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拝啓、死望者ども  作者: 丈藤みのる
四月
4/26

四月上旬・四

【四月上旬・三】の続きです。

 ラーメン屋を出た時には、辺りはすっかり暗くなっていた。見上げると空は絵の具のような黒に染められていて、疎らな星の弱々しい白い輝きだけが、空が黒一色に蝕まれていない事を証明していた。隣に立っている川口さんは、今日の光景を目に焼き付けておこうとしているか、はたまた暇つぶしに目に見える範囲の星の数を数えているのか、じっと夜空を見つめている。それでも、意思の疎通は可能で、「詰めましょう」と、僕が出入りする人の邪魔にならないよう入口の横に避ければ、彼女も黙って言うことに従い、同じように入口脇に退いた。


「おお、すっかり夜だなあ…」


 支払いを済ませて入口を潜ってきた先輩が、店から出るなりそう言った。先輩は、幼少期から家族で通っているというラーメン屋に到着するなり、「歓迎会だから好きなの頼みな」と奢ってくれた。僕は先輩の厚意に甘えて豚骨ラーメンを注文しようとしたが、『上司(この場合は先輩)から食事をご馳走してもらう際は、上司と同じ物を頼むか、上司よりも値段の安い物、若しくは上司からおすすめを聞き、それを頼むべき。ご馳走してもらう以上、上司より高い物を頼むのは失礼』と、新社会人への注意事項を記したネット記事を思い出し、結局、「先輩のおすすめは何ですか?」と聞いて、先輩と同じ醬油ラーメンにした。メニューの味噌ラーメンから目を離していなかった川口さんも、僕の心境を察したのか、はたまた気が変わったのか、同じく醬油ラーメンを指差し、三人揃って同じ味のラーメンを啜った。


「夜ですね…」言った後に、ありきたりな返事だったと後悔した。


「もう七時過ぎてるからなー…」そんな僕の心配を他所に、先輩は台詞を繋いだ。独り言から会話を繋げられる先輩を羨ましく思った。先輩は続けざまに「おーい、凪沙ちゃーん」と、意識が半分ほど夜空の星に持ってかれている川口さんを起こしに掛かる。川口さんは、目の前で先輩に手を振られた途端、「はっ…」と、突然の左手に若干驚きながら我に返った。


「んじゃ、私こっちだから、また来週」


 川口さんの意識の覚醒を視認するや否や、先輩は学校でのテンションとは打って変わり、割とあっさり別れを切り出して、さっさと線路沿いの道路を歩いて行ってしまい、やがて見えなくなった。


「……帰ろ?」


 視界から消えた後ろ姿を記憶の映像の中で何度も見返していると、川口さんに腕の裾を引っ張られる。彼女の声に一歩遅れて、ライトの付いていない自転車が店前を通り過ぎて、先輩とは正反対の方向へ走り去って行った。


 ◇


「星野君」


 朝に渡った橋の上で、僕に話しかけてきた彼女の後方に映る橋とその下の川の色は、外灯の明かりも届かない暗闇に包まれた夜の世界に呼応して黒く濁っていた。星の光の白は川の濃すぎる黒に飲み込まれていてほぼ無いに等しかった。青信号待ちの横断歩道で訊いてみて初めて分かったことだが、川口さんとは、橋を渡ったところまで帰り道が一緒だった。


「何ですか?」と声が上擦る。先輩と別れてから、ずっとこの調子だった。誰かと、ましてや女子と一緒に下校するのは初めてで、何を話せば良いか分からず、緊張しているからだった。川口さんが物静かな性格だからなのか、はたまた喋りがあまり上手くないのか、会話が少ないのが不幸中の幸いだった。部室で出会ってから受け答え以外殆ど無口なのも、それが関係しているのかも知れない。僕はここまで会話に臆病だっただろうか。


「動機。何て書いたの…?」


「……それなりのことですけど…」


 喋ろうとした瞬間、緊張で話す内容が飛んで行ってしまうことを恐れて、咄嗟の判断で誤魔化してしまう。僕には悪癖だけなら数え切れないくらいある。そんな僕の返事が気に食わなかったのか、彼女は整った眉を少しだけ八の字に変形する。意外と顔に出やすい人なのかも知れない。


