四月下旬
【四月下旬】
晴天だった土曜日は項垂れながらも何とか起床したが、日曜日は朝から曇りだったので中々起きる気にもなれず枕に顔を埋めた。瞬間、何度も脱皮しては巨大化を繰り返し、人間の赤ん坊くらいの大きさまで成長した蜂に襲われるといった内容の悪夢が瞼裏に蘇り、悪夢の幻影を振り払わんと慌てて立ち上がり着替えたりした。不定期ではあるが、僕が悪夢を見る頻度は三兄弟の中でも比ではなく、酷い時は悪夢に襲来された結果、真夜中に目覚めてしまうことが三日連続であった。その時は、決まって心臓の動悸が激しかった。
その悪夢に襲われずに済んだ、「雨のち晴れ」の予報通り、朝から見事に降られた月曜日の四時間目の授業は国語だった。国語の担当は僕が所属する一年三組の担任である藤ヶ谷という女性教諭だった。その先生は、入学後初の学年集会で、「私は言いたいことははっきり言う方なのでよろしく」と言ったため、最初の一週間は怖い印象が強かったが、二週間目からはもう生徒と打ち解けていた。二週目から本格的に始まった授業で気付いたことなのだが、生徒を弄っては賑やかし、切れかけた集中力をリセットしてより長く集中力を保たせるやり方だったため、僕は好きだった。言動が『厳格な教師』というよりは『後輩弄りが上手な大学の先輩』みたいなのもあるだろう。
僕の見解だと、藤ヶ谷先生は最初の二週間の交流で真面目な生徒か否かを見定めて、不真面目な生徒は三週目から徹底して弄り倒すようにしていた。しかし、一部の生徒に対しては間違いなく「何となくむかつくから」で弄っていた。その証拠に——、
「欠伸してんじゃねえよ緋山‼ 新木とか深山を見習え‼」
新木さんはクラスの学級委員長を務める男子生徒だった。深山さんは女子生徒だ。
「ちょっと先生、それ依怙贔屓ですよ‼」
「ああ、確かに依怙贔屓だな。じゃあ、お前には依怙贔屓で良い成績が取れるよう、宿題をうんと出してやろう‼」
「それ唯のいじめですよ‼ 何で私にはこんな厳しいんですか‼」
「見てると何か腹立つんだよてめえ‼」
「酷い‼ 校長先生に訴えてやる‼」
「それで教師クビになったら地の果てまで追い掛けて道連れにするからな」
「ごめんなさい勘弁してください」
「よろしい」
——と、今日も相変わらず舐めた態度を取っている女子生徒の緋山に苛ついて、完膚なきまでに叩きのめしていた。本来ならばこの時点で教育委員会が動きそうだが、緋山自身分からないところがあれば授業後に質問したりと根は真面目だし、何やかんや藤ヶ谷先生とは廊下で会えば駄弁り合ったりと仲良くやっているので、藤ヶ谷先生が訴えられることはあり得ないに等しい。
クラスで笑いが起こったところで授業は再開され、先程まで眠かったのか俯き気味だった生徒も前を向いて教科書に掲載されている物語の場面解説に耳を傾けている。無機質な声で淡々と教科書を読んで授業を終える先生よりも、場を盛り上げながら授業を進行する教師がもっと増えてほしいと僕は願った。
「はい、では皆さん、教科書の続き18頁3行目を見てください」
弄りを終えた途端、即座に気持ちを切り替えて口調を改めた先生の指示に従い、僕を含めた生徒が一斉に教科書を捲る。その際に目に入ってきた頁隅に表記されている著者情報を眺める。代表作にどのような作品が存在するのか調べるのが僕は好きだった。
とは言っても、その作品を読んでみようと思うことはなかった。僕は入学初日にクラスで行われた自己紹介で趣味に読書を掲げておきながら、メディアに取り上げられて注目を浴びているものほど、世間とは反対に興味が失せて読もうとしない。言うなれば、全国で話題の本よりも、店の本棚の目立たないところで、買ってもらえるまでの時を静かに待つ本の方が好きというひねくれ者だった。世間への反発心がもしかしたら僕の中にあるのかも知れない。その癖、何度もテレビCMで流れている話題のアニメ映画のノベライズや、好きな芸能人が著者の長編小説は誰に勧められるわけでもなく買って読むという、前者と矛盾した行動を平然とする。結局のところ、所謂気分屋でしかなかった。
