テルバウムの罠
目と鼻の先で戦いがあったとは思えないほど、テルバウムの町は賑わっていた。酒場に入り浸る傭兵らは、思っていたほど稼げなかったと愚痴をこぼしつつも、生きて戦争を終えられたのを喜んでいたし、国境に近い村々の被害も少なかったせいか市場の人々も明るく、農作物や手仕事の雑貨が景気よく売れてゆく。
串肉の屋台も盛況のようだ。三人の姿を見つけたギーツは、嬉しそうに大きく手を振る。肉のガレット包みはすぐに他の屋台にも真似されたらしいが、パン屋から仕入れたガレットや薄パンで商売をしたらしい他の屋台は、早々に採算が取れなくなり、ただの串肉屋に戻ったり屋台を畳んだりしたらしい。
「コウメイたちのおかげだ、ありがとう」
「あんたの焼いた肉の味付けが美味いからだろ」
「そーそー、相変わらず一番美味い匂いだぜ。とりあえず暴れ牛肉のを五つくれよ」
鼻をひくひくさせながら注文するシュウに、彼は満面の笑みで焼きたてを渡した。
「それにしても大きな荷物だな。重いだろうに、ずっと背負ってるのか?」
「重くはねーけど、かさばるから邪魔なんだよなー」
三人がこれから農業ギルドに向かうと聞いたギーツは、樽を預かると申し出た。
「いいのか?」
「その代わり、テーブル代わりに使っていいか?」
その場で立ち食いする客らが店の前でうろうろしているが、宣伝になる反面、邪魔にもなっていた。立ち食い客の止まり木として大樽を使わせてもらえたら助かるのだと、彼は客らに聞こえないように囁いた。
「かまわねぇけど、中身は穀物なんだ。樽を濡らしたりしねぇでくれよ」
「わかった、よくよく注意しておくよ」
樽を預けたコウメイたちは、ガレット包みを手にギーツの屋台を離れた。
農業ギルドでは前回対応してもらったマーシルを指名した。彼はコウメイらの顔を見て顔を強張らせた。すぐに表情を取り繕ったが、妙に腰が引けている。
「ほ、本日はどのような用件でしょうか?」
「労働契約満了の報告と報酬受け取りだ。それと赤ハギについて聞きてぇことがあるんだが……どうした?」
「え、いや、その」
「なー、何でそんなにビクビクしてんだよー。テーブルを壊したのは謝ったし、ちゃんと弁償もしただろー」
弁償とは何だ、聞いていないぞ、とアキラの眉が小さく跳ねる。問い詰めたいのを堪え、彼は顔色の悪いギルド職員を観察した。職員の表情や視線の動き、落ち着きのなさは、何か後ろ暗い隠しごとをしている者のそれだ。
「前回お邪魔したときに、この二人が何かご迷惑をおかけしたのでしょうか?」
それならお詫びします、とアキラが頭を下げ、三つの村の村長から預かった署名を差し出した。初対面であるはずのアキラを見て、今度は別の意味で緊張がみなぎったようだ。震える手つきで受け取ると、依頼料の精算をしてくると言い残し、逃げるように奥に引っ込んでしまった。
「なんであんなに脅えてるんだ?」
「シュウがテーブルを叩き割って脅したからじゃないのか?」
「叩き割ってなんかねーよ。ちょっと勢い余ってひっくり返って、脚が二本折れちまっただけだぜ」
「なるほど、その弁償をね……」
冷たい横目に睨まれたシュウは、失言に気付いて顔を背けた。
マーシルの後ろ姿を目で追うコウメイは、他のギルド職員らの遠巻きな態度にも引っかかりを覚えていた。
「どうも俺らの悪い噂が流れてるみてぇだな」
「悪い噂って何だよー。俺ら農業ギルドに何もしてねーだろ」
テーブルの脚を折って損害を与えたことが原因ではなさそうだが、これほど露骨に警戒を向けられるような悪評の原因に心当たりはない。
「赤ハギの取り引き、難しいかもしれないぞ」
「だな。これだけピリピリされてちゃ情報も引き出せそうにねぇ」
