7 船上の人々
船上の生活はある意味、自由で退屈だ。
一日にメリハリをつけるため、太陽の高さに合わせて銅鑼が鳴らされているが、強制力があるわけではない。惰眠をむさぼりたい者は毛布にくるまり、朝から酒を飲みたい者は食堂で駄弁り、社交を楽しむ者は甲板で顔見知りを作って毎日のように会話を楽しんでいる。身体を動かしたい者は船員らの訓練に参加して発散し、静かにすごしたい者は日のんびりと海を眺めたり、日当たりの良い場所に座り込んで手持ちの本を読みふけっている。
「なぁ、アキ。それ読むの、何回目だ?」
「三回目」
「よく飽きねぇなぁ」
「まだ三回だからな」
暇つぶし用に持ち込んでいた大陸北部の風土研究本は、何度読んでも興味深くて退屈しないと、アキラの指が静かにページをめくる。
「そろそろ俺のと交換してくれよ」
黙々と読書に没頭する親友の隣に腰をおろし、同じように本を読んでいたコウメイは、二回目の読了と同時にアキラの袖をちょいちょいと引っ張った。
「……まだ読み終わってない、邪魔をするな」
「三回目は勘弁してほしいんだよなぁ、この本」
コウメイが読んでいたのは、貴族の専属料理人だったという故人の手記だ。料理人の書いた本だというから、レシピの開発秘話や珍しい食材との試行錯誤、貴族の食文化に関するあれこれといった内容を期待していたのだ。ところが期待した調理法についての記述はなく、著者が誰に料理を提供して褒められたとか、褒美に何を貰ったとか、一流料理店で料理長を務めたとか、貴族に召し抱えられて出世したとか、そんなエピソードばかりだ。自慢はいいからそのレシピを教えろよ、と読んでいてイライラするしかない本を二回も読んだのだ。コウメイとしてはこれ以上不快になるものを繰り返し読みたくない。
コウメイはアキラにピッタリと肩を寄せ、横からのぞきこんで文字を追う事にした。開いていた頁はちょうど北国の人々の生活について書かれているところで、身体を温めるためにニーベルメアでよく食べられている料理の説明が目に入った。
「あ、そこ、ちょっと待て」
「おい、こらっ」
ページをめくろうとする手を掴んで止めたコウメイを横目で睨みつけると、アキラは肩でその身体を押し離した。
「邪魔をするな。新しい本が読みたかったら借りてくればいいだろう」
乗船客の中に貸本業の商人が居り、彼が船内で乗客相手に商売をしているのだ。
「あんまり面白そうなの、ねぇんだよなぁ」
「読んでみなければわからないぞ」
「そんなもんかねぇ」
コウメイはため息をついて立ち上がり、貸本を手に一等客室階へと降りた。階段を挟みコウメイたちの客室とは反対側にある端部屋の扉を叩き、目的の人物の名を呼んだ。
「貸本屋のクリフさんはいますか?」
「もう返却ですか、早いですね」
コウメイが差し出した本を受け取ったのは、濃い金髪の三十代の男だ。「楽しめましたか」とにこやかにたずねられ、コウメイは肩をすくめた。
「残念ながら、あんまり。料理法とか食材のうんちくを期待してたのに、出世自慢ばっかりで面白くなかった」
「そうですか、では次は娯楽本はいかがです? ちょうど先ほど返却されてきたものがありますよ」
クリフはマナルカト国の貸本屋の使用人だ。近年娯楽本の出版が盛んなウェルシュタントに新作の娯楽本を仕入れに行った帰りとかで、船長に許可を取って乗客に本を貸し出している。船上という狭く限られた空間なので客は多くないが、暇を持て余した一等客室の面々にはよく利用されているようだった。
「娯楽本ねぇ」
「ナツコ先生の新作は人気ですよ。あとこちらのティファニー先生は初めて娯楽本を出しましたが、ウェルシュタントの都ではなかなかの評判でしたね」
聞き覚えのある著者名に、コウメイは怖いもの見たさもあって内容をたずねた。
「ナツコ先生の方は、何年か前にあった砂漠でのスタンピードを下敷きにした冒険譚でして、コウメイさんのような眼帯の冒険者が大活躍する話ですね」
血沸き肉躍る魔物との対決は面白く感動は約束しますよ、とクリフは拳を握って熱く語った。