音楽に関しても同じ姿勢で、僕はアイドルを激しく嫌悪していた。アイドルというだけで話題を掻っ攫い、それにあやかってCDの売り上げもランキング上位を当然のように独占して、ランキングの新鮮味を無くするからだった。最初は首位を獲得したという情報を得るたびに、テレビ画面の前で激しく罵倒しては心模様を荒らしていたが、握手券を付けなければ、テレビ出演はせずにライブを中心に活動している実力派バンドに敵わなくなるからだと貶すことで心の安寧を保つことに成功した。そう思うようにした日から、順位を知る度に、いちいちアイドルに悪口を言う自分に嫌気が差して、気付けばランキング情報が盛り込まれている音楽番組は見なくなっていた。
僕はその実力派バンドの曲を好んで聴いては、CDショップやレンタルショップに足を運んでいた。テレビ等のメディア効果に一切頼らずに音楽界に本気で勝負を挑んでいる姿勢がかっこ良くて、歌詞で何を伝えようとしているかがはっきりしているからだった。けれど、その人たちは滅多にお茶の間に姿を現さないだけで人気は確かなものがあったし、そのバンドへのインタビュー記事が何度も音楽雑誌に掲載されているから、結局のところ、僕は一人のミーハーから始めて聴いているに過ぎなかった。
実際、聴いているアーティストは姉から教えてもらったものが大半で、自力で見つけ、インディーズ若しくはメジャーデビューして間もない頃から聴いているバンドやシンガーソングライターの数は片手分にも満たなかった。
そんな僕と違って、知名度ではどうしてもメジャーレーベル所属のバンドに劣ることの多いインディーズでありながら、僕好みの歌詞とメロディーを兼ね備えたバンドをどこかしらで発掘するのが上手い姉がとても羨ましく、同時に妬ましかった。好きな音楽の趣味が似通っているから、尚更だった。
妹もそうだった。妹も姉と同じく、興味があるもの好きなものには大きな力を発揮する。僕が一週間かけてようやく効率良くできるようになった録画番組の編集技術を、妹は三日前後で会得したばかりか、僕以上に詳しくなっていた。ネット情報に関しても、どのサイトが大丈夫かとか、身内で最初にスマートフォンを持った僕以上に理解していた。妹がそれを別に誇ってもいなかったことが、余計に僕の鼻についた。
湧いて出た実家に住む姉妹への身勝手な劣等感に押し潰されそうになったその時、四時間目の授業の終了と昼休みの開始を学校中に報せるチャイム音が教室内に響き渡った。思考を途絶して切り替えるには丁度良いタイミングだった。僕は授業中だろうがお構いなしで一度悪いことを想起し出すと、そちらばかりに気を取られてしまう。それに伴い、次々とトラウマが蘇って生きる日々に悲観するの悪循環に陥る悪癖を持っている。
「起立、礼」で授業が終わり、先生が教室を出て行った途端、教室中が食事と雑談で賑わった。斜め向かいの席の深山さんは、教科書を持って廊下に出て行った。廊下の壁に埋め込まれたロッカーに教科書をしまいに行ったのだろう。
窓の外を見ると、先程まで小雨だった空は晴れていた。秋晴れという言葉があるのだから雨晴れという言葉があってもいいと思った。「昼休みを機に切り替えとけ」と空の青に言われた気がした。
折角の昼休みなのだし、弁当でも食べて忘れてしまおう。僕はさっさと国語のテキストをまとめると、机脇にぶら下がっている鞄に突っ込んだ。自分のロッカーは既に他の教科書で埋まっていた。ロッカーに一列で入りきらないものは家に持ち帰る主義だった。
