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やたら長い人生のすごし方~隻眼、エルフ、あとケモ耳~  作者: HAL
12章 砂に埋もれた面影

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ゾーラント邸、脱出


 深夜に陣痛を訴えたエラの部屋に、治療魔術師と出産経験のある召使い数名が集められた。見張りは全員廊下、立ち会うと主張して譲らなかったブルーノは、コウメイとともに隣室だ。


「私にはギャレット様のお子の出産を見届ける義務がございます!」

「同性ならまだしも、自分を閉じ込め続けた男に見られたくねぇに決まってるだろ」

「貴族ならば当然だ」

「彼女は貴族じゃねぇ」


 家族や信頼できる者ならまだしも、拉致監禁し食事や飲み物に薬物を混入し続けてきた者の手を借りての出産だ、そこに貴族的慣習だか決まりだかを押しつけてしまえば、エラの出産は難しくなる。

 貴族と平民は違うのだと繰り返して、コウメイはブルーノを隣室にとどめていた。


「だいたい出産ってのは何時間も、長ければ生まれるのは明日になるかもしれないんだぞ。あんた仕事放り出してていいのかよ」

「旦那様からはお子様を最優先にと命じられている」

「子どもを産むのは彼女だぜ、生まれるまでは母胎を最優先しろよ」


 ただでさえ出産は命がけ、痛みも苦しみも取り除いてやれない。陣痛の痛みであがる声を聞くたびに、赤子を心配して様子を見ようとするブルーノに、余計な精神的肉体的な負担を与えるなとコウメイは釘を打ち続けた。

