメイは眉をひそめた。


「蜂蜜と、レギルをちょっと足せば、まあこの子でも大丈夫かな」

「半分は塗布用だ」

「了解」


 錬金薬の半分を鍋に移し、コウメイが手早く味を調えてゆく。

 アキラは残る解毒錬金薬で傷を洗い清めた。


「女の子か。頬の傷、治るよな?」

「そっちは大丈夫だ……指は、難しいだろうな」


 シュウの嗅覚に望みを託したが、おそらく発見できるのはわずかな肉片だけだろう。それだけでは指の再生は無理だ。欠けたまま傷が癒えてしまった手を撫でて、アキラは小さく息を吐く。指二本の欠損が少女の将来にどれだけ影響するのか、想像するのは難しい。


「味の調整、終わったぜ」


 コウメイが味を監修した解毒錬金薬を、少しずつ少女の口に注ぎ込む。

 外傷はすでに錬金薬で治療済みだ。解毒に続けて回復薬も飲ませたかったが、少女を無理に起こすのは躊躇われた。


「呼吸はしっかりしてるし、頭を打った様子もねぇ。疲れ切って寝てるだけじゃねぇか?」

「たぶんな。それにしても……こんな深夜に、どうして子どもが一人で荒野にいたんだ?」


 少女の足に靴はなかった。銀狼から逃げる途中で失ったのではなく、最初から履いていなかったようなのだ。


「どこかから逃げてきたのかもしれない」

「前の町で人攫いの噂は聞かなかったけどなぁ」


 だが状況は他に考えにくい。ダッタザートまで連れ帰り、行政舎に状況を報告すれば、親を探してくれるだろう。それまでどうするかだが。


「見つからなねーんだよ……」


 半泣きのシュウが銀狼の死骸をぶら下げて戻ってきた。

 血痕のあったあたりの地面は全て探したから、のこるは銀狼の腹だけ。下手にあの場で腹を割いて指の取り出しに失敗したらと怖くなり、死骸を回収してきたという。

 すぐにコウメイが腹を割き、胃袋を探って首を横に振った。指の形をしていれば何とかなったかもしれないが、半分消化された肉片では接合は不可能だ。

 銀狼の死骸を捨て、馬車を走らせた。

 幼い少女の寝息は、小さいけれど力強い。命の心配はないと聞いて、シュウは大きく肩の力を抜いた。


「この子、どーする?」

「ダッタザートで行政舎に届け出る。それと冒険者ギルドでも探し人の情報がねぇか確かめねぇとな」

「裕福な家の子のようだし、すぐに迎えが来ると思うぞ」

「そっか……この手、ショックだろーなー」


 欠けた薬指と小指を切なそうに見るシュウから離れ、コウメイは小声で「どうする?」とアキラにたずねた。


「シュウのヤツ、完全に情が移っちまってるぞ。面倒な親だったら、欠損の責任を押しつけられかねねぇってのに」

「本人が説明してくれればいいが、まだ幼いし……厄介だな」


 普通の旅人や冒険者だったら、少女の声は聞こえなかっただろうし、運良く駆けつけてもおそらく間に合わなかった。そう説明したところで、子を思う親が納得するとは限らない。特に荒野の危険を知らない街暮らしの人々は、どう説明しても納得しない可能性があった。売り言葉に買い言葉で決裂する可能性も考え対処しておこう。


「とにかく、朝イチでダッタザートに入って、ヒロにも相談だな」


 冒険者とは違った視点で街の困りごとを解決している彼なら、上手い策があるかもしれない。

 開門の鐘の鳴るずいぶん前から待機していた彼らは、門が開くと同時に兵士に事情を説明し、子どもの保護を届け出た。


「兵舎が預かるって言うけどさー、こんな小さい女の子をあんな汚ねーとこに寝泊まりさせたくねーよ。俺たちが預かってもいーんだろ?」

「治療の経過も診たいですし、医薬師ギルドにも連れて行きますから大丈夫ですよ」

「ああ、俺たちは澤と谷の宿に泊まってる。連絡はそっちに頼むぜ」


 情の移っているシュウと、治療に責任を持ちたいアキラ、役人よりも先に事情を確認したいコウメイの三人で押し切って、少女の一時保護権を勝ち取った。


   +


 ここが安心できる場所だと感じ取っているからだろうか、客室のベッドに移しても、少女はなかなか目覚めなかった。

 寝ている少女に孫の古着を着せて戻ったサツキは、辛そうに息を吐いた。


「かわいそうに。指がなくなっていると知ったら、酷く傷つくでしょうね」

「なくなってしまったものは仕方がない。欠損がハンデになる階級なら、あの子の将来はかなり厳しくなるだろうな」


 そのあたり、何かわからなかったかと問うと、サツキは少し考えて「農村の子じゃないか」と言った。


「街の、裕福な家の子じゃねーの?」


 行政舎に証拠品として提出する前に、コズエにボロボロの服を見せて確認すると、彼女は「新品だ」と断言していた。たっぷりと服地を使ったデザインといい、飾りのリボンの色はあせておらず鮮やかだったことといい、仕立てたばかりで一度も洗濯されていない服に違いない、と。