僕が鞄とは反対側にぶら下がっている弁当箱を入れた袋を手に取り、机の上に置いた瞬間、「星野君。呼んでる人がいる」と廊下から戻ってきた深山さんに声を掛けられた。僕を訪ねる人なんて今までいただろうか。
廊下の方に顔を向けてみると、凪沙さんが入口からじっと顔を覗かせて立っていた。凪沙さんとは隣のクラスだった。彼女の姿を視界に収めるや否や、漫画やライトノベルではお約束の「何だボブ(誰だ)、彼女か?」が頭の中をよぎった。冷やかしなんて望んでいない僕は慌てて席を立ったが、流石に自意識過剰が過ぎるし、よくよく考えたら、自分自身、クラス内では幽霊みたいに過ごしているので、冷やかすも何も、話しかけられること自体滅多に無かったと思い直して安堵した。僕は「ありがとうございます」と深山さんに一言礼を述べて、速くも遅くもない速度で凪沙さんに歩み寄る。
僕は凪沙さんに近づきながら、教室内の人々からは発見されない位置に移動するよう人差し指で彼女に合図を送った。自信過剰であっても、万が一の可能性は捨てきれない。
周囲の生徒への警戒を怠らない僕の意図は伝わってくれたらしく、彼女は頷くと、黙って僕の言う通りに、教室内からは死角になる入口の陰に立ち位置を修正してくれた。
僕は教室を出て、凪沙さんに話し掛けた。
「どうしました?」
「ん」
彼女は一言だけ発すると、右手に持っていたものを胸元に掲げてみせた。
「お弁当、食べよ…?」
彼女は弁当袋を持った両手で口元を隠しながら言った。語尾が若干疑問形になっていたのは、誰かを昼食に誘うのは初めてだから照れくさいのだろうと思った。自分がそうした場合どう感じるかを考えれば直ぐに分かることだった。
「じゃあ、ちょっと待っててください。取ってきますので」
誘ってもらえたことが素直に嬉しくて、踵を返して自分の席へ戻えう。深山さんが僕に注目した気がしたが、不思議と気にはならなかった。
机に置きっ放しの弁当袋を持って、廊下で待つ凪沙さんの元へ早足で駆け寄り、「お待たせしました」と声を掛ける。
「では、行きましょうか」
「ん」
僕は凪沙さんと二人並んで廊下を歩いた。窓を見ると、木陰ができていた。廊下で談話している他の生徒に、僕たちのことを別段気にしている様子は見られなかった。
「どこで食べます?」
「広間」
凪沙さんが候補に出した広間は、学年集会で使われた場所だった。三つの廊下と連結していて、普段は通路もしくは憩いの場として開放されていた。先々週の学年集会が終わった後の行間に窓際のベンチに座ってみて分かったことだが、窓から射し込む陽の光が暖かくて気持ち良かったので、食事をするには最適だと思った。
「じゃあ、そこで」
「ん」
目的地を決め、広間に着くまでの間、僕と凪沙さんはぼんやりと会話をしながら廊下を歩いた。移動している間、凪沙さんは心なしか、どこか嬉しそうだった。中庭を照らす陽射しは暖かい色を放っている。
◇
「あらお二人さん」
弁当箱の焼き魚を左手に持った箸で切り分けていると、誰かに話し掛けられた。顔を上げてみると、先輩がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。「よっ」と先輩が手を挙げる。僕は魚の解体を中断して「どもです」と挨拶を返しながらお辞儀した。凪沙さんがやや遅れて頭を下げた。
「何してんの? こんなところで」
「昼食を食べてました」
「ました」
凪沙さんが弁当箱からタコさんウインナーと摘まんで先輩に見せる。
「ずるい!」
説明するなり、先輩が叫んだ。悪目立ちを嫌う僕にとって、周りに通行人が居ないのは幸いだった。
「何がですか」
「私、呼ばれてない‼」
「だって、授業中は携帯使えないじゃないですか」