「ティファニー先生の本は、宮廷を舞台にした恋愛物語です。身分に翻弄されて涙を流す結末ですが、女性にはとても人気があります」
「もしかして貸してる本は全部読んでるのか?」
「もちろんです。内容を知らなければ、お客さんにおすすめできないでしょう?」
どちらにしますかと差し出された二冊を前に、流石のコウメイも苦笑いするしかなかった。自分がモデルかもしれない本と女性向け恋愛小説の二択は、ある意味究極だ。
「他にねぇのかよ」
「他にですか……」
クリフは箱を探っていくつかの本を取り出したが、地方領主の回顧録だとか、放蕩貴族の漫遊記という名の女遊び自慢、元騎士団長を務めた頑固者の小言集らは、娯楽本以上に読む気になれなかった。
「どうするかな」
しばし悩んだ後、コウメイはナツコの新作「砂塵を斬る勇者たち」を借りた。多少作者の妄想が混じるかもしれないが、あのスタンピードの戦いが、客観的にどう捉えられているのか興味があった。
「内容によっては、アキに読ませられねぇなぁ」
妄想や誇張は物語のスパイスだ、シュウならゲラゲラ笑ってスルーできても、アキラは無理だ。
飾り気のない革表紙の本を受け取ったコウメイは、重い足取りで客室に戻っていった。
+
コウメイとシュウが戦闘訓練に参加するのは日課になりつつあった。窮屈な船室で硬くなった身体をほぐし、木刀で打ち合うことで戦闘感覚を思い出す。あくまでも身体を鈍らせないための運動なので、周囲の挑発に乗ることはない。
退屈を紛らわせる絶好の娯楽を、毎日楽しみにしている乗船客も多い。この日も商人や休憩中の船員、訓練に参加していない冒険者たち、そして女たちが甲板に集まっていた。
「さて、もうすぐ締め切るぞ。賭けたい奴は早くしろよ」
木札を持って口上を述べているのは、訓練後の勝ち抜き戦を賭け試合にした元締めだ。ただ見物しているだけでは面白くないと、冒険者の一人がひっそりと身内で賭け事をはじめ、それが乗客らに広がったのだ。金が絡むと揉め事が起きるものだが、そこは船長が釘を刺し、甲板長が目を光らせることで、八百長や闇討ちといった危険が回避されていた。
「今日のおすすめはバーニーとロデリックだ。剛腕バーニーは七連続の勝者だぞ」
日に焼けた剛腕の船員は、訓練指揮官であり食堂の見張りでもあるので知っている乗客も多い。暴れる酔客が彼に片手で拘束され、縛り上げられるのを何度見たことだろうか。バーニーはつるりとした頭をなでてニヤリと笑い、二の腕の盛り上がりを観客に見せつけた。
「対抗のロデリックも昨日の追い上げは凄かった。あわやというところまで追いつめた粘りに期待できるぞ。バーニーの連勝を止めるのは彼しかいない!」
背が低くどっしりとした身体つきの冒険者ロデリックは、打たれ強く頑丈だ。バーニーの木刀を真正面から受け止め力で押し返すことができる。むすっとした表情で木刀を振り、風を斬るその鋭さに観客が湧いた。
「さて、今日の勝者はどちらだ? 誰に賭ける?」
賭け金は一人十ダル。的中させても殆ど儲かることはないが、小さな賭博がいい娯楽となって乗船客には好評だ。十ダルを握った男たちは決勝に残るであろう闘士の状態を見極めようと二人を注視している。
「なー、俺も出ていいだろ?」
武術大会を彷彿とさせる熱気に、シュウがそわそわとアキラの顔色を窺った。
「大丈夫だって! 獣化も完璧に押さえ込めてるし、力の加減くらいどーってことねーからさ」
「しかしな」
「アキは過保護すぎるぜ。シュウの好きにさせたらどうだ。面倒が起きたら自分で後始末させりゃいいんだよ」
「そーそー、ガキじゃねーんだから、少しは俺を信用しろよな」
コウメイの援護射撃があっては鼻息の荒いシュウを押さえるのは難しい。どうなっても知らないかならなと呟いて、アキラはそっぽを向いた。
シュウの参加表明を聞いて、元締めは大きく声を張り上げた。
「お、大穴候補が参戦したぞ。これまで出場辞退を続けてきた跳ねる剛力のシュウだ、これは予測がつかなくなってきた。さあもうすぐ試合が始まるぞ、締め切る前に賭けてくれよな!」