 コズエの言葉は自分たちの推察を裏付けるものだったが、サツキは真逆の判断のようだ。


「子どもの足の裏がね、傷だらけで固いのよ」

「傷だらけだったのは裸足で逃げ出したからだろう?」

「新しい傷じゃないの。普段から裸足で地面を歩いてできた傷もたくさんあったわ。傷の上に傷をかさねて、皮膚が硬くなってるの。ちゃんとした靴を履いたことないのじゃないかしら」


 農村の、貧しい家の子どもたちは、木の皮で足を覆って靴がわりにしている。すぐに駄目になってしまうため、裸足で生活している人も多い。少女の足はそういう暮らしをしている足だとサツキは証言する。


「孤児院出身の子どもたちも、ああいう固い足の裏をしているから」


 今も市場に出店しているサツキは、銅片を貯めて菓子を買いに来る子どもたちと、眠っている少女の姿が重なったようだ。


「お兄ちゃんはどうしてあの子が裕福な子だって思ったの?」


 治療で診たのなら気づいただろうと問われ、アキラは顔をしかめた。


「……垢汚れがなかったんだ」


 幼い足裏の硬さには気づいていた。だが出血以外の汚れがなかったことで、判断に迷ったのは事実だ。


「サツキの言うような環境だったら、風呂も満足に入れていないはずだ。水浴びでは垢を落としきれないだろう? けれどあの子は髪も体も、石けんで洗ったようにとても清潔だった」


 手入れされていない髪は脂ぎっているものだし、関節やシワには皮脂汚れがたまるものだ。それが見あたらない少女を裕福な家の子だと判断するのも当然だった。

 コズエもサツキも嘘はついていないし、アキラも自分の目で確かめたからこそ、その結論に至っていた。


「いったいあの子、どういう子なんだろうな?」


 頭を突き合わせて考えても答えは出ない。

 ヒロが昔の伝手を頼って冒険者ギルドに探りを入れてみたが、朗報はなかった。


「今のところ、冒険者ギルドにそれらしい尋ね人や、人さらいの情報はありませんでした」

「行政舎からも連絡は来てねぇぜ」


 届け出ていた街兵からも、少女が目覚めたら連絡しろという一言が伝えられただけだ。

 交代で見守り目覚めを待つしかない。

 コウメイはサツキを手伝って菓子工房に入り、アキラは必要になりそうな薬の調達に出かけた。お使い仕事を終えたシュウが、ヒロに代わって少女のそばに付き添っていたときだった。


「……い、きて、る」

「お、おう、生きてるぜ! よく頑張ったな!!」


 か細い声を聞いて思わず身を乗り出したシュウは、丸く見開かれた薄茶色の目が彼を見あげて嬉しそうに微笑むのを見た。


   +


 見知らぬ大人に囲まれても不安なだけだろうと考え、コウメイたちは部屋の隅で待機した。少女からの聞き取りは、子どもの扱いに慣れているサツキに頼んだ。

 歳をとって少しばかりふくよかになったサツキは、穏やかな笑顔と優しい語り口で孫の世代にも好かれている。女同士ということもあり、聞き出しにくいことも聞けると期待していたのだ。

 しかしサツキが話しかけ、蜂蜜を溶かした牛乳のカップを差し出しても、少女の表情は固くなるばかりだ。立ちのぼる甘い香りが気になるらしく、チラリと視線が泳ぐが、決してサツキと目を合わせようとしないし、口も硬くつぐんだままだ。