淡々と働いた分の報酬を受け取るしかないだろう。ギルドが販売している穀物の中に赤ハギがあれば、それを買うくらいにしておいたほうが良さそうだ。
「定期的に送ってもらえるように契約を結びたかったんだがなぁ」
農業ギルドを通せば、他国から穀物を取り寄せるのもそれほど難しくはない。もちろんウェルシュタント国内で赤ハギが流通していればいいのだが、これまで穀物商が取り扱っているのを見た覚えはない。オストラント平原の他では栽培されていない可能性が高かった。ここを離れたら二度と手に入らないかもしれない。仮定ではなく高確率で現実になりかねないと気付いたコウメイの思考は、少しばかり過激なほうへと傾きはじめた。
「よし、買い占めるか」
「少しは遠慮したらどうだ。安い庶民の主食なんだぞ、買い占めたら恨まれるじゃないか」
「えー、今でも良く思われてねーっぽいし、遠慮する必要なんかねーだろ」
「それもそうか」
遠巻きにする職員らを牽制するように見回す。視線が合うと気まずそうに顔を背けるのは一人や二人ではない。買い占めによって価格高騰を招いたとしても、それはギルド職員の責任だろう。
「俺たちが食う分とダッタザートに送る分に試作用、それと栽培実験にも必要だろ。失敗したときの保険も考えると、最低でも大樽十個だな。二十個あればいろいろ余裕だ」
「そのくらいなら資金的にも問題ないし、相場を狂わせるほどでもないだろう。馬車の手配が必要だな」
「早く帰りてーよ、腹一杯食いてー」
さっさと報酬を持ってこい、とシュウがマーシルが引っ込んだほうを振り返ったときだった。
正面入り口に裏口、職員控え室の扉から一斉に兵士が流れ込んできた。剣や槍を構えた兵士は、迷うことなく彼らに駆け寄り、取り囲んで剣先を向ける。
「大人しくしろ! 貴様らが敵国の密偵だというのはわかっている!」
指揮官と思われる兵士がそう叫んだ。
「密偵? 冗談だろ」
「身に覚えはないなのですが」
「何かの間違いじゃねーのかよ」
「黙れ! 国境軍より早馬で手配書が届いた。女たらし顔の眼帯と、男たらし顔の銀髪、鉢巻姿の剛腕の三人組だ、お前たちのほかにいるか?!」
目の前で手配書を読み上げられたコウメイとアキラは絶句だ。シュウは堪えきれずに吹き出している。
「男たらし!?」
「間違ってねぇだろ」
「大間違いだ。コウメイは正しいが」
「あ? ふざけんなよ」
「どっちも間違ってねーじゃん」
「「シュウ?」」
「ええい、黙れ黙れっ。大人しく捕まるんだ!」
凶暴だとの注釈があったのだろうか、たった三人を取り囲む兵士の数は二十人を越えている。ギルド内にいる職員よりも多いくらいだ。
どうする、と三人は素早く視線を交わした。包囲を破るのは難しくはないが、それをしてしまえば二度と赤ハギの取り引きは出来なくなるだろう。国境軍に報告があがれば、疑いは晴れるのだ、待つのが最善と判断した。
「しゃあねぇ、米のためだ」
不本意ではあるが、彼らは密偵の疑いで捕らえられることを受け入れた。
+++
人生何度目かの投獄だが、今回はこれまでになく厳しい環境だ。
「寒いし、汚いし、長居したくはないな」
そう呟いたアキラの息が白い。
冬の牢獄は底冷えが厳しい。換気用の小さな高窓には鉄格子、床も壁もむきだしの石。当然ながら椅子や寝台のような家具は何もない。唯一与えられた一枚の毛布を畳み座布団がわりに敷いているが、石床からの冷気を完全に防げてはいない。室内には熱源が一切なく、追加の毛布ももらえそうにない。見回りの目を盗んでアキラがそれぞれのマントに簡易の発熱魔術陣を描き、何とか暖をとれているが。
