サガストの薬魔術師親子
マユはアキラからジョン専用治療薬の調合を、リンウッドから投薬の見極めと調整を学んだ。ジョンの最後の手術痕から糸が抜けたのは、親子がサガストを離れて三ヶ月目に入ろうとするころだった。
「いっぱいお土産もらっちゃったけど、いいのかな?」
サガストを発ったときの荷物は、着ていた寝間着と数枚の着替えだけだった。それが三ヶ月間の療養中にずいぶんと増えていた。コウメイが作る糖衣の豆菓子は、食べ終わるまえに木筒に足される。さらには土産だとクッキーや乾果実の菓子まで渡された。シュウがサガストで購入した布は、マユの手によってジョンの運動着と普段着になったし、読み書きの練習用にとアキラが用意した文字盤や黒板に筆記用具も、持ち帰り用の木箱に詰められている。
「それは餞別っていうのよ。お礼は言ったの?」
自分の足で歩いて帰れるようになったお祝いなのだから、返品や遠慮は失礼だと教えた。
「私もね、餞別をもらったの」
コウメイからは簡単で手早く作れる料理のレシピを、アキラには貴重な標本の詰まった手製の薬草図鑑をもらった。この三ヶ月間、コウメイは父親のように、シュウは遊び友達のように、アキラは教師のように接してくれた。あたたかくて居心地が良くて幸せな時間も明日で終わりだ。
ぎっしりと荷物の詰まった箱の蓋に触れながらジョンがこぼした。
「帰りたくないなぁ……」
シュウたちとの生活がよほど楽しかったのだろう。荷箱の蓋を閉めたら終わりだとでもいうように悲しげな顔で母親を振り返る。
「母さん、ぼくたちここに住めないかな?」
いつかは言い出すだろうと思っていた言葉を聞いたマユは、それはできないのだと息子の前に膝を突いた。
「私たちは病気の治療のために来たのよ。回復したら治療院から出て行くのは当然でしょ」
「でもここは治療院じゃないよ。森のお家だよ。それにぼくが帰っちゃったら、シュウさんは退屈するよ。コウメイさんだってぼくがたくさん食べるのが嬉しいって言ってた。ご飯食べる人がいなくなったら悲しくなるよ」
これまで聞き分けの良かった息子のわがままだ、かなえてやりたいがこれだけは聞き入れてはいけない。
「アキラさんだってぼくが薬草のお世話を手伝うの、助かるって言ってた。それに薬草の勉強にもなるんだよ。だから母さん、ここに住もうよ。コウメイさんたちに頼もうよ」
「ジョン、あなた……」
必死にすがってねだる息子の様子に、これは失うことへの恐怖の裏返しなのだと気づいた。帰りたくないと、残りたいと思うのは、ここを出たらまた寝たきりになるかもしれない、あの苦しみが戻ってくるかもしれない、そんな恐れがあるからだ。
二度の手術に耐え、リハビリに励み、努力して取り戻した身体が、この場所を離れると消えてしまうのではないかと。幼いジョンがそう考えてしまうほど、ここは不思議な場所だ。
おそらくは深魔の森のかなり奥にあるのだろう。コウメイやシュウが狩って持ち帰る魔獣や魔物は、他の森の魔物よりも大きく凶暴なものばかりだ。周辺には魔物が闊歩しているはずなのに、この三ヶ月、彼らの住むこの家は一度も襲撃されなかっただけでなく、魔物の気配すら感じなかった。ジョンがこの場所にこそ魔物や病を遠ざける神秘的な力があると思い込むのも当然かもしれない。
不思議なのは場所だけではない。魔物の森に住み二人を保護したのは、魔物のような眼を持つ魔術師と、夜の女神か森の精霊のような美貌の魔術師、多彩で美味な料理と謎めいた笑みで警戒をするりとほどく隻眼の色男に、明るく陽気で人族とは思えない強力と俊足のシュウの四人だ。
彼らは人当たりがよく親切で、会話はいつも楽しく弾んだ。だからこの三ヶ月に親しくなったように思い込んでしまうが、冷静になれば知り得たのはうわべだけであり、彼らとの間に一線が引かれているとわかる。だが幼いジョンに察しろと期待するのはマユの怠惰だったかもしれない。
「……いいえ、彼らに頼んでもダメだとわかっているから、私に駄々をこねているのね」
「母さん?」
「ジョン、コウメイさんたちとした約束を覚えている?」
聞き取れなかった母親のつぶやきに首を傾げる息子を、彼女はそっと抱き寄せた。食事ができるようになり、運動をするようになって肉付きが良くなってきたが、まだ年齢よりも小さくて細い身体。
「この場所を教えられないって、それでいいって約束するなら治療を受けられる場所に連れて行くって」
「うん」
