巨神とオオナムチ
時は流れた。
荒神スサノオノミコトは、海を渡った西の未開の地で、クシイナタ姫を妻に娶り、土地を支配していたヤマタノオロチを倒したという。
そしてイズモ国を打ち立ててスサノオ大王となった。
従わぬ神や民は荒れ狂う暴風雨のように鎮めた。
それは無慈悲で絶対的で純粋な武力であり、争いごとを知らなかった未開の地の民は怯え震え逃げ回った。
荒神は武力のみで国を作ったわけではない。大きな利益ももたらした。
海人族と山人を川でつなぎ、鉄の道具を広めた。
海人族のネットワークによって、農耕、建築、家畜、食料保存の方法、さまざまな知識や技術が広められた。
イズモ国に与するということは、これらを享受できるということなのだ。
それは新しい豊かな暮らしに変わるということ。
山奥に住むあやしげな者たちのほかは、競ってイズモ国に与することになった。
そうして人は地にあふれた。
自然の調和の中で生かされてきた未開の民が、原野から土地を切り取って次々と村を作った。
人々は急速に変わっていった。
豊かになったことで、富を奪い合う争いは増えたが、元の暮らしに戻ろうとする者はいなかった。
イズモ国は、サヒメ山から火神岳にまたがる陸地と、面する海を支配した。
さらに海を挟んだ大陸の一部まで侵略の手を延ばし、広大な版図を手に入れていた。人の少ない土地には、遠い大陸や北の国からも人を連れてきて村を作った。
こうして、驚くべき短期間で並ぶものなき大国となったのだ。
人々は荒神スサノオ大王を多いに畏れた。
そうしたイズモ国の片隅、人里から遠く離れた辺境、神域と呼ばれる山奥で、森を駆けるふたつの影があった。
巨人と少年が、深い森の中を駆けている。
浅黒い岩のような分厚い筋肉に覆われた巨人。
まるで岩山が駆けているかのようだ。
人間離れしたそれは、そう人間ではない。
山の神オオヤマツミ。
それがその巨人、いや、巨神の名であった。
隣を走る少年の名はオオナムチ。
15年前に西の砂浜に船で流れ着いた赤子は、たくましい少年になっていた。
オオナムチは、走りながら弓を引いている。
ここは神域の森の中だ。
起伏が激しく木の根や石など障害物の多い森の中を、弓を引きながら走ることなど、普通はありえない。
しかし、オオナムチの強靭な足腰と異常なバランス感覚が、弓を引きながら森を駆けるという非常識な行動を可能にしていた。
オオナムチの引く弓の狙いの先には、200キロはあろうかというイノシシがいた。
巨神とオオナムチは、逃げるイノシシを追って駆けているのだ。
「射よ」
「ラァ!」
巨神の合図で放たれたオオナムチの矢は、空気を引き裂いて進んだが、イノシシの左脇の地面に刺さった。
イノシシが驚いて右に進路を変える。
「下手くそが!」
「うるせえ!ジジイ!声かけんじゃねぇ!」
矢を外したオオナムチをなじる巨神。
なじられたオオナムチは巨神に対して『ジジイ』と悪態をついたが、たしかに巨神は山の神であり、永い時を過ごしてここにある。人で言えば老人の部類になるのだろう。
老人といっても筋骨隆々の巨神だ。
背丈は2メートルを軽く超えている。
その顔はいかめしく、スキンヘッドに濃い眉毛と長いヒゲ。鋭い眼光はビームを出してもおかしくはない。
そんな巨神を相手に、オオナムチは少しも畏れている様子がなかった。
右に進路をとったイノシシが崖にぶつかって止まった。
森の中に激突音と衝撃が広がる。
驚いた鳥が飛び立った。
全力の猛スピードで逃げてきて、行き止まりでも止まりきれなかったのだ。
そこは、崖と木に阻まれて進路が無くなっていた。
袋小路の行き止まりである。
血だらけの顔でイノシシが振り向いた。
「これを狙ってたんだよ」
「嘘をつけ。クソガキが」
オオナムチが勝ち誇って言うが、巨神はあきれたように吐き捨てる。
イノシシの目は怒りに燃えている。退路を塞がれて、向かってくる気なのだ。
死から逃れるには前に出るしかない。
前足で地面をかいて、今にも飛びかかってくる素振りを見せている。
「下手くそは座ってろ。これ以上、血が回ると臭くなる」
そう言って巨神はイノシシの前に出た。
イノシシをはじめとした獣は、殺すのに手間取ると肉に血が回って臭くなる。
美味しく食べるためには、すばやく仕留めて内蔵をはずし、川で洗って血抜きをすることだ。
巨神は無手だ。
人間が野生動物に立ち向かえるようになったのは、弓矢が発明されてからである。
道具を持たない人間は、野生動物にとって脅威になりえない。
しかし、巨神は非力な人間ではない。
岩山のような筋肉の塊、山の神なのだ。
巨神が前に立つと、イノシシは怯えた素振りを見せた。
動きが止まったのだ。
己より強き者がわかるのか?
