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お姉ちゃんとボクと、フクザツナジジョー

作者: 松蝋

 ぼくには、一人、お姉ちゃんがいる。


 ぼくのお姉ちゃんはすごく頭がいい。今年から中学校に上がって、テストで点数の順番が分かるようになったのだけれど、お姉ちゃんはいつもイチバンをとってくる。


 ぼくのお姉ちゃんはテニスがすごくうまい。お姉ちゃんが小学校5年生の時に始めたのだけれど、中学校では部活動には他の上級生たちもいるのに、レギュラーっていうのに選ばれたみたい。よく分からないけど、試合に出れる人は限られていて、その中にお姉ちゃんが選ばれたってことらしい。


 ぼくのお姉ちゃんは優しい。デザートで梨がでてくると、梨が大好きなぼくのためにいつも自分の分までぼくにくれる。モモがでてきたときだけは、ちょっといじわるだけど……。


 ぼくのお姉ちゃんはカッコいい。ぼくが帰り道で上級生に筆箱をとられて泣いていたとき、たまたま通りがかったお姉ちゃんがその子たちを叱って筆箱を取り返してくれた。そのときから、鉛筆削り付のプラスチックの筆箱は、ぼくの最高の宝物の一つだ。


 ぼくのお姉ちゃんはとっても男の子にモテる。毎年バレンタインデーになると、チョコをたくさんもらってくる。普通女の子からあげるものじゃないのってお姉ちゃんに聞いたら、逆チョコっていうんだってちょっと不機嫌な顔で教えてくれた。でも、お姉ちゃんはチョコがあんまり好きじゃないみたい。もらったチョコはほとんどぼくが食べる。ちょっとあげた人がかわいそうかなって思うけど、やっぱりお姉ちゃんをとられるのは嫌だから、しょうがないかなって気持ちになる。


 そんなお姉ちゃんが、ぼくは大好きだ。ちょっと口が悪いとこもあるし、ちょっといじわるなときもある、だけどやっぱり、ぼくはお姉ちゃんが大好きだ。


 そんなお姉ちゃんは、最近、お部屋からでてこない。


 学校にも行ってないし、ごはんの時もめったに下に降りてこない。おかあさんが呼びかけても、おとうさんが部屋をノックしても、返事をしない。ごはんは、おかあさんが部屋の前に置いていくのを、少し時間が経ってからもっていくみたい。


 でも、ぼくのことは、お部屋に入れてくれることがある。たいてい、お姉ちゃんのマンガを借りて読んでいたりして過ごすんだけど、たまに、お話をすることもある。お話の内容は、ぼくが小学校にはいって、うまく友だちつくれてるかとか、幼稚園の時みたいにいじめられてないかとか、そういう話だ。べつにいじめられてたわけじゃないもん。少しいじわるされたことがあるだけだもん。


 でも、一度だけ、ぼくからお姉ちゃんのことを訊いてみたことがあった。


――なんで、お姉ちゃんは学校に行かないの?


 それまでは、なんとなく言わない方がいいんだろうな、って思って、言わなかった。でも、そのときはいつもよりお姉ちゃんの機嫌がよさそうな気がして、思わず聞いちゃったんだ。


 お姉ちゃんは一瞬、すごく怒ったような顔をして、そのあとすぐに、すごく悲しそうな顔をして、大人にはフクザツナジジョーがあるの、って言って、それきりその日はもうお話してくれなかった。それから、ぼくもお姉ちゃんのことは聞かないようにした。


 フクザツナジジョーっていうのが何かはわからない。お姉ちゃんはいつもそう、なにか言いたくないことがあると、そうやってぼくの分からないことを言ってごまかそうとする。それがいつもぼくはくやしい。


 小学生になって、お姉ちゃんに少し追いつけたかもって思ったのに、お姉ちゃんは中学生になっちゃった。これじゃあいつまでたってもお姉ちゃんに追いつけない。どこかでぼくを待ってくれたらいいのに……。お姉ちゃんはやっぱりいじわる。