「星野君。ちゃんと話す」彼女の顔が、すぐ目の前まで迫る。眼鏡越しでは分からなかった長い睫毛がはっきりと見えた。


「いや、あの…」


 女性免疫のない僕は、思わずどぎまぎしてしまう。


「星野君。私の入部動機聞いた」


「はい」


 動揺を顔に出さずに受け答え出来ただろうか。


「自分だけ黙ってるの、ずるい」


 どうしてそうなるのだろう。


「…はあ」


 没にされた物はどうなるのだろう。彼女の中ではノーカンなのだろうか。そりゃそうだと思いながら、外来語でしか表現できない自分を恥じた。恥じる必要も無いのに。


「だから、私にも話す」


「…はあ」


「それで、フェア」


「…はあ」


 理解の追い付かない理屈に、三度も同じ相槌を打ってしまう。


 言い終わったと思うが早いか、川口さんは僕の顔との距離が近い事にようやく気付いて、恥ずかしそうに後ろに下がった。耳まで赤くなっていた。離れたことで胸を撫で下ろすと同時に、彼女の耳を見た僕は、彼女は人との対話を恥ずかしいと感じている類の人間なのだと思った。赤面は男性である僕に近付き過ぎた羞恥心によるものだと差し引いても、それによって対話に苦手意識を持っているのではないかと思えて止まなかった。もしそうだとすれば、さっきから発言が途切れ途切れなのも頷ける。


 そんな彼女に、自分から話しかければ「キモい」と罵られるのではないかと対話に恐怖を抱いている僕は、親近感が湧いたのかも知れない。気付いた時には、口はもう開いていた。


「……居心地良かったんです」


 川口さんが顔を上げる。


「安らげたんですよ。あの部室に居た時」


 書いた内容を思い出しながら、少しずつ話す。


「先輩と会ったのは今日が初めてなのに、妙に親しみ感じたり、今更ですが、先輩との会話何気に楽しんでたり、川口さんが先輩に撫でられてる時とか失礼な話ですけど思わず笑っちゃったり、詳しくは言えないんですけど、そういうの、あんまり無かったんですよ。上手く笑えないというか」


 何時からか感情が麻痺していたのは紛れも無い事実だった。きっと紙面に書き起こせば、滅茶苦茶な文体だろうけど、自分でも不思議に思えるほど、言葉が声帯を通じて二酸化炭素とともに口から放出されては、大気中に溶けて消えていった。


「だから、あの部に通い続ければ、また笑えるようになるん、じゃないかっ…て…」


 喋ってる内に段々と恥ずかしくなってきて、尻切れトンボになってつい俯いてしまう。全身が熱を帯びるのを感じた。失笑されるのではないかと、腹回りが熱とともに冷や汗で濡れていくのを感じた。


「……うん」


 彼女の声に反応して顔を上げる。


「良いと思う」


 柔らかい声でそう言って、彼女は少しだけ口角を上げた。


 それを見た僕は何故か、我が子を見る母親の笑顔を脳裏に思い浮かべた。


「あ…」


 彼女の声に反応して前を見ると、別れ道の十字路に到達していた。


「……では、僕こっちなので」


 僕は帰路に着こうと、若干坂道になってる天端道を下り始める。


「……あ、あのっ」


「はい?」


「星野君のこと、名前で呼んでも良い…?」


 彼女の顔は、暗闇の中でも分かるほどに赤く染まっていた。


「……じゃあ、僕も川口さんのこと、名前で良いですか?」


 特に何も考えずに言うと、彼女は嬉し恥ずかしそうな表情になって、こくこくと何度も頷いた。欲しかったプレゼントを手に入れた子どもを想起した。


「では、改めて…、おやすみなさい。凪沙さん」


「ばいばい、夜鷹」


 彼女は頬を染めて、にこやかに微笑んだ。


 手を振りながら去って行く彼女の姿が夜闇に溶けて見えなくなった刹那、僕は背中がむず痒くなるのを感じて、足早に家を目指した。頬が緩むのは名前で呼ばれる事に慣れていなかったからだと、そう自分に言い聞かせた。実際、身内以外に名前を呼んでもらえたのは小学校三年生以来だった。


 その後の帰り道の鼻歌は、いつもより少し大きかった。


 ◇


 家に帰るなり脱衣所に入り、服を脱ぎ捨て風呂に浸かっても、布団の上に寝そべり、最近買った小説を読んでも、心臓は中々落ち着いてはくれなかった。時計を見るともう十時になっていた。単純計算すると、家に帰って来てから二時間半はこの状態ということになる。


