3.空を描く仕事の風景
その日、私はロッド先輩が起こしに来るよりも前に目を覚ました。
壁際のひもを引っ張り、外の景色を見る。今日の空は時間相応に薄暗い。
私は着替え、昨日もらった筆を見る。
ケースを開けて、じっくりを筆を見ていると、ケースの隅に何かが描いてあるのが目に入った。
「なんだろう、これ…?」
星のマークの中に、何か文字のようなものが書かれている。なんて書いてあるのかは私には読めなかった。
「2人とも、ご飯できたよ!!」
ロッド先輩の声が聞こえてくる。
私はケースを閉じると、1階へと下りて行った。
「先輩、おはよう」
「おはよう、レニィ」
挨拶をすると、顔を洗うために外へ出た。
薄暗いとやはり少し肌寒い。私が桶に水を溜めていると、
「よう、レニィ」
後ろから、親方が現れた。
「おはようございます、親方」
そう言って私は親方に場所を譲る。
顔を洗って、中へ戻ろうとしたときに、親方が思い出したように言い始めた。
「レニィ、昨日のあの写真の奴についてだがな。その…興味を持つのはいいんだが、会うことはできないぞ。あいつはもういないからな」
「えっ?」
振り向くと、親方は空を見上げていた。
「今日の空描いた奴はキッチリ朝昼晩描いてそうだな。まあ、たまにはそういうのもいいな」
そして、私を見ると、
「ほらほら、早くしねぇとロッドの奴が待ちくたびれちまうぞ」
私の背中を押しながら、親方はいつも通りの調子で言う。
どうやら親方はそれ以上、あの写真の人のことを語るつもりはないようだった。
食卓には魚のスープ(雲海ニシンの塩漬けを使ったと言っていた)と、卵焼きとサラダが並んでいた。
朝食をとりながら、スープの作り方や使った魚がどんな魚なのかを先輩に聞いていると、そうだ、と、突然親方が声を上げた。
「レニィには言ってなかったが、今日はこの後仕事で空を描くことになってる。2人とも、そうだな…10時になったら3階に集合してくれ」
私は親方のほう見る。親方が仕事をするところを見られると思うと胸が高鳴ってきた。
「絵の具とか運ばなくていいんですか?」
と、先輩は親方に聞くと、
「今日はいい。終わった後でレニィを連れて片づけをしてくれ」
「わかりました」
ロッド先輩は頷いた。
朝食の後、台所まで食器を持っていくと、
「帽子、忘れるなよ」
と言われた。
「わかってるよ」
そう答えると、私は自室へ一度戻り夕焼け色のリボンがついた帽子を手に取った。
見習いの証であるその帽子を被ると、なんとなく気分が引き締まる。懐中時計を身に着け、メモ帳の用意をすると、私は時間まで書庫の本を読むことにした。
書庫にある本は基本的に今まで空描士が描いた空の画集だ。
私は手前の一番手前にある本棚から1冊本を抜き取ると、部屋へと戻る。
本を広げると、そこには何年の何月何日に誰が描いたどこの空か、という情報と共に、空の絵が乗っている。
パラパラとページをめくっていくと、とてもきれいな青空が目に入った。
空描士の名前を確認すると、「ガロン」と書いてある。
吸い込まれそうなほどきれいな青空の絵を見ながら、
「親方、やっぱりすごいんだ…」
と思わずつぶやいてしまった。
その後もパラパラとページをめくりながら見ていくと、目に留まる青空の絵は大体が親方の作品で「群青の帝王」と呼ばれるゆえんが少しだけわかる気がした。
この本に載っているのは大体2年ほど前の空の絵だが、もしかしたらほかの本も見れば、あの筆の持ち主について何かわかるかもしれない。
そう思ったのも束の間、私はあの筆の持ち主の名前を知らないことを思い出す。
後で先輩の買い出しについていく予定だし、その時にでも先輩に聞いてみようかな、と考えていると、
「レニィ、もうそろそろ時間だよ」
と、先輩から声がかかった。
時計を見ると、あと5分ほどで10時になるところだ。
私は帽子と懐中時計、そしてメモ帳を身に着け、部屋を出ると先輩が部屋の前で待っていた。
「ほらほら、早く行こう」
そう言って階段を上っていく先輩の後を追い、私も3階へ上がる。
3階に上がると、
「レニィ、手伝って」
と、先輩が布を手に手招きしてきた。
「この布を床に広げるから」