「どうしてなのか、わかっているよね?」
ジョンはまっすぐに見つめる母親の視線を避けるようにうつむいた。
冒険者でも近づかないような魔の森の奥に作られたここは、彼らがひっそりと隠れて暮らすための場所だ。招き入れられ命を救われた自分たちが、彼らの厚意に唾を吐くようなことはしてはいけない。
「なのに約束を破るの?」
「そんな、つもりじゃ……」
大人びることで病の恐怖に耐えてきたジョンは、やっと年相応の素直な感情を表せるようになった。
「これまでジョンに何もしてやれなくて、我慢ばかりさせてきたわ。だから叶えられるならなんとかしてあげたい。でも何の見返りも求めずに、私たちのためにたくさんのことをしてくれた彼らを裏切ってはいけないの」
「……うん」
「ここはとても居心地が良くて、やさしい場所よね。お母さんもここが好きよ」
「ぼくも、薬草がいっぱいで、肩車で走るのが楽しくて、あと美味しくて大好き」
「じゃあ同じような場所をサガストで作りましょう。お家の裏庭に薬草園をつくるから手伝って。美味しいご飯も一緒に作ろうね」
「肩車は?」
「それはお父さんが帰ってきてからよ」
ウナ・パレムにいる夫からの手紙を、アキラの知り合いを通じて届けてもらったのは数日前だ。レオンは無駄足に腹を立てるのではなく、息子が歩けるまでに回復したことを喜び、大陸周回船で帰ると伝えてきた。
「サガストに帰らないと、お父さんが寂しがるわ。せっかく元気になったのに、見せてあげないつもりなの?」
寝台で苦しむ彼を照らすような明るい金髪と、見ているだけで元気が湧いてきそうなあたたかで力強い笑顔。息子に寄り添う父親は、同じ量の錬金薬を飲んで一緒に苦みに耐えてくれた。新薬が効くかもしれないと聞き、絶対に手に入れて帰ると旅立った父の喜ぶ顔は、きっと太陽花のように大きくてまぶしいに違いない。もう一年近くも会っていないのに、その笑顔は鮮明に思い浮かべることができる。
「会いたいよ……父さん、喜んでくれるよね? 父さんの薬を待てなかったけど、叱られないよね?」
「叱るわけないわ、大喜びするに決まってるでしょ」
よかった、と破顔するジョンをもう一度強く抱きしめる。
「でも悔しがると思うの。張り切って出かけたから、役に立てなかったって落ち込みそうだわ。お父さんを慰めるのはジョンにしかできないの、だからサガストに帰りましょう」
「うん」
+++
まだ空が暗い早朝、マユとジョンは二人の主治医に別れを告げた。
「お世話になりました。このご恩はいつか必ずお返しします」
「赤い目の賢者先生、銀髪の賢者先生、ありがとうございました」
深々と頭を下げる母子に、リンウッドは短く「長生きしろ」と声をかける。アキラは彼女に小さな錬金薬の瓶を渡した。
「あなたが首に下げているお守りと一緒に持っていてください」
小さな金具のついた容器を革紐に通してぶら下げる。胸で揺れる瓶はカラカラと、液体ではなく小石のような硬く乾いた音をたてた。
「丸薬ですか?」
「いや、魔物避けだ。薬草採取に役立つだろう」
町の冒険者が頼りにならず、自ら森や林に出かけなくてはならないとき、彼女が安全に採取できるようにと、アキラが特別に作ったアミュレットだそうだ。
「守りの力が失われるから、絶対に蓋を開けてはいけないよ」
夜空の似合う美貌が微笑む。それは美しくて厳しく、背筋をぞくりとさせる恐ろしさを感じた。大きく息をのんだマユは、まるで試されているような気がすると苦笑いで頷いた。
「それとこれも」
緊急時の連絡手段用魔紙を渡そうとするアキラの手を、マユは震える手で押し返した。
「ありがとう。でもアミュレットだけで十分です」
「ジョンは完治したわけではないんですよ。容態が急変しないとは言い切れません」
「だからこそです。普通の生活ができるようになっただけでも恩を返しきれないのに、これ以上はいけません。それに町に戻った私たちとつながり続ければ、先生たちの望まないことになるかもしれませんから」
サガストやハリハルタに出かけてゆくのはコウメイかシュウで、アキラとリンウッドはこの三ヶ月の間、一度もこの隠れ家を離れていない。
治療魔術師の魔物色をした両目は町の人々に忌避されるものだし、銀髪の薬魔術師の美貌と知性は望まない混乱を招く。また二人の医学知識と技術、そして膨大な魔力は権力者には垂涎だ。彼らは魔法使いギルドや医薬師ギルドが盾の役割を果たさないほどの権力者から身を隠しているに間違いない。そしてコウメイとシュウの魔物を寄せ付けない強さも、人の多く集まる場所では危険すぎる。彼らが人目を避けて隠れ住むのは当然だ。
