五月下旬
【五月下旬】
「……土曜、カラオケ行くか」
先輩がそう宣言したのは映画を鑑賞した日から二週間後の放課後の部室。凪沙さんが即興でノートに描いた自作キャラクターに僕が即興で名前を付ける遊びをしている時、先輩が一人席に凭れ掛かって天井を見上げてた時だった。
「はい?」
突如として発せられたカラオケ宣言に僕と凪沙さんは十以上描かれたキャラクターから視線を外し、先輩を注視した。
「……先輩」僕は真顔で先輩を見た。
「んあ?」先輩が、寝起きのような返事をする。
「十八歳以下は保護者同伴しないと指導されますよ」
「何で私が一人で行く前提なんだよ」先輩は、今度ははっきりとした口調で突っ掛かってくる。
「先輩ですから」僕は断言した。
「私のこと、なんだと思ってんだよ」
「終末の破壊者」
「テロリストか私は」
「秩序を乱すものとしてなら間違いないかと」
「てめえ、一ヶ月で言うようになったじゃねえか」
「笑い」
「煽ってる? 煽ってるの?」
「先輩ですから」と今度は凪沙さんがそう言った。先輩は凪沙さんに断言されたのがショックだったのか、「おぐぇえ」と吐血した素振りをして項垂れる。
先輩は共同活動先の演劇部とアニメ制作部の間で『女型台風』という通り名で有名だった。アニメ制作部の証言によると、先輩はアニメ制作部の部長に対し、同性であることを理由に背後から胸や尻を触るといった、いつ訴訟を起こされてもおかしくない頻度でセクハラ行為を働いているらしく、演劇部からは文化祭の客引きで使ったという黒猫の被り物を無断で被ってはヘッドバンギングしながら佐藤さんを追い掛け回していると聞いた。挙句の果てには他の三年部員も餌食に遭っているとのことで、どこに隠しても即座に見つけては被って暴れ回り、一通り追い掛け回したら何事も無かったかのように佐藤さんと打ち合わせを始めるそうだ。
そんな感じで、縁を切られないのが不思議に思える程、悪行三昧な日々を送っている先輩なら校則違反も平気でやって退ける気がしたのだ。
「てか、そう言ってるけど、お前らも行くんだからな」凪沙さんにまで悪ガキ扱いされた絶望の淵から復活した先輩がいきなり言ってくる。
「あらま」と僕はぼやく。
「他人事かよ」先輩が、じっとりとした目で見てくる。
「他人事ですが」とは口には出さないでおく。
「そうは言っても、同伴者の当てはあるんですか?」
「それを今から考える」
無計画にも程がある。多分わざとだ。
「誰かいない?」
しかも、人頼りだった。これも多分わざとだ。
「地元じゃないので」
「あり? そだっけ?」先輩がすっ呆ける。この地域に住み始めたのは高校生になってからなのは体験入部の時に承知の筈だ。やはりわざとだ。
「そうですよ」
僕はこんな刺々しい言い方だったろうか。
「あの…」
一言も言葉を発していなかった凪沙さんが控えめに手を挙げる。僕と先輩はゆっくりと振り向いた。急に振り返ると怖気づいて口を閉ざしてしまうからだった。
「私の姉、大学生ですけど、訊いてみますか…?」
僕と先輩は顔を見合わせた。何故僕は先輩を見たのだろう。
少し考えて、自分も行く気になっていることを自覚する。全く気が付かなかった。身内とも交流が少ない僕は一回しか行ったことがないから断りたいという気持ちはどこへ行ったのだろう。先輩は自分の言葉に催眠術を仕込んでるのかも知れない。
◇
数分後、凪沙さんの携帯に返ってきたメッセージを皆で読んだ。
『いいね! 行く行く! 集合時間と場所教えて!』
◇
喧騒賑わう街中を歩く中、僕は待ち合わせ場所の駅に着いた。自転車で来ようかとも思ったが、駐輪場があるのかわからないから今回は使わなかった。歩きながら歌いたい曲を耳に慣らしておきたいのもあった。
