象の町
な、なんという、顔じゅうに張り付く生汗の量。
これほどまでに、私が追い詰められるとは!
わ、僅かでも気を抜けば、足元に茶色の水たまりが広がる……。
そろりと足を延ばして、いつものトイレへ向かう。
永遠とも思える時間に爪を掛けて身体を動かし、何とか到着。
トイレの扉を開けて、早速といきたいが、そうは問屋が卸さねぇ。
扉の先に広がるは、大衆食堂の光景。
無数の机が存在し、机の上には様々な料理。
そして、料理の前には、2~3メートルはあろう象の姿をした人間っぽい人たちが座っていた。
彼らは一様に痩せこけていて、食事に手を付けようとしていない。
ただ、ボーっと目の前の料理を見つめているだけだ。
異様な光景だが、今は構っているわけにはいかない!
構えば、食堂に恐ろしげなトッピングを追加してしまう!!
私は地に足を擦るように歩き、厨房にいた、店の大将らしき青色の象人間に話しかけた。
「すまない。ト、トイレを貸してくれないか?」
「え? なんだい、あんた見かけない顔だね」
「説明はあとでする。いまあぁぁぁぁぁ」
「わ、わかった。トイレは店の角にある。扉が見えるだろ!」
「か、かたじけない」
急がず、それでいて急ぐ。自身が出せる最大の速度で歩いていく。
やっとの思いで、トイレに到着。
扉を開けて、トイレを確認――――で、デカい!。
洋式トイレの形をしているのだが、象サイズでそのまま座ると、お尻がすっぽりはまってしまう。
仕方ないので、腰を宙に浮かし、空気椅子の状態を取るが……。
「かぁぁぁぁっ」
危ない、この体勢を取っただけで、噴火するところだった。
両手で左右の壁を押さえて、身体を固定。
お尻を便器ギリギリまで密着させて、いざ、行こう、無限の彼方へ!
「うぉぉぉぉ、キリンさんがぁぁぁぁ。でも、象さんがもっとすぎぎぃぃぃきぃお!」
フッ、増産されし悲しみの引っ越しに成功したぜ!
お尻をしっかり拭いて、天井からぶら下がっていた紐を引き、悲しみを水に流す。
落ち着きを取り戻した私がトイレから出てくると、食堂から客が居なくなっていた。
食堂内に漂う、私の香り。
なんてこったい、営業妨害をしてしまった!
すぐさま、カウンターのところへ向かい、大将へ頭を下げる。
「すまない、私のせいで客を追い払ってしまった!」
「いや、別に構やしないよ。どうせ、あいつらは食事なんてとれないんだから」
「なに?」
「俺を見てみな。げっそり痩せてるだろ」
象の大将は、カウンター越しからも全身が見えるように後ろへ下がった。
たしかに彼は、頬がこけ、長い鼻が萎びれて、象にあるまじき痩せ方をしている。
「そういえば、さっきの客たちも痩せていたな。一体、何故? 減量でもしているのか?」
「ちがうよ。お前さんはこの世界の人間じゃなそうだから何も知らないんだな」
「ああ」
「俺たちは食を極めちまったのさ」
「食を極めたから、食事を取れない? 話が見えないな」
「簡単なことさ。もう、味を楽しめない。最高の味を知ってしまったから、味に何の感動も覚えない。平たく言えば、全ての味に飽きてしまった」
「そんな馬鹿なことが」
「馬鹿のことか……だけど、すでに大勢の餓死者が出ている。馬鹿げた話として片づけられない状況なんだ」
「なんでもいい、食べればいいじゃないか!」
「無理だ! 料理を見た途端に味がわかってしまう。匂いを嗅いだ途端に胸やけを起こす。もう、俺たちは食事を楽しめない……命を伸ばすために、点滴を打つ毎日さ」
大将は腕の内側を私に見せる。そこには無数の針の痕……。
「何てことだ。そんなことがあるなんて……そうだ、私たちの世界の料理を紹介しよう。もしかしたら、新鮮な味を知ることに!」
「無駄だよ。俺たちは色んな世界を旅して味を極めてきたんだ。お前さんの世界の味も、俺たちの料理の内だ。ほれ、俺の料理を食べてみるがいい。これ以上の味を知るなら、教えてくれ」
カウンター席に大将は料理を置いた。
見た目はあんかけチャーハンのようなもの。
皿の端に置いてある匙を手に取り、料理を口に運ぶ。
「こ、これは! う、美味いなんてもんじゃない! な、何というか、美味い!!」
あっという間にぺろりと平らげてしまった。
象の大将が作ってくれた料理。
この料理の前には、地球のいかなる料理も敵わない。
「たしかに、私たちの料理ではあなた方の舌を満足させることはできないな」
「だろう……お前さんは、これからどうするつもりだい。 宇宙の渡り鳥には見えないが?」
「ああ、明日には扉が開き、帰る予定だ。悪いが夜露をしのげそうなところはないか?」
「それなら、店に泊まっていけばいい。見ての通り客もいない。来ても、料理を前に何もしないしな」
「ありがとう」
店の二階にある部屋を借り、明日まで眠る。
――深夜、眠っていると、トントントンと何かを叩く音が聞こえてきた。
音は一階から聞こえてくる。
音に惹かれて、階段を下りていく。
厨房の天井からぶら下がる、薄暗い電灯の下で、大将が包丁片手に食材を刻んでいる姿が見えた。
「どうすれば、どうすれば、頂きを超えた料理が作れる。みんなを飢えさせずにいられる!」
大将は堅そうな南瓜みたいな野菜を手に取り、包丁で一刀両断にする。
「見事な腕だな」
「ん? お前さん……悪いね、起こしちまったかい」
「いやいや。それにしても、料理を極めただけあって、包丁さばきも凄いもんだな」
「ああ、これかい。そりゃあ、俺の腕もあるが、何より包丁が凄いのさ」
「特別のものなのか?」
「こいつはあらゆる食材を切ることができる魔法の包丁なのさ。食材であれば、この宇宙に切れぬモノなし!!」
「ほぉ、通販番組なら思わず一つ欲しくなる決め文句だな」
「よかったら、一本やるよ」
「いいのか?」
「俺たちの世界じゃ、珍しい包丁でもないからな」
「そうか。せっかくだから、有り難くいただこう」
大将から包丁を手渡してもらい、刃線をゆっくりと観察する。
全体の形は中華包丁みたいに四角。切っ先の一部は飛び出し鋭く尖っており、刃は日本刀のように怪しく光っていた。
「すごい逸品だ。素人でもわかる。なんでも切れるのか?」
「手に持った人間が食材と思えば、なんでも切れる」
「なるほど、結構危険な代物だな。気をつけて使うとしよう」
大将は象のみんなへ新たな味を届けるために、もう少し料理を試すと言い、一階に残った。
私は戴いた包丁を大切に抱えて、二階に戻り、朝を迎えた。
朝になると、食堂の入り口の扉の様子が変わり、学校のトイレの扉へと変わる。
「大将、世話になった。ありがとう」
「いや、こちらこそありがとう」
「何がだ?」
「久しぶりに俺の料理をうまそうに食べてくれて……よければ、また食べに来てくれ」
「ああ、機会があれば、必ず!」
扉をくぐり、自分の世界へと戻る。
包丁に視線を落とし、誰もいないかと周囲の様子を窺う。
トイレから包丁片手に男が現れたら、間違いなく通報されるからな。