 笑いじわを悲しげに歪ませて、サツキは少女の側を離れた。


「私は警戒されててダメみたい」


 ごめんね、と小声で謝る彼女の背を撫でて、アキラはシュウを促した。

 サツキから受け取ったホットミルクのカップを手に、シュウは少女の前に腰を下ろした。


「喉乾いてるよな? これ美味ーから、遠慮しなくていーんだぜ?」

「……お金、もってない」


 シュウとカップの間をチラチラと視線が往復し、恥ずかしそうにこぼした。


「これは俺らがいつも飲んでるやつのお裾分けなんだから、金なんか取らねーよ」


 だから安心して飲めと差し出すと、少女は嬉しそうに両手で受け取る。

 左手の指の欠損が見えたはずなのに、少女は動揺した様子も、驚いた様子もみせない。気丈に振る舞っているのでもなさそうだ。


「おいしい」

「だろ? お代わりいるか?」


 上唇を白く染めた少女は、申し訳なさそうに頷く。


「俺も飲みたくなったから、たっぷり作ってくれねーか?」

「いいわよ、少し待っていてね」


 サツキが空のカップを手に部屋を出て行くと、露骨なほどに少女の体から緊張が抜ける。ベッドヘッドに背中を預けて、ほっと安堵の息を吐いた。


「俺はシュウってんだ。君の名前は?」


 少女はぐっと唇を噛んで、答えたくないと首を横に振る。


「昨夜、銀狼に襲われてたのは覚えてるか?」

「うん……あたしの手、食べられちゃった?」

「ごめんな、助けに行くのが間に合わなかった」


 頭を下げるシュウに、少女は「ちがう」と慌てて言った。


「背中をおそわれたとき、もうかじられたあとだったから、シュウさんは悪くない」

「そっかー、本当に頑張ってたんだな。怪我のことは俺じゃ詳しくわかんねーから、仲間が説明するけどいいか?」


 振り返ったシュウの合図で、アキラが少女に近づく。


「こいつ薬魔術師なんだよ。怖くねーから」

「こんにちは、薬魔術師のアキラです。あなたの怪我がどんな状態だったか、説明しても大丈夫ですか?」

「あ……はい。この指のこと、ですか?」


 アキラを見て少し体を強張らせたが、隣でシュウがにっこりと笑うとそれもすぐにゆるんだ。


「左手には何ヶ所も牙の跡がありました。シュウが探したのですが指を見つけられず、欠損したまま錬金薬を使うしかありませんでした」

「れ、れんきんやくを、使ったんですか?」

「金の心配はいらねーから! アキラが作ったやつだから高くねーし」

「ただで錬金薬を受け取りたくないというのなら、薬草で返してもらえたらいいですよ。採取したことはありますか?」


 ほっとして頷いた少女は、薬草の採取は日課だったから大丈夫だと言った。

 どうらサツキの農家の子説が正しかったようだ。


「左腕は痕が残ってしまいましたが、頬と背中の傷はきれいに治りました。あなたの着ていた服はボロボロだったので……大切なものだったのではありませんか?」

「いらない。あんな服、きたくなかった」

「そうですか、じゃあ良かったですね、もう焚きつけにするしか用途がないような状態でしたから、処分しますね」


 手元に戻ってこないと知って、少女はとても嬉しそうに微笑んだ。


「さて、これからのことですが……名前を教えてもらえないのでは、街兵にあなたのことを届けなくてはならなくなります」

「ど……どうして?」

「あなたが洗礼前だからです。まだ六歳になっていないでしょう?」

「なってる、あたしは十さいだから、もうすぐせいじんだから!」


 明らかな嘘を、少女は必死に訴える。


「けれどあなたを心配して、探している人がいるのではありませんか?」

「家族とか、すっげー探してるかもしれーだろ?」

「ひっ」


 悲鳴を飲み込んで、少女は己を守るように丸くなった。掴んだ毛布の下に隠れた体が、小刻みに震えている。

 やはりか、とアキラは苦しげに目を細めた。


「怖がらせてごめんな? 大丈夫だから、ここは安全だから心配ねーから、な?」


 毛布越しに触れたシュウの手に、少女の体が大きく跳ねる。

 しばらくは声が届かないだろう。

 サツキが運んで来た新しいホットミルクをテーブルに置き、ゆっくり休んでくれと声をかけてから、三人は客室を出た。


   +


 少女のいる客室の扉を見つめて、三人からため息がもれる。


「アキラ、ちょっとやり過ぎだって。あんな脅えさせなくてもいーだろ!」

「ショック療法だ……。あれくらい揺さぶらないと、自分から正直に話してくれないだろう。やりたくてやったわけじゃない」


 誘導尋問のようなやり方ではいつまでたっても事情は把握できない。街兵や行政舎が本格的に動き出す前に少女の事情を確認しなければ、助けたくとも助けられないではないか。


「しっかしなぁ、アキの予想が大当たりだったなんてなぁ」

「家族から逃げてきたとなると、いろいろと難しくなるぞ」


 洗礼前の子どもは保護の対象だが、親が捨てたのでなければ孤児院に入ることはできない。もし洗礼後であったとしても、成人年齢までは親族に権利があり、親の承諾なしに引き離せばこちらが悪者だ。


「指の欠損について本人に詰められることはなさそうだが、親族が黙ってなさそうだな」

「体を磨いて、新品の上等な服着せてっつったら、アレだろ。胸くそ悪ぃぜ」


 この世界でも人身売買は禁止されているが、抜け道はいくらでもある。あの脅えっぷりからも、洗礼前の少女は親元に戻されたらどんな末路を迎えるか自覚しているようだ。


「絶対に親に戻せねーよ」

「そうだな。だが俺たちが保護するわけにはゆかないし、サツキを犯罪者にはできない」

「じゃあどーすりゃいいんだ?」

「それを考えるためにも、彼女が全て話してくれないと……シュウ?」


 室内の気配をうかがっていたシュウの顔が一変した。


「やべーっ」


 声を上げるなり、シュウは出てきたばかりの扉を蹴破るようにして飛び込んだ。

 少女はベッドにいなかった。


「どこだ?」

「窓の外だよ、外!」


 開け放たれた窓から顔を出すと、壁にぴったりとしがみつくように少女が隠れていた。勢いのまま逃げだそうと窓から出たものの、三階という高さに気づいて体が動かなくなったようだ。


