教室にて。
「とっか…って、あの、〈特科〉ですよね?」
「…そうね。あの〈特科〉ね」
その〈特科〉の校舎の正面にある両開きのドアを開こうと、榊は右手をドアノブの上に乗せる。
重厚そうな一枚板の扉は、見た目と違って音も無く軽そうに開いた。
横に長い玄関ホール、というより幅の広い通路は、そのまま左右の何枚かのドアの前を通って、遠くで壁に突き当たって終わっている。
内側は外の石造りを思わせない、小さな花の模様の入った生成りの壁紙と、濃い飴色の床で温かみがある。
日本では見ない造りが、ここが別の国だと錯覚させる。
部屋に続くのは出入り口と同じ様なデザインの扉、その横には靴箱として使用しているらしい棚があって、それは端まできれいな彫刻が入っている。
棚はどう見ても靴を入れる為に作られたものではないはずなのに、無造作にスニーカーや革靴、スリッパが入っている。
今ある倍以上も靴が入るスペースが余っているのが、無駄に豪華な棚が、どことなく寂しいものに見えた。
よつばが見事な飾り棚に注目していたせいか、榊は気にしないで靴のまま入っていいのよと言って、自分はヒールの高いサンダルのままで、靴箱の横の扉の方へ進んでいく。
よつばはがらんと空いた部分に自分の靴を脱いで入れると、隅っこにあった誰にも履かれていなさそうな健康サンダルに足を入れた。
「……臨時講師って、あの……生物学の講習と聞いて来たんですけど」
「生物学って……よつば、あなた教師になったの?」
「いえ。……あの、研究所で働いてます」
「研究所?」
「……はい」
「どこの学校?」
「違います、一ノ宮の研究所です。……竜間の」
「竜間ぁぁぁぁぁぁああああ?!!!」
榊の眉はこれでもかというほど複雑に曲がりくねって端の方は下がりきっている。かまぼこが板ごと入るほど大きく開いた口からは、盛大なため息が遠慮なく漏れる。
「それは……こじらせたわねぇ。……しかも名字が一ノ宮て。──確かに臨時が来るとは聞いてたけど、なんでよつばなのかしら……──まぁ、いいわ」
とにかく、と目の前の立派な扉を今度は両手で押し開けた。
「私が口で説明するより、みんなにあった方が話が早いわ」
扉の奥には吹き抜けの広い空間があった。
先ず目に付いたのは左右と奥の壁の、天井にまで本の詰まった本棚だった。
高い所から薄く差し込む光は、計算されたように本には直接当たらず、天井で見事に反射して、柔らかい光を部屋中に落としている。
家具も床も艶のかかった、きれいな濃い飴色で重苦しくないまでも、外の清々しい色彩とは違っていた。
全体的に濃淡様々な茶色と、時々紺色や黒っぽい赤の背表紙の本は古そうで、それなりに高価なものだと窺える。
所々空いたスペースには、本棚に収まるサイズの観葉植物や、どこかで見た事のあるキャラクターの人形、どう見ても最近の雑誌や、マンガ、その他色々な原色がなんの規則性もないまま無造作に詰め込まれている。
そのカラフルな部分にだけ現実感があった。
家具は重厚で映画のセットのようなのに、所々に積み重なっている最近購入した様子の小物が浮き立っていた。
天井まで伸びる本棚の真ん中辺り、ちょうど2階にあたる高さの所には、ぐるりと通路が通っていて、正面のくの字に曲がった階段で上れるようになっている。
部屋の中央には縁の彫刻が見事な大きな円卓がある。
企業の会議室ほどの広さの部屋には、その部屋の大きさに合った円卓と、どんな重役が座るというのか、革製で立派な造りの椅子がぐるりと周りを囲んでいる。
どこの大企業の会議室かと、机や椅子などの家具や、床の敷物を見れば思うが、椅子はさっきまで誰かが使っていたままにあちこち向いている。
円卓には食べかけのスナック菓子や、開いたままの雑誌、放り出されたまま転がるゲーム機や色んなモノで、その下の天板がどんな素材と色をしているのかわからないくらいに散らかっている。
ひどく豪華な子ども部屋にいるようだった。
「ここが〈特科〉てすか」
「はは。言いたい事はなんとなく分かるけど。そうです、ここが〈特科〉で、これが一応、教室です」
教室といっても、つきものの黒板も木とスチールでできた机も椅子も、そんなものは何もない。
「生徒がいませんが」
よつばの質問に、そうねぇ、と気のない返事をしながら、一番近い所にある本棚を切り取ったようなドアの無い入り口を覗いている。
ちらっと腕時計を見た後、小さな声でまぁいつもの事かとひとりごとを言った。
「それにしても、ひとりぐらい居てくれてもいいのにねぇ?」
同意を求められても、よつばには肯定も否定もできる材料がなかった。