五月上旬
【五月上旬】
入部から一ヶ月経った五月。大型連休の晴天下で、僕は駅を目指して自転車を走らせていた。駅付近の雑貨ビル内にある映画館で、今日から上映される宇宙からやって来た目的不明の侵略者達と戦争中の地球が舞台の映画を観るためだった。主人公は炭鉱夫の若者で、炭鉱を襲撃してきた侵略者に襲われて致命傷を負うも、侵略者血が傷口に垂れたことで驚異的な再生力と伸縮能力・硬化能力を得た状態で復活し、元の人間の身体に戻る手掛かりを得るために戦いに身を投じていくという内容だった。予告動画が公開されてからずっと、上映され次第観に行こうと心に決めていた。
一人で映画を観に行くのは初めてだった。基本料金が分からないため、万が一のためにお金は五千円程余分に持ってきていた。
河川敷の橋を渡る途中、ランニングをしている野球部の集団の姿が向こう岸に見て取れた。集団の後方では二人の男子が置いて行かれまいと必死に最後尾に喰らい付いている。
連休なのも相まって、市内は平日の朝以上に騒々しい。仕事服よりもお洒落な服を着て歩いている人が多いように見えた。
交差点を何ヶ所か通過したところで高層ビルの頭が見えてくる。僕は人にぶつからないよう細心の注意を払いながら自転車のペダルを漕ぐ。後頭部に結わいた長髪が、ぶつかってくる風に靡く。車体を傾けながら曲がった際、自分がバイクレーサーになった錯覚を覚える。その際にふと立体駐車場の壁面を見ると、上映中の映画の広告が数多く張り出されていたが、観る映画は既に決まっていたので一瞥するに留める。
敷地内に入るなり、僕は自転車を駐輪場に停めて鍵を掛ける。午前中なのもあって、いつぞや見た午後の時間帯と比べて来客数はまだ少ないようだった。鍵をポケットにしまって、高層ビルの入り口を潜って中に入る。
自転車と自動車が少なかったにも構わず、ビル内は賑わっていた。自転車と自動車が少なかった分、徒歩での来客が多いのかも知れない。駅付近は車両を駐車できる場所が限定されていることや一階にスーパーマーケットが隣接しているのが関係しているのだろう。
僕は五階の映画館を目指してエスカレーターに乗り込んだ。女性が待っていたエレベーターに人は乗っていなかったが、エレベーター特有の密閉された空間と止まった時の内臓が持ち上げられる感じが嫌いだったので使おうとは思わなかった。何より、見知らぬ人と同じ空間を共にすることと、エレベーターが開いた瞬間、中に入っていた人たちが一斉に冷たい視線を向けてくるのが恐怖でしかないからだ。学校や新幹線等の公共の場では仕方ないことだと諦め半分で割り切っているが、それ以外の場所ではなるべく避けたいことだった。
エスカレーターは日本語に訳せば自動階段と言い表せるが、エレベーターはどうなるだろう。自動人間送迎箱になるのだろうか? だとしたら、名称がエレベーターで良かったと脳裏でしょうもない疑問を抱きながら他の階を眺めてみると、二階はスポーツ用具店と雑貨屋で、三階は全体が、四階はフロアの半分が本屋となっていた。五階に辿り着いて、五階が最上階だったことに今更ながら気付く。
エスカレーターを降りて、映画館の受付嬢に映画チケットを求める。一回目の上映に間に合うように余裕をもって来たおかげか空き席が多く、比較的楽に買うことができた。早くに着き過ぎたのか、上映開始まで一時間、入場可能になるまで三十分程時間があったので、空いた時間を本屋で潰すことにした。
そうと決めるなり下の階へ降りて、本屋に足を踏み入れる。家からは一番近い且つ、最も大きい店舗だったため、入学当初から重宝している場所だった。地元の本屋と違い、雑誌がラッピングされていて立ち読みできないのが残念ではあるが、並べられた本の表紙を眺めるだけでも十分に楽しめるので、正直な話、殆ど気にはしていなかった。
「あ」
