世界を巡る~美犬さん・カーテンの向こう側~
トイレの扉の前で、愛と信頼と絆の尊さを謳った経典を手に立つ。
「これが必要なのは、残る三世界で……あそこか」
扉を開くとすぐに美犬さんの姿が目に入った。
彼女は川のそばで洗濯をしている。
「やぁ、久しぶりだな。以前は世話になった」
「え? あなたは……あれ、言葉が?」
「このネックレスのおかげで、君の言葉がわかるようになった。それで話が――」
「お前ら、そこで何をしている!!」
聞き覚えのある大声……男犬の声だ。
男犬はいたずら小僧の子供犬を隣において、牙を剥き出し、怒りの表情を露わとする。
彼は肩をいからせながらこちらに近づき、今にも噛みつかんとする勢いでがなり立てた。
「やっぱり俺を裏切っていたのか! 絶対に、絶対に許せん!」
「待って、あなた! 違うの、誤解よ!」
男犬はひたすらに美犬さんを罵倒する。
子供犬は両親の恐ろしくも悲しい姿に涙を流している。
私は彼女たち家族を見て、この世界に足りないものを確信した。
男犬は頭を滾らせ、完全に冷静さを欠いている。
彼にはしばらく黙っていてもらおう。
「聡明草、あいつを縛れ」
右手から放たれた聡明草は瞬く間に男犬の自由を奪い、彼を地面に転がした。
その様子に動揺する美犬さんに経典を差し出す。
「これを読んでみてくれないか?」
「こ、これは?」
「君たちに必要なものだ」
美犬さんは経典を手に取り、目を通していく。
本半ばで、彼女は一筋の涙を流す。
「こ、このような……素晴らしい教えがあるなんて……」
「君たちに足りないものは、信頼や絆、そして愛だったのでは?」
「……はい。ある日を境に、信じあう心が失われてしまいました。わずかでも疑念を抱けば、相手を糾弾せずにはいられない」
「だが、君は違うな」
「どういうわけか、私はあまり影響を受けてないみたいで」
「この世界は、可能性を君に託したのかもな」
「え?」
「さぁ、その経典を夫に届けるといい」
「はい」
美犬さんは地面に転がってもがいている男犬のそばに座り、経典に記された教えを語っていく。
子供犬もまた、母が優しく紡ぐ言葉に聞き入っている。
教えを伝えられた男犬と子供犬は、目から涙を溢れさせる。
彼らの姿を見て、私は聡明草に男犬の拘束を解くよう命じた。
彼は飛び起きると妻と子を抱きしめる。
妻もまた、夫と子を抱きしめた。
子供犬は二人の間に挟まれ、涙を流している。
そこには、たしかな愛と信頼と絆が存在する。
私は美犬さんに柔らかな言葉をかけた。
「もう、大丈夫だな」
「はい」
「ほかの人たちにも、経典の教えを伝えるといい」
「ええ、もちろんです。私たちの世界に、再び愛を復活させるために……ありがとう」
「礼には及ばない。では、末永く幸せにな」
さぁ、次だ。未来の可能性を開くためにトイレの扉を開く。
扉をくぐり、あたりを見回す。
すべての窓がカーテンで隠された広間。
豪奢ではあるが、寒々とした洋館。
私は、右手に絡みついている聡明草に目を向ける。
「お前の出番だな」
聡明草は蔓の端をぴょこぴょこと動かす。
任せろ! と、言ったところか。
視線を再び周囲に戻すと、車いすに座ったご婦人とメイドが現れた。
「あらあら、お久しぶりね。また、トイレ?」
「いえ、ご婦人。今回は……あなたの星を救いに来た」
「えっ?」
「さぁ、外へ」
彼女たちを伴い、玄関から外へ出る。
外の景色は相変わらず荒涼とした大地が広がり、空はどんよりとして稲光が鳴っている。
私は聡明草から吸盤の付いた種子を幾つか受け取り、地面に埋めた。
リュックから近所のスーパーで購入した2リットル59円(税別)のミネラルウォーターを取り出して、種に注いでいく。
そばで私の様子を見ていたご婦人は力なく首を横に振り、寂しい言葉を漏らす。
「無駄ですよ。大地は息絶え、いかなる生命も命を宿すことは叶いません」
「普通の植物ならそうでしょう。しかし、聡明草は違う。見せてやれ、お前の本気を!!」
言葉を放つと、地面からぽふんっと、二枚の葉が産まれた。
ご婦人は小さく何か言葉を漏らそうとしたが、彼女の驚きに畳みかけるかのように、聡明草は一気に開花した。
乾ききった地面のヒビに沿うように、聡明草は蔦を這わしていく。
そこから大量の葉を生い茂らせ、赤・青・黄といった様々な色の花を咲かせていく。
よく見ると、見知らぬ植物たちが姿を現し始めていた。
おそらく、聡明草が死せる大地でありながらも、いつか復活する日を夢見て眠っていた植物たちを叩き起こしたのであろう。
聡明草と植物たちの勢いはとどまることを知らず、私の排便スピードを遥かに上回る勢いで、地平線の先まで緑で埋め尽くしていった。
その勢いに恐れをなしたのか、淀んだ空は切り裂かれ、突き抜けるような青い空が現れる。
実りの大地には彼らの糧である、太陽の光がふんだんに降り注ぐ。
「さすが、一度はわが家を占拠しただけある。本気を出せば、星一つ程度一飲みというわけか」
右手に宿る聡明草は、私の頬にすりすりと蔦をこすりつけてきた。
ご婦人は死の大地が生命の大地へと生まれ変わる様を目の当たりにして、茫然としている。
「しんじ……られない。私たちが何度も蘇らせようとした大地が、大地が……う、うう、ううう」
彼女は溢れ出た涙を、指でそっと拭う。
指先から零れ落ちた涙が、大地へと沁み渡る。
ご婦人の隣に立つメイドは奇跡を目にして感極まった彼女を、何故か悲しげに見つめていた。
「どうした?」
「いえ。ただ……私には涙を流す機能がありませんから」
「ほぅ、そうなのか。しかし、それでなぜ、そんな寂しい顔をする?」
「お館様のように、嬉しいという思いを表せないことに寂しさを感じています」
「ふん、下らん」
「え?」
「何も涙を流すことだけが、嬉しさの表現じゃないだろう。君は嬉しいという思いを持っている。ならば、それを吐き出せばいい」
「どのように?」
「前を見ろ! 何がある!?」
「まえ……植物です。データでしか見たことのない、命溢れる大地です」
「目の前の葉に、花に触れてみるがいい」
メイドはそばに咲いていた花に、ちょんっと優しく触れた。
「生きている。造花ではなく、暖かい命……なんでしょう? エモーショナルチップの熱が上昇していきます……あつい、とてもあつい」
「よしっ、その思いを思いっきり吐き出せ!!」
「はいっ!」
メイドがグッとのけぞったところで、私とご婦人は両手で自分の両耳を押さえた。
「いぃぃぃんんんてるうううう!! はぁぁぁいってぇぇぇるうぅぅぅ!!」
メイドの嬉しいという思いは、振動となって私たちに伝わってくる。
ビリビリと揺れる大気。
耳を塞いでいなかったら、衝撃でご婦人の寿命は早々と尽き、私は年甲斐もなく漏らしていたに違いない。
叫び終えたメイドが、こちらを振り向く。
彼女の顔には、寂しさなど微塵も残っていない。
再び、美しき故郷を取り戻したご婦人。
自分の感情を素直に表すことのできたメイド。
二人の満ち足りた笑顔を背中に受けながら、始まりにして最後の世界へ向かう。