「早馬で届いた手配書か、いったい誰が……」
「そんなの、スキンヘッド将軍に決まってるじゃねーか」
停戦協定から戻ってくるまで待っていてくれと懇願されたのを無視して飛び出しているのだ。手配書もアキラを足止めするための職権乱用に違いない。
「しっかし、手配書は的確だったよなー」
町兵の言葉を思い出したシュウは、再びこみ上げてきた笑いを堪えられない。
女たらし顔の眼帯は鉄格子の向こう側に殺気を向けっぱなしだし、男たらし顔の銀髪はコウメイと同じ扱いなのが気に入らないようで、ぶすっと不貞腐れている。
「なー、マジで釈放されるのを待つのかよ? 待遇サイアクだし、もう脱走しても良くねーか?」
自分たちを足止めしたい人物が現れるのを待つつもりだったが、それが将軍なら待たされるのは数日ではすまないだろう。
「あのおっさん、割と真面目に将軍やってたし、仕事投げ出してはこねーだろうから、牢屋暮らしは長くなるかもなー」
牢獄が極寒なのは、罪人の体力を奪い気力を萎えさせるためだろう。当然まともな食事を期待はできない。下手すれば飲まず食わずで何日も放置される可能性もある。そんな場所で大人しく待つのは癪だ。
「飯抜きは耐えられねーなー」
「固い床で寝るのも勘弁して欲しいぜ」
「……この状況を耐えて待つ忍耐はないな」
考えてみれば、権力でこちらをどうにかしようとする相手につきあって我慢する必要は無いはずだ。
「逃げるか」
「赤ハギはどうする?」
「とりあえず大樽二つ分は確保できてるんだ、なんとか栽培してみるしかねぇ」
リアグレンの農業ギルドを通じ、ウェルシュタント国内でも赤ハギを探してみるが、見つからなければ自力で増やすしかない。そうなれば満腹になるまで米を食べられるのは数年先になるかもしれないが、それでも理不尽に耐える気にはなれなかった。
脱出は町門の閉まる八の鐘以降、ギーツに預けた大樽を回収してそのまま町を離れると決めた。もしそれまでにジョージ・カレント将軍本人かその部下が、釈放のためにやってきたら、そのときは強気で話し合いをするつもりだ。
「スキンヘッドめ、覚えてろよ」
「飯(米)の恨みは一生忘れねーぞ」
「就農報酬も受け取れなかったし、損害賠償は覚悟してもらわないとな」
どのくらいふっかけるか、いっそ現物を要求してはどうか、と将軍とその仲間たちへの恨み言を呟きながら脱獄計画を錬っていたときだ、格子戸の奥に見える鉄の扉が軋んだ音を立てた。
彼らは床に腰を下ろしたまま、音のほうを振り返る。
悠然としていたアキラだったが、牢に入ってきた人物を見てその余裕は消えた。
「アキラ殿、すまない。今日は治療の難しい患者が多くて、遅くなってしまった」
開口一番にアキラを労い褒めるその笑顔は、顎のほくろのせいで無駄に色気がある、まさかの医薬師ギルド長だった。
「しかしこの扱いは酷いな、アキラ殿は医療部隊の救世主だと伝えてあったのに」
アキラ越しに治療魔術師を見た二人は、役者ばりの男の容姿に目を見開いた。
「うわー、コーメイより色気ダダ漏れのイケメンとかはじめて見たわー」
「こいつ本当に医者か? 職業間違ってねぇか?」
黙っていろ、という意味を込めてアキラは二人の膝を叩いた。
鍵束を持って格子戸に近づいてきた彼に、アキラは氷が舞い散りそうな薄い笑みを作った。
「あなたが私たちを捕らえろと命じたのですね」
「誤解です。直接の命令は将軍閣下ですよ。それが少々悪い方向に誤解されて、このような結果になってしまっただけで」
鉄格子の鍵を開けながら、オーグは言い訳をした。
「今回の逮捕は将軍閣下の命令です。私が通報したのはずっと前……最初にアキラ殿が裏書を求めてきたときだけですよ」