この学校では、朝のHRで携帯を回収されることはないが、授業中に携帯が鳴ったら怒られるため、消音にするか、電源を切るよう義務付けられていた。
「行間があるじゃん‼」
ああ言えばこう言う先輩に若干腹が立ったが、ふざけて騒いでいるのは間違いないので、口調を荒らげることはしなかった。
「使わないので」
基本的に空き時間は読書に走るので、食事中の動画視聴を除いて、携帯を使うことはまず無かった。
「だったら来いよ‼ 教室知ってっだろ⁉」
先日のラーメン屋での雑談で、先輩が三年二組の教室に通っていると言っていたのは憶えていた。
「目立ちたくないので」
中学一年生の頃、三年生教室前の水道で水分補給をしていたら妙に視線を集めてしまい、居心地が悪かったことを思い出した。
「なんで誘ってくれなかったんだよーーー⁉」
先輩に肩を掴まれて揺さぶられる。抵抗しようとしない頭が激しく揺れる。騒がれるだけならまだしも、身体に触れられるのは嫌いだった。流石に不快感を抑え切れず、僕は気付かれない程度に眉間に皺を寄せる。
「あの」
恐る恐るといった様子で手を挙げた凪沙さんに、僕と先輩が顔を向けると、凪沙さんは怖気づいて肩を竦めた。もしかしたら、一斉に注目を集めるのが怖いのかも知れない。自分もそうだった。視線を顔から逸らすと、安心したのかほっと息をついて、発言を再開した。口調は落ち着いていた。
「私が、四時間目の時に決めたので」
「……凪沙ちゃんが決めたのなら許す」
凪沙さんが自供するように言うなり、先輩は「ぶう」と唇を尖らせた。
「僕だとどうなるんでしょうか?」
思わず興味本位で訊いてしまう。
「十秒くらい呪ってやる」
「短いな」
「じゃあ五十二秒」
「伸ばさないでください。後、何でそんな中途半端なんですか」とツッコんだらまた変に返されそうだから、今度は何も言わなかった。「わかってんじゃねえか」と心を読まれたが、煽られてる気がしたので、通り掛かった男子生徒二人の雑談を利用して「はい? なんですか?」と聞こえなかった振りをする。先輩が悔しそうに「ちぇ…」と舌打ちした。駆け引きに勝てたみたいで嬉しかった。
「あ、そうだ。六時間目終わったら、直ぐ部室に来いよ。顧問の先生、紹介するから」
「なんていう先生ですか?」
手を挙げて質問する。
「それは放課後のお楽しみ」
先輩は右目を閉じて、言った。先週の金曜日の昼休みと同じ顔だった。先輩は回答を焦らすのが好きで、その際はウインクをしてみせる癖があるのかも知れない。そう思ったが、今後の交流で先輩がウインクする様を見ることは無かった。
◇
放課後、凪沙さんと廊下で合流して文芸部を訪ねるなり、「じゃあ、呼んでくるな」と言って先輩は部室を出て行ってしまった。窓から野球部のランニングをする掛け声が聞こえる。僕はというと、ランニングの必要性を未だに見出せてない。体力つくりならまだしも。
待っている間暇なので、昼食後にここを訪れた際に読んだやつの続きを読もうと、自分の席に座り、置きっ放しの文庫本を手に取り栞を外したが、折角下級生同士二人きりなので何か話題を吹っ掛けてみようと思い立ち、再度栞を挟んで本を置いて「凪沙さん」と話し掛けた。隣のパイプ椅子に腰掛けた彼女が身体ごと向きを変えて僕を見る。
「先生、誰だと思います?」
彼女は口元に握り拳を当てる。
「……祥子先生?」
『祥子』は、藤ヶ谷先生の名前だった。確かに藤ヶ谷先生は図書室の管理人且つ僕と深山さんが所属する図書委員会の顧問を務めているが、普段の授業の様子からしてみると、先輩の言っていた「叱るより諭す派の人」には当てはまらない。そう考えていると、「違うか」と凪沙さんは言った。
ふと思ったことを言ってみる。
「そう言えば、思ったんですけど、何か似てません?」
「誰が?」
「先輩と藤ヶ谷先生」