いや、それもあるだろうが、巨神の放つ暴威が桁外れなのだ。
「もらい」
イノシシの額に深々と矢が刺さった。
一瞬遅れてイノシシが倒れる。
オオナムチは動きを止めたイノシシの隙を逃さず、すかさず射止めたのだ。
「俺の勝ちだなジジイ」
「クッ、黙って血抜きをしろ」
巨神は一瞬、不愉快そうな表情を浮かべたが、それ以上、とくに咎めるでもなかった。
オオナムチは巨大なイノシシの足を蔦のロープで器用に縛り、川まで軽々とかついでいった。
筋肉質だが中肉中背で、見方によっては華奢とも言えるオオナムチが、200キロを越える重さのイノシシを軽々とかついでいる。
オオナムチもまた人外の膂力を持っていた。
山中を流れる川だ。
ごろごろとした石の起伏の間を白い糸のように水が流れている。
雪解け水は冷たく透き通っていて、触れると手足が痺れるようだ。
ナイフでイノシシの腹を裂き、内蔵を取り出す。
川の深くなっているところでイノシシの血を洗い流し、流されないようにロープで固定し、川の水にさらした。
しばらくこうしてさらしておけば、血抜きの作業が完了する。
ここまでをいかにすばやく行えるかで、肉の旨さが変わってくる。
オオナムチは、イノシシを川にさらしている間に川辺の香草を集めてまわった。
そして、川からイノシシを引き上げると、空洞になったイノシシの腹に香草を詰めた。
「マアマアうまくなったじゃねぇか」
「もう熟練だろ。褒めとけやジジイ」
「口の減らないガキだ。帰るぞ」
家に帰ってイノシシをスープにする。
家といっても天然の洞窟に手を加えたものだ。
奥のほうはどこにつながっているか、いまだに少年は知らない。
「おや、誰か来たぞ」
巨神の言葉に、オオナムチは驚いていた。
ババ様のほかに、誰かが訪ねてきたことなど、いまだかつてないのだ。
この山は神域であり、人が入ることができない結界が張られている。
(どうやって?誰が来た?)
オオナムチは洞窟の外に向かった。
神域の洞窟に訪れた客人は、オオナムチの人生を大きく変えることになるのだった。
【神話と歴史コラム】
オオヤマツミ
神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。
古事記では大山津見神、日本書紀では大山祇神、他大山積神、大山罪神とも表記される。 別名 和多志大神、酒解神。
オオヤマツミは、古事記では伊邪那岐神と伊邪那美神の御子と記されています。また日本書紀の一書(異伝)には、伊弉冉尊に死をもたらした火之迦具土神を伊弉諾尊が斬り殺すと、そこから大山祇神、雷神、高龗神の三神が生まれたと記されています。
ほかには伊予国風土記の中に、大山津見神は「難波高津宮御宇天皇(なにわのたかつのみやにあめのしたおさめたまいしすめらみこと)※仁徳天皇 の御世に顕れ、百済国より渡り来坐した」と記されています。いずれにしても、古来多くの文献に登場するきわめて重要な神なのです。