私が布の端を持つと、先輩は手際よく布を床に広げていく。
「この布が、え~っと…天候布?」
私が聞くと、先輩は、
「違う違う。これは床を汚さないようにするための敷布さ。天候布は親方が持ってくるよ」
と笑いながら言った。
ほどなく親方が大きな鞄を持って上がってきた。鞄の中身は絵の具や筆などの道具のようだ。
「お、敷布を敷いてくれたか。ありがとうな」
そう言って鞄から取り出した道具を置くと、また階段へと向かう。
「何か手伝いましょうか?」
私が言うと親方は、
「いや、終わった後で手伝ってもらうから今はいい」
と言って下へ降りて行った。
「本当に手伝わなくていいのかな?」
「親方がいいって言ってるし、別に大丈夫だよ。まあ、次回からはオレたちでやることになるだろうけどね」
そんなことを話していると、親方が再び3階へ上がってくる。
親方は巻かれたガラスのように透明な紙のようなものと筒状の…まるで望遠鏡のようなものを手に持っていた。
「それじゃ道具の説明をするぞ」
親方はそう言うと、まず手に持っていた透明な薄い紙のようなものを広げる。
「これは天候布。ここに空を描くとその空が地上の空に変わる」
「何枚もありますね。今日使うのは1枚ですよね?」
私が問うと、
「いや、これ全部今日使う分だ」
と親方が答える。
「この端っこに青く印のついてるやつがベースとなる空を描く布でな。夜0時から朝6時、朝6時から昼12時、昼12時から夕方6時、夕方6時から夜0時の4つの時間に分けて空の色を描きこんでいく」
と、角に小さく青い印のついた布を見せてくれる。よく見ると、青い印の横に『0-6』『6-12』『12-18』『18-24』と数字が入っている。
「で、この白い印の奴が雲を描きこんでいく布、そしてこっちの黄色い印の奴が太陽、月、星を描く布だな」
そう言うと、親方はすべての布を一旦横に置き、その中からまず青い印の『0-6』と書き込まれている布を手に取る。
「ロッド、木枠を用意してくれ」
「はい」
先輩は、鞄の中から8つのL字型の木枠を取り出し、親方に渡した。
「ここにうっすらとL字型のマークがあるだろう?これに合わせてこうやって挟む」
と言って、親方は手際よく4つのL字マークに木枠内側の角を合わせて布を上下から挟み込んでいく。
4か所を挟み込むと、木枠の内側は大体スケッチブックほどの大きさになっていた。
「ここに描きこんでいくんですね」
私が言うと、
「まあ、そうだな。ただ、まだ描く準備が整ってねぇ」
そう言って、先輩のほうを見る。
先輩は、木枠を渡した後、敷布の少し外側に何やら棒を立てていた。
「あの棒を床についてる印に沿って4か所にしっかり固定して立てる。棒にはひもがついてるんだが、そのひもをこの木枠の穴に通すのさ」
親方の言葉に木枠を見てみると、確かに木枠外側の角にひもを通せるようになっている穴が空いている。
そうこうしているうちにも、先輩は手際よく棒を立てていく。
床の少し窪んでいるところへ棒を差し込み、動いたり倒れたりしないように四方から固定する。
それを4か所やり終えると、棒の中にしまわれていたひもを引っ張り出して親方へ手渡す。
「はい、親方」
「おう」
親方は受け取ると、ひもを木枠の穴に通し、再びひもを先輩へ渡した。受け取った先輩はひもを棒へ巻き付け、リングをつけて固定した。
木枠4か所すべてにひもを通し固定すると、布は親方のみぞおちより少し下あたりの位置で宙づり状態となった。
「これで準備完了ですか」
私が言うと、親方は、
「残念ながらまだ終わっちゃいねえ」
と、笑いながら言って、床に置いた刷毛と取っ手の黄色いバケツ、それに何か液体の入った瓶を足元へ移動させる。
瓶を開けると、中には透明な液体が入っていて、親化はその液体をバケツに注いだ。
「これは固定液っていって布に描きこむ前に布に必ず塗らなきゃいけないヤツでな。しっかり塗り残しの無いように塗っていく」
そう言って刷毛を使ってしっかりと塗っていく。3度か4度ほど塗ったところで、
「そしたら1、2分ほど置く」
と、少しの間放置した。
すると、みるみるうちに乾いていくのがわかる。