賭け試合の元締めの口上を聞き、少し離れた舷縁に集まっていた女性客らが慌てたように銅貨を渡してシュウに賭けはじめた。これには剛腕バーニーも冒険者ロデリックも不満そうだ。同類たちから一目置かれるものいいが、彼らの本音としては武勇で見物の女性客こそ魅了したかった。それなのにこれまで一度も賭けようとしなかった彼女たちは、顔だけの若造の勝利に次々と銅貨を投げ出すのだ、正直面白くない。
「ちょっと顔がいいからって調子に乗るなよ」
「致傷禁止を舐めてやがるなら痛い目見るぜ」
「調子に乗ってねーし、俺より顔のいい奴もいるし、痛いのは嫌だから勝ちにいかせてもらうぜ」
その日の賭け試合に出場するのは八人の腕自慢だ。元締めの作ったくじで対戦相手が決まる。シュウの相手は乗船客の一人で、三日前から訓練に参加するようになった紅一点のブリアナだ。上級客室の富豪に雇われた冒険者で、護衛仕事の空き時間に仲間とともに力試しをしている。
「あら残念。コウメイが相手なら張り切ったのにな」
ブリアナは海の色の瞳でにっこりと笑い、本気で勝負するには物足りないとシュウを焚きつける。
「アイツを引っ張り出したかったら自分でやれよな」
「そうするわ。あなたに勝ったら次は彼が出てくるかしら?」
「どーだろーな。俺と違ってこーいうの興味ねーみてーだし」
激しく打ち合っていた二人の勝負は、シュウの斜めに打ち上げた一刀で決着がついた。高く跳ね上げられた木刀がクルクルと回転して観客へと襲いかかる。
キャアキャアと悲鳴があがり狼狽える観客の間から伸びた手が、パン、と小気味のいい音とともに木刀を掴み取った。
「あ、わりー」
「周りをよく見て戦えよ」
「まあコウメイが取ってくれたのね」
試合に負けたというのに、ブリアナは満面の笑みでコウメイに歩み寄り「ありがとう」と手を差し出す。返された木刀ごと、しっかりと手を握ったブリアナだ。取り囲んでいた女性たちの空気に、ピリッとした緊張が走った。
「あなたも試合に出ればいいのに。私コウメイと戦ってみたいのよ」
「俺は出ねぇよ」
ブリアナの手を引きはがして、コウメイは両腕を胸の前で組んだ。
「出し惜しみなんてもったいないわ、ねぇ、あなたもそう思わない?」
突然ブリアナに問いかけられた女性客の一人は、常日頃から思っていたのか「雄姿を見たいですわね」と即座に同意した。
「私たち、お二人が活躍するの楽しみにしてるんですよ」
彼女の近くにいた女性たちもチャンスだとばかりに集まってきて、口々にコウメイとシュウを褒めはじめた。
「コウメイさんが試合に出れば、もっと面白くなると思うの」
「もっと洗練された試合を見たいですわ、そう思いませんこと?」
「わかるわ、目の保養は必要ですものね!」
コウメイを取り囲んで楽し気にしている女性たちを、甲板にいる男たちは羨ましそうに、あるいは恨めしそうに、はたまた憎々しげに見ている。
「あんたらシュウに賭けたんだろ。試合を見てやれよ」
賭け試合はすでに四試合目が終わるところだった。五試合目のシュウの相手は剛腕のバーニーだ。八連勝目のかかる禿マッチョは鼻息も荒くシュウを見据えている。シュウのために賭けた女性たちは試合が始まると声援を送った。
「ねえコウメイ、あなたお酒強いんですってね。私とても珍しいお酒を持っているの。良かったら一緒に飲まない?」
コウメイが薄める前の酒を指定して購入していることは、食堂の常連客ならみな知っている。しなを作ってもたれかかるブリアナを、コウメイは愛想笑いで押し離した。太陽の光を受けてキラキラと輝く金髪は華やかで美しいし、鼻の上に浮いたソバカスは愛嬌があって魅力的だ。だが海の色をした瞳は、澄んだ色とは裏腹に欲望を隠しきれずにギラついている。
「悪いな、俺は好きな酒をじっくりと味わいたいタイプなんだよ」
「美味しいお酒は一つじゃないのよ、色々試してもいいんじゃないかしら?」
「飲み比べの好きな奴を誘えよ、あっちの兄さんたちとか、強そうだぜ」