本棚に収納された本の背表紙を眺めながら歩いていると、遠くで見知った顔が見えた。凪沙さんだった。黒を基調としたカジュアルな格好でショートパンツと、足首まである黒色のスパッツを穿いていた。頭には確かキャスケットと呼ばれる灰色の帽子を被っていて、肩には黒色の斜めがけのバックを掛けている。学校での清楚な感じとかなりのギャップがあったが、普段の物静かな黒猫を彷彿とさせる雰囲気が更に際立っていて、とても似合っていた。
「あ」
凪沙さんは僕に気付き、手を振りながら小走りに近づいてくる。僕は右手を挙げて応答し、同じく凪沙さんの元へ足早に向かう。お互いの距離が会話のできる範囲まで縮まるのにそう時間は掛からなかった。
「どもです」と彼女は言う。
僕は「どもども。奇遇ですね、こんなところで」と返した。世間一般的に、外出先で偶然知り合いに会った際には「こんなところで」と言ったりしているが、その言葉は、言った本人が立っているその場所と、そこに来ている知り合いを侮蔑していることに繋がるのではないかと姉に言ったら、「面倒くさいなお前」と笑われたことを思い出した。
「ん」と彼女は頷いた。
「何見てたんですか?」
「画集」
そう言って、手招きしながら通路の角に消えた彼女の後を付いていくと、指差された本棚の一角には、漫画家のイラスト集からアニメのものまでと様々に置かれていた。表紙だけながら、画集をこれほど眺めるのは初めてだった。
「そっちは?」
「映画までの時間潰しで」
「何の映画?」
興味津々の表情で訊いてくる彼女を見て、会話が続いてくれて良かったと内心安堵した。自分から話題を振れない僕は、相手が質問せずに「そうですか」で終わり、沈黙に包まれることを恐怖していた。
「面白そう」
僕が嬉々として映画の説明をすると、彼女は好奇心に満ちた目で僕の顔を見ながらそう言った。僕の説明で興味を持ってくれたことが嬉しかった。
「来週、行ってみる」
彼女は誕生日を待ち望む子どものように目を輝かせて僕に言う。
「その時は、感想言い合う」
そう彼女に言われた時の僕は、何を早とちりしたのだろう。
「じゃあ、今から一緒に観ませんか?」
「え…?」
僕は何を言っているのだろう。自分でも不可思議な突然の誘いに、彼女は案の定、困惑した表情を浮かべた。僕は悲しい気持ちになった。「すいません、忘れてください」と言って立ち去りたくなる。
「あ、違う違う」
感情が顔に出たのか、彼女はそう言いながら僕に向かって両手を伸ばしてきた。「別に嫌じゃない」と言いたいのかも知れない。そうであって欲しかった。
「今日、あまり持ってないだけで…その…」
言いながら、彼女は顔を林檎色に染めた。発言は歯切れ悪く止まった。持ち合わせが少ないことは恥なのだろうか。
「だったら、僕が奢ります」
僕はまた先走った。もう、勢いと衝動で口説いてるようなものだった。ここまで言ってしまった以上、中途半端に引くよか、言いたいこと全部吐いてしまった方が楽だと思って、思い付き次第言葉を綴った。最早自棄だった。
「共有するなら早い方と言うか、観た直後の方がいいし。寧ろ、そうじゃないと見た時の感動とか薄れちゃうかもだし。来週、もし雨とかだったら観に来れないし」
言い切った途端、僕は激しい後悔に襲われた。「何言ってんだこいつ」と思われたかも知れない。彼女との友人関係は今日で終わりだと悟る。気味が悪いと絶交宣言されるくらいなら今直ぐこの場から逃げ出したいと思いながらも、「そんなことしたら相手に失礼だ」と理性が邪魔して動けない。
「……あの」
理性と衝動の狭間で吐きそうになっていると、声を掛けられる。完全に退路を断たれてしまった。こうなってしまったなら、潔く諦めて、来週からは唯の部員仲間の関係を貫こう。そうした方が苦しまなくていい筈だ。
そう開き直ろうとした瞬間、心が酷く痛んだ。欲しくて止まなかったものなんだから抗ってくれと必死に訴えていた。あれほどのことを仕出かしておいて彼女を手放したくないだなんて、結局僕は、どこまでも優柔不断で情けない野郎なのだろう。