 空が白むころになってもエラの出産は終わらない。あまりにも落ち着きのないブルーノを見かねて、リネットが変化があれば報告するから通常業務に戻れと追い出した。


「執事殿がそのような様子では、これまで隠し通した苦労が無駄になりますわ」


 治療魔術師のささやきで冷静になったブルーノは、秘密を知らない召使いらを遠ざけ、ことが終わるまで外部と関わる仕事を中断させるため、慌てて執務に戻った。

 隣室に残ったのはコウメイ一人だ。


「あんなに苦しそーな声、聞いてらんねーよ」

「俺らは産めねぇからなぁ」


 天井から漏れ聞こえたため息と呟きに、コウメイは静かに頷く。エラの声は息も絶え絶えかと思えば、苦痛を堪えるうめきにかわり、ときに悲鳴のように響く。


「昼の間は林の中、閉門後は西三番壁の下に箱馬車を待機させているそうだ」

「早く生まれたほうがエラさんは楽だけど、逃げるなら夜のほうが安全だしなー」


 多数の目撃者と障害物を害さないように逃走せねばならない昼間と、追っ手だけを警戒すればよい夜とでは難易度が違う。


「ところで、どんな口実で当番を代わってもらったんだ?」

「本宅の女の子にもらった菓子を食って腹下したことになってるぜー」

「そんな理由で交代してくれたのかよ?」

「銀貨一枚と、街にいる美人を紹介するつったら交代してくれた」


 日当四日分と架空の美女のどちらが目当てなのかわからないが、その口約束は果たされずに終わるだろう。


「今度はシュウが騙された恨みで追いかけられるのか……」


 金の恨みも女の恨みも甘く見てはいけない。天井を仰ぎ見るコウメイのしかめっ面に、シュウは「騙してねーぞ」と返した。


「ちゃんと銀貨は払ったし、美人のいる店の名前も渡してきたんだぜ」

「俺が監禁されている間に、娼館でお楽しみだったのかよ?」

「ちげーよ、シュテル商会だよ。おじょー様、顔つき鋭いけどけっこー美人だし」

「……シュウ、それはシャレにならねぇぞ」


 真に受けた門番が商会に向かえば、下手をしたらその場で打ち首にされかねない。コウメイはイタズラは時と場合を選べとシュウを咎めた。


「お」

「あ」


 誤魔化し笑いと眉間に皺を寄せた二人の間に、魔力のきらめきが割って入った。すぐに紙の形を取ったそれは、コウメイの手の中に舞い落ちる。


「緊急事態だ、男爵令嬢がこっちに向かってるらしい」


 こちらの異変を知ったからか、それとも定例の見舞いなのかはわからない。令嬢の伴としてアキラもゾーラント邸に向かっていると知らせてきた。


「どーすんだよ」

「執事が何とかするだろ、いつも通りに」


 間が良いのか悪いのかわからないが、ブルーノなら適切な対応をとるだろう。

 そう言ったコウメイに、シュウは顔をしかめた。


「廊下とか庭もだけど、エラさんのこと知らねー奴らも、いつもと雰囲気違うって落ち着かねー感じだぜ。おじょー様ならビミョーなこの空気に気がつきそーな気がするんだけど」


 恋するご令嬢の執念を甘く見てはいけない。


「ギャレットが面会を受ければ誤魔化されてくれるか?」

「自信満々じゃねーか」

「ご令嬢はこの顔が気に入っているらしいからな」

「嬉しーだろ、モテ顔で」

「面の皮だけ気に入られても嬉しくねぇよ。顔は同じでも中身は違うんだぜ、なんで気づかねぇんだか」


 三年もの間会えなかったとしても、記憶を失っていても、それでも想いは変わらない、と恋い焦がれたご令嬢の手紙にはあったが、コウメイはそれは恋でも愛でもなくただの執着だと冷たく吐き捨てる。


「馬車が止まったぜー」


 エラの声にまぎれた蹄と車輪の音を聞き取ったシュウが、外を確かめろと促した。監禁部屋から正門は見えないが、庭に配置された甲冑兵の意識が正面玄関の方を向いているようだ。


「キンキンしたあの声はおじょー様だ」


 よく聞き分けたものだとシュウを振り返ると、苦しそうに顔を歪めていた。獣人の聴覚を研ぎ澄ませて音を拾っているせいで、エラの痛みと苦闘の声がシュウにも痛みを伴って聞こえるのだ。


「シュウ、耳塞いどいていいぜ」

「俺は自分の役割を放棄しねーって……急いでるっぽい足跡が近づいてくるぜ」


 コウメイは身振りで隠れていろと指示し、開くであろう扉に背を向けた。

 駆け込んできたブルーノは、珍しく苛立ちを声に乗せていた。


「シュテル男爵令嬢を上手く追い返しなさい」

「これまで面会断わってきたのに、今さら?」

「妾様の出産に気づかれては困るのです」


 どれだけ注意を払っていても、同じ館内にいれば緊迫した空気はどこからか伝わってしまうものだ。ブルーノはご令嬢を満足させ、速やかに追い返すようにと命じた。

 ギャレットらしい衣服に着替えたコウメイは、監禁部屋から遠く、かつ玄関に近い応接室へと急いだ。


「ギャレット様、お元気になられたのですね!」


 応接室にあらわれたコウメイを見た瞬間、マリアナ・シュテルは貴族の淑女としてあるべき礼儀を忘れた。弾むようにソファから立ち上がる彼女からは喜びが溢れている。さすがに駆け寄りはしなかったが、ギャレットが明るい窓側を背にして座ると、まぶしげに目を細めうっとりと見惚れた。


「……何度も見舞いに来ていただいたのに、体調が安定せず申し訳ありませんでした」

「謝らないでくださいまし。ギャレット様のお体を最優先して当然ですわ。それにお手紙をくださいましたもの、それで十分ですわ」


 婚約者に全身全霊を向ける男爵令嬢の後ろに控えたアキラは、気弱な婚約者を演じるコウメイを醒めた顔で見ていた。

 コウメイは斜に構えたいつもの皮肉げな笑みではなく、不義理ばかりの相手に媚びるような表情で、いつもより甘い声で令嬢の自尊心をくすぐっている。出産の真っ最中なのだ、穏便に、決して気取られることなく追い返したいという執念が見て取れる。


