ゾーラント子爵家のギャレット
馬車が整地の不十分な道に入ったのだろう、ガツン、ガツンとした振動にコウメイは目覚めた。
「って……」
罠に引っかかったとすぐに思い出した彼は、目を閉じたまま全身に神経を行き渡らせる。奇妙なことにコウメイは拘束されていなかった。
「……同じ手に引っかかるとはなぁ」
自己嫌悪はひとまず棚上げにして、コウメイは状態把握に努めた。
体の下に敷かれている毛布はかなり厚手のようで、床板の硬さを感じない。薄目を開けて周囲を探った。暗闇だ。複数の人の気配を感じる。暗闇に目が慣れてくると、室内の様子が見えてきた。箱馬車の室内のようだが、自分たちのキャンピングカーではない。人の気配が多いのは壁の向こうだ。四方を囲むように存在するのは護衛ではなく見張りだろう。室内の気配は自分以外にもう一つある。
「生きてる、な」
かすかに感じる呼吸の気配に胸を撫で下ろした。
コウメイは自身の体を探った。声は出るし舌の動きも正常、手足の先に力をこめれば痺れも残っておらず不自由なく動く。壁越しに聞こえる馬の足音と人の声が聞き分けられるなら聴覚にも問題はなしと結論づける。
静かに身を起こしたコウメイは、素早く衣服を検める。剣や解体用ナイフなどの武器は全て取り上げられていた。携帯していた錬金薬も奪われている。財布もなくなっていたが、上着の襟裏に隠した銀貨には気付かれなかったようだ。胸ポケットの銀板は残されていた。おそらくは用途がわからなかったからだろう。
「お、ちゃんと追いかけてきてるな」
小さく発光する銀板が、コウメイとその周辺を照らす。
シュウを示す赤い印が自分の青印を追いかけるように移動していた。敵にさらわれたのは失態だったが、銀板があれば合流は難しくないだろう。
ほっと息をついたコウメイは、銀板を表示させたまま、その灯りで室内の捜索をはじめた。
深い灰色の壁に窓や扉はない。むき出しの板だと思っていた床は、艶のある朱塗料で塗られていた。砂埃と土で汚れの靴で踏むのが申し訳ないほどピカピカだ。
そこにエラが横たえられていた。
「女性を床に転がすなよ……」
コウメイは彼女の側に膝をついた。まさか彼女が土埃のまじる床に毛布も何もなしに転がされているとは思わなかった。
銀板のほのかな灯りでは顔色の判別は難しいが、寝顔は苦悶に歪んでいる。素早く全身を確かめたが外傷は見あたらない。
「毒の影響が残ってなきゃいいんだがな」
襲撃に使われたのは麻痺か眠りの毒だ、効果が切れればすぐに目覚めるし、今のところ自分には何の影響も残っていないが、彼女と胎児も無事とは限らない。コウメイは自分が寝かされていた毛布の上にエラを移した。体が楽になったからだろうか、耐えるようだった彼女の寝顔がかすかに柔らかくなる。
「この待遇だ、狙いは俺……じゃなくて、そっくりなヤツか」
妊婦だと知らなくても、普通に考えれば男の自分ではなくエラを毛布の上に寝かせるだろう。それをしないのだから連中の本命が自分で、エラはおまけと考えるのが自然だ。
「確かギャレットつったな、いったいどういう素性なんだ?」
砂漠の盗賊の襲撃も偶然ではないだろう。霊園手前での待ち伏せといい、襲撃者の充実した装備、そして移送のために使用されている箱馬車や見張りの人員らに、莫大な金と権威の影が見え隠れしている。エラが言っていたような平民が横恋慕をこじらせた末の計画というには無理があるような気がした。
コウメイは自分たちの作った居心地の良いキャンピングトレーラーと、現在押し込められている壁と寝台だけの室内を比較する。
「見た目に反して、ずいぶんと高性能な護送車じゃねぇか」
体感できる速度と振動がそれにそぐわない。聞こえてくる足音から馬は四頭、しかも疾走といってもいい走りだというのに、驚くほど揺れは穏やかだ。舗装されていない悪路でたまに車体が跳ねるが、体に力を入れて耐えるほどではない。
