サガストの薬魔術師
息子の熱がさがらない。
昨夜飲ませた錬金薬は、期待したほど効かなかったようだ。
熱にむずがる息子をしっかりと寝具で包み込んだ彼女は、居間の隅に作った簡易調合台の前に立つ。必要な道具を用意し終えた彼女は、いつものように首からさげた錬金薬の小瓶を両手で握りしめて祈ってから、保存庫から取り出した薬草を使い、少し配合を変え手早く調合する。ほのかに黄みを帯びた液薬を吸い口に移し変えると、二階への階段を上った。
「ジョン、お薬の時間よ。飲んでちょうだい」
錬金薬と聞いて、熱で朦朧としていた息子は反射的に顔をしかめた。
薬効を優先した配合の錬金薬は、子供の舌には拷問でしかない酷い味だ。薬効を阻害しないギリギリの甘みをつけたが、それでも子供の舌には辛いだろう。
「少しだけ飲みやすくしたの。これを飲めば楽になるわ。だから我慢して、ね?」
額をくっつける母親に、彼はかすかに頷いた。吸い口を求めるように唇が動く。苦くとも飲めば身体が楽になるとわかっている彼は、むせながらも、時間をかけすべてを飲み干した。
ほう、と漏れた安堵の息から、薬草の香りがする。
「……母さんは、店に行って。薬飲んだから、ぼく、一人でだいじょうぶ」
「そうね、ジョンの熱が下がったら、少しだけお店の様子を見てくるわ。痛みはどう? 身体は動かせる?」
「うん……楽になった、よ」
汗で湿った黒い前髪を掻き上げてやると、安心したように息をついて目を閉じた。錬金薬が効いてきたのだろう、苦しそうだった息が穏やかになり、身体から力が抜ける。
安らぎの眠りに身を委ねる我が子を見つめる瞳は、追い詰められた小動物のようにわなわなと震えていた。
ジョンに与える錬金薬の量が増えている。先月までは朝と夜の二回で効果があったのに、今は朝昼夜の三回飲ませなければ、熱と痛みを抑えられなくなっている。症状に合わせて特別に配合した錬金薬も、以前ほど効かなくなっていた。息子から離れられる時間はどんどん短くなっている。冒険者ギルドに納品に行く時間がせいぜいだ。
彼女は昨夜のうちに作ってあった錬金薬を容器に詰め替え、丸薬をシクの葉で包んで小分けにする。
「質のいい薬草があればいいのだけど」
この町の冒険者に対する彼女の絶望は深い。サガストにはうだつの上がらない冒険者や駆け出しばかりが集まっている。討伐冒険者として名をあげようと、深魔の森の端で狩りや討伐に明け暮れる連中が、ついでのように持ち帰る薬草の扱いは酷いものだ。おかげでギルドに集まるのは品質も状態も規定に達しない薬草ばかりだ。
息子の治療に使うためにも質の良い薬草がほしいが、この町の冒険者に期待するのは無駄だと早々に諦めた。
「採取に行きたい……」
以前は自分で必要な薬草を採取していた。息子が病に伏してからは、冒険者の夫が毎日薬草を持ち帰ってくれた。だが彼は新薬の可能性を求めて北の国に向かったばかりだ。戻ってくるのはどれだけ早くとも半年後だろう。それまで息子が保つかどうか、彼女には判断できない。
夫は間に合わないかもしれない、そんな考えがよぎっただけで、彼女の足は動かなくなる。出かける準備をし、扉に手をかけているのに、外に出かけるのが怖かった。
「こんにちは、マユ」
彼女が扉を押し開ける前に、あたたかな日の光が友人とともに飛び込んできた。
「あ……ジーナ」
「出かけるところだったの? ジョンの具合が良くなったのね」
心労で曇るマユの表情に気づいているだろうに、栗毛のジーナは笑顔で彼女に抱きつく。その明るさに鬱々とした胸のつかえをなだめられ、彼女は詰めていた息をほっと吐き出した。
「どこに行くつもりだったの?」
「冒険者ギルドよ。納品と、あと薬草を受け取りに」
「行き違いにならなくてよかったわ」
マユの肩を押して室内に入ったジーナは、居間の片隅にある調合テーブルに持参した荷物を置いた。
「ちょうど質のいい薬草が納品されたから急いで持ってきたの。それとお見舞い。ジョンが食べられるかもと思って」
ジーナに手渡されたのは彼女の拳ほどの大きさの果実だ。見た目よりもずっしりと重い甘瓜はみずみずしい。喉をするりと通る甘さはジョンを元気づけるだろう。微笑んで礼を言ったマユは、納品するつもりだった錬金薬をジーナに渡した。
「はい、確かに。これ受領証ね。それとこっちは薬草。どう?」
「これ……」
ジーナの並べた薬草を見た瞬間、彼女は目を疑うように顔を近づけた。これまでサガストギルドに持ち込まれた薬草の中では最高品質だ。少し前にハリハルタから融通してもらった薬草にも匹敵する、いや採取からの時間経過を考えれば、これはハリハルタに納品されているものと同じではないだろうか。
薬草に触れ、鮮度と状態を確かめたマユは、ジーナに掴みかからんばかりにたずねた。
「これを持ってきた冒険者は誰!? どんな人? どこに住んでるの?」
「はじめて見る顔よ。右目に眼帯をした色男だったわ。マリーナが一目でのぼせあがっちゃって。困ったものよ」