そう言って賭け試合に熱中している男たちを指し示したコウメイは、剛腕バーニーに負けて戻ってきたシュウに気づいて小さく手をあげた。
「負けるの早くねぇか?」
「船の揺れで足が滑った。足元が安定しねーと難しいな」
コウメイの横に立つブリアナは援護を期待してシュウに微笑みかけた。
「シュウからも言ってやってよ、コウメイったら私の秘蔵の希少酒に興味ないっていうのよ」
「へー、酒好きが珍しーな。けどコウメイにはもったいねーんじゃない?」
「どうしてよ」
「こいつ水みてーな勢いで酒を飲むから、希少な酒があっという間に飲み干されるぜ?」
「よけいなこと言うな、シュウ」
「事実だろ」
コウメイのつま先がシュウの踵を軽く蹴った。にんまりとしたブリアナが唇を突き出して再びコウメイにもたれかかった。
「あら、飲み干してくれてもいいのよ?」
「だから他を誘えって」
何故か自分の発言でコウメイが困っている。何かマズい事を言っただろうかと首を傾げたシュウは、それまで沈黙していたアキラに袖を引かれて振り返った。
「……そろそろだ」
「あ、やべー。コウメイ、戻るぜ」
「おう。じゃあな」
縋りつかんばかりのブリアナをいくぶんか乱暴に突き離し、コウメイはアキラとシュウの後を追って甲板から立ち去った。
+
ブリアナは唇を噛んで客室へ降りる階段へと姿を消す三人を見送った。
「またダメだったわ」
「残念だったわね。やっぱりコウメイには女性らしく楚々に迫る方が効果があるんじゃない?」
コウメイとシュウの周りを固めていた女性客が、挑発するようにブリアナを見てくすくすと笑っていた。
「あなたたちが下手な色気で迫って全滅してるから、ちょっと捻ってみたんじゃない。お酒好きなら引っ掛かるかと思ったけど、悔しいわね」
いつもフードの男を挟んで他の乗客とは異なる雰囲気を漂わせている三人は、甲板に佇んでいるだけでも目立っていた。雰囲気だけでなく見目もよろしいコウメイとシュウは女性客の話題の中心で、なんとかお近づきになりたいと幾多の女性が突撃したが、いずれも失敗に終わり続けている。
「彼らって謎よね、ほんと」
「強さを褒めてもつけあがらないし、酔っぱらって暴れることもないし、三等客を粗雑に扱うこともないし、極上よ」
黒髪の女性はうっとりとした表情で目を細め、深い金髪を複雑に編み込んだ淑女は甘い吐息をこぼし、栗毛の少女は頬を染めた。
「野性味の奥からにじみ出る上品さとか、素敵よね」
「人懐っこくてかわいらしい表情が、一瞬で獣のような鋭いものに変わる瞬間がぞくぞくするわ」
「それに汚くないし」
「それよ、それ!」
好みの差はあれど、彼女たちの意見は一致していた。
「試合前にシュウに近づいたら森のような香りがしたのよ!」
「コウメイからは薬草のような香りもしましたわ」
汗臭い汚れを放置した異臭の漂う船内では、彼らのような清潔な存在は稀有だ。たとえ見た目が禿マッチョや髭もじゃ岩石だったとしても、清潔というただ一点だけで船内では好感度が上がる。ましてや人当たりも見た目も良いのだからモテないわけがなかった。
「陸地でもあれほどの逸材は滅多に見つけられないのに、この狭い船に二人もいるのよ。何としても捕まえておきたいわ」
「それにはあのフードが邪魔よね」
顔を隠した三人目の存在が、彼女たちの猛アタックが失敗する原因だ。どれだけ話が弾んでいても、手ごたえを感じていても、フードが声をかけるだけで二人は自分たちから離れて行ってしまう。
「何者なのかしら?」
「二人が冒険者ということは、雇い主かしら?」
「四六時中雇い主に拘束されてるなんて、気も抜けないしかわいそうだわ」
「きっと安くこき使っているのよ、なんとか解放して差し上げたいわね」
勝手な妄想を繰り広げる彼女たちのすぐ脇では、別の賭け事の元締めが耳を澄ませてメモを取っていた。
「ブリアナは失敗、と。これで賭けは分からなくなったな」