「危ねーだろ。部屋に戻ってこいよ、な?」


 ふるふると、少女はシュウの手から逃げるように身を引く。

 バランスが崩れ、幼い体がぐらりと揺れた。


「親が探しに来てもちゃんと安全なとこに逃がしてやるって。信用できねーか? けどよ、そっから落ちたらまた怪我するし、走って逃げられなくなるんだぞ?」


 シュウが少女の説得に当たっている間に、コウメイが階段を駆け下りていった。間に合ってくれ、と祈りながら、アキラは杖を手に構える。


「優秀な冒険者ってのは、窮地でも最善を尽くすんだ。銀狼に負けなかったんだ、親にだって見つからねーよう逃げなくちゃな? そのためにも部屋に戻って、飯食って、元気になって全力で逃げられるよーになろうぜ、な?」


 焦りを隠して必死に作ったシュウの笑顔が少女の警戒心を溶かした。

 気持ちが緩んで、同時に壁を掴む手から力が抜ける。

 伸ばされた手を掴む前に、少女の体が落ちた。


「くそっ!」

「風膜」


 シュウが窓枠を越えるのと、アキラが風魔術を放つのは同時だった。

 落下の途中でふわりと浮き上がった少女を、シュウが抱き止める。

 風膜に乗ったまま、ゆっくりと中庭に降り立った。


「俺の出番はナシか」

「この子にコーメイは早すぎるだろ」


 待ち構えていたコウメイを軽口で牽制し、少女をのぞき込んだ。


「大丈夫そーだな」

「……あったかい」

「おー、俺って体温高いんだよ」


 シュウの胸に顔を埋めた少女は、嬉しそうに微笑む。

 客室に戻された少女はヨンナと名乗った。年齢は五歳、体型から十歳の主張に無理があると思っていたが、まさかその半分だったとは。


「ヨンナさんはどこに住んでいたのですか?」

「フォグル村」

「ご家族は?」

「……父さんと婆ちゃん。お姉ちゃんは夏に死んだ」


 コウメイが運んで来た軽食を食べながら、アキラの質問に素直に答えている。母親について語らないのは、ヨンナにとって身近ではないからだろうか。


「どうして一人で夜の荒野にいたのです?」

「とーちゃんから逃げてきたのか?」


 卵を挟んだパンをほおばったまま、ヨンナは大きく頷いた。


「お父さんはヨンナさんに何をしようとしたのですか?」

「村長のとろこによめにいけって、お姉ちゃんのかわりだって」


 幼女の口から出た言葉に、三人は絶句するしかなかった。


「はぁ――?!」

「嫁って、五歳だぜ?」

「……ありえない」


 卵サンドイッチの最後の一切れを食べ終ったヨンナは、驚きと怒りとで複雑な形相の三人を見あげた。

 シュウは目をカッ開き、大口をぱくぱくとさせているし、コウメイは嫌悪で顔を歪めている。目を細めたアキラの薄い微笑みで、今にも空気が凍りそうだ。

 ヨンナが寒そうに毛布をたぐり寄せるのを見て我に返ったアキラは、コウメイに書き取るように頼んで少女におきた全てを聞き出した。


   +


 妹夫婦と囲んだ夕食の後、コウメイは酒が必要になる話だと言ってカップを配った。酒精の強い酒を満たされたサツキとヒロは、警戒気味にアキラの言葉を待つ。

 少女の身の上話を聞き終えたヒロは、カップの酒を一気に飲み干した。これでも足りないくらいだ。


「胸くそ悪ぃぇ話だろ?」

「違法奴隷の売買よりも質が悪いですね」


 注がれた二杯目を半分ほど流し飲み、大きなため息を怒りとともに吐き出す。


「……何故守ってあげないのよ」


 サツキは涙を拭きながら、自分がヨンナに避けられていた理由を知って、少女の祖母に怒りを向ける。

 ヨンナの父親は、酒を飲んでは暴れるどうしようもない男だ。ヨンナが生まれたときに母親が亡くなっており、父親は気が向いたときだけ、あるいは村長に命じられたときだけわずかな仕事をするくらいで、家の主な働き手は祖母と姉の二人だったらしい。