開戦を控えた国境の町に、色級を偽った薬魔術師が現れたのだ。しかも国籍はウェルシュタント、警戒し役所に通報するのは当然の義務だ。その知らせを受けてジョージ・カレント将軍が独断行動に出てから停戦までは、ホウレンソウの三人もよく知っている。
「最初の通報から停戦後も取り消されていなかったようなのですよ。あなた方がこの町に戻ってきたのと同時期に将軍閣下から緊急通達が届き、加えて農業ギルドから通報もあったものだから、兵たちは大慌てで逮捕に向かったのです」
ギイィと耳障りな音をたてて格子の戸が開いた。
「どうぞ、出てください」
「ここは町兵管轄の牢ですよね? 医薬師ギルド長に私たちを釈放する権限があるのですか?」
オーグは誤認逮捕だったから釈放するというが、誘いにのって牢を出た瞬間に、脱獄の罪が確定する可能性はゼロではない。
疑いの視線を向けられ、オーグは悲しそうに眉を下げた。小さく息をついて懐から軍章を取り出して彼らに見せる。
「あるのですよ、権限が。これでも軍医の佐官です、安心してください」
それは将校らの襟にあった軍章と同じものだった。
彼は先日までの戦いで、ヘル・ヘルタント軍の軍医をしていたのだそうだ。停戦後に任を解かれる予定なのだが、まだ辞令が届いていないため、今も軍属の医師だ。しかも前戦の医療隊の隊長職は立派な将校だ、町兵に命令できる権限がある。
「ヘル・ヘルタント軍の事務手続きは、ずいぶんと鈍雑なのですね」
「ははは、何もかもが後手後手に回っているのは仕方ない。戦争が早く終わりすぎて、事務方は停戦の協定業務を最優先にせざるを得なかったからね。アキラ殿には悪い結果になってしまったが、私には幸いな結果だったと思うよ」
アキラの嫌みをさらりと流して、彼は再びここから出てくれと繰り返した。
どうする、と問う視線にコウメイもシュウも小さく頷き返す。
彼らは数鐘ぶりに鉄格子の扉から牢の外に出た。
+
牢から出された三人が通されたのは、町兵詰め所の貴賓室だった。田舎町の兵舎なので豪華さには欠けるが、品の良い家具調度で整えられている。オーグはやわらかな座面の椅子をすすめた。
医薬師ギルド長の正面に座ったアキラは、あたたかな飲み物を用意すると言いかけた彼を遮って、無言で裏書された魔術師証を差し出した。
「ちょうど良かった、農業ギルドの次にうかがう予定でした。この裏書を消していただけますか」
まさかの申し出にオーグの頬が引きつる。
「アキラ殿がヘル・ヘルタントで活動するなら、裏書きはそのままのほうが都合が良いのではありませんか?」
「私たちは明日にでもこの町を出る予定です。今後テルバウムでお世話になることはないと思います。他国の者に国とギルドの裏書きを持たせたままは良くないでしょうから」
「いやいや、裏書はそのままでかまわないよ。せっかくできた縁なのだから、ね?」
「訪問するたびに投獄されたくありませんので」
「それは謝るよ、ちょっと足止めしてほしかっただけだったんだ。町兵にはちゃんと丁重に扱うようにって命令しておいたのだけど」
どうやら医療佐官の命令は、当人が思うほど重く認識されていないようだ。
以前の密偵の疑いと、国籍、早馬で届いた将軍直筆の通達と、すべてがアキラにとって不都合な方向に効果を発揮してしまった。実に運が悪かった、とオーグはいけしゃあしゃあと言ってのけた。
アキラの後ろに立ったままのコウメイが「本音を吐けよ」と鼻を鳴らす。
「終戦のゴタゴタで事務手続きが滞ったとか言ってるが、本音は俺ら……アキの身柄を確保したかったんだろ?」
「だよなー、あのスキンヘッド、アキラの前で駄犬みてーに尻尾振ってたし」
