05 森の家
昼間でも夜のように暗く足場の悪い森を、彼らは四日も歩き続けた。夜の野営では、堅くデコボコした地面や、安定しない木の上が寝所だったため熟睡できなかった。疲労は溜まる一方だったが、それでも一言の弱音も吐かずに歩き通した二人に、アキラはやさしく手を差し伸べる。
「この灌木を越えれば終わりです」
差し出された手を握り返すのもやっとというほどに疲れ切っていた鞠香と祐也は、重く鈍い体を動かして見あげた。
「……眩し」
アキラの向こうに、光り輝く空間があった。
「着きましたよ」
その声が聞こえても、鞠香と祐也はすぐに反応できなかった。
思わず目を細め、光に慣らしてゆっくりと眺める。
木々の向こうに学校の運動場よりも大きな空間が広がっていた。
風に吹かれサワサワと揺れる赤みがかった麦畑。手入れの行き届いた菜園と、奥の木々は果樹園だろうか。少し離れた森の際には少し大きめの平屋が見える。
「……すごい、隠れ里みたい!」
「うわぁ、広い」
青く澄んだ空の下に、絵に描いたような田舎暮らしの風景を目の当たりにして、鞠香と祐也は感嘆の声をあげ、アキラとシュウを振り返った。
「素敵なところですね」
「ここに二人じゃなくて三人で住んでるんですか?」
驚きが疲れを吹き飛ばしたようだ。キラキラと輝く表情の二人を促し、アキラはゆっくりと歩き出す。
「四人ですよ」
「たった四人でこんな広い畑を?」
「むちゃくちゃ大変じゃありませんか?」
一年生の夏に経験した農家体験を思い出した二人は、手作業でこれを維持するのはとんでもなく大変そうだと心配になった。だがこれなら非力な自分たちでも、猫の手ぐらいには役立てそうだと安心する。
畑の間を歩くアキラが、日陰になっているあたりの菜園で黒っぽい塊に声をかけた。
「リンウッドさん」
「おう、遅かったな……なるほど、そういう理由か」
「ただいま帰りました。少し知恵を貸していただきたいのですが」
呼ばれて振り返ったのは、岩のような顔つきの中年男だ。呆れ顔でアキラを見あげた後、彼の赤い目が鞠香と祐也に向けられる。
真っ赤な眼球の不気味さに二人の背筋が伸びた。
立ち上がった赤目の岩顔は、意外なほどに背が高くたくましい身体つきをしていた。
ズルズルと引きずるほど長い服の裾を土で汚しながら畑から出てくる彼に、アキラは二人を紹介する。
「留守を守ってくれていたリンウッドさんです。こう見えて腕の良いお医者様ですよ。こちらの二人は鞠香さんと祐也さん、少しの間こちらでお預かりすることになりました」
「お、お世話になります」
「よろしくお願いします」
揃って頭を下げるエルフと羽族に、リンウッドはやさしげに目を細めた。
「……疲れているようだ、まずは休みなさい」
「ええ、慣れない森歩きで大変でしたからね。風呂を用意します。それと軽く食事をしましょうか」
家の中を案内された二人は、風呂やトイレといった水回りが、慣れ親しんだものと大きく変わらないことに安堵した。順番に風呂で四日間の疲れと汚れを洗い流し、アキラの服を借りて着替えた二人は、四日ぶりのテーブルと椅子を喜び、食器を使った食事にうっすらと涙をにじませる。あたためたスープとパンの簡単な食事で腹が満たされたころには、二人とも眠気を堪えきれなくなっていた。
「鞠香さんは屋根裏部屋を使ってください。祐也さんは私と同室になりますがかまいませんか?」
「大丈夫です」
「お布団、うれしい」
二人が風呂に入っている間に慌てて整えたベッドは、彼らが普段使っている板台に布団を敷いたものだ。それほど柔らかくはないが、地面に横たわるよりはずっと寝心地は良い。横たわった途端、鞠香も祐也も落ちるように眠ってしまった。
+++
空がかすかに朱く色付きはじめていた。
鞠香と祐也は眠ったままだ。