 それでもやっぱり、お姉ちゃんにはおそとにでてきてほしい。ぼくにいじわるをする上級生はちょっぴり怖いし、モモは梨ほどは好きじゃないから、お姉ちゃんがいないと結局残しちゃう。


 だから、ぼくはさくせんをたてたんだ。お姉ちゃんをよろこばせて、元気をつけさせて、お姉ちゃんがフクザツナジジョーを倒せるようになっちゃうような。カンペキなさくせんを。


「おサイフよし、手さげ袋よし、あめが降ってきたときの折りたたみ傘よし、お買いものメモもよし」


 指さしチェック、お出かけするときには必ずこれをわすれちゃだめ。ねんしょうさんの時から教わっていたことだ。小学生になってからもきちんと気をつけている。


 自分のお部屋をでて、一階に降りる。おでかけするまえにおかあさんとおとうさんにちゃんと挨拶をしないといけない。今日は日曜日だから、おとうさんもいるはず。でも、今日のさくせんは誰にもヒミツ。お友だちと遊びに行くってウソをついて、おそとに行くんだ。そう考えると、自然と胸がドキドキしてくる。


「おかあさ……」


「だからあなたも少しは由美に何か言ってあげてよ!」


「この年頃の女の子は色々と問題を抱える時期なんだろう。放っておいてやれ、由美なら自分でなんとかできるだろう」


「あなたはいつもそう、理解のある振りをして面倒だから私に全部押し付けているだけ、少しは家族のこと真剣に……」


 ケンカだ……。最近、おとうさんとおかあさんはこうしてケンカをすることが多くなった。なにをお話しているのか詳しくは分からないけど、お姉ちゃんの名前がいっぱいでてくるから、なにか関係があるんだと思う。きっとこれもフクザツナジジョーのせいだ。はやくなんとかしないと……。


 とても挨拶できそうじゃないから、黙って玄関の方に進む。しょうがない、たまには決まりをやぶっちゃうこともある。それに、ウソをつかなくていいから、決まりをやぶっちゃう方がマシかもしれない。


 でも、決まりを守るのと、ウソをつかないこと、どっちが大切なんだろ?分からない。こういう分からないことがあると、前はよくお姉ちゃんに聞いていた。でも、たいていは自分で考えなさいって言われた。分からないからお姉ちゃんに聞いてるのに……。もしかしたらお姉ちゃんにも分からないのかもしれない。






 いろいろなことを考えながら道を歩いていると、目的地に着いた。『佐藤書店』、家の近くにある本屋さんだ。もちろん読み方もちゃんとわかる、さとうしょてん、だったはず……お姉ちゃんに教わったんだけど。


「すみませーん」


「はい、少しお待ちくださいね」


 呼びかけると、キレイに整理された棚の向こうから返事がかえってきた。店主のたえ子さんだ。今年で58歳になるというたえ子さんは雰囲気がなんだか、優しいんだけど、おばあちゃんというふうでもなくて、大人のお姉さんって感じだ。とてもお姉さんって言える歳じゃないのに……。


「あら、由美ちゃんの弟さんの……」


「まさとです」


 前にお姉ちゃんと一緒に来たのを覚えてくれてたみたいだ。


「そうそう、お姉ちゃんは元気?今日は一人で来たの?」


「はい、今日はお願いがあって……」


 お姉ちゃんについての質問はわざと答えなかった。


「偉いわねぇ。お家からの道、覚えてたの?最近の子はすごいのねえ」


 ふふん。ちょっとうれしい。でも、さくせんはまだまだ始まったばかりだ。ここで満足しちゃだめ。


「あの、欲しい本があるんですけど」


「あら、なんてご本かしら」


 ここがさくせんの大事なところ、ぼくはメモを取り出すと、本の名前を間違えないようにゆっくり読み上げる。


「えっと、まるこ=わい=だにえれふすきい、さんの、ふたばのいえ、っていう本はありますか?」


 出来た……。ちゃんとかまずに言えた。本の名前はともかく、書いた人の名前がむずかしい。なんで外国の人はこんな変な名前なんだろう。自己紹介のときに大変じゃないのかな……。