数少ない女性客にいいところを見せようと、男たちは張り切っていたがその結果は散々なものだった。コウメイとシュウに視線が集まり、他の男たちは見向きもされない。やっかみ半分で二人を見張っているうちに、コウメイとシュウが誰に、何時、篭絡されるのかという賭け事がひっそりとはじまった。カラセルテで乗船した女冒険者は美人でさっぱりとしている。淑女に落ちなかった二人でも、ブリアナなら落とせるかもしれないと期待していたのだが、結果は見ての通りだ。
「あいつら、もっと特上の相手を狙っているのか?」
先の寄港地で特別室の貴族客が入れ替わり、今は下級貴族の夫婦が乗船している。より地位の高い相手と懇意になれれば安泰だと考える者は多く、彼らの目に留まるようにと腕に自信のある乗船客は、毎日賭け試合に出場していた。
「本日の勝者は、剛腕のバーニー! 八連勝だ!」
賭け試合の決着がついて甲板は大いににぎわっていた。決勝試合の直前に特別客室から出てきた貴族の奥方が、男たちを値踏みするように見ている。火遊びの相手に選ばれれば出世のきっかけになると考える者たちが、媚びを売るように見あげていたが、ここにあの二人はいない。
「一体何を狙っているんだあいつらは」
コウメイとシュウが貴族におもねりたければ賭け試合に出るだろうし、毎日決まった時刻に甲板に出てくる貴婦人を避けるように立ち去ることはないはずだ。
「まさか、男色……いや、それはないな」
性的嗜好が女よりも男というなら、それこそ甲板で腕っぷしや鍛えあげた肉体を見せびらかす連中を放っておくはずはないし、細身が好みなら少年船員あたりに声をかけそうだがその様子もない。もっともあの二人が出来上がっているなら他の男が眼中にないのはわかるが、観察しているかぎりそのような様子はない。
「分からんな」
男は成立しそうにない賭け事について考えるのを棚上げにし、複数の冒険者らに調べろと頼まれていた、あの二人が女性客に囲まれる理由をメモからみつけだした。
「女たちに見てもらいたければ、荒くれどもが一番苦手な『清潔』を取り入れろ、か」
確かに船内は下層へ降りるにしたがって異臭が強くなる。汗を拭き、口をすすぎ、髪をまとめろ、と報告したとしても、船上の冒険者たちには受け入れられないだろう。
「森の匂いと薬草の匂いか。商人に匂い袋ががないかたずねてみるか」
汗臭い冒険者たちが「汗こそ男らしさの極み」などといって異臭を放っている間に、自分は少しでも清潔を心がけて良い香りをまとう努力をしよう、そう決意した彼は商人のエドモンドを探して船内に移動したのだった。
+
「酔い止めの薬と、消臭効果のあるもの、ですか?」
日暮れの銅鑼がなる少し前に客室をたずねてきたエドモンドは、乗船客から求められたからとアキラに薬の注文をした。
「カラセルテで乗船した上級客室の婦人が船酔いで苦しんでいてね、何とかしたいと相談されたんだよ」
「何故私に?」
「コウメイさんの酷い船酔いが、アキラさんのお薬で治ったというようなことを以前話していましたから」
余計なことを喋っていないだろうなと、横目で睨まれたコウメイはそっと視線を逸らせた。船内で顔を合わせた時の、二言三言の雑談までしっかりと覚えているエドモンドは商人の鏡といえる。
「酔い止めはありますが……ご婦人が吐き出さずに飲み干せるようなものではありませんよ?」
アキラの説明を「控えめすぎる」と横から突っ込んだシュウは、喉につかえる不味さの薬草汁を思い出して顔を歪めている。
「服用するかどうかは顧客に任せますよ、私は調達を頼まれただけですので」とエドモンドは肩をすくめた。船酔いは当の本人も周りも苦しく煩わしいことはアキラも身をもって知っている。味は保証しないと念押ししたうえで引き受けることにした。
「あとは臭い消しでしたか。注文主は女性ですか?」
女性ならば香水を使うはずだし、それらと混ざり合うことを考えると下手なものは出せない。慎重になるアキラに、エドモンドは苦笑いで首を振った。
「三等客室に臭いがこもって大変な事になっているんですよ。空気を送って臭いを散らしたいが、発臭元らが冷たい外気を嫌がるのでそれも難しいそうです」
アキラたちも船内に漂う、何とも言えないすえた臭いには辟易とさせられていた。