「お嬢様、こちらをお渡ししなくてもよろしいのですか?」


 コウメイが襤褸(ぼろ)を出す前に会話の主導権をマリアナから奪わねばと、アキラは根掘り葉掘りにと婚約者の日常を聞き出そうとするお嬢様に、持参した籠を差し出した。


「まあ、わたくしとしたことが……ギャレット様、今日お持ちしましたのはこれまで贈ったものよりも効果のある錬金薬ですのよ」


 アキラから奪って自ら婚約者の手に渡した錬金薬の瓶を、彼女は「特別なお薬ですの」と、うっとりとした下心満載の笑みでコウメイを見つめる。


「そ、そんな貴重なものを……これまでも沢山頂いているのに、よろしいのですか?」

「ギャレット様が寝台から出られるようになったことや、お会いできるほどの回復に貢献できたのでしたら本望ですわ」


 マリアナは錬金薬の上からコウメイの手を握った。女性の側から殿方の手を握るなどはしたない行為だが、待っていてはギャレットから触れてはくれないのだから致し方ない。記憶を失ったことで以前よりも当たりの柔らかくなったこの好機を逃してはならないと、彼女は積極的に婚約者の手触りを堪能していた。


「手が荒れていらっしゃるのね」

「さ、さまざまな薬を飲んだので、思わぬ症状が皮膚に出てしまって……このような状態なので、せっかくいただいた薬も飲めるかどうか」


 コウメイは甘く囁いて誤魔化し、さりげなく令嬢の手から逃れて錬金薬の瓶をブルーノに渡した。いくら顔はそっくりであっても、彼の手は皮膚が厚く傷跡も多く残る冒険者の手だ、わずかな違和感を追及されては困る。


「まあ、それでしたら心配ございませんわ。わたくしの薬魔術師はとても美味しい錬金薬を作るのです」

「美味しい、ですか?」

「ええ、ギャレット様に差し上げるお薬ですもの、わたくしがちゃんと安全を確かめておりましてよ」


 いくら効果があっても不味い薬を婚約者に飲ませたくないからと、彼女はアキラに毒味をさせた後、自身も味見を済ませている。今回の錬金薬は蜂蜜の香りがしてほのかに甘かった。ぜひ味見を、と彼女は執事に命じる。


「……主治医に見せてからでなければギャレット様に飲んでいただくのは」

「私が毒を盛るとでも?」

「ブルーノ、ほんの少し味見するくらいなら大丈夫じゃないか?」


 チラリと、コウメイの視線が確認を取るように向くと、フード姿の陰から唯一見えている薬魔術師の唇が薄く笑んだ。


「しかし……」


 これまで執事が受け取った見舞いの薬を、ブルーノはリネットに調べさせてきた。どれもほとんど効果がないとの結果だったが、今回押しつけられた錬金薬も無害とは限らない。身代わりの平民がどうなろうとかまわないが、赤子が無事に生まれ、代筆の書類が受理されるまでは、コウメイは生かしておかなければならないのだ。


「ギャレット様、わたくしを侮辱したこの者を解雇してくださいませ」

「それはできません。私の回復に貢献したのは彼です」

「ですがわたくしへの侮辱は聞き捨てなりませんわ」

「ブルーノ、ほんの少し舐める程度だ、用意しなさい」


 平民に命令される屈辱を堪えて、ブルーノが小さな皿と銀スプーンを用意した。ほんの一滴が落とされたスプーンを、コウメイはゆっくりと口に運んだ。


「……う、うぅ」


 ひと舐めした直後にスプーンを落したコウメイは、口を手で覆って苦しそうに呻いた。


「な、なんですの? どうされましたの、ギャレット様?」

「喉の奥が痛いような……っ」

「や、薬魔術師、どういうことです!?」

「薬は体質やそれまでの服薬歴によって合わない場合があるのは当然です」


 それを知っている執事が止めたのは当然の行動で、強引に飲ませようとしたお嬢様に問題がある。そうアキラが指摘すると、彼女は逆上して叫んだ。


「お前のせいよ、全てお前が悪いんだわ!! 解雇するわ、お前のような役立たずはクビよ!」


 婚約者の前であることを忘れて、男爵令嬢はヒステリックにわめき散らした。そしてフードを乱暴に掴み、自らの手で追い出す素振りでそそくさと応接室から逃げるように帰っていった。