凪沙さんが名前を出したことで気付いたことだが、僕は先輩と藤ヶ谷先生の二人に対し、妙な既視感を覚えていた。
「例えば?」
「ふざけてる時は口調荒らげたり、一部の人には滅茶苦茶厳しかったり逆に凄い甘かったりするところ」
藤ヶ谷先生は緋山等、やたらと喋る生徒には呼び捨てだったが、深山さんや委員長などの物静かな生徒のことは「くん」「さん」と敬称を付けて呼んでいた。ここで名前を呼び捨てにされている者の顔を思い浮かべてみると、弄り倒される生徒はスクールカースト上位陣が大半を占めていた。
先輩はというと、先週のラーメン屋で席に案内された時、「お前はそっちだ」と通路側の席を指差して自分は凪沙さんを連れて壁側の二席を独占するなど、やたらと僕にはあたりが強かった。男一人に女二人とはいえ、差別されているようで悲しかったが、凪沙さんにセクハラをしたのか頭突きを喰らって「ふぁぼ‼」と独特な悲鳴を上げているのを見て「ざまあみろ」と内心ほくそ笑んだことを思い出す。
「他に何かありましたっけ…?」と呟くと、「はい」と凪沙さんが挙手をする。「どぞ」と僕は発言を促す。
「二人とも凄い美人」
美人の基準は人それぞれだと思うが、確かにどちらも綺麗だとは思う。
「髪型同じ」
彼女の言う通り、何方もお嬢様結びだった。
「それに、スタイルいい」
あの二人は下に見積もっても、女性の平均身長を優に超えていた。
「あと、どっちも胸大きい」
なんとも返答に困ることを言われてしまう。「そうですね」と正直に答えたら軽蔑されるだろう。かといって、「あ、そうなんですか」と返したら、興味を持ったと受け取られかねない。ならば、「すいません、よく分かりません」と断るのが妥当だろうか。だがしかし…。
脳裏であれこれ選択肢を拡大していると、凪沙さんが自身の胸に手を当てて落ち込み始めた。僕はそれにあやかり、現在読破中の漫画の展開を考察しようと、どんよりとした雰囲気を身に纏った彼女の姿を視界から外して、窓の外を流れる雲と向き合った。僕は『考察する人』になった。
◇
「何してんのお前ら?」
先輩が部室に戻ってくるなり、開口一番にそう訊いてきた。ドアが音を立てて閉まるなり、「漫画の続きを予想してました」と言うと、「ふーん。で、そっちは?」と興味無さ気な返事をして、未だに胸に手を当てている凪沙さんに視線を切り替えた。凪沙さんは無言で先輩を凝視したが、数秒間見つめた後に「うん」と小さな声を発しながら首を前に軽く傾けると、何事もなかったかのように姿勢を正した。先輩が「どしたんこいつ?」と目で訊いてくる。僕が肩を竦めると、先輩は「そうか」と目で言い、俯いて咳払いをした。僕と凪沙さんの注目が先輩に集まる。
「それでは、早速顧問の先生を紹介したいと思います。どうぞ」先輩が普段のとは違う、落ち着いた丁寧口調に改めて宣言すると、扉が開いて、廊下で待っていた人物が顔を出した。
「はいこんにちは」
挨拶をしながら中に入ってきたのは、この学校を運営している熊谷校長先生だった。西部劇に登場しそうな渋い風貌と、その風貌に見合う、鼻下に生えた髭が特徴的だったので間違いなかった。心の中では『ダンディ・髭』と呼んでいた。
予想外の人物の登場に思わず目を見張り、声が出ないでいると、「くっくっく」と実に面白そうに腹を抱える先輩の姿を視界に捉えた。
「校長先生。あやつら、愉快な反応してまっせ」
「そうだね」
校長は表情一つと変えずに答える。
「……はっ」
先輩と校長先生が過去を振り返っていると、校長先生が現れて以降ずっと口を開けていた凪沙さんがようやく意識を取り戻した。
「いやあ、良いリアクションしてくれたよ本当に」
先輩が眼尻を拭いながら僕達に向いてそう言ったので、僕は誤解を解こうと弁明を始める。
「あ、先輩。僕が驚いたの、そっちじゃないです」
「え、違うの?」