「双葉の家?あら、あんなに難しいご本、雅人くんが読むの?」


 もちろん違う。お姉ちゃんにあげるために買うんだ。


 お姉ちゃんは本が大好きだ。お姉ちゃんのお部屋に行くと、大体お姉ちゃんは本を読んでる。ぼくも少し見せてもらったことがあるけど、まるでなにが書いてあるのか分からなかった。お姉ちゃんはこういう本はもっと大きくなってからって言ってたけど、ぼくにはいくら大きくなっても、あんなの読める気がしなかった。


 そんなお姉ちゃんが前から欲しがってたのが、この本だ。お姉ちゃんの前の誕生日の時――お姉ちゃんがまだ小学6年生の時だ――珍しくお姉ちゃんがおかあさんに自分から欲しいって言ってた本。最初はおかあさんも、お姉ちゃんにおねだりされたのがうれしかったのか、その本をプレゼントにしようとしてたんだけど、誕生日のちょっと前になってから、あんな不気味な本読んだらいけませんっておかあさんが言い始めて、結局プレゼントはブックカバーになった。


 そのときのお姉ちゃんの顔は、とても悲しそうだった。そういえばちょうど、ぼくがお姉ちゃんに学校のことを聞いたときとそっくりだったな。


 とにかく、ぼくはあのときのお姉ちゃんの顔が忘れられなくて、やっぱり、その本は絶対にお姉ちゃんにプレゼントしなきゃって思ったんだ。


 だからまず、その本のことをお姉ちゃんに詳しく聞いた。なんでも、シカクテキギホウなんかがいっぱい取り入れられた、ジッケンテキショウセツらしい。取りあえず、なんだかすごそうな本、っていうことはわかった。それと、今はもうゼッパン状態で、値段がとても高いらしい。


 とにかく、なんだかすごくて高い本っていうことが分かったぼくは、お金を貯めた。小学生になってから、月の初めに500円ももらえることになって、お金を貯めるのは簡単だった。友だちとだがし屋さんにいっても、チロルチョコだけで我慢して、BIGカツは買わないようにした。4月から12月の今までで貯めたお金は、500を9回足して……とにかく、4000円溜まった。少し、足りない気がするのは……やっぱりBIGカツやその他のゆうわくに堪えられなくて、ひと月分つかっちゃったから……。


 でも、それにまだ使ってない分のお年玉を足して、全部で7500円。これがぼくのグンシキンってやつ。これだけあれば、どんな本でも買えるはず。


 今日のお姉ちゃんの誕生日には、きっとあの本をプレゼントするんだ!


「雅人くん?」


 おっと、ちょっとボーっとしすぎたみたい。


「あ、いえ、ぼくが読むんじゃないんですけど……」


「じゃあ大好きなお姉ちゃんにプレゼント?」


「そ、そうです」


 ひとにはっきりと言われるとなんだか恥ずかしくて、ほっぺたが熱くなるのを感じる。


「でも、ごめんねぇ。あの本、もううちにはないのよ」


「え……」


 そんな、それじゃあぼくのさくせんが……打倒フクザツナジジョーが……。さっきまで迷惑なくらい勝手に熱くなっていた顔が、急に冷たくなっていく。目の前が少しぼやけてきた。眼の奥からひとりでに飛び出ていこうとするものを必死に押しとどめるけど、こいつらはどうにも手ごわい。


「まって、もしかしたら伊藤さんのところになら置いてあるかも……あそこは古書専門の本屋さんだから」


「ほ、ほんと?」


 あやうく負けてしまいそうになりながらも、どうにかたえ子さんの言葉にぼくは奴らから逃げ切ることが出来た。イトウさんという人のお店は知らないけど、もうそこだけがぼくのきぼうだ。


