10 ダッタザートの留守番たち・後
ヒロが密かに経営する食堂は、知る人ぞ知る隠れた店だ。
「この程度の味でその評価は高すぎねぇか?」
昼の定食を味見したコウメイは、味付けがぼんやりとしていてイマイチだと酷評だ。
「目的は料理じゃありませんからね。ここに足を運ぶのは、情報を求める冒険者らですよ」
現役時代、そして冒険者ギルドの副ギルド長時代に構築した人脈を死蔵するのはもったいない。うまく活用するために、ヒロはこの隠れ家的食堂を手に入れた。特徴的な味を提供して、足繁く通われては困るのだ。場所も味もぼんやりとしているくらいが、目的のためにはちょうど良い。
「コウメイさんが料理長を引き受けてくれたら、名実ともに隠れた名店になるんですが」
「悪ぃが他を当たってくれ」
引き受けるのが料理だけならいいが、ヒロの口ぶりではそれ以上も押しつけられかねない。きっぱりとした断りを笑って受け入れたヒロは、チラリと入り口に視線を流す。
昼の営業を終えた食堂にいるのは人待ちの二人だけだ。
「ココのこと、サツキちゃんは知ってんのか?」
「もちろんです。アキラさんやコウメイさんの居場所を用意するためだと説明すると、大賛成でした」
「根回し済みかよ」
「無理にとは言いませんよ。コウメイさんにも都合があるでしょうし。ただ、ダッタザートに拠点があっても困らないでしょうから、遠慮なく使ってください」
彼らの抱える事情を考えると、どうしても第三者の目を遮る場所が必要になる。今回のように澤と谷の宿を使えないこともあるだろう。そういったときに利用してくれと、ヒロは鍵と権利書を差し出した。
「薬店は厨房横の食料庫奥の隠し扉の向こうです。小さい店ですがあちらは表通りに面していて、客の出入りも多いですね」
こっそり行き来できますよ、と上手に年齢を重ねた渋みのある顔が、いたずらっ子のようにニヤリと笑う。
「よくこんな都合の良い物件を見つけたな」
「俺もいろいろと経験しましたから」
しっかりと外堀が埋められていては受け取るしかないだろう。
「今回のこともある、すぐには無理だぜ」
「そのうちで結構ですよ」
コウメイは受け取った鍵束と羊皮紙を懐に収めた。
昼定食を食べ終えたころ、やっと待ち人たちがやってきた。
「親父、何か食わせてくれ」
表の入り口から入ってきたユウキは、二人のテーブルについてすぐに空腹を訴える。眉をひそめ報告を要求するヒロに、息子は「全員揃ってからだ」と突っぱねる。
「昼飯も食ってねぇのか」
「誰かの無茶振りのせいで食ってる暇がなかったんだよ」
「そりゃすまねぇな」
厨房の料理人はすでに退勤済みだ。コウメイは残り物を適当に見つくろい、少し手直ししてパンに挟んだものをユウキに提供した。
「……美味い。この店で美味い料理が食えるとは思わなかったぜ」
苦笑いのコウメイは、手早くチーズと木の実で煎餅のような菓子を作り、コレ豆茶を人数分用意する。コウメイがテーブルに戻ろうとしたとき、厨房奥の扉が開いた。
「お待たせしました」
現われたのはよく知る声の、だが見た目は陰鬱な形相の老人だ。伸びてボサボサの黒髪の間からのぞく目は、どんよりとくすんだ紫色をしていた。老人の耳には、不気味な見た目に似つかわしくない、銀と魔石の飾りが揺れている。
「見た目は別人だぜ、上手い変装だ」
「よかった、ちゃんと魔術が発動していましたか。師匠の設計書なので大丈夫だとは思っていましたが」
耳飾りを外した途端、見慣れたジョイスの姿に変わった。高度な魔武具を作り慣れていないジョイスは、ビクビクものだったようだ。
テーブルに着いた四人は、さっそく情報交換をはじめた。
「ベサリーは黙秘を続けています。痛みを伴う尋問にも屈していません。自白剤も使いましたが効きませんでした。彼女から証言を得るのは難しいでしょうね」
薬店で尋問の様子を確かめてきたジョイスは、あの状態でも領主へ忠誠を尽くすからには、ギルド職員が唆されたのではなく、最初から目的があって正体を隠しギルドに雇われたのだろうとため息をついた。
「彼女に魔石を都合していた男は見つかったのか?」
「ギルドにルドルフという名の冒険者は登録されていない」
