保健室の榊先生。
私立一之宮学園
生徒の個性や能力に合わせたカリキュラムで、独自の教育を施すこの学園は、国内外を問わず優秀な人材が集い、育っている。
広大な敷地にはそれぞれ専攻の校舎、生徒の宿舎、店舗だけではなく娯楽施設もあり、ちょっとした町と言える程に人口が多い。
学業を修める者、スポーツに汗を流す者、芸術に魂を削る者。
己を磨き上げ、創設者の一ノ宮の意志を受け継ぎ、卒業すれば世界へ向けてそれぞれの分野へ旅立っていく。
学園はそのように百年もの歴史を刻み、もうずっと『名門』と呼ばれていた。
校門をくぐってもバスはゆっくりとしばらく敷地内を走る。
私有地の中に街で見かけるスチールの骨組みの、強化ガラスでできた雨風を避けられる囲いのあるバス停があった。
針葉樹の木立の間に、ヨーロッパで見そうな石造りの建物と石畳の道にあるバス停は、不釣り合いでよくできた夢の中にいる気分がする。
バスを降りてすぐ、その辺りを歩く生徒に食堂の場所と事務所を確認。
青白い顔でそのまま職員室に通されて、すぐに仕事を始めるのはあまりにも危険なので、先ずは水分補給をしようと考える。
聞いて来た食堂は思ったよりも狭い。
オープンテラスのカフェ風で木造のこじんまりとした独立した建物。想像していた広くて賑やかな学生食堂や社員食堂とは逆の雰囲気がする。
水を運んでくれた女性に聞けば、ここは来客者が利用する食堂で生徒や職員用には他に数カ所あるという。
どうも学園の規模が想像と違っている。
事務所のある本校舎を訪ね学園の地図を渡される。
本校舎奥とその東西には、それぞれ専攻の校舎が点在している。
そして何故か職員室ではなく、それぞれの校舎内のいくつかある保健室のうちの一つを案内された。
いかにも事務的に対応した職員はちらりと顔を上げることもなく、慣れた口調で道案内をして、目的地に赤いペンで印を入れる。
なぜ保健室なのか疑問に思いつつも、素直に本校舎を出て、中央からしばらく東に歩いた場所にあるスポーツ専攻の校舎内の保健室に向かった。
第五保健室と書かれたプレートの下の引き戸は、カラカラと音を立てて軽く開く。
声をかけると背を向けて机に向かっている女性は、猫の鳴き声のような叫び声をあげた。
「──あの……?」
白衣を着た身体が椅子の背もたれに力なく沈む。太くて長い溜息交じりに振り返った女性の手には、ポータブルのゲーム機があった。
「え……と、今回、特別講師でうかがった一ノ宮と言います……あの……」
大丈夫かと問えば、白衣の女性はいきなり癇癪を起こした子どもの様にぷりぷりと怒りだし、それまでいかに自分が順調にゲームを進めていたかを語りだす。
あまりのテンションの変動について行けず、はぁ、と気の抜けた返事をすると、さらに女性の怒りは増した。
白衣はいかにも『保健の先生』といった様子だったが、その下の体に沿ったシャツはざっくりと胸元が開いているし、スカートもぴったりとして、短くはないが腿の中程までスリットが入っている。
さそかし男子生徒に人気があるだろうと予想されるその女性のネームプレートには『榊 美和』と書かれていた
「ええと。……さかき先生と、お呼びすればいいですか?」
冷静に対応していると、少し落ち着いた様子の『榊先生』は、やっと来訪者の顔を見つめる。
目も逸らせないほど見つめられて、気分の悪そうな顔をまだしているだろうかと心配になった頃、ようやく表情が変わる。
「あなた、よつば……?またここに来たのね」
小さな溜息交じりに仕様のない子どもを見る目付き。その目を見返しながら瞬時にいくつもの疑問が浮かぶ。
初対面の女性に、親しげに名前を呼ばれた。
名前を知っているのはあり得ることだろう。講師を依頼されているのだから、資料や何かを見たのかもしれない。
でも下の名を、しかも敬称略で呼ばれる関係ではないはずだ。
少なくともよつばの記憶には、この男子生徒に人気があるであろう、勝気そうな若い女性に見覚えはない。
こんなにも生温かい目で見られる理由もないはずだし、『また』と言った。
またここに来た、というのはこの保健医の前に、ということだろうか。
それともこの保健室の事か。
どちらにせよ、地図も案内もなければこの学園の第五保健室までたどり着けなかったよつばは初めて会った彼女の言葉を力任せに捻じ曲げることにした。
よく似た、同じ名前の別の人物と間違えているに違いない。
そう納得することにして、いくつもある矛盾点はこの際気にしない様に心を落ち着かせる。
実際、なぜか鼓動が早くなっている。
いまだにかわいそうな子どもを見る目で、きれいな人に見つめられているからではない。
胸騒ぎに似た、それよりも、嘘がばれた時の様な、大変な失敗をした時の様な、嫌な鼓動の早さに腰骨がむずむずする。
「それで?あなたは、ここに初めて来たのかしら」
よつばの処理が追いつかない。
さっきはまた来たのかと言い、今度は初めて来たのかと聞く。
何か言おうと口を開いても言葉は出てこない。
この手の女性にしては辛抱強く返事を待つその人に、長い時間を掛けてやっと、はいと返事を絞り出す。
何に対する肯定なのか、よつば自身にもわからないまま。
「ふぅん。……そう」
両手で頬を擦りながら、よつばの前を通り過ぎて出入り口に向かって歩き出した。
榊の視界から外れた時、よつばはやっと自分が緊張していた事に気が付いた。
「よつば?何してるの、ついて来て」
顔だけ振り返ってそう言うと、榊は困った様に眉を下げ、小さく吹き出した。
これから説明してあげるからとりあえず付いて来てと引き戸をカラカラと開けた。
校舎を出てしばらく。
少し後ろを付いて歩くよつばに、声は聞こえないが、細かく震える白衣の肩で、榊が笑っているのが分かった。
よつば、アラサー、独身男性。




