名も無き者
暗闇が空気を侵食し、漆黒が辺り一面を包み込む。
月明かりさえもが忌避を覚える冷たい牢獄。人の気配が一切しない、ところどころが風化し捨てられた牢舎。
その奥底に『人間』がいた。
傷だらけの漆黒のフルプレートに身を包んだ、見るものに恐怖と畏怖を与える様相。身長は低く、鎖帷子から所々見える肌は真っ白で、華奢な体つきであることが窺える。しかし、年齢も性別も外見から判断することは出来ない。
体をピクリとも動かすことはなく、沈黙を貫き、暗闇の中を佇んでいるため飾られた無人の甲冑のような印象を受ける。
そんな『人間』には記憶が無い。
自身が何者であるのか、何処から来たのか、有りと有らゆる自分の情報が欠如しているため、『人間』は必死に自分の内を探り続けている。
気の遠くなるような年月をこの廃れた監房で瞑想を行い、いつからか境地と呼ばれるところまでに達していた。
けれど記憶は戻る気配を見せない。
「………何故だ。何故私は自分を知らないのだ」
いつか思い出すのだろうと鷹を括っていたことは否めない。
それでも、もう何年、何十年、何百年、『人間』は待ったのだ、もうそろそろ思い出してもいい頃では無いだろうか。
もしかすると、この不幸な『人間』は受け身の姿勢では永久に永遠に、己のことを知ることは出来ないのかもしれない。
では、どうすればいいのだろう。
「探さねば……」
そう探しに行かなければならない、自分を。
待っても其方が来てくれないのなら、此方から向かうまでだ。己を知ることが出来るのならどんな試練だろうと、どんな苦行だろうと喜んで飲み干そう。それで本当に自分を見つけることが出来るなら。
今すぐにでもこの牢から出なければならない。
幸か不幸か、監房に収められている身分にも関わらず、鎧と1本の直剣を持っている。
しかも不思議なことに『人間』は睡眠も飲食も排泄も不要であるため、寝具や食料品などの荷物などを持たなくても良い。
故にすぐにここを出ることが出来る。『人間』を閉じ込めている牢だって既に長い年月の中風化してしまっている。
そう考えると『人間』の身につけている鎧も剣も随分と良いものなのだろう。全く手入れしていないのに新品同然の輝きを放っている。
「見つかるだろうか……私は私を」
夜が明け、朝の陽光が差し始めた頃、『人間』は長年常に共にいた住処を感慨深く眺めていた。
懐かしい。元は立派だったのであろう高く聳え立つボロボロの監視塔、苔や蔓で覆われた牢舎、朽ち果て錆び付いた鉄柵。
そして、1人の英雄を象った彫刻。
外の景色が昔と比べて随分と様変わりしている中、その像だけは以前のままであった。
『人間』は暫く牢を見つめると、踵を返して歩き出す。
「然らばだ、私の家よ」
目指し、探すのは己のルーツを知りうるモノ。
『人間』は視線を胸に下ろした。
手掛かりとなるのは自身の身につけている甲冑の胸甲板に彫られている【ペテフィレア】の文字。
一体この文字が何を意味するのか。甲冑の銘?地名?それとも人名?
おそらく【ペテフィレア】を見つけることが出来たなら、自ずと『人間』のことも分かってくるのだろう。
『人間』は歩き出す。
先ずはこの牢獄を抜けよう。
そして人の多く集まる所へと向かうのだ。
人が集まるということは、自然と情報も集まってくる。
「案外すぐに私のことが分かるかもしれないな」
己の正体を知れるかもしれない、そんな仄かな希望は『人間』の足取りを軽くしていた。
──さあ、ここから始めよう。旅路を。