そんな身勝手な葛藤を心の中で繰り広げている僕に向かって、赤絵具で塗り潰された絵画に更に赤を重ねたかのような赤面で発せられた彼女の言葉はあまりにも意外過ぎて、夢でも見てるんじゃないかと思った。
「だったら、その。…せめて、ジュース代だけでも、出させてください…」
それを聞いた時の僕は、今世紀一番の間抜け面だったと思う。
映画の上映まで、あと四十分ある。
◇
それから四十分後、僕達は館内に居た。首を痛めないために、後部座席のチケットを買っていた。受付前は長蛇の列になっていたので、予め取っておいた僕はともかく、凪沙さんの分を確保できるかと不安だったが、運よく左隣の席が空いていたので隣同士になることができた。半ば強引とは言え、誘った相手と離れ離れで観賞するのは気まずい。お互い、親の同伴無しでの観賞は初めてだから尚更だった。
飲み物はメロンソーダにした。今迄は名前の通り、メロン味がするのかと誤解して飲まず嫌いをしていたが、一年前に事の成り行きで飲んでみたら意外と美味しくて、それ以来、店内に置かれていると分かれば決まって飲むようになっていた。
席に落ち着いた僕達は緊張していた。コンクリートを身体中に塗りたくられたと言い表せるくらいお互いに固まっていた。ナンパした側とされた側という意識があったから余計身体が強張り、僕は入場してから二十分の間に二度もトイレに行った。凪沙さんは席を離れることはなかったが、座ってから帽子を膝の上に乗せて擦るを繰り返していた。本屋の時からずっと赤面で、ちらりと盗み見ると、耳まで紅潮していた。自分が原因だとわかっていながらも、流石に心配になってくる。
「大丈夫ですか?」
声を掛けると、彼女は肩を大きく揺らした。その反応を見て、僕は先月の昼休みを思い出した。彼女は急に話し掛けられると過剰に驚き怯えるところがあった。その気持ちは何となく分かる。
「大丈夫。いや、その……」
彼女は、顔面を帽子で隠してどもってしまう。僕は彼女が言い出すのを辛抱強く待つ。
「……男の子に誘われるの、初めてだったから」
五秒くらいして、彼女は、帽子を退かし、目元だけ晒して、言った。
「……大丈夫。僕もです」
一体何が大丈夫なのか、そして、どれだけ口を滑らせれば気が済むのか、と自分に小一時間問い詰めたくなった。
ぱちん、と隣で音がする。見ると、凪沙さんはテレビで見た試合前のスポーツ選手の気合い入れみたく、自分の頬を両手で叩いていた。僕が顔を向けると同時に更に叩いたから、単純計算で二度自分を叩いたことになる。
彼女は「よし」と小さい独り言を言って、急に顔を向けてきた。突然の行動に、今度は僕が驚く。
「楽しもう」
頬の紅い染色は完全には抜けきってはいないものの、決意を固めた彼女の顔を見た僕は、不思議と緊張がほぐれるのを感じた。
館内が暗くなってスクリーンに映像が映し出された時には、もう緊張は無くなっていた。
◇
上映が終了し、受付側と映画館側の境目を通り抜けるなり、僕達二人は揃って背伸びをして、言った。
「「面白かった……‼」」
周囲から視線を集めない程度にとはいえ、こんなに声を大にして言ったのはいつ以来だろうか。興奮も冷めやらぬまま童心に帰ってはしゃぎ、「初っ端から急展開だった」「まさか最後ああなるなんて」と互いに口々に語り合う。小学生の頃は、大人なのだと信じて疑わなかった高校生も、いざ自分がなってみると、結局はまだ子どもなのだと思った。
気付けば僕達の感想交換は、相手の趣味・嗜好は何たるかの訊き合いになっていた。先ずは凪沙さんから僕への質疑応答だった。
「夜鷹、アクション、好き?」
「…はい。好きです」
「宇宙人、好き?」
「…宇宙人というか、人外系が特に好きですね。未確認生物の特番もよく観ますし」
そう言っておきながら、各放送局で同じネタをたらい回しているので、最近のテレビ番組は観ていないも同然だった。
「他には、何が好き?」
「他にはですね…、あ、だったら、どっかの店に入りません? 立ち話も疲れるし、人も増えてきたし。丁度お昼なんで、そこで食べながらゆっくり話しましょう。凪沙さんが良ければですが——」