「でも、あのお店、ここからだと少し遠いのよねぇ。雅人くん、歩きでしょう?」


「だ、大丈夫です!がんばります!そのお店、どこら辺にあるんですか?」


 ここまで来てなにも持たないで帰れない。少しくらい遠くたってかまうもんか。


「う~ん、口だとちょっと大変だから、地図、用意するわね」


 そういって商品棚の奥に消えていくたえ子さん。よかった。これであの本を買える!あの本があれば、きっと全部全部うまくいくんだ。


 ふとお店の時計を見ると、もう午後の2時だ。お昼を食べて食休みをして1時くらいにでてきたから、家をでてもう1時間近く経ってることになる。そのイトウさんのお店というのがどれくらい遠いかまでは分からないけれど、門限の5時には帰れるようにしないと、プレゼントどころじゃない。きついお説教タイムが待っている。他のお家は6時が門限の所もあるのに……うちは少し厳しいんじゃないだろうか。


「お待たせ、地図できたわ。どうぞ」


「ありがとうございます」


 本当にたえ子さんはぼくの恩人だ。ぼくはあんまり本は読まないけど、今度、なにか買って読んでみようか。


「気を付けてね。あと、由美お姉ちゃんによろしくね」


「はい、今度は一緒に来ます!」


 そういって手を振って、お店を出ていく。真っ直ぐ歩いて近くの交差点まで来ると、地図を広げてみる。


ぼくには意外な特技がある。それは地図を読むことだ。今年の秋にあった遠足で、オリエンテーリングをやったんだけど、そこでぼくが地図のかいどく係をやったら、なんとぼくの班が一番にゴールできたんだ。だから、地図を読む事、それが今ぼくが一番自信のあることだと言ってもいいかもしれない。


 たえ子さんが描いてくれた地図には、スタートの『佐藤書店』から、ゴールの『伊藤書房』までのおおまかな道のりと、目印になるたてものが描いてくれてある。


 道には、迷わなかった。だけど、思ったよりも時間がかかっちゃった。シミンカイカンを通りこして、真っ直ぐ行ったらふんすいのある大きな広場があって、そのすぐそばにゴールがあるはずなんだけど、その真っ直ぐっていうのがなかなかくせ者で、歩いても歩いてもふんすいは見えてこなくて、途中すごく不安になちゃった。


 結局、ぼくのお腹がおやつを欲しがるくらいの時間になってようやく着いた。広場の時計を見るともう3時半、5時に間に合うかな……。


 いとうしょぼう――読み方はちゃんとたえ子さんに聞いた――は木でできた小さなたてものだ。コンビニと誰かのお家に挟まれてきゅうくつそうに立っていて、みせ先にはたくさん本が積んである。どれも古そうで、日にあてられてちょっと色がうすくなっちゃってる。


「ごめんくださーい」


 お店に入って挨拶をすると、お店の中に積みあがった本の奥からガサガサって音がした。なんだかたえ子さんのお店とはぜんぜん違う。このお店は棚の中の本の大きさもそろってないし、棚の横にも本がむきだしで積みあがってる。ちょっとこわい。


 音のした方に言ってみると、カウンターがあって、その後ろにすこし目がこわいおじいちゃんがいた。大きな鼻にも、ごつごつした手にもしわがあって、ぼくのおじいちゃんとおんなじだ。ぼくのおじいちゃんにはあんなにいっぱい白髪はないけど……おじいちゃんは白髪どころか髪の毛もないんだ。このおじいちゃんはびんの底みたいなメガネをかけてて、目のこわさをどうにかしようとしてるみたいだけど、ぜんぜんどうにもなってない。


「すみません、欲しい本があるんですけど……」


 ぼくのことを見てもなんにも話さないから、ぼくの方からきりだしてみた。


「……なんて本だ」


 おじいさんはぶっきらぼうにぼくに応じる。やっぱりこわい人なのかな。


 ぼくはまたメモを取り出して、本の名前を読み上げる。おじいさんの視線になんだか急がされてるような気がしてヘンな汗がでてきた。


「あの、ま、まるこ=わい=だにえれ、ふすきい、さんの、ふたばのいえっていう本を探してるんです」


 ちょっとさっきよりもつっかかっちゃったけど、間違えはしなかった。それだけでぼくは自分をほめてあげたい気持ちになる。


「ああ、あるぞ」


「ほんとですか!?」


 やった!ちゃんとあった!思わず安心と喜びで声が大きくなる。


 そんなぼくをあんまり気にかけていないおじいさんは、ちょっと待ってろ、といった後、カウンターのさらに奥の方へと消えていった。本のかべでぜんぜん歩くとこが無いように見えるそこは、ちょっと迷路みたいでわくわくしたけれど、勝手に入ったら怒られちゃう。見るだけにしよう。