「駄犬は酷いな。彼は尊い血筋の将軍閣下なのだが」
苦笑いで顎を撫でるオーグは、コウメイの指摘を否定をしなかった。
「この裏書きは契約魔術の一種ですよね? これが残っていると余計な縛りが生じる可能性があるのはご承知でしょう。消してください」
「その裏書きは医薬師ギルドがあなたを支援する約束の証でもあります。我々も軍も感謝しているのです。アキラ殿の作った錬金薬がなければ、あれほど早くに戦争を終えられなかった、そのお礼だと思ってください」
後方から送られてくる大量の錬金薬、しかも高品質のそれがあったおかげで診察と手術に専念できたし、多くの命が助かったのだとオーグは感謝を口にする。
「いえいえ、私は捕虜の立場で錬金薬を作らされていただけです」
礼にはならないし、迷惑なだけだと嫌みを込めたが、オーグはそれを無視して驚きの声をあげた。
「捕虜ですと?」
露骨なほどのわざとらしさだ。
コウメイとシュウが不快げに眉根を寄せる。
「ウェルシュタントの方だとは存じていましたが、まさかそのような境遇に陥っていたとは存じませんでした。てっきり母国ではなく我が国に味方してくださっているとばかり……」
オーグはアキラの要求をまるごと無視して、アキラの軍での境遇をはじめて知ったとばかりに驚いて見せ、自国の兵士が申し訳ないことをしたと白々しく詫びた。
「その裏書きのせいで錬金薬の精製を強要されたなんて、申し訳なさで胸が痛みます。ですが裏書きがあったからこそ、こうして無事で終戦を迎えられたのですから幸いでしたね。私もお力になれたようで嬉しいですよ。その裏書きが役に立つとわかったのです、消すなどと言わないでください。どうです、これからも国のため、医薬師ギルドのために一緒に働きませんか?」
苦境の中でも負傷者のため錬金薬を作り続けた貢献は勲章をもらってもいいくらいだ、何なら自分がギルドと領主を通じて王都に働きかけ、アキラの名誉を回復し、最上級の待遇で迎え入れると言い出した。
「あなたの貢献は陛下にも認められるものですよ」
「認めていただくほどのことはしておりません。それに他国の灰級薬魔術師の力を借りずとも、ヘル・ヘルタントには素晴らしい魔術師が大勢いらっしゃるではないですか。この国を離れる私には不要なものですから、裏書きを消してください」
「国に帰られても、他国に旅をするとしても、裏書きは役にたちますよ」
ジョージ・カレント将軍の指示で時間稼ぎをしているのか、それともオーグ自身が本気でアキラを勧誘したいからなのか、どれだけ冷たく突き放しても彼は粘り続けた。
一歩さがったシュウが、殺伐としたやりとりの二人に聞こえないように声をひそめ、コウメイの耳もとで呟いた。
「なー、これいつまで続くんだよ?」
「アキは終わらせてぇけど、あっちが強引に話を続けてるからなぁ」
「話がぐるぐる回ってるだけじゃねーか。裏書きっての、無視できねーのかよ?」
「ここまでアキが消したがってるんだ、残してると後々マズいのかもな」
契約魔術の厄介さはコウメイもよく知っている。アキラが消したいと迫るのにも、医薬師ギルド長が残そうと粘るのにも、それだけの理由と利点があるのだろう。
コウメイはアキラ越しに、粘り強く勧誘を続ける色男の表情を観察した。造形が整っているだけでなく、対面の相手を虜にさせるような物いいたげな視線と、意識して顎に触れる手はなかなかの武器だ。指先の動きが視線を誘導し、喋るたびに動くホクロの色気が視界でチラつき惑わせる。相手を魅了して交渉を有利に傾ける、優れた手腕だ。