揺れに乗じて壁を叩いてみると、板壁ではあり得ない感触があった。鉄板か鉄棒が入っているのは間違いない。決して逃さないという執念が読み取れるこの馬車は、どう考えても平民を移送するためのものではなかった。
「ギャレットってヤツ、貴族だったのかよ」
これまでの状況から、冒険者と駆け落ちして逃げた貴族の青年を、実家が人を雇って連れ戻そうとした騒動に巻き込まれたと考えるのが自然だろう。コウメイは推測が外れていてほしいと願いつつ、覚悟を決めるしかないと息をついた。
「物騒な専門家を手配してやがるし、どう考えても『人違いでした』で終わりそうにねぇんだよなぁ」
最大の不安要素は、エラも一緒に連れ戻そうとしているのに、彼女に対して全く配慮がされていない点だ。駆け落ちを許すつもりならもっと穏便な連れ戻し方をするはずだ、問答無用でさらうやり方は二人の仲を認めていないと示していた。エラが邪魔であればギャレットだけを連れ戻し、その場に捨て置くか処分するのが貴族のやり方だ。生かした状態で一緒に連れ戻す意味がわからない。
「鉄の箱だろうと、俺だけなら逃げられるんだが……」
コウメイは眠るエラに視線を落とした。
呼吸は浅く、目覚める兆候は見られない。
「話の通じる相手じゃなさそうだしなぁ」
おそらく彼女は、夫が貴族であるとは微塵も想像していないだろう。ギャレットの埋葬を終え別れた後であれば、コウメイは知らぬふりを突き通していた。だが今のこの状況で見捨てては重い後悔が残る。
「あぁ、くそっ」
コウメイはモヤモヤとイライラを振り払うように頭を勢いよく振った。
「まずは安全確保。相手を見て交渉。それが無理なら脱出、だな」
だがエラも無事に脱出させるには自分一人では無理だ。コウメイは銀板に目を落し、赤い印に「早く追いついてくれ」と念じた。
+
コウメイの願いは届かなかった。
銀板に示されるシュウとアキラの位置はむしろ遠ざかっている。それも当然で、コウメイを乗せた馬車は検問や関所で一度も止まらなかったのに、赤印はあちこちで停車していた。
「こりゃ間に合いそうにねぇな」
壁の向こうから聞こえる気配が賑やかになってきた。街に入ったのだろう、人々の声や生活音が途切れることなく聞こえてくる。箱馬車の揺れも石畳を走っているような規則的なものに変わった。目的地は近いのだろう。
エラは眠ったままだ。疲れが溜まっていたせいなのか、麻痺毒が残っているからか、それとも転倒時に打ち所が悪かったのか、判断はつかない。コウメイは彼女を背で庇う位置に移動し、片膝をついて身構えた。ブーツに指を潜り込ませ、隠している串をすぐに取り出せるようにする。
石畳に入ってからというもの、早足程度まで速度を落としていた馬車は、やがて静かに停止した。
箱馬車の周囲に新たな人の気配が増えた。その中の一人に命じられたのか、見張りの気配が動く。
ギシギシと壁板がきしみ、隙間から光が差し込んだ。
手の平ほどの幅のある壁板が剥がされる。
コウメイは差し込む光の眩しさに目を細めた。
品の良さそうな老人が、隙間からコウメイを見据えている。
「……」
のぞきこむ表情に感情の色はないが、その視線は積み荷を見極めようというのか、険しく鋭い。老人の視線を跳ね返すように、コウメイもまた力を込めて無言で見返した。何を企んでいるのか、自分たちをどうするつもりなのか、決定権がこの老人にあるのか否かを探る。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
どうやら老人はコウメイをギャレットとして扱うと判断を下したようだ。
「長きのご遊学、いかがでございましたか?」