「追い出せたな。あの様子ならこちらの騒ぎには気づかねぇだろう」

「……なかなかの演技でした」


 悔しそうに唇を固く閉じたブルーノは、令嬢が門の外に出るのを確かめるよう使用人に命じ、コウメイを部屋に戻した。


   +++


 コウメイが足早に部屋に戻ると、隣の部屋は静まりかえっていた。


「まさか生まれたのか?」

「まだだぜ」


 焦って扉に手を掛けようとするコウメイを、天井裏から顔を出したシュウが止めた。その声はのんびりとしたものだ。


「痛みが軽いターンってのに入ったみてーで、休憩? してるっぽい。飲み物運び込んでたぜ」

「出産の真っ最中に、飲み食いなんてするのか?」

「しらねー。けど討伐だって水分補給くらいはするし」


 夜中から明け方まで、エラはずっと苦しみ続けていた。その間に汗も涙も流しているし、声を上げ続けて喉もかすれている。そのまま飲まず食わずで赤子が出てくるまで戦うのは厳しい。


「出産と討伐を一緒にするな」

「いやでもさー、どー考えても命がけの戦いだって、これ」


 生死のかかる出産は、間違いなく最も厳しい戦いなのだと、シュウは実感していた。漏れ聞こえる声と緊迫した気配は、スタンピードの現場にも似ている。討伐ならば勝手知ったるものだが、これまで出産と縁のなかった男二人には、壁一つ隔てた場所で待つことしかできない。


「生まれるのは夜になりそーだってさ」


 盗み聞きした治療魔術師と侍女らの会話によれば、想定よりも時間がかかりそうだとのことだった。


「脱出にはいいタイミングか」

「けどこれから何時間も、ハラハラして待ってるだけってのはたまんねーよ」

「だったら玄関の様子を探ってきてくれないか」


 シュテル男爵令嬢が敷地を立ち去るのを確かめてこいと指示され、シュウが天井裏を移動する。まるで忍者のように気配を消し、わずかな物音すら立てずに移動する様を、コウメイは呆れ半分に見送った。


「あのガタイでなんで物音一つたてねぇで天井裏を這えるんだよ」


 貴族の邸宅の造りは頑強だが、天井板は忍び入った曲者が踏み抜くのを狙って限りなく薄く仕上げられている。コウメイも監禁された当初、天井裏からの脱出を試みたが踏み抜かずに逃げるのは無理だと諦めた。

 コウメイがノックして扉の隙間を大きくすると、寝台のエラがゆっくりと顔を上げた。


「今、大丈夫か?」

「……もちろん」


 疲れの濃い笑みで頷いて返したエラだ。召使いらの目がある、余計な言葉は口にできない。視線で「計画通りに変更なしで」と伝えた彼女は、深く息を吸い込んだ。痛みが戻ってきたのだろう、笑みがしかめ顔に変わる。

 コウメイは「頑張れ」と頷き返して監禁部屋に戻った。リネットらも陣痛に耐える声を再び囲む。

 見張りがエラに意識を向けている間にと、コウメイはベッドシーツを裂いて赤子を包める袋を作りはじめた。戦闘を想定すれば逃走時に両手を開けておかねばならない。かといって背負えば、図らずも盾にしてしまう可能性がある。