陽射しが強いので映画を観た後に食事したハンバーガーショップ手前の雑貨ビル入口の日陰に入る。待ってる間、次に聴く曲を決めようとウォークマンを弄るついでに時間を確認する。十時二十五分。指定された時間まで二十分もある。駅の何処に集合するかを詳しく聞いてないことに気付いて、青信号待ちの横断歩道で先輩に向けて発信した『着きました』のメールに既読は付いていない。凪沙さんのプロフィール画像は火曜日にノート上に描かれた『そして彼は鬼神となった』になっていた。我ながら素晴らしく馬鹿げた愉快な名前だった。
町の中心部というだけあって、目の前を何人もの老若男女が通り過ぎて行く。大多数が無表情で、不機嫌そうに見えて仕方ない。目に映る限りのその顔が自分への殺意によるものだと思えてくる。
酷く怖くなって視線を下げると、幾つもの靴が通り過ぎて行くのが目に見えた。横切って行くと見せかけて、集団で僕を取り囲んでいるのかも知れない。目に入ってくる靴の数を出来るだけ減らそうとだるだるに伸びた黒パーカーを被る。すると今度は、髪ゴムで結わいた後ろ髪部分でパーカーが歪な形に膨らんでしまい、更に、死角が増えたことで余計に視線を向けられているように感じて尚更恐怖心が湧いてきた。自意識過剰だと分かっていても、捨てられなかった。
僕は自ら生み出した狂気に捩じ切られそうになる理性を保とうとせめてもの抵抗に、途中の曲を変更し、音楽の音量を上げた。自虐的な歌詞が「正しく僕だ」と共感できて、多少なりとも憂鬱な気分を和らげてくれるありがたい曲だった。これを聴きながら通行人の居ない河川敷の橋上で曲中のシャウトを飛ばして負の感情を爆破してやるのが帰り道のちょっとした楽しみだったが、部活に入ってからは常に凪沙さんと下校を共にしているから、細菌では歌う以前に聴いていなかった。
聴き終わった時には正気を取り戻し、道路方面を見詰めていると、凪沙さんと彼女の姉らしき茶髪の女性の姿が見えた。遠目からなので断言はできないが、多分、先輩よりも長身だ。
凪沙さんは僕に気付くなり表情を輝かせ、左右に手を振りながら小走りに駆けてくる。走ることで必然的に発生した対の風に靡いてひらひらと揺れる。彼女の姿を見ている内に心が落ち着いていくのを感じた。僕は救われた。
「よっ」速度を落としながら僕の前で止まるなり凪沙さんは手を挙げた。
「どもです」ウォークマンの電源を切り、ヘッドホンを外す。
「お姉ちゃん」会話をほどほどに交わしてから、凪沙さんは隣に立っている人物を僕に紹介した。予想通り、凪沙さんのお姉さんだった。身長もやはり、先輩よりある。
「どうも。凪沙のお姉ちゃんです」自らを「お姉ちゃん」と称する辺り、ノリの良い人なのだと思った。
「星野夜鷹です」と頭を下げると、「妹から聞いてるよ」と、凪沙さんのお姉さんは言った。
「いつもありがとね、妹と仲良くしてくれて。知ってると思うけど、この子人見知りだからさ、友達居ないのよ」
お姉さんは笑いながら凪沙さんの頭を撫でる。凪沙さんは気持ち良さそうに、若しくは恥ずかしそうに目を細めた。多分どちらもだろう。
「いえ、こちらこそ」僕はさっきよりも更に深く頭を垂らした。
頭を上げながら、名前をまだ聞いてないことに気付く。凪沙さんもそれに気付いて「名前」とお姉さんの脇を摘まむ。「あ、やべ」と呟いたのが聞こえた。
「そう言えば名乗ってなかったね。私は——」
お姉さんが何事もなかったかのように自己紹介を始めた瞬間、タイミング悪くスマートフォンが着音と共に振動した。メールアプリの着音だった。お姉さんは発言をぶった切られたにも関わらず、平然とした表情で「大丈夫だよー」と言ってくれたので、「すみません」と断りを入れてメール画面を開く。
メールは先輩からだった。
『ごめん‼ 寝てた‼ 噴水のところまで来て頂戴‼』