2分ほど経つと、完全に乾いてしまったようだ。
「レニィ、固定液塗ったところを挟み込むように触ってみな」
親方に言われるがまま、私は上下から挟み込むように触ってみる。
すると、布は板のように固くなっていた。
そして、そんな状態の布を見て、私は昨日認定式で絵を描いた板を思い出した。
「これって昨日私が空の絵を描いた…」
すると、親方はニヤリとして、
「そうだ。実はあれが天候布だったんだよ。…まあ、認定式の時に使う奴は天候布の切れ端を合わせたやつを使うんだけどな」
そう言って、私の帽子についているリボンを見ると、
「切れ端を合わせたやつだから何枚かに分けることができる。分けてうまくかけている部分をつなぎ合わせてこのリボンを作ってるってわけだ」
といって、帽子をポンっとたたいた。
このリボンが天候布…私はなんとなくうれしい気持ちになる。
親方はそんな私の様子を楽しそうに見ながら、固定液の入ったバケツと瓶を絵の具の近くまで移動させ、いくつかの絵の具と刷毛、筆を持って戻ってきた。
「さて、空を描くか」
そう言ってまずは黒い絵の具と青い絵の具を何種類かパレットに出し、天候布と一緒に持ってきた望遠鏡のような筒を覗き込んだ。
「0時から6時はおおむね晴れ、か…」
そう言うと、筒を床に置き、黒の絵の具をいくつかに分け、そこに青を少しずつ混ぜていく。
「あの、その望遠鏡?…ですか?それは一体…」
私が尋ねると、
「ん?これか。これは天候望遠鏡っていってな。天候儀に映し出される天候を見ることができる道具だ」
そういって手に取ると、覗いてみな、といいながら私に手渡してくる。
覗いてみると、中には夜空が広がっていた。薄く雲がかかっているところもあるが、穏やかに晴れている
「そのまま先端のほうの筒をダイヤルみたいに時計回りに回してみな。ゆっくりするんだぞ」
親方に言われた通り、ゆっくりと筒を回してみる。すると、段々と空模様が変わっていき、次第に明るくなってくる。
「1段目と2段目の筒で描く地方、3段目と4段目の筒で日にちと時間を設定して見ることができる。空描士が描く空は基本的に2日後の空だ。今回俺が描くのは明後日のクメル共和国首都上空だ」
親方は言いながら水のような液体(やや黄色掛かっているのでおそらく水ではない)で絵の具をのばしながら、天候布に色を乗せていく。
「その液体は何ですか?」
「これは混合定着剤だな。今俺が使ってる絵の具は水彩と顔料だがこれを使えば絵の具の種類を問わず、何でも混ぜることができるようになる」
そう言いながら刷毛と筆を使い、着々と深夜から明け方の空を作っていく。
私は聞いた話をメモ帳に書きながら、いつの間にか隣に来ていた先輩にこっそりと
「親方、描くの早いね」
と言ってみると、
「大体1つの空につき30分くらいで仕上げちゃうからね、親方は。人によっては1、2時間くらいかけるけど、親方はパパっと素早くきれいな空を描いちゃうんだよな」
親方は何度も何度も色を重ね、色を付けた部分ではもはや天候布の透明な場所は見えなくなっていた。
「よし、まずは0時から6時の空の色が完成だな」
そう言って親方は顔を上げる。
描き終えたばかりの布は、色が濃すぎて、どこが夜でどこが明け方かわからないくらいに暗く見える。
「これ…で空の色は完成なんですか?」
もっときれいだと思っていたのに…少し残念な気分で私が言うと、
「まあ、そうがっかりするなって。あとでお楽しみが待ってるからな」
親方はそう言って塗り終わった布の一方を指さすと、
「こっち側から向こう側に向かって時間が進んでいく。0時がこっち、6時が向こうってこったな。時間が一番早い所がこの端の印がついてる側だって覚えとけばいい」
と、さっきも見せてもらった青い印を見せながら親方は言った。
「さて、次はこの空の星と太陽だな」
親方は上側の木枠を少し上げるとそこに黄色の印が着いた布を差し込み、角の印に合わせて挟み込む。そしてまた固定剤をだっぷりと塗りこんで待っている間に、次は白と青、紫、オレンジの絵の具をパレットに出し、いくつかにキラキラと光る粉を混ぜ込んでいく。
「その粉は?」
尋ねると、
