ココロノナカデ
気がつくと、真っ暗な世界の中で、私は一人立っていた。
……といっても、ここは異次元空間とか、一万年後の未来とか、そういうパラレルワールドじゃなくって、正真正銘の三次元、つまり現実世界の夜の街。
ただ街といっても、少しの建物を緑が囲んでいるような場所。背の高いビルなんてない、畑と山でほとんど構成されている田舎町。
それは見慣れた風景だった。だってここは、私が通っている塾がある場所だから。
だけど、今は周りに、人っ子ひとり居ない。塾が入っている建物にも光が点っていない。
最初に頭をよぎったのは、なんでこんな所にいるのだろう、という疑問だった。
確か、さっきまでは……って、あれ? さっきまで何してたんだっけ?
思い出そうとしたけど、思い出せない。
そこだけぽっかり記憶がなくなったみたいに――。
――あ。
クイズの答えがぱっ浮かんでくるように、記憶がよみがえった。
そっか、今日は塾の授業中にうとうとしてて、居残りさせられたんだっけ。で、最後に塾長と一緒に塾を出たんだった。だから、誰も居ないし塾も暗いんだ…もう、塾長も帰っちゃったんだよね。
私、まだ寝ぼけてたのかなぁ。とりあえず、家に帰らなきゃ。
そんなことを思いながら、いつも使っている最寄り駅まで歩き始めた。
――不気味なくらい静かな夜だった。
いつもは友達とおしゃべりしながら歩いているせいか、一人で歩くと、ものすごく静かで、道のりがとっても長いように感じる。
空を見上げてみても、星なんて論外で月さえも見えない。
街灯がほとんどない道を、民家の部屋から漏れる光が、照らしていた。
――少し、不安になってくる。
吹きつけてくる風が冷たくて、寒くて、私はコートに顔を埋めた。いつもよりも足早に歩く。
駅前の大通りに着くと、さっきよりも明るい場所に来たからか、少しほっとした。いつもは、もっと車通りが多いが、今は少ない。
えっと、次の電車は……。
時刻表を見ようと、右手でポケットを探り、スマホを取り出す。
「えっ……なんで?」
スマホの画面を確認した私は、思わずそう呟いていた。
画面に表示されていたのは『圏外』の文字。試しにいつも使っている乗り換え案内のアプリを起動してみても、通信エラーになってしまう。
駅の時刻表を見て確認するしかないか。上手く乗り換えできればいいけど。早く家に帰りたいなぁ。
そう思いつつも、しょうがなくスマホをポケットにしまう。
今まで圏外なんてなったことないのになぁ……。
そんなことを思いながら歩き出そうとした。
その時。
「待って」
背後から呼び止める声がして、私は足を止めた。
聞いたことあるような気がする、だけど、初めて聞く声。
不思議な感覚囚われながらも、ゆっくりと後ろを振り返った。
「……えっ」
そこに立っていたのは、無表情の『私』だった。
鏡が置いてあったとか、見間違えじゃない。
――もう一人の『私』が、そこにいた。
「――っ」
思わず、息をのみこむ。
「こうやって会うのは、はじめまして、だね」
そう言ったのは、目の前にいる無表情の『私』だ。淡々とした声が、夜闇に響く。それでもなぜか、それを不気味だとは感じなかった。
「……ど、どう、いうこと?」
「僕は、もう一人の君だからだよ」
目の前の『私』は言葉を続けた。
「人間の心は、一つのものから構成されている訳じゃないんだ。二つのものが対となって一つの心となっている。そして、その二つが常にせめぎ合って、一つの答えを導き出しているんだよ」
「……うん?」
「単刀直入に言うと、君は『秋川みのり』という人間の、心を構成するものの、半分で、もう半分が僕。そしてここは、『秋川みのり』の心の中と言ってもいい」
「……私の、心の中……?」
「そう。『秋川みのり』の感情や思考が生まれる場所。心の中、なんて曖昧に言わずに、脳の役目を司っているところ、と言った方が分かりやすいかも知れないね」
「……」
あまりにも突然の出来事に、もはや恐怖は感じなかった。
ただ、思考が追い付かずに言葉が出てこない。
「分かった?」
目の前の『私』は、少し不機嫌そうに目を細める。
「いや、全然」
「……君が、僕の説明をちゃんと理解してくれてるわけなかったか」
『私』が、ふっとは呆れたように息を吐く。
「いや、だって、そんなこと、いきなり言われても。え、なに、あなたは私のドッペルゲンガーとか?」
「君のそのバカすぎるほどポジティブなところは尊敬するよ。こんな状況でも、無駄に明るくて……いや、こんな状況だから、か……」
そう言って『私』は、目を伏せた。
「こんな状況?」
「そう。今まで出会わなかった僕たちが、こうして会っていること。そもそも、僕たちは心の一部だから、身体を持たない虚像に過ぎない。だからこうやって実像を伴いながら面と向かって会話をすることもありえない。それなのに――」
「ごめん、もうちょっと分かりやすく……」
淡々と言葉を続ける『私』の言っていることが理解できなくて、思わず口を挟んでしまう。
『私』は一瞬口を閉ざした後、言葉を続けた。
「……僕たちは、役目を終えようとしている」
「役目?」
「そう。もう必要なくなるんだよ」
「え、どうして?」
「どうしてって、忘れたの?」
少し驚いたようにそう言うと、『私』は眉をひそめた。
それは、忘れるなんてありえない、と言わんばかりの表情だったけど。
忘れてた事……。何か……あったっけ?