言葉や動作に粗野なところがなく、冒険者にしては上品で、身なりも小綺麗だった。気さくで、笑顔は警戒心を抱かせない不思議な魅力があり、けれどそれが冒険者らしくないとジーナは警戒しているようだ。
「その男が薬草と交換で治療薬と丸薬を買っていったの。物々交換のときはいつも名前を控えるのだけれど、マリーナは見とれるのに忙しくて忘れたらしくて……その冒険者、知り合いなの?」
マユは首を横に振る。
「この前ジーナが教えてくれたでしょ、最近ハリハルタのギルドに高品質な薬草が定期的に納品されているって」
「ああ、凄腕の薬草冒険者がいるらしいって噂ね。この前あっちに依頼を出したけど……まさか眼帯の彼が?」
「わからない。でもこの薬草はハリハルタから取り寄せた物と同じなの」
「薬草冒険者には見えなかったわよ」
あれは違うとジーナは首を振るが、マユはその眼帯が彼女が求める人物に違いないと確信していた。
高品質の薬草を求め、ジーナの伝手でハリハルタに依頼を出したのが一週間前、このタイミングでサガストに同じ薬草を納品する人物が現れたのだ、偶然であるはずがない。
「お願い。次にその眼帯の冒険者が来たら、引き止めてちょうだい」
そしてすぐに知らせてほしいと、マユは小さな魔紙とクズ魔石をジーナに渡した。
「待ってマユ、焦る気持ちはわかるけど、早まらないで。あの冒険者の素性はわかっていないのよ。あなたの足元を見て不利な条件を提示されるかもしれないわ」
隙のない立ち回りやマリーナを籠絡するこなれ感に作為を感じると、ジーナは眼帯男を警戒していた。薬草は確かに必要だが、夫が不在で病気の子供がいるのだから、マユは警戒しなければいけない。取引きはギルドが仲介するから、その男に直接接触しないでくれとジーナは彼女を説得した。
「他の職員にも眼帯の冒険者のことは伝えておくわ。見かけたら引き止めて、ギルドが間に入る。マユとジョンを守るわ」
「ありがとう。この品質の薬草が安定して手に入るなら、もっと高品質の錬金薬が作れるわ……ジョンの症状にあわせた薬が」
息子の寝室のある二階を見あげたマユの顔は、ようやく見えてきた希望の光をまぶしげに見ているように細められている。
ギルドに戻るジーナを見送って、マユは調合台に落ち着いた。買い取った薬草を丁寧に検分する。
「すごいわ……繊細な薬効魔素がこれほど密に含まれているなんて」
どれもこれも、近隣で採取できる薬草を濃縮したような力強さがある。彼女の手が震えた。この薬草なら、ギルドで定められた品質の錬金薬なら三倍の量が、マユが求める高品質の錬金薬も余裕で作れるだろう。
「それにしても、こんなに上質の薬草をどこで採取したんだろう」
マユはサガスト近辺の採取場を思い浮かべた。町東の森よりも深魔の森に濃い薬草が多いと冒険者なら誰でも知っている。だが彼女の知る深魔の森の採取場ですら、これほど美しく力強い薬草は見たことがない。
「ハリハルタに近い森のほうが魔物が凶暴だというし、薬草もあちらのほうが生育が良いのかもしれない」
できれば自ら必要な薬草を採りに行きたいが、薬草冒険者が自分の採取場を漏らすことはあり得ない。どれだけ金を積んでも、眼帯の冒険者からは採取場を教えてもらえないだろう。なんとしても定期取引の契約を結ばなくてはならない。ジーナには止められたが、どんな不利な条件であろうともマユは呑むつもりでいた。
彼女は胸の前で揺れる古い錬金薬の小瓶を両手で握り、祈りで気持ちを落ち着けてから調合をはじめる。
まずは息子の症状に特化した錬金薬を作った。次に目が覚めたら食事をとらせ、これを飲ませて経過を見る。この錬金薬はこれまでの薬よりずっと良く効くはずだ。これを飲み続ければ完治の可能性もある、とできあがった高純度の錬金薬を前に彼女の期待が膨らんだ。
「……絶対に治してみせる」
ガラスの錬金道具でちゃぷりと揺れる錬金薬は、これまでにない魔力の輝きを放っている。まぶしいほどのその輝きに挑むように、彼女は強く歯を食いしばった。
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高純度の錬金薬は驚くほどの効果を見せた。ジョンは飲んだ数鐘間後に上半身を起こし、自分で食事を取れるほどまでに回復した。痛みにも熱にも煩わされない呼吸はこんなに楽なのかと、彼は幸せそうに微笑んでいた。
だがそれも長くは続かなかった。じわりじわりと痛みと熱がぶり返し、三日後には再び起き上がれなくなった。以前の錬金薬が効かなくなっていた。だがあの錬金薬を作りたくても薬草がない。ギルドから品質の良い薬草を買い取り精製したが、輝くほどの光に満ちた錬金薬を作れはしなかった。
息子はいつまで熱にうなされ痛みに苦しまねばならないのだろう。己の無力に打ちひしがれるマユの前にジーナからの小さな魔紙が舞い降りたのは、あの薬草を手に入れてから十日目だった。