「抱っこスリングだっけ? こんな感じだったか?」


 赤子を包み込む部分は、十四、五年前のユウキを思い出しながら大きさを決めた。細く裂いたシーツで編んだ紐で端を縛り、斜めに掛けられるようにしっかりと固定する。


「何をのんびり工作なんかやってんだ?」


 頭上から降ってきた呆れの声に、コウメイの肩がピクリと弾む。相変わらずシュウは仲間にすら気配をけどらせない。


「脱出用の小道具だよ。玄関はどうだった?」

「おじょー様の馬車は敷地を追い出されてたぜ。それとアキラが門のとこに捨てられてた」

「捨てられた?」

「馬車から蹴り出されてた。アキラの尻をマジ蹴って追い出すんだぜ、すげーおじょー様だよな」


 のぞき見していたシュウによれば、玄関から門まで移動した男爵家の馬車は、門扉が閉まる前にアキラを放り出したのだが、そのときご令嬢の靴が扉から突き出ていたのだという。


「アキラが女にモテなかったのってはじめてじゃねーの?」


 堪えきれない笑い声が漏れている。隣室のエラの声がなければ見張りに発見されているだろう。

 男爵家の馬車はそのまま走り去った。


「次に街の中で見つけたら貴族を害した罪で縛り首だぞ、って執事が怒鳴ってたぜ」

「なるほど、街を去る正当な理由を得たわけか」

「すげー良いタイミングだよな」


 アキラのことだから脱出にあわせて縁切りを狙っていたに違いない。子爵邸の騒動と同時期に街から出ても、二度と戻ってこなくても疑われないだろう。これから堂々と旅支度の買い出しを済ませ、箱馬車とアマイモ三号の準備を整えて合流を待つに違いない。


「シュウも彼女を運ぶ用意は出来てるのか?」

「用意つったってなー、布団で包んで抱えて逃げるだけだし。あー、悪ーけど、エラさん抱えてる間は戦えねーからな、俺」

「わかってる。反撃は俺がやるが、武器がねぇんだよなぁ」


 身分証とともに取り上げられた剣は館のどこかにあるはずだ、それを探し出してきてくれと頼むコウメイに、シュウはニヤリと笑って返した。


「あとで金払えよー」


 声とともに落ちてきた物を受け止める。


「これ、俺の剣か」


 街で売られていたと告げるシュウはニヤニヤと人の悪い顔をしていた。


「中古武器店で見つけた。いくらだったと思う?」

「一万ダルくらいか?」

「なーんとこの死神の魔剣、今だけ! 今だけ特別価格で九十五%オフなんですよー!」

「……ひでぇ」


 見る目のある者ならば最低でも一万ダルの値はつけるはずなのに、中古ナイフ並の五百ダルで売られていたと知ったコウメイはがっくりとうなだれた。剣を握る手にも怒りの力がこもっている。残念ながら身分証はまだ子爵家のどこかに保管されているだろう。こちらは諦めるしかなさそうだ。

 敷地を囲む壁の越えやすい場所に目星はついているが、邸内の警備の穴はまだわからない。コウメイに武器を渡したシュウは、今度は逃走経路の選定に向かった。

 陣痛の波にあわせた休憩のたびに様子を確かめながら、コウメイは隣室でじりじりと待ち続ける。

 空が曇り、室内の魔道ランプの全てに魔石が補修されて半鐘ほど経ったころ、治療魔術師が予想していたよりも早く赤ん坊が外に出せと主張をはじめた。


   +++


 いよいよ産まれそうだと知らせを受けて、ブルーノがコウメイの部屋にやってきた。彼は一枚の羊皮紙と削って尖らせた魔石を机に置き、椅子に浅く腰を下ろす。注意深い彼にはあるまじきことに、コウメイが狩猟服姿であることも、腰ベルトに売り払ったはずの剣があることにも気づいていない。扉を見つめる視線はチラリともよそ見せず、伸ばした背筋はまっすぐで硬い。けれど膝の上に置いた手の指先だけは、落ち着かないのか小刻みに動いていた。