僕は即座に『は?』と表記されたメールスタンプを選択し、連続で送り付けてやった。後で見返して数えてみると、十三回送り付けていた。
◇
先輩が指定した、噴水が鎮座する広場に到着する。噴水は滝のように流れ落ちると下から吸い上げまた落とすの循環を繰り返しておきながら、滝の音はそこまで響いてなかった。実際は堂々とした轟音を立ててはいるが、辺りの騒めきに飲み込まれてるのかも知れない。人の声でも人数が多ければ、騒音にだって十分化けれるのだ。
全体を見渡して、広場に幾つか生えている木を囲むように作られたベンチの一つに座っている先輩の背中を見つける。
「先輩」
返事はない。声が届かなかったのだろうか。
真後ろまで距離を詰め、もう一度呼び掛けてみるが、やはり反応はない。僕は焦れったくなり、横に回り込んで見ると、先輩は燃え尽きた灰のように深く項垂れていた。
僕はそこらに落ちていた新緑色の葉っぱを拾い上げ、くっ付いている砂を払った。その葉っぱを先輩の天を仰いでいる後頭部にそっと乗せて、僕は耳元で囁いた。
「あ、虫」
瞬間、先輩は勢いよく頭に乗っけられた葉っぱを払った。早業だった。葉っぱは数秒間微風に乗って宙を舞った後、滑るように地面に落ちた。
先輩は荒々しい短めの呼吸を繰り返しながら恨みがましい目で僕を睨み付けてきた。先輩は案の定、寝てるふりをしていた。
「何してるんですか先輩」
「それはこっちの台詞だ‼ 焦る嘘吐きやがって‼」
先輩は捲し立てるように僕を怒鳴り付けるが、全く怖くない。
「試合後のボクサーみたいになってたんで」
ボクサーは、主に頭を垂らして寝ている人に対して使われる、文芸部内の比喩用語だった。
「だって楽しみだったんだもん‼」
先輩が叫ぶ。本来なら痛い筈の視線は、余り気にならなかった。兎に角先輩を言い負かすことに集中しているからだった。
「遠足前の小学生ですか」
「だって初めての後輩とのお出掛けだったんだもん‼ 楓さん達引退してからずっと一人だったんだもん‼ ぼっちだったんだもん‼」
楓さんとは、前に先輩が言っていた先代部長のことだろうか。
「演劇部とか居たじゃないですか」
「それとこれとは別だもん‼ みー‼」
とうとう先輩は泣き出すも、明らかに嘘泣きだった。やはり先輩はふざけていた。人を待たせているのだから勘弁してほしかった。
「…………葵ちゃん…?」
腹いせに先輩は置き去りにやろうかと、後ろを振り向いた時、凪沙さんのお姉さんは、確かにそう呟いた。
凪沙さんのお姉さんは僕の横を抜けて先輩の顔を覗き込む。
「…………楓さん…?」
先輩は目をしばたたかせ、同時に、頬を紅潮させた。
「楓さん⁉」
「あら、やっぱり葵ちゃんだ」
二人は手を繋ぎ合ってはしゃいだ。繋いだ手を上下に振る。
凪沙さんを見ると、彼女は面食らった表情で首を横に振った。彼女も心当たりはないらしい。僕は最終確認を取ろうと話し掛ける。
「あの、二人はどういった関係で…?」
「ああ、そういや自己紹介まだ途中だったね」
お姉さんは僕達に顔を向け、手を繋いだまま自己紹介を再開もとい僕達の知らない事実を告白した。
「私は川口楓。元文芸部部長です」
◇
カラオケ店までの道中は、駅前だけあって混み合っていた。横断歩道の信号が青になると、堰き止められていた水のように人が道路上に溢れる。十人十色な歩行者達とは逆に、通行の権利を一時的に剥奪され白線の内側に堰き止められた多種多様な自動車達は、まだかまだかとエンジン音を鳴らしている。常に混雑しているにも関わらず交通違反者が現れないのは、駅前に交番が鎮座しているからだろう。
先輩と楓さんは楽しそうに談笑しながら前を歩いている。僕と凪沙さんは一歩引いた後方をついて行っている。凪沙さんは二人の関係に余程の衝撃を受けたのか、駅前を出発してから横断歩道を渡り切るまでずっと上の空だった。