 細々と暮らしていたのだが、昨年、七歳の姉に縁談が舞い込んだ。村を出て行商人になった五男の嫁にどうかと、村長から直々に話が持ち込まれたのだ。


「十五歳の息子に七歳の嫁って、ありえねーだろ」

「ええ、ありえません」

「早すぎますよ。十二歳(成人)なら文句は言えませんが」


 それでも自分たちの常識でもはありえない。自分の息子や孫なら絶対に断わる話だと、サツキもヒロも憤慨している。

 酔った父親の暴力から逃げたい一心で、姉はその申し出を受け入れた。幸せになると笑っていた姉は、半年後、生きる屍となって実家に戻され、一ヶ月後に階段をのぼった。

 そして数日前だ、父親が村長からの縁談を持ってきた。亡くなった姉の代わりに、五男に嫁ぐように、と。


「五歳だぞ、普通の縁談じゃねーってわかりそうなもんだろ」

「承知の上で娘を生け贄に差し出したんだろう……対価が金か酒かはわからねぇが」

「ヨンナは姉が嫁ぐとき、祖母に風呂に入れられて、新品の服を着せられたのを覚えていたらしい」


 だから逃げ出したのだ。

 そして祖母と同じ年頃のサツキに、あんなにも脅えた。


「孫がどうなるかわかっているのに送り出すなんて酷すぎます」


 警戒された理由を知り、納得すると同時にやりきれない思いでサツキが拳を握りしめる。

 五人はヨンナの言葉を疑わなかった。

 どんなに幼くとも、村で暮らしていれば夜の荒野の恐ろしさは知っている。ましてやヨンナは年齢以上にさとい。そんな幼い少女の命を賭けた脱出を疑えなかった。

 彼らはヨンナをかくまい、親や村長らから守ると決意していた。


「だが、もう少し正確な情報が必要だ」

「フォグル村のほうは俺が調べましょう。街兵や行政舎よりも先に把握しないと動けませんからね」


 冒険者ギルドの副ギルド長として培ったヒロの伝手は、引退後の今も頻繁に活用していた。すぐに詳細は判明するだろう。


「ヨンナを何処でかくまうかだが」

「ウチで預かってもいいわよ」


 澤と谷の宿に泊まる常連冒険者に事情を説明し、警戒してもらえるだろう。ヨンナに孫の姿を重ねるサツキは、どんな菓子が好みだろうかと既に引き取ったあとの楽しみまで想像を膨らませているようだ。


「いや、ここはマズイぜ。ヨンナの父親が取り戻しに来たら、サツキちゃんたちに拒む正当な理由がねぇんだ。どんな悪辣な親でもあっちに権利がある間は、下手を打てばこっちが犯罪者になっちまう」

「ヒロの立場上、それは都合が悪いんじゃないか?」


 そうですね、とヒロが苦々しげに口端を歪める。強引な方法で引き離せなくはないが、実行するためには自分だけでなく協力者にも泥を被ってもらわねばならない。それはあまりにも影響が及びすぎる。


「ヨンナをかくまうためにも、澤と谷の宿は無関係で通したほうがいい」

「じゃあどうするんです?」


 深魔の森に連れ帰るのかと問われ、アキラは首を横に振った。シュウあたりはどうにもならなければ自分で育てると言い出しそうだ。しかし自分たちに子育ては無理だし、深魔の森はその環境にはない。


「ヒロ、食堂の屋根裏を貸してもらってもいいか?」

「許可なんて取らなくても。あそこはコウメイさんのものですよ」


 あそこなら最高の隠れ家になると、ヒロは微笑んで返した。

 情報屋に貸し出している袋小路の食堂は、立地も複雑ならば、その建物の構造も一筋縄ではゆかない。増築に増築を重ねたため、外観から間取りを推察するのは難しくなっている。一階を食堂、二階を従業員の居室、三階は倉庫として使っているが、屋根裏に上がる内階段は存在しない。屋根裏部屋には建物側面にある隠し扉から入った梯子でしか入れない構造だった。


「あの屋根裏なら、所有者や間借り人が気づかないうちに、ちっせぇネズミが住み込んでても不思議じゃねぇだろ」

「確かに、知らぬ存ぜぬで通しやすくて、ちょうど良いですね」


 窓から飛び降りようとする強気があれば、隠し梯子の上り下りくらいは平気だろう。

 食堂を管理しているのは、強面の男たちばかりだ。彼らならヨンナを追ってきた親族など、凄んでみせるだけで簡単に追い払えるだろう。


「住はそことして、衣と食はどうする?」

「あの子の性格じゃ、施しは喜ばねぇだろうし」


 錬金薬の代金を払う素振りを見せていたくらいだ、彼女の自立心は尊重したい。


「働くって言いそーだよな」

「追っ手から逃げ隠れしながらだぞ、無理じゃないか?」 


 見習い冒険者のできるギリギリの年齢だが、単身での活動は危険すぎる。かといってどこかの店の下働きをするのも保証人がなければ無理だ。


「ヒロ、情報屋で雇えねぇか? もちろん表の、まっとうな飯屋のほうの仕事でだぞ」

「それが良さそうですね……ただ、彼らも街兵に目を付けられると困りますので、正式に雇うのは無理ですよ」

「そこまで高望みはしねぇよ」

「五歳の子どもをどれだけ働かせるつもりなんだ」


 そんなふうにヨンナをかくまう話し合いは夜遅くまで続いた。


   +++


 こんなにあったかい毛布ははじめてだった。からだがぽかぽかして、頭がとろんとしてきもちいい。だからはちまきの熊さんたちが部屋からいなくなっても、もう逃げようなんておもわなかった。そのままほかほかの毛布をたのしんでいたのに、気がついたら朝になっていた。