 隣室からの声が、それまでになく大きく切羽詰まったものに変わる。

 喉が裂けるのではないかと思うほどの声は、聞く者の心臓をきゅっと絞めるようだ。

 エラの鳴き声にまじって、リネットや手伝いの侍女らの、なだめ、励まし、奮起させようとする声が聞こえてくる。

 まだか、まだかと気持ちが前のめりになるにつれ、ブルーノは身を乗り出し腰を浮かす。

 甲高いエラの声が空気を裂く。

 三度呼吸をするほどの沈黙ののち、人食蛙を叩き潰したときのような音が聞こえたかと思うと、すぐに元気な泣き声が響いた。


「産まれましたか……声だけは元気そうだが」


 羊皮紙と魔石を掴んで立ち上がったブルーノは、ノックなしに扉を開け隣室へと進む。その後に続いたコウメイは、混乱した室内を一歩引いて観察した。エラにかかりきりの治療魔術師を無視し、ブルーノは赤子を清めている侍女に「こちらに連れてこい」と鋭く命じた。食事に使っていたテーブルに赤子を寝かせ、羊皮紙がその横に置かれる。ブルーノは手にした魔石の針で赤子の腕を突いた。


「なにを、するのよ!」

「ゾーラント家の血を引く子かを確かめなければならないのです、黙っていなさい」


 産声とは異なる鳴き声に、エラが寝台から起き上がろうとする。それを声荒く制止してブルーノは魔石に着いた赤子の血で羊皮紙に何かを書いた。


「……おお、間違いなくギャレット様の御子だ!」


 それはゾーラント直系の血、現オルバーン・ゾーラント子爵の血がどの程度引き継がれているかを判定する特殊な判別紙だ。赤子の血に反応して判別紙の半分ほどが青く染まった。分家筋の者の血では付着した血の周囲がわずかに染まる程度、まったくの他人の血では判別紙は変色しないのだ。


「至急、旦那様にお知らせせねば」


 青く染まった判別紙と魔石をしまい込んだブルーノは、赤子を侍女に任せて部屋を出て行った。母親であるエラは眼中にはない。

 赤子が子爵家の跡取りだとわかった途端、侍女らの表情が引き締まった。丁寧な手つきで赤子を清め、用意していた中からもっとも新しく手触りの良い布で包む。あらかじめ命じられていたのだろう、侍女は赤子を抱いたままエラに背を向けた。


「ま、待って。その子はあたしの」

「お疲れ様でした、ゆっくり休むためにも、これをお飲みなさいな。疲れの取れる錬金薬ですわ」


 治療魔術師はエラを押さえつけ、その口元に小瓶を寄せる。呼び止めようとすれば口を開けるしかなく、けれどそうすれば怪しげな薬を口の中に流し込まれかねない。エラは硬く口を閉じ抵抗を続ける。

 その視界の端をコウメイが素早く動いた。


「悪ぃな、連れて行かせねぇぜ」


 扉の鍵に触れる寸前に、コウメイが侍女の手から赤子を奪ったのだ。

 同時にその口を塞いで引き戻し、気絶させる。


「その薬も自分で飲んでみろよなー」


 天井から降り立ったシュウはリネットを引き剥がし、彼女の手を覆うようにして掴むと、エラに飲ませようとしていた薬瓶を押しつけた。必死に抵抗するも、シュウの硬くて強い腕の力はゆるまない。二本の指で口を強引に開かされ、そこに薬液が容赦なく注ぎ込まれる。

 ごほ、ぐほ、と溺れ呻くような声が漏れ、すぐにリネットの視線がうつろに揺れ、焦点が失われた。


「即効性かよー、自業自得だぜ?」

「あ、あたしの、子」

「コウメイが抱いてるから心配ねーよ。あんたは俺が運ぶ。薬はどこだ?」


 枕の下に隠してあった錬金薬の瓶を取り出したエラは、コウメイの胸に縛り付けるように抱かれた赤子を確かめると、迷わずに薬を飲み干した。

 一日をかけた出産で激しく疲労していた彼女は、薬が喉を流れ落ちる間にも急激な眠けに意識を引っ張られた。目の前で治療魔術師が毒に倒れるのを見ていたのだ、もしや自分も、との疑念と恐怖に襲われる。