「行く」
又も懲りずに勢いで誘ってしまうも、何度も同じ轍は踏むまい、と無理矢理な形にならないよう、彼女に否応の権限があることを伝えたと同時に、呆気なく承諾される。「凪沙さんが良ければ」が、かえって断ったら申し訳ないと彼女に思わせてしまったのかも知れない。さっきから口説いてる奴が何ほざいてやがる、と心の内で自分を罵りながらも、そう思うと不安になってきた。それと一緒に、学習しない生き物だと自分に呆れる。
「その代わり、奢り」
「本当にいいんですか?」と訊こうとした矢先、彼女からそう宣告されてしまい、「ぐはあ」と僕は冗談めかした悲鳴を上げる。彼女が悪戯っ子みたく、くすりと微笑むと、僕は幸せな気持ちになった。何故だかは分からなかった。ちょろい奴だと思いながらも、彼女の笑顔が僕に向けられたものだと思うと嬉しかった。誘ったのは僕なのだから、こうなった以上責任はしっかり取ろう。
「あ」
僕が「じゃあ、行きますか」と下の階へ続くエスカレーターを目指そうとした矢先、人混みの隙間の向こうに見知った顔を見つけ、僕は思わず小さな声を上げた。凪沙さんも僕に続いて「あ」と声を上げる。
先輩だった。黒色の革ジャンパーに濃い藍色のデニムと、凪沙さんと同じく、カジュアルな服装で身を固めていた。ファッションセンスがあるのだろう。元のスタイルの良さもあって、一瞬大学生かと見紛えた。
今日は知り合いとよく会うな。そう思いながら、先輩に声を掛けようかと一歩を踏み出し掛けたところで、僕は先輩の顔の先に男の人が立っているのを見つけ、思わず目を細めて立ち止まる。
先輩と喋っていた男性は、演劇部部長の佐藤明さんだった。常に浮かべている笑みが「縁側で日に当たりながらのんびりお茶を啜るおじいさんみたいで、見ていると何故かストレスが減る」と評判で、人望と他生徒の推薦もあって、生徒会執行部副会長も兼任していた。他の演劇部員曰く、本来ならば生徒会長も十分狙えたが、部活動との並行のために断念したらしい。
新入生の僕から見ても、彼が人気であることは明らかだった。故に、生徒会長を諦めたことが不思議でならず、それを「部長さんの技量なら会長も十分兼任できたと思うんですが」と本人に尋ねてみると「あがり症だから、裏方仕事の方が性に合ってる」とのことだった。最初は誤魔化してるんだと思ったが、その言葉の通り、何回か、脚本の照らし合わせだかで先輩に連れられ演劇部を訪ねたことがあるが、部長さんは監督と舞台製作はやりながら、部員たちの注目を集めて演技をすることは一度も無かった。演劇指導も、公の舞台上で実際に立ち回ったことがあるという他の上学年に任せっきりだった。それで監督が務まるものなのかと思ったが、イメージは確固たるものがあるらしいので、大丈夫なのだろう。
先輩は笑っていた。佐藤さんが口を動かす度に楽しそうな、幸せそうな笑顔を作った。入部して一ヶ月経つが、見たこともない笑顔だった。呆然と立ち尽くしている内に、先輩は佐藤さんと共に人混みに紛れて入場口の向こうへと消えていった。
僕は何だか悲しくなった。自分はあのような笑顔を引き出すことはできないのか、そう考えると悔しくて堪らなかった。この虚無感は何だろう。何故、これ程までに寂しく、腹立たしく思っているのだろう。
「夜鷹」と服の腕関節部分を引っ張られる。
振り返ると、凪沙さんが頬を膨らませていた。いつぞやに読んだ恋愛小説の典型的な展開通りなら、僕の視線の先に居た先輩にやきもちして「私だけを見て」と思っていることになる。けれど、フィクションは実際には起こり得ないことだから面白い、現実と結び付けていいものではない、そう割り切っている僕は鈍感を装い、彼女が何故僕を睨んでいるのか気付かない振りをする。
そんな自分に気色悪さを覚えたのは、ハンバーガーショップで機嫌を直した凪沙さんと会話を楽しみ、別れた後のことである。