 ここはヘンなニオイがする。枯れた草みたいな、カビみたいな……。でも、イヤなニオイっていう訳じゃない。なんだかかえって安心するような……お姉ちゃんのお部屋の香りに少し似てるからかな。お姉ちゃんのお部屋にも古い本がたくさんあるから。


 そんなふうにお店の空気を深く吸ったり吐いたりしてたら、奥から戻ってきたおじいさんにヘンな顔をされた。だってニオイが気になったんだもん。


 おじいさんが一冊の本を手に持ってるのを見て、いよいよムネがドキドキしてきた。


「おいくらですか?」


 ふふん、いくらだとしてもダイジョーブ、今日の日のために貯めておいたお金があれば、本くらいならどんなものでも買えるはず……。それに、実はもうちょっぴり値札がみえてる。7000円ってかいてある。思ったよりもギリギリだったけど、お金はじゅうぶん足りてる。お姉ちゃん、喜んでくれるかな……。


「税込みで7560円だ」


「えっ……」


 一瞬、ぼくの耳はおかしくなっちゃったんだと思った。でも、すぐに思い出した。お店の品物には、それぞれ、ゼーコミカカクとホンタイカカクがあって、安い方のホンタイカカクが値札に書かれてることも多いんだって。前にもおんなじようなことがあって、くやしくて、お姉ちゃんに聞いたのに、忘れちゃってた……。


 ぼくは、この時点でまた少し泣きそうになりながら、まず7500円だけお会計のお皿にのせて、必死におサイフの中のポケットを探した。このおサイフは、いっぱいポケットがあるから、どこかに60円くらいあるかもしれない。いや、きっとある。


 でも、ポケットを全部覗いてみても、さかさまにして振ってみても、糸くずくらいしかでてこなかった。


 どうしよう……やっと見つかったと思ったのに……。今までお金を貯めて、お姉ちゃんを喜ばせようと思ってたのに。これがあれば、お姉ちゃん、お部屋から出てきてくれるはずなのに……。


 たったの60円、チロルチョコ二個とBIGカツ一個分……ぼくがあのときだがし屋さんで我慢できていたら、こんなことにならなかったのに……。


 あのとき我慢していたら、このとき我慢していたら、そんなふうに後悔ばかりがわいてきて、ぼくはいっそう悲しくなって、たえ子さんの前ではこらえられたはずのものが、いっせいに目からあふれ出してしまった。おじいさんが少しこわかったのも、原因かもしれない。


「うっ、ヒック……」


 そんな様子を黙ってみていたおじいさんが、突然口を開いたのを見て、ぼくはなぜか怒られるんじゃないかと身がまえてしまった。


「この本は、お前が読むのか」


「え?」


 だから最初、おじいさんがぼくになんと言っているのか分からなかった。


「この本は、自分で読むために買うのかと聞いてる」


「ち、ぢかうんです。このほんわあ、うう、おねえぢゃんに、おねえぢゃんを、よろごばぜよう、と、おもっ、でぇ、ぼぐには、わが、らない、げど、ごの、ほん、たの、じみにぃ、してだ、からぁ」


 二度目でようやく理解できたぼくは、答えなくちゃと思ってあせった上に、目だけじゃなく鼻からもたれてきた悲しさをすすりながらしゃべったから、なんて言ったか自分でもほとんど分からなかった。


 ぼくの言葉になっていない言葉を聞いたおじいさんは、そうか、と一言言うと、カウンターの下から、新しい値札を取り出すと、ペンで何かを書いて、その本の値札の上に張り付けた。