「おはよう。お腹空いたでしょう? 朝ご飯、一緒に食べない?」


 ゆうべ甘い牛乳をつくってくれたおばあさんがドアをあけて、へやの中にはいらないでそういった。はちまきの熊さん……シュウさんはどこかなってへやを見まわしたら、おばあさんが「シュウさんは食堂で待っているのよ」といっててんじょうを見あげた。


「……黒い」

「なあに?」

「目が、黒いから。よかった」


 まっ白な髪だけど、おばあさんの目は黒くて、だからあんしんだ。

 ベッドをおりて歩くあたしに、おばあさんは目をまるくして、ちょっとまっててねと笑った。すぐに何かを持ってもどってきて「これを履きましょう」と足もとにおいた。

 動物のかわと布でできたくつだ。


「よかった、ぴったりだわ。お古でごめんなさいね」

「……ありがとう。くつなんて、はじめて」


 足をいれると、床のつめたさとかたさがなくなって、ベッドの毛布をきているみたいに足のうらとつまさきがぽかぽかした。

 おばあさんにつれられて階段をのぼって、りっぱな部屋にはいった。


「おはよう、ヨンナ!」


 はちまきの熊じゃなくて、シュウさんがにこにこしてあたしを持ちあげる。てんじょうに頭をぶつけそうになったけど、ぎんいろのきれいな男の人がとめてくれた。がんたいをしている男の人はあたしの前にたくさんの皿をならべて、すきなだけ食べろっていう。


「これは花房草のポタージュスープ、こっちのはハルパとチーズの入ったオムレツで、その丸いのは粗挽きした魔猪肉とつぶし芋の団子だ。食べられないもの無理しなくていいぞ」

「ぜんぶ、食べる!」


 こんなごちそう、つぎに食べられるのはいつになるかわからない、死ぬまで食べられないかもしれないのに、のこすなんてもったいない。あたしはひっしになって食べた。食べすぎてくるしくなったけど、しあわせだった。


「ヨンナ、あなたとこれからのことを話し合っておきたい。いいかな?」


 おなかのくるしいのがおさまったころ、ぎんいろのきれいな人、アキラさんがあたしの前に座りなおして言った。


「あなたを街に連れ帰ったとき、門兵に荒野で保護したと報告せざるを得ませんでした。行政舎と街兵からは、あなたの健康が回復したら出頭するようにと言われています」


 いやだ。あたしは大きく頭をふった。


「やくしょは村長のみかたする」

「そうですね。ヒロに、このおじいさんに調べてもらってわかったのですが、フォグル村から近隣の町へ、ヨンナの捜索の依頼が出されていました。保護されたあなたが捜索対象だと気づかれるのも時間の問題でしょう」


 見つかってしまう、そう思ったらおなかのおくがきもち悪くなった。


「そこでヨンナの意思を確認します。あなたは洗礼もまだの子どもで、成人するまでは親の権利が最も優先されると知っていますよね?」

「……うん」

「私たちがあなたの父親を追い返すと、ここにいる全員が犯罪者になってしまいます。けれどヨンナを父親や村長に引き渡したくありませんので、策を練りました」


 命を助けてくれたこの人たちが、へいしにつかまるのはだめだ。それくらいならひとりで逃げる。そう言うと、アキラさんはやさしく笑った。


「逃げるのなら街の外ではなく、内で逃げ回るといいですよ」

「うちがわ?」

「草原に人が立っていたら目立ちますよね? けれど人のあふれかえっている街中なら、ヨンナがこっそり紛れ込めば探すのは難しくなります」


 アキラさんはあたしに顔をちかづけた。

 つめたくてこわい感じのするぎんいろの目は、ちかくで見るときらきらしていてすこしもこわくなかった。


「仕事と、隠れて住める場所を用意します。あなたは成人する十二歳まで、なんとしても街兵や父親の追っ手から逃げてください。できますか?」

「するよ、できる!」


 父さんや婆ちゃんの知らない、村長もしらない場所なんて、ゆめみたいだ。そこにかくれて、ぜったいに逃げてみせる。はたらくのだって平気だ。お姉ちゃんがつれていかれてからずっと、あたしが畑をやっていた。いっぱいはたらいて、れんきんやくのだいきんも返したい。