 助けを求めて手を伸ばしたいのに、体が重くて動かない。


「しっかり眠って体を回復させろ。目が覚めるころには、この子もあんたも自由だ」


 朦朧としてきた意識と視界で判別できたのは、眼帯をした夫の顔と、久しぶりに聞くやさしい言葉と声だけだった。


   +++


 薄手の毛布でしっかりと全身を包んだシュウは、エラの負担にならないようやさしく抱き上げた。

 コウメイは長椅子を続き部屋への扉の前に移動させ、廊下に面した扉は絨毯に傷をつけながら引きずった書棚で封じる。追っ手の足止めくらいにはなるだろう。

 スリングで固定した赤子をしっかりと腹に押し当て、剣を抜いてシュウを振り返る。


「窓の鉄格子を蹴り破るんだ。見張りの二人は見習いだから一撃で仕留めろ」

「攻撃はコーメイの担当じゃねーのかよ」

「蹴り破るついでに倒せ。それくらい簡単だろ。逃走経路は?」

「左斜めの生け垣を飛び越えて、菜園の手前を右方向にまっすぐ。すぐに見えてくる物置小屋の屋根から壁を越える。暗いから眼帯なしをおすすめするぜー」

「了解。いくぞ!」


 眼帯を乱暴に取り去るのと同時の合図で、シュウは数歩の助走ののち、はめ殺しの窓を鉄格子ごと蹴り破った。

 うまく鉄格子に乗るようにして窓を破った彼は、そのまま甲冑兵の一人を踏み潰し、跳ね上がる反動を利用して飛ぶと、縁石を狙って甲冑の後ろ首を蹴り落とした。

 鉄格子とシュウの体重に踏み潰された兵士も、頭部を石で強打した兵士も起き上がろうとしない。指定通りの一撃で仕留めたシュウは、どうだとばかりに振り返る。


「もっとやさしく運べないのか?」

「ちょっとチューモン多すぎじゃね?!」


 褒められるどころかダメ出しされ、さすがに声が大きくなる。

 シュウの声と破壊音を聞いて、廊下の兵士が扉を叩いていた。

 屋外配置の兵の足音がこちらに向かっている。

 コウメイは左斜めの生け垣へと駆け出した。


「あー、くそ、置いてくなって!」

(声が大きい)

(ちくしょー)


 松明の明かりを絶妙に避けて物置小屋に辿り着いた二人は、ゾーラント子爵邸を脱出したのだった。


   +


 人通りのない夜の街を走り抜けるのはそれほど難しくはない。追っ手の私兵の他に彼らを妨害する者はいないのだ。ブルーノが街兵に通報していれば違ったかもしれないが、子爵家の非人道的な策略が発端なのだ、執事には判断ができなかったのだろう。


「子爵が不在でラッキーだったぜ」

「ゴブリン様々だな」


 夜の街を駆け抜け、建物と街壁の間に身を潜める。

 コウメイの投げたロープが壁を越えた。

 しばらく待ってゆっくり引くと、しっかりとした手応えがある。


「先に行くぞ」


 するするとロープを頼りに壁を登ったコウメイは、待ち構えていた箱馬車の屋根に飛び降りた。


「降りる場所を考えろ、屋根が壊れる」

「悪ぃ、この子を頼む」


 抱いていた赤ん坊をアキラに渡すと、コウメイは予備のロープを持って再び壁の上へと登った。さすがのシュウでも、意識のない成人女性をかかえたまま壁は越えられない。コウメイが投げ渡したロープで毛布ごとエラを荷造りして引き上げ、ようやく彼らはリスビンデの街から脱出した。



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