視線でコウメイを牽制したまま、老人は部下に合図を送る。すぐに壁板が剥がされ、ちょうど箱馬車の扉ほどの穴が空いた。
老人にならってか、集まってきた召使いらも整列してコウメイの一挙一動を見守る。その表情はコウメイが「坊ちゃま」であると信じているようだ。
この老人は自分に何をさせたいのだろうか。
自分一人なら逃げ出せるが。
わずかに揺らいだ目の動きで、老人はコウメイの躊躇いを見抜いたようだ。
「声もかけていただけないとは、坊ちゃまはずいぶんとお疲れのご様子だ。メリール医師を呼びなさい。お連れ様の体調も診ていただきましょう」
「……」
「慣れない外国での生活で大変なご苦労をされたようです、医師がつくまで部屋でゆっくりとお休みください」
数年ぶりに戻ってきた仕えるべき主人を労る、そう見えるように作られた微笑みが胡散臭さすぎた。
「ご安心ください、お連れ様にも快適な客間をご用意いたします。侍女を二人つけますので不自由はございませんよ」
「……」
「さあ、坊ちゃま、どうぞお入りください」
老人は笑顔で館の玄関を指し促す。逃げ道の塞ぎっぷりは見事なものだ。襲撃において彼女をかばった報告を聞き、コウメイの性格を見抜いて準備していたのだろう。
老人の合図ですすみ出た侍女の身のこなしは、軍人のそれだった。女性騎士がエラを運び出す。コウメイは一切の感情を排した顔で箱馬車を降り、エラを運ぶ侍女の後についていった。
「坊ちゃまのお部屋はそちらではございませんよ」
「俺は彼女の側を離れるつもりはない」
引き離されては脱出するチャンスを得ても実行に移せなくなる。コウメイはこの感じの悪い老人の思惑通りに踊るつもりはなかった。
「坊ちゃま、紳士は女性の寝室に押しかけるものではありませんよ」
「悪いな、俺は紳士じゃねぇんだ」
「坊ちゃまは平民に混ざっての外国暮らしが長すぎたようですね」
マナーの特訓が必要ですねと老人はため息をつく。なるほど、自分たちのやりとりに目を丸くしている召使いらには、坊ちゃんで押し通さねばならないらしい。
「お連れ様に無理を強いてはいけません」
「無理を強いてきたのは俺じゃなくてあんたらだろ?」
坊ちゃまとして迎え入れた人物が別人だと知られたくなければ、それくらいは譲歩しろと視線で脅すと、老人は聞き分けのないわがままな主人に屈したというように頭を垂れた。
「続き部屋をご用意いたしましょう。少々狭くありますが、坊ちゃまが望まれたのです、後から広い部屋が良いと言われましても、旦那様のお許しが出るまでは移っていただくわけにはゆきませんが、よろしいですかな?」
引き離されることはなんとか回避したコウメイだが、案内された部屋をひと目見て顔をしかめた。
「どうぞ、ごゆっくりとお寛ぎください」
老人の去ると扉がすぐに閉められた。鍵はかけられなかったが、すぐに部屋の前に見張りと思われる気配が並んだ。移送馬車に同行した連中と同じ気配だ。
「ったく、いけ好かねぇジジイだぜ」
コウメイはあらためて部屋を見渡した。狭いというが、寝台と書机があり、洗面や手洗いも備え付けられている。ここは貴族の客室ではなく、召使いの控え室のようだ。だが居心地の悪さの原因はそれではない。
薄暗い室内に光を取り込む唯一の窓を睨んだ。
「窓は小せぇし、飾鉄格子だもんなぁ」
大人の頭ほどの大きさの窓には、唐草を模した飾格子がある。石壁に埋め込まれているそれを叩いてみたが、ぴくりとも動かない。
もう一つ、見張りの立つ出入り口とは別にある扉は、老人の言っていたエラの部屋に繋がっているのだろう。扉越しに気配を探ると、侍女らの他にも誰かがいるようだった。扉に耳をぴたりとあて耳を澄ませば、室内の声が拾えた。
「……疲労……たまっている、だけ……胎児の、た……安静に……」