 あたしがそう言うと、アキラさんはくしゃっとまゆをゆがめて笑った。


「ではそのための準備を急ぎましょう。時間はありませんからね、忙しくなりますよ」


 その日から、あたしはくつになれるためにずっとはいて歩き、はしごをのぼるれんしゅうもたくさんした。

 それからかくし扉というのを開けるれんしゅうも。

 ヒロおじいさんが持ちこんだ大きなはこの、一つのめんが扉になってて、開けるのにコツがひつようだった。


「いいか、この隠し扉の複製は、ヨンナの隠れ家に逃げ込むための大切な扉だ。出入りは誰にも気づかれないように、静かに素早く開け閉めするんだ。いいね?」

「はいっ」


 ヒロおじいさんに見てもらいながら、なんどもなんどもれんしゅうをした。

 少しでも見つからないようにしたくて、サツキおばあさんにかみを切ってもらった。


「せっかく綺麗な髪なのに、もったいないわ」

「きれいじゃないよ。まちネズミの色って、みんなが言ってた」


 灰と土のまじった色はきれいっていわない。アキラさんみたいなきらきらでさらさらのかみをきれいって言うんだよっておしえてあげたら、サツキおばあさんは「あらあら」ってたのしそうに笑った。


「全力疾走するなら、ズボンが必要でしょ」


 サツキおばあさんがつれてきたコズエおばあさんは、あたしに古ぎをたくさんくれた。黒っぽいズボンと茶いろのチュニックは、どっちも新品みたいに見える。


「ほんとはもっとかわいい服にしたかったんだけど」

「しかたないわよ、目立たないようなのをってお兄ちゃんに言われてるから」


 お兄ちゃんってだれだろう。聞こうとおもったけれど、チュニックを見たらそんなことはどうでもよくなった。くるっと回ると布がふわっとひろがるし、むねのところは布をつまんだたんさんのヒダかざりがついている。こんなにたくさん布ををつかう服ははじめてだ。


「この鞄は腰に巻いて、こんな感じでしっかりと巻き付けて、大切な物はここに入れて持ち歩くのよ?」


 コズエおばあちゃんがズボンのベルトにちいさなかばんをつけてくれた。チュニックでかくれるくらいの大きさで、お金を入れる場所だって言われた。お金はもっていないって言ったら、ふたりのおばあちゃんは「これからいっぱい稼ぐんでしょ」とあたしのせなかをたたいた。

 かくし扉をつっかからずに開けられるようになったのは、あたしが窓から落ちた五日後だった。

 その日の朝、ごはんを食べているところに街兵のつかいがきて、四のかねくらいに父ちゃんがむかえにくる、と言った。

 しっかりごはんを食べてから、せんぷく準備のさいごのしあげだ。

 コズエおばあちゃんにもらったきがえをせおい袋にいれて、くつのひもがほどけないようにしっかりとしばる。アキラさんがくれたかんそう薬草はお金入れの中だ。


「ヨンナ、いいか、俺たちは表だって手を貸せねぇ。打ち合わせたように、しっかり逃げるんだぞ」


 がんたいのコウメイさんはそう言ってやどを出ていった。


「追っ手が近づいても慌てるな。落ち着いて、しっかりと前を向いて走れば大丈夫だ」


 声をかけられないけれどちゃんと見ているから、と言ってアキラさんもまちの中にまぎれこんだ。人がたくさん歩いているおおどおりは、アキラさんみたいなキレイで目立つ人も見つけにくくなる。あたしみたいな灰茶のネズミなら、もっとかんたんにかくれらそうだって自信がわいた。


「ガンバレよ、ヨンナならできる」

「うん」

「待ってるからな」


 熊みたいなおっきな手であたしの髪をクシャクシャとなでて、シュウさんはうらぐちから出ていった。

 四のかねがなってすこししたころ、二人の兵士といっしょに、あたしを売ろうとしてる父さんがやってきた。

 ヒロおじいさんは、父さんたちを宿のげんかんで止めて、あたしがとまっていた部屋にはあがらないようにしてくれている。


「ヨンナ、大丈夫よ。しっかりね」

「はい。いろいろ、ありがとうございました」


 サツキおばあさんのやさしい手が、なくなってしまった指をかくすように、しっかりとあたしの左手をつつんだ。

 サツキおあばさんにかくれるように階段をおりて、そわそわと落ちつきのない父さんを見つめる。


「ヨンナ!!」


 あたしを見つけた父さんの声は、らんぼうで、しかりつけるみたいで、すごくおこっているように聞こえる。しんぱいしていたって声じゃないから、兵士がびっくりしていた。


「探したんだぞ!」


 おおきな声はやっぱりこわい。でも。

 びくっとしたサツキおばあさんの手を、あたしはだいじょうぶだよってにぎり返して、とうちゃんをにらみつけた。


「――いやぁぁぁぁぁぁっ!!」


 いかくするみたいに大声をだして、父さんに向かってかけだした。

 思いっきりとっしんして、父さんをつきとばす。

 ヒロおじいさんにおそわった「ウケミ」でごろんと回ってすぐに立ちあがり、そのまま走りだした。

 とまれ、待て、ってどなり声がおいかけてくる。


「不安でも後ろは振り返るな、時間がもったいねぇ」


 コウメイさんのことばをおもいだす。


「玄関を出たら右側の道をまっすぐ走るんだ。青い三角の看板を目印に、前だけ向いて走れ」


 たくさんの人がいて、まっすぐに走るのはむずかしかった。でもそれは父さんも兵士も同じだ。ぶつかったり、ころびそうになりながら、青い三かくかんばんをめざす。


「あっ!」


 かんばんの下にコウメイさんがいた。あたしを見つけて笑うと、ついてこいってうでをあげて走りだす。市場のあいだをぬけるコウメイさんを見うしなわないように、ひっしに追いかけた。