昔の伝手でヒロが冒険者ギルドの登録者を調べ、ユウキが職員や顔の広い知り合いに問い合わせて、名前と年齢や風貌が一致する冒険者はいないと断言した。
「魔法使いギルドに頻繁に足を運んでたくせに、取り引き履歴は一つも残ってねぇんだったよな?」
「取り引きしているように見せかけて、領主とベサリーとの連絡役をしていたのでしょうね」
「工事関係で出入りしてる連中に紛れ込んでねぇのか?」
「そっちはヴェラールさんの魔道具が防いでくれてるぜ。認証の印を身につけないと立ち入れないって知って、急な腹痛で逃げ帰ったのが何人かいた」
ユウキの仲間がそれらを尾行し、領主所有の別宅に入っていくのを確かめている。
今のところ新たな密偵の侵入は阻めているようだ。
「さて、これからどう始末をつけるかだが」
これは魔法使いギルドが売られた喧嘩だ。どういう決着を望むのかとコウメイはジョイスにたずねた。
「領主様に敵対するつもりはありませんが、このような身勝手に巻き込まれるのはまっぴらです」
今回だけではない、今後も一切、魔法使いギルドを利用できると思われてはならない。
「なんとか他国の魔法使いギルド長全員の賛同は得ました。全てのギルドで改変が実施されれば、今後は領主様だけでなく王家も転移魔術陣を奪おうとはしないでしょう」
旨味のないモノを奪うために労力を割く余裕はないはずだ。
「じゃあ密偵はどうする?」
「命令書は確保していますし、もう無理に匿う必要は無いのでは?」
「だが始末するのも手間がかかりますよ」
ギルドから放り出すのは当然だが、かといってこちらの動きを報告されても困る。始末するにしても証拠を残さぬよう気を配らねばならないだろう。そんな手間暇を掛けることすらもったいない。
「まだ使い道はあるから、もうしばらくは生きるか死ぬかの狭間で保持しといてもらえるか?」
少しばかり物騒なコウメイの頼みに、ジョイスは眉をひそめ、ヒロは視線を逸らして聞かぬ振りをする。ユウキは警戒気味に目を細めてコウメイを見た。
「何をたくらんでいる?」
「ジョイスさん次第だが……あの女を逆スパイに仕立て上げられねぇかな?」
「「「は?」」」
耳を疑った三人は、同時に間の抜けた声を漏らした。
ユウキは困惑で唇を震わせ、ジョイスは戸惑いに首を捻る。ヒロは興味深げにどうやるのかとたずねた。
「ジョイスさん、傀儡魔術はつかえるか?」
ヒロが「なかなか物騒な名称の魔術ですが、どのような効果が?」と呆れ顔で問う。
コウメイは満面の笑顔である。
青ざめたジョイスは嫌そうに声を漏らした。
「……禁術じゃないですかぁ」
そんなにたいそうな魔術だったかとコウメイは首を傾げつつ、重ねて問うた。
「で、つかえるか?」
「あ、あまり使いたいものではありませんが、たぶん。でもあれは、術が深ければ深いほど、解放されたときの反動が酷いんですよ……」
術者の腕が悪いと、正気に戻れる確率はほとんどないのだ。ジョイスは攻撃魔術師だが、魔術の好き嫌いは当然ある。傀儡魔術は彼の性に合わず、術を使った経験はなかった。
できない、とは言わなかった彼に、コウメイはニヤリと笑った。
「ミキさん、どうしてその魔術が必要なのか、説明してもらえませんか」
否定的なジョイスに代わってヒロがその必要性を問う。
「その前にヒロ、この前頼んでいた領主雇いの魔術師がいるかどうか、ハッキリしたか?」
「魔術師かどうかはわかりませんが、数年ほど前から軍師か参謀のような役割の者を側に置いているようです」
ほとんど表に出ることがなく、古くからの忠臣らも正体を知らないらしかった。常にフードを深く被り顔を隠しているため、性別も年齢も不詳だ。話す声を聞いた者によれば、声は若いが話しぶりは老成しているようだったという。
「そいつ、魔術師じゃねぇのか?」
「魔術を使ったという話はどこからも拾えませんでした……その軍師が魔術師だと考える根拠があるのですか?」
「領主が転移魔術陣について詳しすぎるんだよ」
他にも魔石と魔術陣を使って魔術鍵を破る方法や、隠匿魔術を見破る方法など、素人が知っているのは不自然だ。不審に感じなかったのかと問われたジョイスは、魔術師の裏切りを認めたくないと苦しそうに顔を歪める。