彼女がいつもの表情に戻ったのを確認して、「凪沙さん」と話し掛ける。凪沙さんは僕に頭を傾けて、聞く姿勢を取る。
「あの二人のこと、凪沙さんも知らなかった感じですか?」
「ん」と凪沙さんは頷いて、続けて言った。
「卒業生ってこと以外は」
知らなかった、と言いたいのだろう。身内のことを知らないのもどうかと思ったが、僕も人のことが言えないので黙っておく。
対向者の途切れ目から前方を覗いて見ると、マイクの写真が表示された立て看板が見えた。あそこが本日の目的地らしい。
◇
「にしても、びっくりしたよ」
メロンソーダを注いだコップを片手に、受付のスタッフに指定された部屋の入口を開けていると、そう、楓さんが言い出した。
「何にですか?」
「葵ちゃんのことでさ。一年の時とあの子、全然違うから」楓さんは自身のコップを置きながら、しみじみと懐かしむように、或いは嬉しそうに、言った。
「そうなんですか?」凪沙さんに教えてもらった選曲機をテーブルに置きながら更に訊いてみる。「あの、楓さん?」と先輩がマイクを取り外しながら戸惑う様子を見せるが、楓さんは構わず続ける。
「何しろあの子、初めて会った時なんか、顔なんか見せたかねえやって感じで、目元は眼鏡と髪で隠したりして……」
「楓さんプライバシー‼」
これ以上言われたら恥ずかしくて堪らない、といった感じの口調で、先輩が大声を出して楓さんの発言を遮った。入口が防音仕様の扉で良かった。
「何言ってるかわかりませ~ん‼」おどけた口調で、楓さんは先輩にそう言った。
「むきーーー‼」先輩は癇癪を起こしておきながら、どこか嬉しそうだった。自分は幸せ者だと信じて疑わない顔をしていた。
途端、映画館で見かけた時と全く同じ、先輩の知らないところを他人によって引き出されるのが悔しくて堪らない何かの塊が、身体の内側から毛穴を通じて外気に溢れ、獲物を捕食するアメーバのように僕の身体を包み込んだ。何故僕は焦燥に駆られているのだろう。この不快感は何者だろうか。
少し考えてみて塊の正体が嫉妬であることに僕は気付いた。何故先輩を取り巻く人に対して嫉妬しているのだろうかと新たな疑問がふと頭に浮かぶ。答えを求めて自問自答を繰り返すが一向に答えが浮かんでこないことに苛立ちを隠せない。
その苛立ちに気味悪さを覚えていると、部屋の明かりを調整してた凪沙さんが僕と先輩を分け隔てるように間に座った。明かりを調節するダイヤルの位置的にソファーの端から端まで『凪沙さん、楓さん、先輩、僕』の順に座るものだと思っていたから意外だった。凪沙さんの顔色をこっそりと窺うと映画館の時と表情が何となく似ていたが、あの時の自分は今思い返しても自己嫌悪したくなるので考えない事にした。
「誰から歌います?」と僕は言葉を発信した。
「じゃあ、お前からで」と先輩が僕に振ってくる。「何でですか」と僕は不服を唱えると「だって、丁度マイク持ってんもん」と先輩は言う。
僕が右手にマイクを持っているのは直ぐに手渡せるようにと思ってのことだった。凪沙さんが肯定の意で頷き、楓さんも「異議なし」と言った。二人に助けを求めじゃんけんに持ち込もうとした僕の淡い試みは儚く崩れてしまった。僕が良かれと思って採用した言動は必ず裏目に出る。
僕は怖くなった。歌いたい曲は予め決めていたものの、その大半が大衆向けじゃないことをカラオケの道中で薄々察したからだった。引かれたらどうしようと恐怖している自分がいる。
「曲、決めてないんか?」
「カラオケ向けじゃ無くね? と思えてきまして」
固まった僕の心情を察したのか先輩が訊いてきた。どうして「歌いたい曲忘れたので先どうぞ」と返さなかったのだろう。
「別にいいよ、私達に気遣わなくたって」
「いいんですか?」
「いいんだよ。カラオケ来た以上好きなもん歌えば正義なんだよ。私がルールだ」
