見覚えのある骸
シュウの耳が聞き取ったのは、絶望の悲鳴だった。
「間に合ってくれよっ」
砂漠は無音である。
遮る物のない砂漠だが、音は砂に吸われ遠くまで届かない。
だがシュウはその絶叫を聞き取った。
女性の悲痛な、命の危機に瀕している、そんな悲鳴をシュウは無視できない。
足を捕らえ埋めようとする砂を、脚力に任せて振り切った。
姿よりも先に血の臭いを嗅ぎ取り、体に力が入る。
「見えた!」
血臭の根源を数頭のラカメルと冒険者らしき男たちが囲んでいる。
幾本もの足の隙間から、何かを守るように伏せた赤毛が見えた。
剣を抜いた男は、大きく振り上げたそれを赤毛めかげて降ろす。
「させるか!」
シュウは剣を低く構えると、砂をすくい上げるように鋭く斬った。
「うおぉっ」
「んがぁ!」
「砂嵐か?!」
皮膚や目に叩きつけられる砂塵から逃れようと、男たちはむき出しの顔を背けて身構える。
「ちげーよ」
一瞬の砂塵の直後、男たちの首と腹を激痛が襲った。
意識を失った男らが、つぎつぎに砂に転がる。
シュウの足が伏せている一人を蹴り転がした。
着衣は砂漠慣れした冒険者風だ。人相は悪いが、荒れ地を好む冒険者なんてこんなものだろう。そう思いつつ、妙に引っかかった。
「武器以外になにも持ってねーのがなー。この感じ、砂漠強盗か」
昏倒させたそれらを蹴り転がして、ラカメルの群れから遠ざけた。
念のためとばかりに全員にもう一発ずつ蹴りを入れてから、シュウは赤毛の女性を振り返る。
「もう大丈夫だぜ」
砂にうずくまり、もう一人の体を抱き込むようにして伏せている彼女に声を掛けた。
「そっちの怪我人、手当てしねーと」
「…………」
「おい、気絶してんのか?」
背を軽く揺すると、彼女の体が崩れて落ちた。
砂に転がった彼女は、涙と砂と血で汚れた顔をゆっくりとあげる。
焦点の定まらない目が、シュウを見あげた。
咽せるような血の臭いに目を細めたシュウは、彼女の抱えていたものを見て顔を歪めた。
「……悪い、間に合わなかった」
ラカメルの蹄に蹴られたのだろう、後頭部が割れたその人物は、すでに事切れていた。
「あんたは、傷はなさそーだな」
無言で涙を流し続ける彼女は放心状態だ。膝から下は血で濡れているが、負傷した様子はない。仲間割れなのか、盗賊に襲われた被害者なのかシュウには判断がつかなかった。シュウは彼女の膝から男の頭部を砂におろし、水筒をあてがいながら問いかける。
「仲間割れか? ラカメルは事故? それとも強盗?」
「……」
「亡くなったこの男は、おねーさんの連れか?」
「ギ……ギャ、レ、ト」
「うん、ギャレットっていうんだな? おねーさんの名前は?」
「エ、ラ……ギャレット……ギャレットが、あたしのせいでっ」
言葉を紡ぎ出そうとするうちに、うつろだった瞳に力がよみがえる。
「……あたしは、夫と、旅をしていて、こいつらに、襲われて」
「そっか」
「矢が、当たるからって、あたしを前に移して、かばって。そしたらあいつらが追ってきて、ラカメルから放り出されて、それで、それでっ!」
シュウの起こした砂塵を避けて身を伏せたラカメルは、すでに立ち上がって命令を待っていた。だが六頭目だけが砂に転がったまま、弱々しげにもがき震えている。
「足を切られてるのか……ひでーコトしやがる」
逃げる二人を止めるため、ラカメルの脚を斬ったのだろう。唯一残っている右前の蹄には、赤黒い血痕が残っている。蹄が二人に向かって落ちたのだろう。エラをかばったギャレットの後頭部に直撃し、命を落としてしまったに違いない。
ラカメルの周りの砂は血に染まっていた。三肢の切断面からは残り少ない血液が、もがく動きに合わせてしたたり落ちている。これは助けられない。助けられたとしても、脚を切断されたラカメルは騎獣として働けない。
「ごめんな」
転がっている男の腹に八つ当たりの蹴りを入れたシュウは、頭を上げる力のなくなったラカメルに短く詫びて、その首を落とした。
ギャレットとラカメルの流した血を嗅ぎつけて、砂を泳ぐ魔物が集まってくる。今すぐこの場を離れなければ危険だ。盗賊どもは放置するが、連中のラカメルはエラへの慰謝料代わりに貰っていこう。連中には被害者と同じ経験をしてもらわねば。
「エラさん、立てるか?」
「……」
「悪ーんだけど、ギャレットは連れてけねーんだ」
「わ……わかって、る」
逃げ場のない砂漠では、自分が抱えられない荷は持たない、たとえ大切な人の遺体であっても捨てて己の命を守る。それが砂漠を渡る者の掟だ。
彼女は冒険者なのだろう、ギャレットを連れて帰れないと理解しているようだった。シュウの言葉に小さく頷いて、うつ伏せのまま横たえられているギャレットに這って近づく。
「……手を、貸してもらえる?」
彼女の体は震えており、力が入らない。最後に夫の顔が見たいのだと願う彼女に応えて、シュウは男の体を丁寧にひっくり返した。
「あたしなんかのために……ごめん。ありがとう、ギャレット」