あらためて用意した夕食を囲んだ三人は、難しい顔をつきあわせていた。
「妙なエルフと獣人だが、どういう素性だ?」
アキラは食べながらその問いに答えていった。
鞠香らがどういう状況から白い場所に迷い込み、謎の声に導かれてこちらに出現したのか。その際の選択について説明すると、リンウッドは驚きに目を見張り、脂汗をかいた後に青ざめ、終いには頭を抱えてしまった。
「……つまり、お前らの故郷の若者は、またしても後先を考えずに、獣人やらエルフやらに姿を変えて、こちらに移り住んだ、と?」
「ええ、おそらく。勝手に連れてきて、すみません」
「いや……見捨てられんのも当然か」
「肩入れするつもりはなかったのですが、あの二人は他の五人との行動を望みませんでしたし、町に置くのは危険だと思いまして」
「鳥の獣人って俺はじめてだぜ。こっちにもいるのかよ?」
「わからん。そのあたりに詳しくないからな。それで……彼らをどうするつもりだ」
これまでもアキラたちは、誰かを拾ってはこの隠れ家に招き入れてきた。問題解決に手を貸し送り出してきたが、一度外に出した者は再び招くことはない。だがエルフと獣人の抱える問題を解決するのは、これまでほど簡単ではない。
「まさかここで一生匿うのか?」
「そんなつもりはありませんよ。こちらの常識を教えて、なんとか自立してもらいたいと思っています」
「抱え込む気がないのなら、アレックスを頼ったほうがいいぞ。ことはエルフと獣人だ、アキラは……あちらには詳しくないのだろう?」
少しばかり鼻根に皺を寄せたアキラは、悔しそうに息をつく。
「アレを頼るのは癪ですが、仕方がありませんね」
エルフ族は自分たちよりも先にサカイを保護している。そのときの状況も聞きたいし、もし鞠香が望んだ場合に受け入れてもらえるのかを確認したい。
「それともう一つ、調べなければならないことがあるんです」
嫌そうな顔をするリンウッドに、アキラは喫緊の懸念を伝えた。
「大陸のどこかに、彼ら七人のような者がほかにもいると考えられます」
「他にも、だと?」
「あー、それありそーだよなー」
修学旅行のバスが何台だったのか、何人乗っていたのかはわからないが、最低でも一クラス分の高校生がこちらに転移している可能性があるのだ。
「ヒトクラス、というのはなんの単位だ?」
「学び舎の教室の生徒の単位です。学校によって多少違いますが、だいたい四十人前後ですね」
「バスが一台じゃなかったらもっと増えるだろーぜ」
「……その七分の二がエルフ、七分の三が獣人かもしれない、というのだな?」
予想以上に多すぎる。重い表情で唸るように問うたリンウッドに、アキラは「可能性はあります」と低く返した。
「鞠香といったか、彼女は魔術が使えるのか? 羽の獣人は空を飛べるのかね?」
「明日二人に確かめてみますが、おそらく鞠香さんは魔術が使えません」
「ゴブリンに襲われたとき、魔術を使おーとして失敗してたよな」
立派な羽を持つ祐也も、走って逃げていたが飛ぶことを考えもしていないようだった。
「俺も最初は狼だって意識してなかったしなー」
「ああ、俺もそうだった」
アキラが自身の魔力に気づいたのは、転移からずいぶん経ったころだった。存在に気づき、増やし鍛えたことで今の自分がある。シュウもエルズワースに鍛えられるまでは、身体能力の高さは突出していても、人族の域を出ていなかった。鞠香や祐也、それにハリハルタに向かった彼らも、今の時点ではエルフや狼獣人の姿をした人族でしかないのだ。
「私も魔術が使えなかったころに、違法奴隷商の手先に襲われて、左腕を失いかけました。転移獣人も姿だけですから、反撃すら難しいと思います」
アキラの過去の被害を聞いたシュウが、恐る恐るに言った。