「へ、辺境伯家に、過去の侵略の記録が残っていたとは考えられませんか?」
「その可能性は否定しねぇよ。だがそういう手段があるとわかってるなら、俺ならもっと早く行動に移すぜ。ジョイスさんですらすぐに思い出せなかったくらい古い出来事なんだぜ、誰かがタイミングを見計らって領主に入れ知恵した可能性のほうが高いだろ」
そしてそれは魔術師、それも転移魔術陣を熟知しているかなり上位色級の魔術師だ。
「だ、誰が、そんなことを……っ」
「それを知るために、傀儡魔術でベサリーから聞き出したい」
傀儡魔術は尋問に使えるかと問われ、ジョイスは嫌そうに頷いた。
「ベサリーを生きて帰すのは言語道断だろ。かといって始末するのに手間暇掛けてる余裕はこっちにはねぇ。だったら引き出せるだけ情報を抜いて、あとはダメ元で雇い主のところに送り返して二重スパイにするのが一番だと思わねぇか?」
甘ったるい作りの顔が、黒い笑みに染まる。えもいわれぬ迫力と漂う殺気に、ユウキの腰が無意識に引けていた。
「いくつか命令を仕込んで、あとは向こうで爆発するのを待つのもいいな」
悪辣な、と腰の引けたユウキが小さく呟いた。ヒロはいつものことだと平然としている。ジョイスの震え声が確認した。
「ぐ、具体的に、どのような命令を仕込もうと考えているのです?」
「そうだな、魔法使いギルドを作戦に組み込まずに、東側の独立を働きかける、とかか?」
「密偵なんて下っ端ですよ。領主が具申を聞入れるかどうか」
「下っ端だが仕事柄、直接声が届く距離で報告する確率は高いだろ。報告が届けばこっちの仕込みに乗せられなくても問題ねぇよ。ダメ元だつっただろ。逆スパイだってバレても問題ねぇし」
コウメイの狙いを察したヒロが、呆れ顔で息をついた。
「なるほど、始末を押しつけるんですね」
「すぐに処分されることはねぇだろうし、情報を混乱させるくらいはできるだろ。ちょうどいい時間稼ぎになると思わねぇ?」
「そうですね……ハギモリさんが戻っても、すぐに改変術式が完成するわけではないですし。他国ギルド長との調整にも時間が必要ですから、ちょうど良いかもしれません」
「……親父、ジョイスさんっ」
ガタリとユウキの椅子が脅えたような音を立てた。
普段はちょっとした不意打ちにも動揺する善良なジョイスが、真面目に物騒な発言をし、最近は温厚な宿屋の主人の顔ばかり見せていた父親が、黒くてヒヤリとする笑みを浮かべて同意する。それを満足そうに見ている眼帯の得体の知れない不気味さに、ユウキの腹がキリキリと捻れるように痛んだ。何故自分はここにいるのだろうと、恨めしげに己を引き込んだ父親を睨む。
「傀儡魔術をかける前に、どのような行動を命じるか、しっかりと整理しておく必要がありますね」
「それなんだが、傀儡魔術に限界はあるのか?」
「ありますよ。僕はまだ一度も試した経験がないので、どのくらい保つかはなんとも。魔術による尋問が長くなると、命令の効きが悪くなりますし。できれば命令は三つに絞ってもらえると……あ、あんまり複雑なのと、高度なのは失敗する確率が高くなるかもしれません。一度練習できれば助かるのですが」
「だ」
誰で練習するつもりなのか、と咄嗟に出かかった声を、ユウキは言葉になる前に口を手で塞いでいた。
会話に加わるのはマズイ。悪巧みの一員にカウントされたくない。可能ならば逃げ出したいが、眼帯の間合いから逃げられない。ユウキにできるのは己の存在感を消すくらいだ。
両手で漏れる声を封じる息子に、ヒロは呆れ顔を向けた。封じるなら口ではなく耳だろうに、と。そして彼もさらりと息子がドン引きする提案をした。
「試したいなら伝手はありますよ。ちょうど自白させたい者がいるらしくて、練習がてら手伝ってもらえませんか?」
ヒロは古い知り合いから、証拠が手に入らないために処分できない厄介な身内の相談を受けていた。傀儡魔術で自白させ、ついでに証拠を自ら提出させられないかとジョイスに持ちかける。
「練習にちょうど良さそうですね。今日中に魔術書をお復習いしておきます」
ジョイスはすぐさま快諾した。
ここまでの鬱憤が積もり積もっていたのだろう、ジョイスの様子はそれを見たユウキが震えて涙目になるくらいに楽しげだ。