 少し早いが、もう寝てしまおうかと思った時だった。スマートフォンから無料通話アプリのメールが届いた着信音が鳴った。離れて暮らしている母からの『おやすみ』メールが来たのかも知れない。僕は枕元に手を伸ばした。


 しかし、手に取って画面を見てみると、表示されているのは母の名との写真ではなく、『なぎさ』という名前と眼鏡の写真だった。凪沙さんとは、ラーメン屋で、テーブルにラーメンが運ばれてくるまでの間、先輩の提案で連絡先を交換し合っていた。先輩の登録名は本名と普通だったが、プロフィール画像が真正面から顔を撮られたハシビロコウの写真で、凪沙さんと二人揃って一気に頬を膨らませたことと、先輩が口角を上げているのを見て確信犯だと気付いて同じタイミングで腹を抱えたことを思い出す。


 僕は妙な緊張感を抱きつつも、アプリを起動してメール画面を開いた。


『こんばんは』


『こんばんは』


 在り来たりな夜の社交辞令に、僕も同じ挨拶を返す。


『夜分遅くに失礼します』


『大丈夫です』


『今日、仲良くしてくれてありがとうございました』


 僕は仲良く出来たのだろうか。実感が湧かない。


『夜鷹のお陰で変に緊張せずに済んだ』


『いえいえ、こちらこそ』


 即座に当たり障りのない言葉を打ち込んで送信ボタンを押す。気楽に過ごせたことに偽りはなかった。昔の僕にこのことを伝えたら「そんなのあり得ない」と否定されそうだと思った。


『一年生、私一人だったらどうしようと思ってたから、凄く安心した』


『僕も、もう一人入部者がいると知った時、ほっとしました』


 廃部を免れたからとは打たないでおく。


『最低二人は入らなきゃ廃部だって、先輩言ってたもんね』


 凪沙さんの隠す気が全く見られない正直過ぎる物言いに、実は隠し事が下手なのではと思った。


 出会った時から抱いていた疑問を、この際に訊いてみることにする。


『そう言えば、先輩とはいつ会ったんですか?』


『勧誘日初日の放課後。その時に入部届も出した』


『だとすると…、今日、タイミング良く部室来たのって…?』


 最後の部分に違和感を覚えたが、他に良い文体が思い付かないので、そのまま送信する。


『新しい見学者来たら、一対一で話してみたいから、宣伝とかせずに最終日の放課後まで適当にうろついててくれって言われたから』


『……凄いですね先輩』


『精神力』


『まさしくそれです』


 無謀ともいえる背水の陣でありながら、一年生を使った勧誘を絶ってまで見学者その人の性質を見極めようとする精神が凄いと言いたいことは何となく見当が付いた。


『あの』


 何分間と間が空いて、返信が雑過ぎたかと不安になってきた頃に、ようやく返信が来る。


『もし良かったら、お友達になりませんか…?』


「…………は?」


 彼女の突然の提案に、誰も居ない自室で僕は素っ頓狂な声を出した。出会った人と友達になれるか否かを考えるのも億劫になって止めていた僕にとっては、それほど衝撃的なことだった。


『……すいません。忘れてください』


 呆然と口を開けて何十秒と返信をしないでいたら、そんな文章が表示された。僕は慌てて返信する。勢い任せだった。


『ああ、いえ、僕で良ければ喜んで』


 十数秒後、画面に新たなメッセージが追加される。


『ありがとう』


 僕は自分の口がにやけるのを感じた。


 彼女から続けて送られてくる。


『今後とも、よろしくお願いします』


『こちらこそ、今後とも、よろしくお願いします』


『おやすみなさい』


『お休みです』


 僕の返信を最後に、彼女からのメールが途絶えた。


 メールのやり取りが終わった瞬間、僕は布団に仰向けに寝転がった。天井板のうねった模様が目に入った。こんな簡単に友達が出来るなんて思いもしなかった。何十秒、何百秒と思いに耽った僕は、起きてる時間が勿体ないので、一刻と早く土日を超えて来週を迎えようと、そのままスマートフォンを充電器に接続してから布団に横になる。


 月曜日が待ち遠しくなったのは、本当に久々だった。

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