「あれって臭い消しくらいでどうにかなるのかよ?」
「無理だろうな」
丸ごと水洗いするくらいしなければ、あの臭いは消えないだろう。効果のないものは売れないと臭い消しについては断ることにして、アキラは一人分の酔い止め薬を手早く作ってエドモンドに渡した。鼻をつまみたくなるような臭いに顔をしかめつつも「よく効きそうだ」と五百ダルをポンと支払った旅商人は、さっそく上級客室の病人のもとへと向かうようだ。
「すげーな、酔い止め薬が錬金薬と同じ値段かよ」
「ボッタクリみたいに言うな。他で手に入らないんだから格安だ」
「しかし悪臭問題か。船旅ってのはどうしてもそうなるよなぁ」
寄港地で外出した際に汚れを落としたり洗濯ができればまだマシなのだが、滞在時間が短いとそれも難しい。階段付近では一等客室フロアにも悪臭がほんのりとあがってきており、油断しているときに嗅ぐとダメージは大きい。汗と体臭と酒と料理の混ざった臭いに、女性たちの白粉や香水が加わり、酷い時には呼吸ができなくなるくらいだ。そうなると甲板にあがって潮風を吸うか、客室に逃げ込んで悪臭を断つかしかない。
「この部屋だけは死守するぞ」
快適な船旅のためにも、自身の清潔を守るためにも、三人は毎日タライ風呂に入っていた。
「今日はシュウからだな。一番汗かいてるだろ」
「自分のパンツは自分で洗えよ」
「洗ってるだろー。昨日はちょっと忘れてただけで、いつもはちゃんと洗ってるって」
扉に鍵をかけ、ハンモック用のフックにロープを張り、毛布を吊るして簡易目隠しを作る。タライを置くとコウメイが温かな湯を張った。
「一番風呂、いただきー」
「はいはい」
汗と汚れを落とし、自分のパンツと靴下を洗って干す。
「アキラ、頼むぜ」
汚れた湯はタライごと窓際に運び、アキラが魔術で汚水をまとめて窓から投げ捨てるのだ。
「コウメイもこれができるようになってくれたら助かるんだが」
「練習はしてるぜ? けど根本的に無理っぽいんだよな」
常温から熱湯までと温度調整をした水を出すことはできるようになったコウメイだが、水を集めて窓の外に投げ捨てるというような器用なことは、今のところアキラにしかできない。
「スープが沸騰したらコンロの火を消してくれよ」
コウメイはシュウにスープ鍋の見張りを託してタライ風呂に入った。毎回最後はアキラだ。汚水を捨てタライを壁に立てかけると、三人分の洗濯物に向かって送風の魔術を使う。
「相変わらず全自動乾燥機は便利だな」
「一晩で乾くし、助かるよなー」
「ついでに髪も乾かそう」
風にはためくパンツの横で、長く伸びた髪を一緒に乾かすアキラを見て、そのアンマッチさにシュウは噴き出したいのを必死でこらえた。何とも言えない表情で見ていたコウメイは顔をしかめている。
「染髪剤が落ちてきたか?」
「白髪には染まりにくいっていうもんなー」
「白髪じゃない」
銀髪と白髪を一緒にするなとアキラが睨みつける。
「詳しいな、シュウ」
「美容師の姉貴がそんなこと言ってたからさー」
こちらの世界の染髪剤と日本のヘアカラーの品質差は大きいだろうが、定期的に重ねて染めた方が長持ちするのは共通の考え方らしい。シュウのアドバイスに嫌そうな顔をしたアキラだが、見た目を変えるためには仕方ないと、次の寄港地では染髪剤を買い足すことに決めたのだった。
+++
スープで身体を内側から温めたコウメイたちは、早々にマントと毛布にくるまり、身を寄せ合って眠りについていた。
夜の航行は静かだ。
暗闇の中、時折聞こえてくるのは波の音と風の音、夜番の船員たちの足音だけだ。
不意に、船体に振動を感じて、コウメイが目を覚ました。
「なんだ?」
重いものが船体にぶつかったような、そんな音と振動だ。
慌ただしい足音が甲板を走り、声にならない叫び声が聞こえた。
「起きろ、アキ、シュウ!」
跳ね起きたコウメイが、二人の身体を激しく揺すった。
グワン、グワン、グワン!!
激しく連打される銅鑼が、焦燥を駆り立てるように響いた。
「海賊だっ!!」
誰かの悲鳴と叫びが、重なって聞こえた。