「これは星鉱石の粉末さ。そう、この建物の壁と同じ石だな。これを混ぜると星が綺麗に瞬くようになるんだ」
そう言って粉を混ぜ込んだ絵の具を混合定着剤でのばすと、布の3分の2ほどを覆う、細かい穴があいた板を乗せてその上を隙間なく塗っていく。
その後板を外して、星鉱石の粉だけを溶かした混合定着剤をさっと塗り、最後に一番時間が遅い所の端っこの下のほうに、ほんの少しだけオレンジと白を使って何かを描きこむと、
「これが太陽だな。さて、これで星も終わりだ」
と言ってまた木枠を上げた。
最後に挟んだのは雲を描くための白い印がついた天候布だ。
固定液を塗り、白の絵の具を今までとは別のパレットに出す。混合定着剤も別に用意した小さな容器に取り出し、その中に小瓶に入った無色透明の液体を2滴ほど加えるとよく混ぜた。
「実の所、雲を描くのが一番緊張するんだよ」
親方はよく混ぜた混合定着剤と白い絵の具を混ぜていく。
「小瓶に入ってる液体って何ですか?」
「これはただの水だ」
親方は私の問いかけに瓶を見せながら言った。
「空を描く時に唯一水を使うのが雲を描く時だ。水を混ぜる量によって雨の振り方が決まる。晴れの空でも雲を描くならちゃんと水を混ぜなきゃならんが…」
親方は小さく雲を描きながら続けて、
「たまに晴れなのに水の分量を間違う奴がいやがる。そうなると、天気雨が降っちまうのさ。まあ、晴れの雲に混ぜ混む水の分量なんて、間違った所でたかがしれてるから基本的にはちょっと注意されて次からは気を付けろって言われるくらいだがな」
親方の言葉に、そういえばたまに晴れなのに雨が降ったこともあったなぁと思い出し、
「地上でも天気雨はあんまり気にされてなかったですよ。むしろ、私の住んでいた所では縁起がいいって言ってました」
そう言うと、親方は、はっはっ、と豪快に笑い、
「地上の奴らが有り難がるってんならたまにはやってもいいのかもなぁ」
と、面白がって言った。
そうして全面に雲を描き終えると、
「いつもなら全部の時間仕上げてからやるんだが…レニィにとっては初めてだからこれだけ先にやっちまうか」
そう言うと親方は木枠を1か所持ち、それを布の外側に向けてスライドさせた。
すると、ほかの木枠も連動するように布の端へと向かい動く。
私は声を上げることもできないほど驚いた。なぜなら、木枠の動きに合わせて空も端へと向かって広がっていったからだ。
私が目を見開いてその光景を見ていると、やがて木枠は布の一番角までたどり着き、空も布一面へと広がった。
「…すごい…」
私はようやく、それだけを呟いた。
親方は色がわからなくなるくらいに塗り重ねていた。
その色が引き延ばされ、美しい夜空と明け方のまだ暗い空を作り出していた。
「人によっては布全面に最初っからこういう風な空を描くんだけどな。俺はどうにも広い場所に絵を描くのが苦手でなぁ。この手法で描いてる」
「でもどうして絵が広がったんですか…?」
私が呆然と聞くと、
「広がったのは固定液さ。固定液の上に塗った絵は固定液が広がればそれと一緒に動くようになる。手やヘラなんかで絵を布からはがそうとしてもまったくはがれないし、色が手とかに付くこともないのに不思議だよな」
と、先輩が言った。
親方は肩をすくめると、
「まあ、こんな感じであと3枚も空を描いていくぞ。レニィ、次は木枠をつけるのを手伝ってくれ」
「…!!はいっ!」
私は大きく頷くと、ドキドキしながら親方に教えられる通りに木枠で布を挟んでいった。
その後、親方はさらさらと色を塗り重ねていき、朝から昼、昼から夕方、夕方から夜の時間ごとの空を描き終えた。
やはり、どれも最初は色が濃すぎて綺麗かどうかもよくわからない状態だったけれど、それでも布一面に広げてしまうと、すべてがとても綺麗な空へと変貌していた。
特に、青空の色は見とれてしまい、しばらく食い入るように見ていると、
「大丈夫か、レニィ?」
と親方に心配されてしまった。
「大丈夫です。ただ、この青空がとても綺麗だから…こんな空を見上げられるってクメル共和国の首都に住んでる人たちがうらやましいなぁって」
私が言うと、親方はすこし照れたように、