先輩の暴君じみた発言に、他の二人も同意するように頷く。
先輩の言葉を反芻していると、厳重に掛けられた心の南京錠を容易く外してするりと入り込み、じんわりと中で暖かく広がった。心が軽くなった気がした。
恐怖心が薄らいだ僕は、改めて先輩達に断りを入れて、忘れていた操作方法を教えてもらいながらテレビ画面をカラオケモードに切り替え、マイクのスイッチを入れた。
◇
僕が歌ったのはシャウトボイスを取り入れたバンドの曲だった。シャウトボイス特有の全感情を溜め込んで爆発させたような、若しくは泣き叫ぶかのような悲壮感溢れる声が僕は好きだった。裏声且つハイトーンでしか出せないが、初カラオケでしかも一発で成功した時は歓喜と興奮を隠せなかった。
けれど僕は、それを誰かにどれだけ魅力的なのかを語ることはなかった。それに気持ちを発信したらしたで「評論家ぶってんじゃねえ」とマウントを取られそうだからだった。
僕は歌っている内に黙って聴いている先輩達がどんな気持ちなのか気になって怖くなった。一刻も早くマイクを手放したい。けれど中途半端に止めるのは性格的に嫌だったし、何より歌っていいと言ってくれた先輩に申し訳なくて結局最後まで歌い切った。バンドと先輩に敬意を表したかったのも大きかった。
曲が終わりマイクをテーブルに置くや否や、「おぉ…」と先輩の漏れ声が聞こえた。見ると、先輩達は何とも言えない複雑な表情をしていて、どう反応したら良いのか分からない感じだった。
「…どうしました?」何となく見当を付けながら訊いてみる。
「いや、その、何つーか…、色々と予想外過ぎた」
「そうですか?」案の定の返答に、何が予想外なのかわかっておきながら、僕はまた訊いてみた。
「だって、あんな高いとは思わなかったんだもん」
僕は歌う時、裏声等で声のトーンを高くしている。声を裏返して高音で歌うのは小学校当時の合唱練習で男子に強いられたテノールとアルトといった低音パートが嫌いで、家で試しに高音で歌ってみたら低音よりも遥かに歌い易かったからだった。現在は若干ながら地声でも歌えるが、裏声で歌うのが癖になっている。
凪沙さんに顔を向ける。
「意外だった」呆然とした表情で、凪沙さんはそう言った。
今度は楓さんを見る。
「ギャップすげえ」と楓さんは笑いを堪えながら言った。純粋に驚かれてるのか、それとも貶されてるのかの判別は付かなかった。僕の偏見による持論から言わせてみると、人は驚くと何故か可笑しさが込み上げてきてしまう生き物だから尚更だった。
何と返せば正解なのだろう。僕は自分だけ別の種族と言われているような居心地の悪さを感じた。そんな内心の違和感を誤魔化そうと適当に相槌を打ってから「ところで、順番はどうなりましたか?」と先輩達に問う。
◇
僕以降はしっちゃかめっちゃかだった。先輩と楓さんが「私もやってみよー‼」とシャウトが含まれる曲を選択しだして、「先輩たちも出せるんだ。凄いな」と内心楽しみに聴いている僕を見事に裏切って「げぶぉぉおっ‼」と激しく咳き込むものだから、歌ってない人たちと一緒に、心配を二割で、可笑しさに腸を捩らせた。
楽しめるかどうかは同じ空間にいる人次第なのだ。僕はそう認識した。
◇
歌い手が何周かして、楓さんが歌い終わると同時に、凪沙さんが用を足そうと席を外した時だった。
「葵ちゃん」楓さんが突然、重々しい口調で先輩に話し掛けながら、席を立って、僕の左側に回り込んでくる。
「はい、楓さん」先輩は、楓さんと同じ口調で返事をして、凪沙さんの空いた席の分を詰めてきた。途轍もなく嫌な予感がすると同時に、これから何が起こるか予想がついてしまった。今回ばかりは鈍感でありたかったと自分の無駄に豊かな想像力を恨んだ。
「「少年」」
二人は僕の肩に腕を掛けてきて、言った。