マユは彼らに事情をたずねたことはなかったが、推測に間違いはないと確信していた。追っ手に知られたくなければ、こんな田舎町であっても、外部との関係を絶つべきだ、と彼女は断言した。
「潜伏って……」
「私もジョンも、先生たちのことは絶対にしゃべりませんから、安心してください」
「ぶはっ、逃亡者扱いかよ、間違いねーけどさ」
絶句するアキラの横ではシュウが腹を抱えて笑っている。アキラは苦々しげにシュウを睨み、そのまま視線を森の遠く向こうへと向けていた。
敷布に腰をおろしたマユとジョンは、眠り薬を自ら飲み干した。
健康に近づいた身体に睡眠薬はよく効く。すぐに瞼が落ち、身体がゆらりと傾く。息子を受け止めて横たえたマユは、自分も横になって迫る眠り薬に身を委ねる。
「頑張れよ、マユ」
目を閉じた彼女の頭を、大きな手がやさしく撫でる。
その硬くてあたたかな手と、包み込むような声に懐かしさを感じた直後、マユは彼らの世界から去った。
+++
さわさわと草のこすれる音が離れてゆく。
背中に当たるデコボコとした感触と、膝に感じるあたたかみ。木にもたれるようにして座らされていたマユは、意識を取り戻してすぐに辺りを見回し探した。
「……いない」
人どころか、魔獣の気配すらない。
マユは胸を締め付ける苦しさに目を閉じた。わかっていたこととはいえ、この喪失感を受け止めるのは辛い。
膝に感じる重みとあたたかい身体を撫で、息子を起こした。
「ジョン、起きなさいジョン」
「ん……母さん?」
眠い目をこするジョンは、ゆっくりと身体を起こして辺りを見回した。
「空が赤いよ。朝かな?」
「あれは夕焼けね。閉門まで鐘一つという時間かしら」
「コウメイさんは? シュウさんはいないの?」
ジョンが二人の名を呼ぶ。背負子のついた荷箱が木にもたせかけられていた。荷を背負うコウメイも、自分たちを運んだシュウの姿もない。どうやら森の出口に二人を残して去ったようだ。
「ちゃんとお別れしたかったな」
「ねえ、ジョン。町に帰る前にもう一度確認するわよ?」
しゅんとする息子の手をとって、彼女は目線を合わせ語りかけた。
「森のお家で見たこと、聞いたこと、知ったことを、お母さん以外の人と話さないと約束したわよね、覚えている?」
「……シュウさんと遊んだこととか、アキラさんに教わった薬草のこととか、コウメイさんの美味しい料理のこととか、赤目先生の魔道具のこととか、母さん以外の人に話しちゃいけないんだね?」
「そうよ。どんな治療を受けたのかも、彼らの名前も忘れるのよ」
唇を噛んでうつむいたジョンは、躊躇いがちに目をあげる。
「父さんにも、ダメなの?」
「お父さんには私から説明するわ。ジョンは治療魔術師様に治療してもらって、普通の生活ができるようになったとだけ教えてあげて」
父親に楽しかった療養生活を話して聞かせたいとガッカリするジョンだが、素直に「わかった」と頷いた。
「ぼくたちが黙っていることが、治療代なんだよね?」
「ええ、治療魔術師様も薬魔術師様も、私たちに望んでいるのはそれだけのようだから」
本当なら全財産と、死ぬまでに稼ぐ全額を支払っても治療費には足りないだろう。せめて彼らの希望に添うことくらいしか、感謝を返す方法はない。
息子に町まで歩けるかとたずねた。
「閉門までに帰りつかないと、野宿しなくてはならなくなるわ」
「大丈夫、ぼく長く歩けるようになったよ」
「それなら急ごうか」
背負子の荷物は彼女が予想していたよりも軽かった。これなら町まで休まずに歩き続けられるだろう。いやジョンの体調を考えれば、何回か休憩を挟む必要がある。閉門に間に合わないようなら無理をせず、手前の村で軒先を借りることにしよう。
マユは息子の手を引いて街道を目指した。森を背に草原を南東に歩く。次第に草丈が低くなり、人の足が踏み固めた道が現れた。土道に残る轍をなぞるように歩く二人に、カポカポと蹄の音が近づく。
「薬店のマユさんじゃないかね?」
馬車を避け端に寄った彼女に、馬車を止めた男が声をかけた。
「ああ、やっぱりマユさんだ。姿が見えないから心配しとったんだよ。その子はもしかして……ジョン坊かい? 町に帰るんだろう? 馬車に乗りなさい、今場所を空けるから」
「ありがとう、オルマさん」