 60円引き、そこにはそう書いてあった。


「すまんな、今日はセールで全品60円引きだったのを忘れていた。ぴったり、7500円ちゃんとあるな」


「え、でも……」


「いいから、さっさと持ってけ、店の中でいつまでも泣かれていても困る」


 戸惑うぼくに本を包みに包んで渡すと、おじいさんは奥に引っ込んでしまった。


 あっけにとられてしばらくそこに立っていたのだけれど、頭の理解が追いついてくると、途端にムネが温かい気持ちになった。


「おじいさん!ありがとう!!」


 奥にいるはずのおじいさんにそうお礼を言って、ぼくは誰も見てないのに深く深くお辞儀をした。こんなにも誰かにお礼を言いたくなったのなんて、もしかしたら初めてかもしれない。そう思ったら、ついさっきまで少しこわいと思っていたおじいさんのことが、ぜんぜんこわくなくなって、なんだか散らかってるなと思っていたお店が、とっても優しい場所のような気がしてきた。


 ちょっと前まで止まらなくてしょうがなかった涙も、もうでてこないみたい。鼻水は、まだ少したれてきちゃうけど。


 お店を出て振り返ると、みせ先に並べられた本たちがお見送りをしてくれていた。色あせた表紙も、たくさんの人たちを見送った証拠なんだって思ったら、すごくカッコいいものに見えた。


 もう一度お店に向かってお辞儀すると、小走りで帰り道をたどる。広場の時計を見るともう4時だ。急いで帰らないと、5時には絶対間に合わない。






「どうしよう……」


 辺りはもう真っ暗で、目印になるようなものもよく見えない。


 ああ、なんであそこを曲がっちゃったりしたんだろう。


 帰り道、行きで自信をつけて、地図をあんまりみなかったのがいけなかった。


 シミンカイカンまでの直線がやっぱり長くて、少し早めに道を曲がっちゃったんだ。そしたら、もう分からない場所で、急いで地図を見てみても、目印と必要な道しか描いてないそれは、もう役に立たなかった。


 もうどれくらい歩いたんだろう。たくさん歩いたはずなのに、見覚えのある道は全く見えてこない。もしかしたら、この暗さで見落としちゃったのかもしれない。


 もう疲れた……。今日は午後からほとんど歩きっぱなしで、おまけにおやつもなにも食べてない。とうとうぼくはどこかの家の塀にもたれかかって、そのままへたり込んでしまった。


 12月の空気はとっても冷たくて、きちんと上着を着てきたのに心の熱まで奪っていく。やっぱり手袋はしてきたほうがよかったなあ。


 辺りは静かだ。この頃はもう虫の鳴き声もめっきりきこえない。虫は好きじゃないけど、こういうときばっかりはやっぱり何も聞こえないとさみしい。


 ぼくはどうなるんだろう。こんな知らない場所で……帰れなくって……もう皆にも会えないのかな。


「お姉ちゃん……」


 心細い、不安だ、さみしい、寒い。家が、恋しい。


 そんなときだった。一台の車が、ハイビームでこちらを照らしながらやってきた。


 うちの車だ!


 安心で力が抜けたのも一瞬のうち、すぐにきまりの悪さに身が強ばる。何も言わずに家から、出てきてしまったのだ。叱られるのはもう確定だ。


 車がぼくの前で止まって、運転席からおとうさん、助手席からおかあさんがでてきた。ぼくは目をキュッとつむって、どうにか怒られるショックを和らげようとした。


「え?」


 おかあさんのビンタが飛んでくると思って目をつむっていたのに、ぼくは次の瞬間抱きしめられていた。


「よかった!」


 おかあさんがそう言って、ぼくが混乱していたのは一瞬の間だけ、すぐに、ぼくの中にさっきまでの不安心とか怖さとか妙な興奮とかが思い出されてきて、ぼくは今日二度目の我慢の限界を迎えてしまった。


「うくっ、うっ、怖かったよ、おかあさん」


「もう大丈夫、大丈夫だからね」


 頭をなでられながら、久々にぼくは赤ん坊のように泣いた。




 ぼくがひとしきり泣いた後、おかあさんたちは、たえ子さんからの連絡でぼくの大体の位置を突き止めたんだと話した。折角のヒミツのさくせんだったのに……。だけど、そのおかげで結局ぼくは助けられたんだから、お礼を言わなきゃならなきゃいけないくらいだ。