「「どこまでいったんだい?」」
二人の口調は真面目ながら、口元はニヤついていた。弄る気満々だった。
「何がですか?」
普段は馬鹿正直な僕も、ここは空気を読んで、釣り糸を垂らしてタイミングを計る。戸惑う振りを装って、二人とは極力目を合わせないように努める。いつから僕は人を試すような嫌らしい輩になっただろうか。
「隠さなくていい。手繋ぎまでかい?」楓さんの口元は笑っている。
「誰とですか?」
僕は訊き返す。
「接吻までか?」今度は先輩が訊いてくる。
「だから誰とですか?」
僕はもう一度訊き返すが、やはり二人は僕の質問には答えてくれない。ここも想定の範囲内だった。再び楓さんが訊いてくる。
「それともそれ以上…⁉」
この人は、僕が高校生であることを考慮してないのだろうか。
「だから誰とで……」
「凪沙ちゃんとに決まってんだろがい‼」
また問おうとすると、流石に堪忍袋の緒が切れたのか、先輩は突然噛み付いてきた。「ああヤダヤダ、ホント素直じゃないこの子‼」と腹を立てている。仏の顔も三度までらしい。三回目で怒鳴り出した先輩の場合、仏の顔も二度までになるのだろうか。
「何で凪沙さんが出てくるんですか」僕は性懲りもなく再度訊く。
「そりゃおま、どう見たって付き合ってんのバレバレだか……」
「付き合ってませんよ?」
先輩が言い切る直前に、僕は先輩の発言を途絶して、言った。
「………………え…?」
「え?」
目を点にした先輩を真似て、素っ頓狂な声を上げてみる。
「……ごめん夜鷹君。今の話、忘れて」
暫くしてそう言った楓さんは、僕の肩から腕を外した。
先輩が肩に回した腕を外して離れた数秒後、凪沙さんが部屋に戻ってきた。時間的に今の会話に聞き耳は立てられていない筈だ。
◇
家に帰ってからというもの、僕は悶々としていた。
僕は凪沙さんのことをどう思っているのだろう。こんな僕と仲良くしてくれているから、善い人だとは思っている。正直なところ、外見は好みドストレートだ。
けれど、恋愛となると話は別だ。今まで恋をしたことがないわけではないが、自分の性格的に断られるだろうと最初から諦めて、告白しようと思ったことは一度もなかった。自分の気持ちが解らない内は、安易に好きか否かを決めてはいけない気がする。
何故先輩達は僕と凪沙さんが交際してると誤解していたのだろう。よく昼食を一緒に摂っているからか。三人しか所属してない文芸部の一年生同士だからか。それとも学年合同の体育で男女混合だった場合、ペアを組んで卓球なりしているからか。
だがそうなると、男女二人で行動しているだけでカップルということになる。世の中はカップルと既婚者で溢れ返ってることになり、独身問題も少子化問題も起こるわけがない。
先輩はどうだ。自分の手で先輩から笑顔を引き出したいと思っている僕のこれは恋愛感情なのだろうか。考えてみるが、分からない。
凪沙さんに初めて会い、初めて共に下校して、初めて名前を呼ばれた瞬間を思い出してみる。僕は心の底から喜んだ。最初は名前を呼んでもらえたことに感動したからだと思っていたが、その時の僕は、現在は名前も顔も覚えていない小学校時代の同級生達に「夜鷹の偽物」と侮辱されて以来呼んでもらえた例がなかった名前で呼んでもらえたからだと自分に言い聞かせていた。何故言い聞かせる必要があった。何故それ以外に湧いてきた何かを見て見ぬふりをした。考えれば考える程、頭が混乱する。
不可解なことを考えれば気疲れするだけで時間の無駄だ。こうして悩んでいる間にも、祖母は風呂が空くのを待っている。
湯船から上がり、風呂の戸を開ける間際に思い浮かべた、帰路と市内を繋ぐ橋の十字路の別れ道の先で楓さんに言い寄られている凪沙さんの背中は、脱衣所上がりの冷気に吹かれながら風呂場の湯気に紛れて消えた。