医者の診察中だった。服装で誤魔化してはいたが、さすがに医者には隠せなかったようだ。診察が終わったのだろう、部屋を出て廊下を移動する二人分の足音は、コウメイのいる部屋の前で止まった。
「坊ちゃま、メリール医師がいらっしゃいました」
「ノックぐらいしたらどうなんだ?」
「旦那様からは下賤な病をもらっておれば、完治させておくようにと命じられております。さあ、診察をお願いしますよ」
老人はコウメイの抗議を完全に無視して、酒焼けで鼻と頬が赤い中年男を前に押し出した。酒が入っているせいで足取りは危ういが、男の目には力がある。衣服も古びてはいるが清潔だ。脈をはかり、首筋に触れる手指は清められており、爪も短い。ヤブではなさそうだという一点だけは安堵した。
「右目は義眼ですか。片目を失っておられるが不自由はないようですな。少しばかり睡眠不足のようだが、それ以外は健康体です」
「ご苦労様でした。本日の診断結果については他言無用です、おわかりですね?」
「もちろんでございます!」
目の前に硬貨で膨らんだ袋をちらつかせると、赤ら顔の医師はとってつけたような笑顔で頷いた。
室内に二人になった途端、老人は隠していた蔑みの感情を露わにした。同じ部屋の空気を吸うのも汚らわしいとでもいうように顔を背けるくせに、その口から出たのはわがままの過ぎる主人をたしなめる忠誠心にあふれた台詞だ。
「さて、坊ちゃまにはこれから私の指示に従っていただきます」
「俺は坊ちゃまじゃねぇ。わかってるだろ」
「遊学中に身についてしまったその下品な言葉と美しくない身のこなしの矯正が最優先ですな」
扉の外で聞き耳を立てている連中に聞かせるためだろう、言葉遣いも口調も丁寧だが、その表情は大きく乖離していた。貴族に仕える気位の高い使用人というのは、妙なところで器用なのだなとコウメイは呆れた。
「そんなに許せねぇのなら、俺らを放り出せば良いだろ」
「妾様のことは心配ございません。坊ちゃまのお子が宿っているとわかったのです、旦那様もお許しくださいますよ」
「俺の子じゃねぇつってんだろ」
「坊ちゃま、男として、ゾーラント子爵家の後継者として、その言葉は許されませんよ……隣の彼女の耳に届いたら、どれほど悲しまれるか……おわかりになりませんか?」
チラリと、老人は意味深に続き部屋への扉に視線を流す。エラの安全はコウメイの行動次第だと脅しているのだ。
「だからってずっと閉じ込めとけるわけねぇんだぜ……俺は片目でも不自由してねぇって、さっきの医者も言ってただろ」
武器はなくとも、この老人相手なら素手で十分だ。扉の外の見張りが駆けつける前に終わる。
「妾とお子がどうなっても良いとおっしゃる? 薄情になられましたな、私の育て方が悪かったのでしょうか」
「あんたに育てられたからあいつも逃げ出したんだろ。でもまぁ、俺も彼女も疲れてるんでね、少しの間ゆっくりさせてもらうつもりだ」
声を低く小さく落し、思惑通りに動いて欲しければ安全と自由を保障しろ、と睨み返す。コウメイの要求はこうだ。見張りが立つのは部屋の外だけ、召使いや侍女も室内には控えなくていい。室内に入るのは、食事や入浴で手を借りるときだけ。
「やっと帰ってこられた坊ちゃまを再び遊学に送り出してしまえば、旦那様が悲しまれるでしょう……ここと隣の二部屋であれば自由だ。ただし外に出るときは護衛がつく、好き勝手は許さん」
当主が王都から戻ってくるまでの待遇交渉は合意を得た。
「それでは坊ちゃま、入浴の準備が整うまでもうしばらくお待ちくださいませ」
蔑みに顔を歪めているにもかかわらず、その声は心から主人の息子を労っているように聞こえる。
コウメイは閉まった扉に向けて深々と息をついた。
「ほんと、貴族もその召使いも、器用すぎて気持ち悪すぎだろ」