「もしかして、だけどさー。ずっと昔にエルフとか獣人が人族に虐待されてたって話、俺ずっと不思議だったんだけど。なんで裏切った人族に抵抗して逃げなかったのかなーって」
エルフの魔力なら人族の魔術師など指で弾くように排除できるだろうし、獣人だって本能に委ねればどんな包囲だって破れるだろう。エルフが身近にいて、自分も獣人の本能を経験したからこそ、不思議に思っていたのだとシュウが疑問を口にする。
それを聞いたアキラの顔が青ざめた。
歴史に刻まれているエルフや獣人族と人族との対立の発端は、転移したエルフや獣人がきっかけだった可能性はあるのだろうか。傍若無人なエルフや獣人の転移者と人族が対立し、報復や反撃が常軌を逸した非道となり、生粋のエルフや獣人族を巻き込んだのだとしたら……。
リンウッドを振り返ると、彼も似たような考えに至ったらしく、岩顔が暗く沈んでいた。
「なるほどな。決別のきっかけとなった犠牲者は、魔力や獣人力が備わっていない転移者だったかもしれない、というんだな?」
「ないとは言い切れないかもしれません……確かめられるでしょうか?」
アキラとシュウが頷くと、リンウッドは天井を仰いで額を手で覆った。
「……今すぐアレックスに知らせて、エルフ族と獣人族に警告を出すべきだろう」
「保護を頼むのですか?」
「それは連中と当人が考えることだが……もし一族の姿をした者が虐げられたとしても、早まらぬような材料は渡しておきたい」
歴史書には短く「決別した」としか書かれていない。その向こうには激しい戦いと多くの犠牲があったはずだ。誤解やすれ違いもあったのかもしれない。種族同士の戦は避けたいというリンウッドの訴えに、アキラはその場でミシェル宛の魔紙を飛ばした。同時にコウメイに宛て注意喚起を書き送る。マイルズとデロッシを通じ、各地の冒険者ギルドで、エルフや獣人の目撃情報やトラブルがないか調べてもらいたい、と。
「なんか、すっげーオオゴトになっちまったなー」
そんなつもりはなかったのにとシュウがぼやくと、何を今さらとリンウッドが鼻で笑った。
「お前たちの持ち込む厄介事は、いつもオオゴトじゃないか。今回は極めつけだがな」
「……納得できませんね」
「だよなー、俺たちのせいじゃねーし」
たまたま偶然が重なっただけ、巡り合わせが悪いだけだと頷き合う二人を、リンウッドは目を細めて眺めた。偶然も重なれば必然であるし、巡り合わせに良いも悪いもない。彼らに相応しい因縁が引き寄せられているとしか思えないのだが、そう指摘したところで二人は絶対に認めないだろう。
「アキラ、シュウ、二人とも心しておけ」
「……」
「今回の件は、この森の中だけではおさまらんだろう。人族として生まれた俺もだが、おそらくマイルズやデロッシも、お前たちの同郷の者がきっかけで、再び大陸が荒れるのも、種族間で争うのも、黙ってはおれんはずだ」
「……あの二人を保護して、独り立ちさせて終わりではない、と?」
「アキラが納得できるなら放置してもかまわんが、後味が悪いのは嫌なんじゃなかったか?」
顔を見合わせたアキラとシュウは、悔しそうに唇を噛んだ。
「今すぐに決めろとは言わんし、俺に強制する権限はない。だがな、ここまで深くかかわっているからには、逃れられんぞ」
そう言ってリンウッドは芋のスープを飲み干し、食事を終わらせた。
+
空になった皿を挟んで向かい合う二人は、どちらともなくため息をついていた。
「覚悟を決めろ、だってさー。どういう意味だと思う?」
「さあな……ただ、もう隠れていられなくなりそうな気はしている」
今回の転移では、エルフや獣人族が多いような気がした。これだけ広範囲に多くの亜人族が目撃されれば、大陸に何かが起きていると賢い者は気づくだろう。つけ込んで悪事を働こうとする者も現れる。それがきっかけとなって再びエルフや獣人族と人族の争いがはじまれば、きっと背を向けてはいられなくなる。
