旅立ちのとき
目を覚ましたナオヤは、あらためて巨神と向き合っていた。
怖い。怖すぎる。
長老の話で、神とは畏るべきものだと聞いて知っていたつもりだったが、まさかこれほど怖いものだとは思っていなかった。
「わしに用か?」
筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)な巨躯の老人。
腕など、ナオヤの腰くらいの太さがあるのではなかろうか。
ナオヤは震えた。
短い言葉のひとつひとつが極度の威厳に満ちていて、生きた心地がしない。
怒鳴っているわけではない。
むしろ、静かに軽く問いかけてきているのだが、心臓を直接叩かれているような衝撃におののく。
ナオヤは信心深く、神を畏れていたつもりだったが、そんな程度のものではなかった。
気を失わないようにするのがやっとなのだ。
「ジジイ、脅すなよ」
オオナムチが巨神の足を蹴った。
軽いそぶりの小さな蹴りなのに、高い崖の上から大きな岩が落ちてきたような轟音が洞窟に響いた。
しかし、巨神はびくともしない。
なんとも思っていないようだ。
「神よ!村をお助けください」
ナオヤは勇気を奮って声を絞り出した。
もともと勇気があるほうではない。
むしろ、臆病で慎重だ。
村一番のビビリなのだ。
すごく簡単な問題でも、検討に検討を重ねた結果、行動するのをやめることも多い。
しかし、今回の神降ろしは、村長と仲間たちから託されたことだ。
信頼を裏切るわけにはいかない。
そして、険しい道のりを、不眠不休で駆けてきたのだ。
ここまで来たのだからやるしかない。
そして、できるだけ早くこの場から解放されたい。
正直に言うと、やるべきことをさっさと終わらせて、今すぐにでもどこかに逃げ出したいのだ。
ナオヤの精神の限界はすぐそこまできている。
巨神は目を閉じて考え込んでいる。
ただそれだけでナオヤはひたすら怖かった。
オオナムチはとくに何も考えていない感じだ。
気楽そうでうらやましくなる。
ナオヤの背中にはよくわからない汗が流れていた。
一瞬か、それとも数分たったのか。
緊張しすぎて時間の感覚がよくわからなくなっている。
口が乾いてカラカラだ。
ナオヤは、返答を待ちきれずに口を開いた。
「大王が攻めてくるのです。村をお助けください」
イズモ国スサノオ大王の軍が村を攻める。
それは、村が消えることと同意だ。
この十年でスサノオ大王に消された村は100を軽く越える。
毎月どこかの村が攻められているのだ。
きっかけはどれも些細なことだ。
難題を吹っかけられて、少しでも逆らうと、すぐさまやつらが攻めてくる。
盾と鉾を構えた黒い鎧の軍団により、村は蹂躙される。イズモ国の精兵たちがやってくるのだ。
ろくに武器も持たない村人の抵抗はなんの意味も持たない。
それでも抵抗する者は殺され、村は焼かれ、従うものは連れて行かれる。
連れて行かれた者たちは、別の土地に移され、男は奴隷として酷使され、女は子を産まされるという噂だ。
しかしだ。
100を越える村が消えたが、村を凌ぐ町が興され、人口は急増している。
平和な暮らしは過去のものとなったが、国力は上がっている。
これがイズモ国の現状だ。
賢者と呼ばれる者たちの中には、スサノオ大王のもたらす破壊は改革を進める国造りであり、社会が発展するための必要悪だという意見も多い。
スサノオ大王は神なのだから、神国の理なのだと。
しかし、村人のナオヤにはそんなむずかしいことはわからない。
ただ、村が攻められることが怖いのだ。
「荒神か。あいつともめるのは悪くない」
巨神が身を乗り出した。
猛禽類が獲物を見つけたように瞳がギラつき、口元には獰猛な笑みが浮かんでいる。
これはよい兆しか?