「一つ、負傷以後の記憶を全て忘れる。二つ、ヘル・ヘルタントのカレント将軍を味方につける花の情報を提供。三つ、魔法使いギルドへのあらゆ攻撃の排除」
三人は話し合って、ベサリーに刻み込む命令をこの三つに絞った。
「ヘル・ヘルタントのカレント将軍という方は、お知り合いですか?」
「ルムラダ川の戦場で指揮を執っていた将軍閣下だ。ちょっとした縁があってな……ハギモリの信望者なんだよ」
苦笑いのコウメイは、後半の部分は声を潜めヒロの耳にだけ届けた。同情か呆れか、ヒロが眉根を寄せて小さく首をふる。
「魔法使いギルドを利用できねぇかわりに、ヘル・ヘルタントの協力を得られる伝手を紹介してやれば、正攻法で独立する気になるんじゃねぇかと思ってな」
「確かに、東側から攻め入るのと同時に、西からヘル・ヘルタントが侵攻すれば、王家の戦力は二分される。物資や兵の増強を頼りたい東に攻め入られれば、長くは保たないでしょうね」
「開戦から一ヶ月以内には決着がつくんじゃねぇか」
「それは早すぎませんか? 二ヶ月はかかりますよ」
「賭けるか?」
「いいでしょう」
「お、親父っ、不謹慎だぞっ」
冷や汗の跡の残る顔を突っ込んで、ユウキが逸れはじめた話を強引に戻した。
「では練習は明日のできるだけ早い時間で調整します。見舞いと称してユウキを向わせますので、何かあれば伝言を」
「わかりました。妻が退屈していますので、工房からデザイン画と、サツキさんの焼き菓子を差し入れてもらえると嬉しいです」
「では二人の好きな菓子を中心に用意してもらいますよ。期待しててください」
殺伐とした計画の最終確認を朗らかに終えると、ジョイスは厨房の隠し扉から去った。密偵の様子を自分の目で確かめたいとコウメイが続く。それを見送ったユウキは、扉が閉まった途端に床の埃を舞いあげるような大きなため息をついた。
「どうした、顔色が良くないぞ」
「誰のせいだよ……」
テーブルに戻り脱力するように腰を落としたユウキは、皿に残っていた眼帯の作った菓子をつまんだ。芳ばしい木の実と焦げたチーズは、悔しいことに母親の作る菓子よりも好みの味だ。
「親父は引退したんだから、あの眼帯みたいなのに関わるのはやめとけよ」
冒険者ギルドが決して清廉潔白な組織でないことくらい、ユウキも理解している。長くギルドの幹部を務めていた父親が、家族を巻き込まないギリギリの線で上手く立ち回ってきたのも知っている。そんな苦労をしてやっとのんびり暮らせるようになったのに、今さら眼帯のような厄介な人物に深く関わるのは、母親のためにもやめて欲しかった。
「あと俺を巻き込むのも止めてくれ」
父親が妻のために生きているように、自分も妻子の安全を優先したい。今回は子どもの頃から世話になっているコズエおばさん夫婦が当事者だから踏みとどまったが、これが赤の他人であればとっくに逃げだしていた。
パリパリとチーズ煎餅を噛み砕きながら愚痴る息子に、ヒロは哀れみの視線を向けた。
「ユウキの気持ちはわかるが、彼と縁を切るのは無理だぞ」
「なんでだよ」
「彼の最も信頼する仲間が、お前の伯父さんなんだよ」
「…………は?」
何を言っているのだ。両親は天涯孤独ではなかったのかと問い詰めるユウキに、ヒロは事情があって姿を見せることはないが、サツキには兄がいるのだと力強く繰り返した。
「お前の名付け親の一人が伯父だと教えていただろう」
「それは聞いてたけど、とっくに死んだのかと思ってた」
大陸中を放浪している冒険者の伯父の話なら、小さいころに何度か聞いた覚えがある。だが名前も知らないし、成人してからは両親がその存在をほのめかすこともなかった。ダッタザートでも毎月のように野垂れ死にした放浪冒険者の話が聞こえてくる。てっきり名前も知らない伯父も、どこかで野垂れ死んだと思っていたのだ。
ユウキのボヤキを聞いて、ヒロは申し訳なさそうに笑った。
「伯父さんを死人扱いするんじゃない。ミキさんに聞かれたら魔の島の奈落に蹴り落とされるぞ」
「死魔の島かよ……眼帯、ヤバすぎるだろ」
鋭すぎる気配のありようも、容赦のない差配も、剣を抜かずとも感じ取れる剣呑さも、死魔の島で素材採取を請け負える冒険者と言われれば納得だ。