流れた血とこびりついた砂を、水筒の水をしみこませた手ぬぐいで拭き取る。
汚れを落とした顔は、後頭部の陥没など全く感じさせない綺麗なものだった。
「コ――!?」
眠るようなその顔を見た途端、シュウは我が目を疑って何度も瞬きし、男の顔に触れた。
少し癖のある濃い栗毛の前髪は長めだ。
キリリとした眉とは逆に少し垂れ気味の目尻、瞼は閉じられていて瞳の色はわからない。力強い鼻筋、口の端が上がっていて、まるで笑っているようだ。
「嘘だろ――っ」
叫びかけた友人の名を辛うじて引っ込めたシュウは、近づいてくる仲間の馬車を振り返った。
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「あれは……?」
夫の顔を見た直後から挙動の怪しいシュウの視線の先を追いかけて、エラは近づいてくる箱馬車に気づいた。
「この人、ギャレットって、本名か?」
「……どういう意味?」
シュウの問いにエラの声が尖る。
振り返った彼女はシュウから遺体を庇うように身をよじった。
「あんた、何者? ギャレットを追ってきたのは奴らじゃなくて、あんただったの?」
「違うって、けど……あー、待てって、逃げんなって」
助けを求める声に応えたシュウは、彼女が立ち去るのを黙って見送ればいい。それが最良だとわかっていてもできなかった。
ギャレットのネックレスを引きちぎった彼女は、強盗のラカメルで逃走しようとしたが、脚が震えて立てない。
「待ってくれ、そいつ、あんたの旦那が!」
這って逃げる彼女を必死に呼び止めた。
「俺の仲間とそっくりなんだよ!」
「嘘をつかないで」
「嘘じゃねーよ。ほら、あの箱馬車に乗ってるから、すぐにわかるって」
ソリに履き替えた黒い箱馬車が目の前に止まった。ラカメルよりも大きくたくましい馬が、逃げ道を探る彼女の視線の先で見せつけるように蹄を上げる。彼女は逃げられないと諦めたようだ。
「この状況は、何なんだ?」
「あー、なんだろーなー」
箱馬車を降りるなり顔をしかめたアキラに、シュウは頭をかいて言葉を濁した。
六頭のラカメルのうち一頭は死骸、倒れている冒険者風の男たちのうち五人は気絶、一人は死体。その横に座り込んだ赤毛の女性は、涙と砂で汚れた顔で御者台のコウメイを呆然と見あげている。
「ギャレット!? どうして……え? えぇ?!」
「ギャレットってのは誰だ?」
「えーと、エラさんの旦那さん?」
何度も確かめるようにエラの視線がコウメイと死体の間を往復する。誘われるようにアキラも視線を向けた。
「コ……」
友人と同じ顔の死体を目の当たりにしたアキラが固まった。
様子がおかしいと慌てて降りてきたコウメイもまた、己と同じ顔をした死体を前に絶句する。
「……シュウ、説明」
「だからさー、俺にも何が何だかさっぱりわかんねーんだよ」
あまりの事態に全員の警戒が薄れていた。
目を覚ました一人が、音を立てないように砂を這ってラカメルに近づく。垂れ下がっていた手綱を掴み、ラカメルの背に飛び乗った。
「やべー、逃がした」
「風刃」
駆け出す一頭と一人を、アキラの巨大な風刃が追う。
風の刃はラカメルの足下に潜り、砂を斬って一頭と一人を転がした。
転倒した男の上にラカメルの体が重なる。
「気絶させただけなのか。ちゃんと縛っとかなきゃダメだろ」
「いろいろ驚きすぎて忘れてたんだよ」
逃げ出した男の他にも意識を取り戻している者がいた。コウメイは微笑みながら再び連中を気絶させ、それらの手足を容赦なく縛ってゆく。
「コウメイ、大きめの魔物が複数、近づいてきている。おそらくキングスコーピオンと、砂蟻か砂蜘蛛あたりだろう」
血の臭いを嗅ぎつけて集まってきているのだ。
アキラの警告に、コウメイはエラを振り返った。
「エラさんだっけ、悪いがここに魔物が押し寄せてくる。安全域まで移動したい」
「ギャレット、じゃない。あんた、誰?」
「説明してる時間がねぇんだよ。ここで連中と一緒に魔物に食われてぇのなら置いてくぜ」
「……ま、待って!」
腹の辺りで強く拳を握りしめた彼女は、萎えた脚を叩いて気持ちを切り替えた。ゆっくりと膝立ちになり、シュウが差し伸べた手を掴んで立ち上がる。そして別れを決意するように夫を見おろした。
小声で話し合っていたコウメイとアキラが、遺体の側に膝を突いた。
「ギャレットに、何をするの?」
「あんたの旦那も一緒に連れて行く準備だ」
「……いいの?」
「仲間と同じ顔の遺体を放置できねーよ」
アキラが箱馬車の側壁を大きく開ける。コウメイは複雑な顔でギャレットの遺体をスライム布で包み、静かにトレーラー内に横たえた。
「ラカメルはきっと盗まれたものだろう、ギルドに届けよう」
「こいつらどーすんだ?」
「放っておけ。冒険者は自立自助が原則だ」
別人とはいえ仲間と同じ顔をした人間を殺されたのだ、見殺しに躊躇いはない。
ギャレットとエラを収容した箱馬車は、五頭のラカメルを引き連れてボダルーダを目指した。