「そりゃどうも。まあ、これでも一応『群青の帝王』なんて恥ずかしい二つ名をもらってるんでね。青空だけは誰にも負ける気はねぇ」
そう自信にあふれた様子で言う親方はとてもかっこよかった。
その後、親方は私と先輩が絵の具や筆などを片付けている横で、時間ごとに布をくるくると丸めていった。
「あんなに硬かったのに、丸まるんですね」
「まあな。折り曲げたりはできないが、丸めることは可能だな」
そう言いながら丸めたものをひとつずつ違う色のひもでくくると、
「あとはこれを本部にもっていけば今日の仕事は終いだ。その前に道具を片づけ終わったら飯にしよう」
親方の言葉に、時計を見てみると、確かにもう昼過ぎになっている。
私たちは急いで片づけ、少し遅めの昼食をとったのだった。
昼食の後、親方が本部へ布を持っていくのに合わせて私と先輩も外へ買い物に出かけた。
いつもどこで食材を買っているのかを知るためだ。
「それにしても、親方が描いた空、綺麗だったなぁ…」
「毎回見せてもらうたびに、なんであんな綺麗な青空が描けるんだろう、って不思議に思うよ、ほんと。他の空も綺麗なんだけど、やっぱり青空だけ別格なんだよなぁ、親方の空」
先輩の言葉に私はただ頷くだけだ。
「私もあんな空描けるようになるかなぁ」
呟くと、
「親方から絵の具の調合の仕方とか空の描き方とかは教えてもらえるからあとはひたすら頑張るしかないよ」
「だよね」
当然すぎる先輩の言葉に、私は気持ちを引き締める。
そして、ふと、
「そういえば空を描くときに使う絵の具って何から作られてるんだろう?」
と言ってみると、
「空描士が使ってる絵の具は何でも材料になってるよ。親方は鉱石を原料にした顔料が好きって言ってたけど、空陸にあるものなら石だけじゃなくて、植物も動物も全部絵の具の材料になるんだ」
私は驚いて、
「動物も?」
と言うと、先輩は頷く。
「動物の毛だったり骨だったり血だったり…まあ、親方はあんまり好きじゃないって言って滅多に使わないんだけどね」
と言う先輩に
「確かに血とかはあんまり使いたくないかも…」
と思わず顔をしかめて言ってしまう。
すると先輩も、
「オレも同意見だなぁ。でも空描士の中には飼ってたペットが死んだときとかに形見として絵の具にして使う人も結構いるから悪いことじゃないんだよね」
そういうものか…と思いながら、形見という言葉に先輩に聞きたいことがあったんだった、と私は思い出し、
「そういえば先輩、親方の部屋に写真が飾ってあるよね?」
と言ってみると、先輩はああ、と言って、
「あの写真見たんだ」
と続けた。だが、さらに続いた言葉に私は混乱してしまった。
「あの写真に写ってるのが、親方の奥さんと娘さんだよ」
「…へっ…?」
私が驚いて先輩の顔を見ると、先輩もきょとんとして私を見つめ返し、少し間を開けた後に
「…あっ、もしかして見た写真ってあれじゃない!?」
と、慌てだした。
私も混乱して、
「ちょ、ちょっとまって。親方の奥さんと娘さんって、親方結婚してるの!?え、でもあのアトリエにはいないよね!?」
と言うと、しまった、というような顔つきで先輩は、
「あーっと…、その、親方の前では言わないでくれよ」
と言って話してくれた。
「その、さ。オレも人づてに聞いただけだから詳しくは知らないんだけどさ。…親方の奥さんと娘さん、亡くなってるんだよ、10年位前に。そのあとしばらく親方は不安定で、自暴自棄になってて…危うく空描士の資格をはく奪されそうになったって聞いた」
私は信じられない思いで、
「親方、今あんなに楽しそうにしてるのに…」
と呟くと、
「ああ、周りの人たちの助けも借りてようやく立ち直ったって話だ。今もオレは親方が奥さんたちの話をしてるのを聞いたことがない。…だからあんまり親方の前でこんな話したなんて言わないでくれよ」
先輩はそう言うと、それっきり黙り込んでしまった。
私はその話を聞いて、今朝私の筆のもとの持ち主について少し話した時のことを思い出していた。
あいつはもういない、親方がそう言った時の表情を私は見ていなかったが、それっきり語ろうとしない、語りたくないという空気だけは確かに感じ取っていた。
…もしかして、その人も…?