アキラの呟きを聞いて、シュウが首の後ろを揉んだ。
「俺たちで終わりだと思ってたんだよなー」
「……俺は、もしかしたら、と、どこかで気づいていたかもしれない」
「それ、やっぱサカイってエルフ転生したヤツがいるからだよな?」
「ああ、二度あることは三度ある、ということわざがあるからな」
テーブルの皿を集めた。重ねて置くと、まるでそれぞれの皿が、かつての、そしてこれからの転移者であるように思えて、アキラは目を伏せる。
「シュウは前に、転移獣人の救済を考えていただろう。今も同じか?」
「あー、あれか」
アキラの手から皿を受け取って台所に運んだシュウは、布巾を手に戻ってきた。テーブルを拭きながら迷いに沈むアキラに返す。
「そーだな、俺は今でも転移獣人が困ってたら、なんとか手助けしてやりてーって思ってるぜ。今なら助けられるだろーし」
ウォルク村を必死に探していたころは、知識も力も足りず何もできなかった。だが今は手助けできる力もコネもある。
「けどあの狼の二人みてーな感じでこられたら、俺にはわかんねーよって知らねーフリするかも」
「……そうなのか?」
なんだかんだ言いつつも手を差し伸べそうだと言うアキラに、シュウは「俺はそれほど人間ができてねーよ」と呟いた。
「少しは手助けできるよーになったけどさ、全員を助けられるほどの力なんて、俺にはねーし」
何人もの転移獣人に助けを求められても、全てには応えられない。だから手の届く範囲にいる、自分に敵意を向けない者にだけ手を差し伸べたい。
「けどよ、馬鹿の自業自得だって切り捨ててもさ、もやもやが残るんだろうなーって思うんだよ」
「罪悪感か」
「そこまで重くねーよ。喉に魚の骨が刺さってるみてーなカンジ?」
何とかしたいのに、どうにもならないもどかしさ。
「そー言うの気持ち悪いじゃねーか。だからそれがクリアになるのなら、ちょっと頑張ってみてもいーかな、とは思うかな……あー、こーいう覚悟をしとけって意味だったのかな?」
「シュウは潔いな」
「そんな立派なものじゃねーよ」
昔は足掻くだけしかできなくて、何の結果も得られなかったが、今なら少しは成果が出せるかもしれない。その程度の考えなのだとシュウは小さく笑う。
「アキラはさー、気負いすぎなんだよ」
乾いて少しざらついた指が、アキラの眉間にできたシワを突いた。
「リンウッドさんも今すぐじゃなくていいって言ってんだし、難しいこと考えるのは後回しにしてさ、しばらくはあの二人に集中してりゃいーんじゃねーか?」
実際、転移事故を防ぐような行動ができるわけではないのだし、転移者の救済といったって、目の前に現われた誰かに手を差し伸べる以外にできることはないのだ。
「どうせそのうちアレックスがやってきて引っかき回したり、デロッシさんとかがこっちの都合も考えろーって怒鳴り込んできたりするんだ。そのときに良心が痛まねー程度に働けば上等だと思うぜ」
「気負いすぎ、か」
「そーだよ。それに諸悪の根源は、夫婦喧嘩ばっかりしてる神様であって、俺らじゃねーんだぜ。使命とか責任とか関係ねーって好きなようにすりゃいーんだよ」
「確かにな」
神夫妻が喧嘩をしなければ、余波で不慮の死を迎える被害者も、救済として異世界に転移させられる者も存在しないのだ。被害者に賠償の責任はない。
「どうにかしろって怒鳴り込まれたときに考えればいいか」
「そーそー。俺らってさ、うわぁぁぁって勢いに流されてるときの方がなんか上手くまとまること多いだろ。色々考えて、考えすぎて結局駄目になるんだからさー、切羽詰まるまでほっときゃいーんだよ」
なんだか貶されているような気がしないでもないが、妙な説得力にアキラは頷いていた。
暖炉の前に二人分の寝所を作ったアキラは、ふと思い出して研究室に泊まるリンウッドに声をかけた。