だがあいにくオーグの手管もアキラには効いていない。粘り強かった彼が、次第に焦りを感じはじめた。さりげない誘導の動きに力が加わり、作り物の色気が薄まってきている。
「私は今後、この裏書きを使うことはありません。消してください」
「そのままにして、使わなければ良いのですよ?」
「……そうですか、あなたに消していただきたかったのですが」
真正面から彼を見据えていたアキラの目が、すうっと細められた。テーブルに置かれたままの魔術師証に指を伸ばし、裏書きに触れる。
「シュウ、回収」
「りょーかい」
「コウメイ、制圧」
「任せろ」
裏書きに指を押しつけたままアキラが立ち上がった。
同時にシュウが窓を破って貴賓室から脱出し、コウメイが手をついてテーブルを飛び越え、オーグの背後を取り首と両腕を拘束した。
「ぐほっ、何を」
「交渉決裂したのですから、こうなって当然でしょう?」
大きな物音を聞きつけて、廊下で待機していた兵士が貴賓室に駆け込んできた。彼らは剣先を向けコウメイとアキラを取り囲むが、医薬師ギルド長を盾にされてそれ以上は踏み込めない。
「穏便に契約を解除できればと思っていましたが、残念です」
アキラは魔術師証を二本の指で挟み持ち、高らかに掲げた。
誘われるように彼らの視線が追う。
細く白い指が、パチンと音を立てる。
「解除」
炎が魔術師証を包み、弾け飛んだ。
「熱っ」
オーグの懐で何かが弾け、傷みに呻く。
コウメイは掴んでいた色男を扉を守る兵士にむけて蹴り跳ばし、アキラはたくさんの小さな雷を落として包囲を破る。
町兵詰め所を脱出した二人は町門を目指した。
「門破りまでするんだ、おたずね者は確実だな」
「港も封鎖されるのは間違いねぇ。国境越えで逃走するぜ」
戦争中に何度も兵士の目を盗んで国境を越えているコウメイは、兵士らも知らない地元民だけの道をいくつか見つけていた。ウェルシュタント国に入り港を目指すか、あるいは遠回りになるが陸路でひっそりと移動するか、判断は状況次第だ。
「シュウの奴、米樽の回収を失敗してねぇだろうな?」
「ここで失敗したら二度と食べられなくなると脅したのはコウメイだろう。死ぬ気で持ち出すはずだぞ」
二人は店じまいがされて閑散とした広場を突っ切り、帰宅の人々をかき分けて北門へと向かう。追っ手の兵士の数が少ないのは、町門に先回りしているからだろう。
テルバウムには南北二つの町門がある。国境にはまだ軍が駐留しており突破は難しく、コウメイらは当然南の港町を目指すと思われているだろう。その読みは当たり、北門に配置された兵士の数は少なかった。
「遅せーぞ」
声と同時に建物の影に引っ張り込まれた。二つの樽を背負ったシュウは、回収した剣をコウメイに返して問う。
「突破と迂回、どっちにする?」
「穏便な手段を取りたいが、荷物が大きすぎる」
「じゃ突破だなー」
「俺らで散らすから、アキは扉を破ってくれ。あとはそのまま突っ走る」
「鬱憤たまってんだろ、思いっきりぶっ壊していいんだぜー」
「人を破滅思考の破壊魔みたいに言うな」
「オルステインで楽しそーに城ぶっ壊してたの誰だよー」
それには答えず、アキラは北門を振り返った。
「時間がもったいない、行くぞ」
「ほらシュウ、蹴散らすぜ」
「引っ張るなって、俺は荷物背負ってるんだぞ!」
門に向けて駆け出した二人は、兵士らに武器を取らせる暇を与えなかった。蹴り退け、引きずり離して門の周囲から追い払う。
どこからともなく吹いてきた猛突風が、鉄の扉に直撃した。
続けざまの風で鉄扉がゆがみ、巨大な丁番が石壁から浮いてギギイと重い音が響く。
三度目の猛突風で接合部分の壁ごと門を吹き飛ばした彼らは、倒壊した扉がたてる粉塵に紛れテルバウムを脱出したのだった。