会えない、いない…
その時は空描士をやめて国から出ていったのだと思ったけど。
私もその後、何もしゃべらずにただ、先輩の後をついていくのだった。
アトリエに戻ると、すでに親方は戻っており、私と先輩に透明な布を渡しながら言った。
「これは天候布の古布だ。一度使用済みの天候布でな。天候布は実際に空に使用された後は5年間そのまま保存される。そのあとはよほどのことがない限り色を取り払って見習いの練習用に充てられるのさ」
そう言って、液体の入った瓶も渡してくれた。
「あの筆が入ったケースの中に刷毛とかも入ってただろう?これからは刷毛で固定液を塗る練習も一緒にしろよ」
「あ、はい。…わかりました」
私が元気なく返事をしたせいだろう、親方は眉をひそめ、
「おい、レニィ、大丈夫か?具合でも悪くなったのか?」
と、心配そうに聞いてくる。
「いえ、大丈夫です」
私はそう言って、自室へと戻った。
その後、庭に出て洗濯を終えた後にもらった古布を使って固定液を均一に塗る練習をしていると、
「レニィ、具合が悪いんなら無理するなよ」
と、親方がそばへやってきた。
「無理はしてないです。というか、具合も悪くないですよ」
そう言って固定液を塗っていると、
「んじゃ、何か悩み事か?あんまり役には立たねぇかもしれないが、一人で抱え込むよりは人に話してみた方が案外スッキリするもんだぜ?」
心配してくれている親方に、私はなんて言おうか迷い、
「いや、悩みってほどではないんですけど」
と、思い切って聞いてみることにした。
「親方はこの筆を見てなんで誰のものかってわかったんですか?」
そう言うと、親方は驚いたように、
「そのことにそんな悩んでたのか?…まあ、いいけどな」
と言って、ケースの隅に小さく描いてある星のマークを指さす。
「これはな、そいつが自分の持ち物とかに入れてたマークなんだよ。この星の中に書いてある文字はどことかいう地方の古い文字で意味は『決意』だったかな?まあ、そんなことを昔あいつが言ってたんだよ」
と、昔を懐かしむように言った。
「…親方、その人って…いないって言ってましたけど、もしかして亡くなられたんですか」
私が言うと、親方は一瞬辛そうな顔をした。
「…ああ。10年くらい前にな。だからさ、レニィ、その筆は大事に使ってやってくれよ」
親方はそう言うと、いつも通りの笑顔を浮かべ、
「固定液の塗り方、教えてやるよ」
そう言って親方は刷毛を手に取り、固定液の塗り方を実演しながら教えてくれるのだった。
夜、私はいつも通り、日記を開いた。
昼間親方が教えてくれた空の描き方の手順をメモ帳を見ながら書き、その後親方には亡くなった奥さんと娘さんがいること、また、私が今使っている筆のもとの持ち主もすでに亡くなっていることを書いた。
そこでふと気が付く。
「あれ、全員10年位前に亡くなってるの…?」
10年位前に何があったのか、気にはなったが、親方が語るつもりがない以上、無理に聞くこともできない。
とりあえずは日記に疑問として書き込んでおくことにして、最後にいつも通り空の絵を描いた。
描いたのは、親方が描いた青空の絵だ。
あんなに綺麗には描けなかったが、いずれ描けるようになってみせる、と決意し私は時間をかけて描きこんでいくのだった。