思い出そうとしても、特に思い当たることはない。
そもそも、自分そっくりの人物に会って、もう一人の君だとか、心の中だとか言われて、何かを思い出す余裕なんてなかった。
私たちの間に流れた沈黙を破ったのは、『私』だった。
「……そうか。僕の対となる君には、この真実は重すぎたんだね」
「真実?」
「僕たちで構成されている心の持ち主であって、僕たち自身でもある『秋川みのり』は――」
そこで言葉を句切って、『私』が言った。
「――死んだんだよ」
「え……?」
死んだ……? 私が……?
『私』の言葉に、胸がざわつく。
「冗談……?」
「冗談だったら……よかったのにね」
伏し目がちに言葉を紡ぐ『私』の様子を見ていると、それが冗談じゃないことは明らかだった。
「そんな……」
「僕が言うよりも、自分で思い出した方が理解できるんじゃないかな?」
「……」
その言葉が引き金となったのか、記憶が甦ってくる。
まるで、映画のワンシーンが頭の中で流れているみたいに。
車と地面が擦れる音。
身体に感じたとてつもない衝撃。
灼けるような痛みに包み込まれる感覚。
近づいてくる人々の足音と声。
焦点が合わなくなって霞んでいく視界。
そして――訪れた真っ暗な闇。
思い出した瞬間、今まで私の周りに広がっていた夜の街の風景は、煙のように消え、辺りは闇に包まれた。
同時に、身体が内側から冷えていくような感覚に襲われ、思わずその場に崩れ落ちる。
光も音もない真っ暗な世界に残されたのは、私と『私』だけだ。
「……思い出したんだね」
何も言う気になれなかった。
自分が死んでゆく、という恐怖感を身体がまだ覚えている。
私は、闇に、飲み込まれてゆく。
「それじゃ、いこうか」
「どこに?」
私の問いに、間髪を入れずに答えが返ってくる。
「死後の世界。僕たち自身に、終止符を打つんだよ」
「……い、や」
私の頬を、涙が伝っていくのを感じた。
「……そんなとこ、行きたくない」
「それじゃ、どうするの? ずっとこの闇に居座るつもり?」
私はうつむいたまま、首を横に振る。
「君は、まだ“死”をちゃんと理解してないんだね。……戻りたいの?」
脳裏に家族の顔が浮かんだ。
次に思い起こされたのは、仲の良かった友達。
そして、ずっと好きだったあの人。
「戻りたいよ。……戻り、たい」
「でもね……無理なんだよ。今までは二つ以上の道がある時、対立する僕たちが考え合い、互いにぶつかり合った後で、どの道を進むかを決めていた。でも、今は違うんだ。僕らが選べる道は一つしかない」
「嫌だ。死んじゃうのなんて、絶対に嫌」
「生き返るっていうの? 体はもう存在してないんだよ?」
「それでも……元の、世界に戻る」
「一度行く世界を決めてしまうと、もうそこから出られなくなる。君は幽霊と呼ばれる魂の固まりとなって、永遠にその世界に残るつもりなの? 僕たちが生きていた世界に残っても、僕たちの事に気付いてくれる人なんて、誰も居ないよ」
『私』は、なんの迷いもなくすらすらと言葉を並べる。
それはまるで、死んでしまうことが、他人事かのようだった。
「……あなたも、死んじゃうんだよね?」
「うん。正確には、心だけ取り残されてるだけで、身体はもう死んでる」
「あなたは……そんなに死後の世界に行きたいの? あなたの言葉を借りると、あなたは私の対だから、そんなに普通でいられるの?」
涙を堪えて、睨むように『私』を見ながらそう言う。
一瞬、『私』の表情が陰ったように見えたけど、『私』は先程までの口調で答えた。
「いや。僕だって……本当は行きたくない。死にたくなかったよ。でも、今の僕らが行ける道は、それしかないから」
そう言われて私は黙った。
私たちの間に、再び沈黙が流れる。
言葉が見つからない。また涙が溢れ出してくる。
本当は、分かってるんだ。
自分が死んだって事も、もう元の世界には戻っちゃいけないって事も。
だけど……それだけど。
こんなの、急すぎる。いきなり、あなたは死んだ、って言われても理解出来るわけないよ。まだやりたいことがいっぱいあった。目指してる夢だってあった。
大好きな人たちに囲まれて、ゆっくりと、思い遺すことなく、死んでいったのなら、まだ救われたのかもしれない。
だけど、私は夜の車道で、たった一人ぼっちで、あっけなく死んだ。さよなら、も言うことが出来ずに。
「……この世界が暗いのはね、」
不意に、『私』が沈黙を破った。
何もない闇の中を、『私』の声が包んでいく。
「僕らが結論を出していないからなんだ。僕たち、心が決断しない限り、君自身でもあり、僕自身でもある『秋川みのり』も、ずっとこの闇をさまようことになる。それで君は満足?」
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「そうでしょう? だから行こう、死後の世界へ。そこは、こんな暗くて寂しいところじゃない。きっと光が差してて、暖かいところだよ」
私が顔を上げると、『私』が微笑んでいた。
そういえば、『私』が笑った顔を、初めて見た気がする。
「私……一人じゃ、ないよね? あなたもいるでしょ?」
「うん。『秋川みのり』という心の中で、僕らはずっと一緒だよ」
目の前にいるもう一人の私は、手を差し伸べながら、そう優しく言った。
「ずっと、一緒……」
私は差し伸べられた手を握り返す。
――真っ暗だった闇に、目映い光が差した。
私の中に、いろんな『私』がいる。
いろんな『私』から、私は成り立っている。
そんなことをぼんやり思いながら、昔書いた物語に手を加えました。