「彼を制御できるのはお前の伯父さんだけなんだ。だから縁切りは諦めなさい」
「……その伯父さんは何処で何してんだよ」
物騒な眼帯を放置するな。ユウキは顔も知らない伯父に向けて心の中で叫んでいた。
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コウメイは薬店の奥にある一室に案内された。そこでは生かさず殺さずの状態のベサリーが隠されていた。外傷の手当てはされておらず、息が浅い。だが薄く開いた目には力があり、彼女はまだ挫けていないのだとわかる。手強い密偵だ。
「領主の元に返すんだろ、回復させねぇのか?」
「それは直前にします。傀儡魔術は心身が弱っている状態にかけるのが一番効果的なんですよ」
死ぬかもしれないという恐怖、敵地で生き延びる恐怖、そのどちらも不慣れな傀儡魔術を成功させるには欠かせないらしい。
ちょうどいい具合ですよ、とこぼしたジョイスの声を聞いて、彼もミシェルの弟子だったなと思い出した。組織の長なのだ、善悪どちらにも舵をとらねばならない状況で躊躇していては、守りたいものも守れない。
監禁病室の扉を閉めたジョイスは、出口の手前で幻影の魔武具を身につける。ボサボサの黒髪とくすんだ紫目の姿をまとった彼は、背後のコウメイを振り返った。
「……師匠が、どうして身を隠されているのか、ご存じですか?」
幻影をまとっているせいだろうか、ジョイスの視線には誤魔化しを許さない厳しさがあった。
「なんで俺に聞く?」
「アキラさんに聞くほうがよろしいですか?」
「……どういう、意味だ?」
「契約魔術ですよ、アキラさんの」
そこに魔術が存在するかのように、ジョイスは己の左手首をあげて見せた。
「無期限の契約魔術は存在しません。ですが師匠とアキラさんの契約には、期限が記されていませんでした」
「ジョイスさんが知らなかっただけで、存在してたってことだろ」
「いいえ、期限を定めない魔術契約は、どちらかの命の終わりが契約終了となるのですよ」
幻影をまとった紫目が薄く微笑んだ。
「本当に師匠が亡くなっているなら、とっくにアキラさんは契約魔術から解放されているはずです」
彼女の魔力量なら、死後数年なら契約魔術が残っていても不思議ではない。だが死後三十年も維持されつづけるなんてあり得ないのだ。
「師匠が身を隠して何をしているのか、ご存じですか?」
「知らねぇな」
コウメイは肩をすくめ、軽く首を振る。
彼女の思惑はこちらが知りたいくらいだ。
「そうですか……もし機会がありましたら、師匠に謝罪を伝えていただけますか?」
何の謝罪だと問いかけるコウメイに、ジョイスは不穏な笑みを返し薬店を出ていった。
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二度の試術の後、ベサリーに傀儡魔術を刻み込んだ。
うつろな彼女は命じられるままに主人が領主であること、そのたくらみを証言した。それはジョイスの推測とほぼ同じだった。しかし軍師の存在は認めたが、詳細はヒロの得た情報以上のものは聞き出せなかった。
「僕の術では、これ以上は難しいです」
傀儡魔術による尋問に区切りをつけ、魔法使いギルドへの退職届とカミーユへの別れの一筆を書かせた。筆跡や文面に魔術による不明瞭さが出ていないのを確かめてから、彼女の体を歩ける程度まで治療する。
「まっすぐに歩きなさい。通りを抜けるまで、決して誰の声にも応えてはいけません。わかりましたか?」
「……はい」
貧民街の奥でベサリーを解放した。
彼女は暗く汚れた狭い路地を、明るい表通りに向けて、足を引きずり歩く。
貧民街の路地裏には似つかわしくない見目の女性は、普段ならば表通りに出る前に引き戻され、身ぐるみ剥がされ売られている。だが不思議なことに、今の彼女は壁にもたれうずくまる貧民の目に映っていなかった。
彼女の爪先に表通りの日差しがあたった。
「……私は!」
影からでた途端はっきりと覚醒した彼女は、己の負傷を確かめると、確かな足取りで歩き出す。
彼女は自分の後を密かに追う存在に気づけなかった。