マユを見て無事を喜び、病人であるはずの子供が歩いているのを見て驚いた男は、荷物を寄せて二人分の場所を作った。ありがたく腰をおろした彼女は、見覚えのない男を不思議そうに見る息子に男を紹介する。
「ジョン、このおじさんは雑貨屋のオルマさんよ」
「ジョンです、こんにちは」
「こんにちはジョン。元気そうだね……ずっと寝たきりじゃなかったのかい?」
二年ほど前から彼女の息子が寝付いているのを近所の誰もが知っていた。口には出さなかったが、ジョンは六歳までは生きられないだろうと思っていたのに、血色の良い顔で街道を歩いているのだから驚きだ。
「実は三ヶ月前に腕のいい治療魔術師様を紹介してもらえたんです」
旅の途中で立ち寄った治療魔術師がジョンの病気の治し方を知っており、無理を言って引き止め治療をしてもらったのだと説明した。
「それで留守にしてたのか。ジーナも心配していたよ。だが治ったのか、良かったなジョン」
「はいっ」
元気のよい弾むような声と笑顔は、生命力に溢れている。見違えたと目を細めた男は、そっと目尻を拭った。
「二人が歩いているのを見たときはびっくりしたよ。その治療魔術師様は町に寄ってくれないのかね?」
ハリハルタの治療魔術師がサガスト周辺に往診に来ることはない。その魔術師が町で診療所を開いてくれれば、近隣の村人もずいぶんと助かるだろう。
「ギルドや行政舎に頼んで町に招けないかね」
「無理ですよ。急ぎの旅だというのに押しかけて、無理を言って治療してもらったんです。それにもう旅立ってしまったわ」
「それは残念だな。最近女房の腰痛が酷くなっててね」
「それなら私がお薬を作れますよ。治療魔術師様のところでたくさん勉強して、効果の高いお薬の処方も教わったんです」
「それはいい、明日にでも買いに行くよ」
カタコトと揺れる荷馬車は閉門直前にサガストに入った。雑貨屋の前で馬車を降りた二人は、懐かしい町の様子に安堵を覚えながらゆっくりと我が家に向かう。門兵から知らせを受けて先回りしたのだろう、冒険者ギルドのジーナが玄関前で待ち構えていた。
「マユ! ジョン!」
友人の明るい表情と、自分の足で立つジョンを見た瞬間、ジーナは二人に抱きついた。
「無事でよかったぁ。すっごく、すっごく心配したんだからね!」
「ありがとうジーナ。無事に二人で帰ったわ」
「ジーナおばさん、ただいまっ」
「元気になったのね、よかった」
血色の良いジョンを確かめてジーナは目尻を手の甲で拭う。
「お祝いしなきゃ。マユも疲れてるでしょ。デジーナさんの食堂で夕食を買ってくるわ」
祝杯をあげて、この三ヶ月のことを聞かせてくれとジーナがはしゃいでいる。
友人を見送ったマユは、三ヶ月ぶりに我が家の玄関扉を開けた。乾燥薬草の懐かしい香りにつつまれて、肩のこわばりがゆるりと消える。
「母さん、ぼくの家、あのお家と同じ匂いがするよ」
大きく息を吸って家の香りを嗅いだジョンは、嬉しそうに母親を見あげた。
「ぼく、この匂い大好き」
「お母さんも大好きよ」
彼女は流れる涙もそのままに、息子に微笑みかけた。
【マユの物語について】
前作の4部で登場した転移事故被害者のマユ。
開き直って楽しめるくらいに成長していたコウメイたちとは違い、自我は芽生えていてもまだまだ母親の庇護下の狭い世界で生きていたマユが、異世界に放り出されてどうなるのか、本編を完結させた後もずっと気になっていました。
最初に彼女の物語を書こうとしたのは、ご長寿の話を連載する前で、確か3万字ちょっと書いたと記憶しています。
何か違うなというモヤモヤしたものがあって、その3万字はボツにしました。
アキラがアレ・テタルで臨時講師をする流れを決めたときに、マユと邂逅するエピソードを書いてみようとプロットを作ったものの、アキラたちのエビソードの順番が入れ替わったためアレ・テタルではすれ違ってしまい書けませんでした。
これはご長寿とは交わらない独立した物語とするべきかと思うも、シュウとの再会はさせてあげたいし……と悩んでいるうちに、三人が深魔の森に秘密基地を作って隠れ住んだことでマユの物語と交差でき、幕間にて書くことができました。
マユが気になっていた方に楽しんでいただけて、納得していただけるとよいのですが……。
シュウとマユが再会を果たしたことで、二人の物語は終わりです。
彼女はこの世界でたくましく夫と子供と生きてゆくと思います。