「明日、彼らの診察をお願いできますか?」
「いいのかね?」
「この四日は、二人にとって精神的にも肉体的にもかなり過酷でした。疲労は蓄積していますし、熱を出すかもしれないので」
赤い魔石の瞳を輝かせるのを怪訝に思いつつ、アキラは鞠香と祐也の体調への心配を伝えたのだが、それを聞いた途端にリンウッドはわかりやすく落胆した。
「……ああ、そういうことか。かまわんぞ」
「何故そんなにがっかりしているのです?」
そもそも診察に何を期待しているのか。まさか少女の診察にかこつけて、助平心を満たそうとでもいうのかと、アキラは冷気をみなぎらせた目で岩顔を睨み据える。だがリンウッドの口から出たのはそれよりも悪い欲望だった。
「エルフではないエルフや、獣人族でない獣人の体を観察できる次の機会はないだろうと思ってな……いかんか?」
「駄目です、絶対に駄目ですからね!」
上目遣いでねだる中年男に、きっぱりと否を突きつけたアキラは、研究室の扉を閉め、普段はしない鍵をかけ、追加で魔術鍵も施して念を入れた。それを見たシュウは目を丸くしている。
「鍵かけるなんて珍しー。なんかあったのかよ?」
「……忘れてたんだ」
多少研究熱心が過ぎるリンウッドだが、基本は人畜無害な治療魔術師だ。少なくとも最近は、田舎暮らしを満喫する引退医師であったため、すっかり忘れていた。彼が己の体でさまざまな実験を繰り返す狂気研究者だという事実を。
「いやさすがにねーだろ、心配のしすぎだって」
「そうだろうか……」
「信用してやれって。そりゃ麻酔なしでグリグリやられたし、獣化抑制の薬の観察日記つけられたけどさ、人体実験はされてねーよ」
「……されてるじゃないか」
その夜、シュウは隠し階段前の床で寝るようにと命じられた。
+++
アキラの予想通り、翌日、鞠香と祐也は熱を出した。
「解熱の処方はあまり効いていないようだな」
「祐也のほーはだいぶ楽になったみてーだぜ」
「鞠香さんはまだ苦しそうだったわ。エルフには薬が効きにくいのよね」
そこは変わらないのね、とミシェルが汗で湿った鞠香の着替えを運んできた。
祐也が発熱しているとわかってすぐに解熱薬を処方した。女性の寝室に入るのは気が引けるが、鞠香の様子を確かめに屋根裏部屋に上がり、やはり発熱を確認したためミシェルを呼んだのだ。薬を飲ませるくらいならアキラでもできるが、ここは男所帯だ、少女の看病をするのはさすがにまずい。
「はい、これ。アレックスからせしめた処方よ。彼女にはこちらのほうが効くと思うわ」
あなたにもね、と差し出されたいくつかの処方を、アキラはありがたく受け取った。
洗濯を終わらせ、病人の様子を見つつ日課の菜園の手入れを済ませた二人は、茶菓子と香り茶を片手に庭のテーブルに落ち着いた。
「てっきりアレックスも来るかと思ったんですが」
「さすがにこの事態を一族に無断でどうこうはできないそうよ」
「アレなら好き勝手しそうなのに」
「彼が遊ぶのは責任が自分に及ばないときだけよ。己に返ってくるときはちゃんと責任者に責任を取らせる準備は怠らないのよ、彼」
「真面目なんだか不真面目なんだか……」
さわさわと赤ハギを撫でた風が、果樹園からほのかに甘い香りを運んできた。不思議なことにキルシエの木は、花だけでなくその葉からも甘い香りがする。
「兄が……」
嗅覚を撫でるようにして通り過ぎた風を、ミシェルの視線が追いかける。空にかかる薄灰色の雲を見て、彼女は苦しげに目を伏せた。
「わたくしの兄が捕らえ死なせたのも、魔力に気づいていないエルフだったのね」
「……」
「何故エルフが兄ごときに囚われたのか、ずっと不思議に思っていたのよ」
はじめて会ったときのアキラは、すでに魔法を使いこなしていた。だから彼女が魔力を持っておらず、抵抗できなかったと思いも至らなかった。感情に囚われて許したのだと思い込んでいたのだ。