「でも、なんで黙ってお出かけしたんだ?」


「おとうさんたち、ケンカしてたから……」


 おとうさんの問いに正直にそう答えると、二人は気まずそうに口を閉じてしまった。


 静かになった周囲に唐突に車のドアが開く音がした。後部座席に乗っている人がいたのだ。


「お姉ちゃん!?」


 お外にでてきてたなんて思わなくて、それ以上の言葉が出なかった。


「あほ」


「いてっ」


 お姉ちゃんは近づいてくるとまずぼくにチョップをした。けっこう痛い。


「周りに迷惑かけて、おちおち部屋に籠ってられないじゃない」


「ごめんなさい」


 お姉ちゃんに叱られたら、素直に謝るしかない。もとはお姉ちゃんのためにしたことだけど、おとうさんやおかあさんには知られたくない。おかあさんがあげなかったプレゼントをぼくがお姉ちゃんに贈ろうとしたことがバレちゃいけないと思ったからだ。


「もう帰ろ」


 お姉ちゃんが言うと、皆車に乗り込んだ。




「お姉ちゃん」


 車の中、静かにお姉ちゃんを呼ぶ。


「なに?」


「これ」


 それだけ言って、本を渡す。


「誕生日プレゼント?開けてもいい?」


「うん」


 そのために買ってきたんだもん。


 おじいさんがちゃっかりサービスしてくれたキレイな包み紙を外すと、お姉ちゃんは驚いて目をまんまるにした。しめしめ。


「これ、買うために?」


「うん」


「高かったんじゃないの?」


「お金貯めてたから余裕だったよ」


 60円だけおまけしてもらったけど。


「……」


「お姉ちゃん?」


 もっと大きな反応を期待してたのに、お姉ちゃんは黙り込んでしまった。


「てい」


「いてっ」


 お姉ちゃんの顔を覗き込もうとしたら、またチョップが飛んできた。さっきよりも痛い。


「雅人のくせに生意気」


 なんだよそれ、折角苦労したのに……。


「でも、すっごくありがとう」


 ちょっとがっかりしかけたところに、お姉ちゃんがチョップした手で、そのままぼくの頭をなでてくれた。


「ぼく、ちゃんとできた?」


「うん、最高のプレゼント」


「これで、フクザツナジジョー、倒せる?」


 ぼくの問いにお姉ちゃんは一瞬不思議な顔をした後、ニッコリと笑うと、こういった。


「うん、これで、ラクショー」



 

 その日の夕ごはんはお姉ちゃんも一緒に食べた。ぼくのさくせんがうまくいったのかもしれないし、お誕生日のメニューがはやく食べたかったからかもしれない。


 メインディッシュのチキンはぼくを迎えに来ているうちに冷めちゃったから、レンジで温めなおした。チキンと一緒に盛られていた野菜がしなしなになっちゃって、お姉ちゃんが不満を言っていたけど、ぼくはこのしなしなの野菜が、なんだかとても気に入ってしまった。


 次の日、お姉ちゃんは朝早くから制服を着て一階に降りてきた。お姉ちゃんの姿を見ておかあさんたちは驚いたけれど、ぼくは驚かなかった。


 あの日以来、おかあさんとおとうさんがケンカしているのは見たことがない。たまに、便座のフタを閉める閉めないで言い合いをしてることがあるけど……。ごめんなさい、たまーにわすれちゃうんだ。


 お姉ちゃんが久しぶりに学校へ行った日、出かける前にぼくの所へ来て、一言。


「じゃあ、フクザツナジジョー、倒してくる」


 やっぱり、ぼくのお姉ちゃんはカッコいい。

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― 新着の感想 ―
[良い点] お姉ちゃん思いの弟くんの頑張っている姿に感心しました! [一言] お姉ちゃんはフクザツナジジョーを克服できるかな?
[一言] 私は「非日常 アシストランス」を書いている厨二作家です。10ポイント入れました。 これからも頑張って下さい。
2016/10/18 22:24 退会済み
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