 花がたくさんかざってある店の前に、アキラさんがいた。こんどはこっちだとアキラさんが合図する。ほそいろじをくねくねと曲がって追いかける。わきのろじから出てきたシュウさんは肉の串をもっていた。あたしを見てたいようみたいに笑いって、肉の串でろじの先をさした。


「もうすぐだ」


 息みたいなちいさな声におされて、ふんばった。

 ろじの先は行きどまりだ。

 でもあわてない。

 あたしはめし屋のかんばんでかくされている建物のすきまにはいった。


「いち、に、さん、し、ご!」


 かべに手をあてて、五つ目のふしでぐっと指さきに力をこめた。

 れんしゅうと同じ手ごたえがあって、うれしくて声が出そうになる。

 こらえてかくし扉をあけた。中にすべりこんで閉め、かんぬきをする。

 まっくらななかを手さぐりではしごを見つけてのぼった。


「あいた」


 頭がてんじょうにぶつかった。

 左手と頭で押し開ける。

 ふわっと、かんそうした薬草のようないいにおいがした。


「わあ……広くて、きれい」


 窓からさしこむ光で、そこは屋根裏なのにとても明るかった。ほこりなんてひとつもない。てんじょうは低いけど立っても頭はぶつからない。壁ぎわにはふかふかの綿ふとんと毛布がたたんでおいてあるし、ふたつきの水さしとコップもあった。あしを折りたためるちいさなテーブルがあって、そこにサツキおばあさんの店のかんばんと同じ花もようの箱がある。近づくと甘くておいしいかおりがした。


「すごい……」


 あたしのために準備してくれたのだ。

 うれしくて、どんどん目の前がぼやけていく。


「おい!」


 どすん、と。床の下から大きな音がした。

 下の階からてんじょうをぼうで突いたのだ。


「屋根裏の小ネズミ、聞こえてるか?」

「は、はい!」


 のぶとくてガラガラとにごった声によばれて声がはねた。


「明日は二の鐘がなったら店に下りてこい」

「わかりましたっ」


 あたしの仕事は、一階のしょくどうの下働きだ。

 一日働いたら三十ダルと、昼と夜のしょくじがもらえる。


「それと」


 とんとん、と、こんどはノックみたいな音がして、小さな声が言った。


「窓から顔を見せて、安心させてやれ」

「まどから?」


 外の光でまぶしい窓をふりかえった。おそるおそる近づいて、そおっとのぞき込む。


「……あ」


 ふくろこうじの、店の入り口をむいている窓の下に、あたしを見つけて手をふるシュウさんと、ばらす気かやめろってたたき落とすアキラさんと、にっこりわらってるがんたいのコウメイさんがいた。





【人物】

コウメイ/人族/75歳(見た目20代半ば)

アキラ/エルフ/75歳(見た目20歳前半)

シュウ/狼獣人/75歳(見た目20代後半)

ヒロ/人族/75歳/澤と谷の宿の店主/情報屋家業も営む

サツキ/人族/73歳/菓子店ブルーン・ムーンの店主

コズエ/人族/74歳/小枝工房の店主


ヨンナ 人族/女性/5歳。灰茶色の町ネズミのような色の髪。7歳の姉がいた。父親は飲んだくれ。祖母が父親を溺愛している。ヨンナが4歳の時、村長の息子(15歳・行商人見習い、という名目で村の外で暮らしている)の嫁に、と7歳の姉が連れて行かれたが、実際は借金返済のため村長息子に売られていた。半年で壊れて戻ってきたが、一ヶ月後に死亡。父親が村長に命じられ、5歳になったヨンナも村長息子に引き渡されるところだったが、寸前で村を逃げ出し、魔物に襲われているところをシュウに助けられた。

情報屋の不味い飯屋の屋根裏部屋に隠れ住み、12歳の成人まで店で働く。ヨンナが店のまかないを「おいしくない」と言ったため、だんだんと店で出される食事が美味くなり、気がつけば情報を求める客よりも、純粋に飯を目的にした客が多くなってしまったらしい。

あとがき


閑話・足跡はこれにて終了です。

各話の文字数が多すぎて大変読みにくかったと思います……。

16章の〆と、ラストバトル手前の少しのんびりとしたご長寿の日々の暮らしと、これまでに関わってきた人々のその後を補完する閑話となりました。


17章は少しお時間を頂けたらと思います。

できれば年内にと思っていますが……目処がつきましたら、活動報告やSNSでお知らせいたします。

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