「……テレンスさんは、エルフ族に?」
「いいえ。彼らの裁きは街を巻き込むでしょうから……」
ミシェルは嗚咽を堪えて顔を背けた。
人族の手で先に裁きを終わらせたミシェルは、それをもってエルフに情状酌量を求めた。その結果、アレ・テタルは滅ぼされずに済んだのだ。
「兄の罪とエルフが用意していた報復の詳細は、各国の魔法使いギルドに戒めとして伝えてあるわ。だから魔法使いギルドは、風変わりなエルフに危害を加えないと思うけれど……あれから人も変わっているし、確約はできないの。ごめんなさいね」
「ミシェルさんはもうギルドを引退してるじゃないですか。朝一番にコウメイからも連絡がありました。冒険者ギルドにはマイルズさんから話をしてもらえます。ひとまず国内のギルドは、世慣れない者を発見したら保護する方向で、と。必要な情報は開示して、忠告もしているのですから、私たちが目を光らせる必要はないと思いますよ」
「……それはそれで張り合いがないのよね」
「ワーカーホリックが過ぎませんか?」
「あなたに言われたくないわよ?」
そろって視線を逸らした二人は、冷めてしまった香り茶をゆっくりと飲み干した。
「そろそろ昼だぞ、サボってんじゃねー」
勝手口から顔を出したシュウが、飯を作れと二人を呼ぶ。コウメイ不在の料理当番は責任重大だ。
「お願いします、ミシェルさん」
「わたくしも得意なわけではないのよ」
「俺たちよりはマシですから」
シュウに任せたら三食バーベキューだ。まさか病人に焼き肉を食べさせるわけにはゆかない。仕方がないと台所に立ったミシェルは、コウメイが備えてあった調理済み保存食を使って粒ハギでミルク粥を作った。
「米は使わねーのかよ?」
「料理したことのない食材は使えないわ、失敗したらもったいないでしょう」
干し肉とみじん切りにした根菜を、粒ハギとミルクで煮込んだ粥は、シュウがよだれを垂らすほどに食欲をかき立てる香りがする。
「俺の分はねーの?」
「あなたたちは庭で肉を焼いて食べてなさい」
病人の食事を横取りするなと窘められて、シュウの耳と尻尾が切なそうに垂れた。肉の塊を持って庭に向かうシュウの背中に、焦がすなよと声をかけてから、アキラはミルク粥を大きめの椀に注ぎ入れた。
粥をのせた盆を手に扉を開けると、起き上がっていた祐也と目が合った。
「寝ていなくて大丈夫なのですか?」
「もう平気です。薬草のお薬がすごく効いたみたいで。それにひとりで寝ているのはちょっと退屈で」
働いて居候させてもらう約束のはずが、到着早々に寝込んでしまって気まずいのだと祐也が言う。先は長いのだから焦らなくてもよいとほほ笑んだアキラは、起きられるのならば一緒に食事をしようと彼を食卓に連れ出した。
食堂のテーブルに、小さなエルフが座っていた。
「鞠香さんも起きてきたのですか?」
「トイレしたくて起きたら、ミシェルさんが食事だっていうので……もう熱も下がったし、みなさんとご飯食べたいなって」
彼女の前には、ほかほかと湯気を立てるミルク粥が置かれている。アキラは鞠香の隣に祐也を座らせ、粥の椀を置いた。
「あたたかいうちに食べてください」
「アキラさんたちは?」
「そろそろ運ばれてきま」
「肉焼けたぜー!」
「芋も茹だったぞ」
アキラの台詞が終わる前に、山盛りの焼き肉の大皿と、茹でてほっこりとした丸芋を積んだ椀を持った二人があらわれた。その後ろには、調味料やソースの瓶を抱えたミシェルがいる。「野菜がない」とこぼしたアキラが酢漬けの瓶を探しに行った。
「「「「「いただきます」」」」」
「い、いただきます」
「……ます」
揃った声にびっくりしたのか、鞠香と祐也がぽかんとしている。
「変わってるでしょう? アキラたちと食事をするときはいつもこうなのよ」