よい答えが聞けるのではないかと、思わずナオヤも身を乗り出した。
「お助けくださるのですか!?」
「知らん。人の争いに興味はない」
神にあっさりと断られた。
ナオヤは目の前が真っ暗になった。
ガクリと膝が落ちる。疲労がどっと襲ってきた。
クラクラと目眩がする。
絶望の淵に落ちていこうとするナオヤの眼の前を、白いものが飛んでいって巨神の脛に当たった。
地面に転がったそれは、焼けた動物の骨だった。
「卜占に出ています。お行きなさい」
「ババ様!?」
いつの間に入ってきたのか、白髪のやさしげな婦人が立っていた。
見た目30代か。ババ様と言われるような年には見えないが、この時代の平均寿命は短い。
成人する前に命を落とす者が多い時代だ。
しかし、この婦人は、見た目よりはるかに年を重ねている。というか、そんなレベルではない。
ナオヤの爺様の爺様の爺様より、ずっとずっと昔から村の山に住んでいる神なのだ。
実際、ナオヤが子供のときから、見た目がまったく変わっていないのである。
ババ様の名はカヤノヒメ。野の神である。
ナオヤは最初にこのババ様に相談に行ったのだ。
すると、洞窟へ行けと指示された。それだからこそ、今こうしてナオヤはここにあるわけだ。
(心配になって自分もやってきてくれたのだろうか)
思わぬ援軍に、折れかけていたナオヤの精神は、なんとか踏みとどまることができた。
「ひさしぶりだなババア」
巨神が悪態をつく。
「まったく…。あなたの粗暴さは変わりませんね」
ババ様はあきれた顔だ。だが、予想していたことなのだろう。とくに動じる様子はない。
「わしは行かんぞ」
「当たり前です」
「えっ!?」
ナオヤは絶句した。ババ様は巨神を説得する強力な援軍かと思ったら、すぐさまの手のひら返し。
ババ様の顔をほけっと見つめてしまう。
「あなたが行っても戦が大きくなるだけでしょう。骸の数が増えるだけです」
「フン。わかってるじゃねえか」
巨神が鼻を鳴らす。褒められているわけではないのだが、なんだか誇らしげだ。
「ジジイは脳筋だからな」
オオナムチは大きく頷いている。
巨神の拳がうなりを上げてオオナムチの頭を狙ったが、軽くかわしてババ様の隣に立った。
(あんなのが当たったら死ぬだろう…)
ナオヤは恐怖に青ざめて気持ち悪くなった。それほど躊躇ない殺意のこもった一撃だったのだ。
しかし、巨神とオオナムチにとっては日常である。
「すばしこいやつだ」
「ジジイがとろいんだよ」
オオナムチはなぜに、巨神に対してこんなに強気でいられるのか。
ナオヤは不思議でならなかった。
幼い頃から尋常ではないレベルで鍛えられたからに他ならないが、ナオヤには知るよしもない。
「行くのはこの子です」
ババ様は隣に立つオオナムチの肩にやさしく手を添えた。
「えっ!?」
次から次へとナオヤには驚くことばかりだ。
(ババ様の告げた神は、やはりこのオオナムチ、つまり少年神だったのか?)
ナオヤがオオナムチを見ると、少し笑っているように見えた。
「大きく高く広くモノを見られるように、狭き議論の民から離して育ててきました。されど、地に降りて交わる時が来たのです」
オオナムチは人里離れた神域で、ババ様と巨神に育てられたのだ。
人の理ではなく、神の理で育てられたのだ。
それを今まさに神域から地に降ろし、人と交わらせる時だと、ババ様はそう宣言したのである。
「こいつはまだクソガキだぞ!?」
「おや、寂しいのですか?」
「ないわ!」
巨神はババ様の冷笑に背中を向けた。
「この子の名はオオナムチ。尊き名がこの子の足跡を追います。わたしたちが育てたこの子に不足があるのですか?」
ババ様がさとすように言った。
「知らん。勝手にしろ」
「じゃあ、行くわ」
オオナムチはあっさりと答えた。
小さいことにはこだわらない大雑把な性格であり、楽天家なのだ。
広い世界で自分を試してみたい気持ちもある。
オオナムチはワクワクしていた。
こうして少年オオナムチの長い旅がはじまったのだった。
【神話コラム】
オオナムチ オホナムチ
大国主命の若い頃の名前。
大名持神
大穴持神ともいう。
オオ、オホは文字どおり大きいこと。
アナも大きいことを示す。
ムチは、尊き者のことで、天照大神の別名でオオヒルメノムチなど、限られた神にのみ使われる古い尊称である。
尊、命のミコトという尊称に引き継がれていくようだ。
名(な、みょう)は平安時代の記録にある古い租税地の単位だが、その主を名主と呼んだ。
その後の戦国時代には、大名も出てくる。
大名持神、大国主命は、そういった主の元祖なのかもしれない。