「はい」と答えると、「じゃあ何で驚いたの?」と先輩が訊いてくる。
「校長先生が現れる程のことをしでかしたのかと驚いたんです」
僕ははっきりと答えた。
「私のことどう思ってんだよ」
「人間バカ弾」
「退部にすっぞ」
「ごめんなさい」
「はっはっは。私が顧問であることに驚かないとは、今回の新入部員は肝が据わってるね」
先輩と軽口を叩き合っていると、校長先生が笑いながらそう言った。「どうゆうことですか」と僕は先輩から校長先生に視線を移す。
「彼女の場合、私が入ってきた途端、声、裏返してたからね」
「やめて‼」
「そうなんですか?」
黒歴史を暴かれたかのような悲鳴を上げる先輩に、凪沙さんが迫る。相変わらず声に抑揚はなかったが、先輩の恥ずかしそうな反応を愉しんでいるのは雰囲気で察しが付いた。昼食中に首を擽られた仕返しかも知れない。先輩が助けを求めるように僕を見てきたが、僕は凪沙さんを止めたりしなかった。寧ろラウドロックバンドマンたちに向かって腕を振る客のように「やれやれー」と凪沙さんを応援した。「酷いよ鷹‼ お姉さんそんな風に育てた覚えはありません‼」と先輩は言うが、「遠慮しなくていいって前に言ってましたよね」と見捨ててやった。ラーメン屋で「一年間だけだし、お互い無遠慮でいこうぜ」と先輩が言っていたことは覚えていた。「しまったーーー‼」と嘆く先輩の姿は新鮮で内心笑えた。
「いやはや、四ノ宮君を手玉に取るとは大胆不敵だね、君たち」
校長先生が僕たち一年生に感心した声を上げる。
「そうなんですか?」
その先輩は、凪沙さんに壁際に追い込まれて、胸に顔を埋められている。
「そりゃそうさ」と校長先生は二人を無視して言う。
「何せ彼女、去年一人になって部費全カットされた途端「部費稼ぎたいからバイトされてくれ」って、私に相談してきたからね」
数秒経て、校長先生の言っていることを、僕はようやく理解する。
「……じゃあ、生徒手帳の『学業に支障が出ない限りにおいてはアルバイト可能』ってのは——」
「四ノ宮君によるものだね。学生の内に職種経験を積んでいた方が得だろうと思っていたところにバイト申請されたから丁度良かった」
そう校長先生が感慨深げに言うと、先輩が凪沙さんを引っぺがして得意気に腰に手を当てる。
「私がいなきゃ生徒会説得できてなかったよ」
「あざまーす‼」
自分の為ならどこまでも貪欲で、目的を果たすためなら行動を躊躇わないのだと先輩を見て羨ましく思うと同時に、自分にはできないことを平然とやってのけたという先輩に僕は嫉妬した。行動力は才能の一種だと思っている自分が情けなくなった。
先輩に引き剥がされてから微動だにしていない凪沙さんはというと、恍惚とした表情を浮かべていた。校長先生が出て行くまで動くことはなかった。
◇
顧問紹介が終わってからというもの、僕達は先輩に連れられ脚本提供をしているという演劇部とアニメ制作部に挨拶し、それ以降は部室で淡々とした日々を過ごしていた。入部して文芸部員になった以上何か創作活動でもするのかと思ったが、先輩は僕達がいるだけで捜索の幅が広がると言うだけで、僕等に活動を強要してくることは無かった。何もしてないのにお咎め無しなんて環境が世の中に存在していることが信じられず身構えていたが、部室の本棚に並ぶ背表紙を眺めては気になった本引っ張り出す日々を繰り返している内に自然と気にならなくなった。最初の頃は、余りにもマイペースものだから真面目に活動している他の部や働いている全国の人々と自分を比べて気に病んでいたが、しばらくすると慣れた。何度も本とノートの間で交互に視点を移しては人物像と風景画を描いていた凪沙さんがどんな心境で過ごしていたかは分からない。
夜鷹くんは一度考えだすと止められない止まらない思考の持ち主だそうです。