「あの、全然変わってないです」
「すごく馴染みがあるので……ちょっとびっくりしました」
「あなたたちの故郷での、食事の前の祈りの言葉なんですってね」
いい言葉だと思うわよ、とほほ笑まれて、鞠香と祐也は弾むように頷いた。
食事を終えた鞠香と祐也は、片付けくらいは手伝いたいと申し出た。
「病み上がりなのだから、もう一晩しっかりと休んでください」
「でも、寝てるだけなんて退屈なんです」
「ぐっすり眠ったから、横になってても眠くないし」
暇を潰すゲームや音楽もないのだ、起きて何かしているほうが気が楽だと繰り返す二人に、ミシェルが不思議そうに問いかけた。
「二人とも、帰りたいとは言わないのね」
「帰る方法があるんですか?」
祐也は身を乗り出してミシェルに問い返し、鞠香は真っ先に大きく首を横に振った。
追い詰められていた鞠香にとって、異世界は救いだ。帰れと言われても帰りたくないし、もし帰れたとしても、克彦や大地と一緒は絶対に嫌だ。だが一人だけ戻れば、何故二人を見捨てたのかと叱られるだろう。幼なじみを見捨てたとネチネチ責められ続ける場所になんて帰りたくない。
「言いません。あたしだけ帰ったって、親は喜ばないし」
ミシェルは鞠香と親との関係を察して眉をピクリと跳ねさせた。血が繋がっていても分り合えないこともある。嫌い合う家族だっている。だが鞠香の口調やその表情は、成人年齢を五年も過ぎたにしては幼く、甘ったれているように感じたようだ。
「あちらでの成人年齢は二十歳ですから」
「今は十八歳が成人ですよ」
「法律が変わったんです」
事情が異なるのだとミシェルをなだめるアキラの説明に、二人が余計な情報を付け加える。少しばかり刺のある笑みを深めたミシェルは、祐也に方法があれば帰るのかと問う。
「……帰りたいけど、本当に帰る方法はあるんですか? 僕は帰れない気がしてるんですけど」
「あら、どうしてそう思うの?」
祐也は事故で自分たちだけが転移したことが引っかかると言った。
「すごく痛かったから。それに僕の近くには原田や岡崎もいたのに、二人はこっちに来てないんです。もしかして僕たち、向こうでは死んでるのかもなって。死んだのなら帰れないのを受け入れるしかないよね?」
「……ずいぶん物わかりが良いのね」
「ものわかり、いいんですか?」
「彼女のような場合は別として、普通なら家族や友人に会いたいと思うものじゃなくて?」
ミシェルの疑問はもっともだ。祐也は困ったように眉根を寄せる。
「会えるなら会いたいと思いますけど……そう言われると変ですね。あんまり帰りたいって気持ちが湧いてこないみたいだ。どうしてだろう?」
祐也のその言葉に、アキラ自身も覚えがあった。
この世界に放り込まれた当時、妹の身を案じはしたが、仲の良かった両親のことはそれほど考えなかった。懐かしく思い出すことはあっても、焦がれはしなかった。もしかしてこの世界に転移させられたときから、残してきた家族や友人を思い出させない力が働いていたのかもしれない。
「深刻な話はそのへんにしとけよ。二人とも病人なんだからさー」
「明日までは療養だと言ったのはアキラだろう、ミシェルを止めないでどうする」
「そうでした。二人とも、眠れないのでしたら眠れる薬を処方しますよ」
「お腹いっぱいになったら、眠たくなったかも?」
「明日から頑張って働きます、おやすみなさい」
濃厚な薬草の香りと味を思い出した途端、二人はわざとらしいあくびを見せて与えられた部屋に逃げ帰ってしまった。
「……そんなに不味かったか?」
「だからリンウッドさんに頼めばよかったんだよ」
「自分が平気だからといって、他人が我慢できるとは限らんのだぞ」
「あいかわらずねぇ」
「……」
料理のなくなった食器を集めたアキラは、皿を洗う間ずっと首を傾げていた。