6品目
スイヒがシンの店を後にする少し前、先に外に出ていたヒエンは店から少し離れた場所の壁に背をつけてしゃがみ込んみ、煙草をふかしながら夜闇に昇る紫煙を見上げていた。
「何するか分かんねぇ、か」
我ながらなんて重い台詞だと、思わず苦笑がその口に浮かぶ。
酒のせいか少し昂った感情を抑えようと静かに瞼を伏せたヒエンは、シンに初めて会った時の事を思い出す。
『此処の酒は美味いんだ。』
そう、酒好きの男に言われて連れて来られたのは何時の事だったか。
初対面では何を思うでもなく、ただただ普通の・・・強いて言うならば少し肝の座った娘だとしか思いはしなかった。
ただ、あまり表情を作る努力をしないせいで大抵の人間からは怯えられるか遠巻きにされてきた昔馴染みであるスイヒに、真っ向から普通に話しかけるその娘に少なからず驚いたのは間違いない。
けれど本当にそれだけの、他に何の感情を持ったわけでもなかった。
『シンちゃんて言うの?かわいいねー』
一番初めに口にした台詞はそれだった。
大抵はこれで気を良くすると、誰にでも投げ掛ける適当な言葉を告げた、その直後。
『あはは、せめてもうちょっと感情込めて言って貰えれば喜ぶんですけどね。』
そこそこに年下の少女は、あっけらかんとその言葉を流してみせたのだ。
思い返してみれば鮮明に思い出される出来事に、思わずヒエンは口許を緩ませた。
裏町という謂わば裏家業が横行するようなロクでもない世界に入り浸っていると、誰に会ってもまず探るのは腹の底。
何を企んでいるのか、どんな下心があるのか、信用するよりもまずは疑ってかかるのが当然なのだ。
だからなのか、けれどなのかは定かではないが、裏表がない人間を目の当たりにするとどうにも変に肩入れしてしまうのを、ヒエンは自身で気付いていた。
『ヒエンさんて、意外とスイヒさんよりも冷静ですよね。』
一人でシンの店に飲みに行ったある日の事。
ふと言われたのはそんな言葉で、ヒエンは酒の入ったグラスを傾ける手を思わず止めてシンの顔をまじまじと眺めた。
『流石に、そんな事言われたのは初めてだわ。何?シンちゃん、どーかした?』
『いや、スイヒさんて見かけに寄らず結構な直情型じゃないですか。言葉よりも先に手が出るトコとか。』
『アイツ、何かやらかしたの?』
『あー・・・いや、いつもの事なんですけどね、』
ぽつり、話し出したのは珍しく聞くシンの愚痴にも近い近況で。
話を聞いていけば、それはあまりにも理不尽な事だった。
『ミユキちゃん・・・あー・・・えっと、英雄様、がね、たまに此処に来てくれるんですけど、』
『あ?あー、そういえば“友達”だっけ。』
『そう、その“友達”ってのを良く思わない人もいるんですよ。』
シンがどういう成り行きで此処に居るのか、ヒエンはその内情をスイヒから聞いていた。
だからシンの今の状況はある程度理解してはいたが、そのシンの言葉にヒエンは頭を傾げる。
『何で?シンちゃん、英雄様にとって何か害があるような事してるわけ?』
『してない・・・つもりなんですけどね。でも何したって鼻につく人って居るじゃないですか。たぶん、英雄様の周りの人にとって私ってそんな感じなんですよ。』
役には立たない、でも英雄様と同じようにこの世界に来たのに苦労など何もしない。
それはミユキを慕う人間達からしたら、確かに煩わしい存在なのだろう。
『随分と勝手な・・・』
『あはは、まぁ慣れましたけどね。だけど、』
そう続けたシンの声が僅かに震えたのを、ヒエンは見逃さなかった。
『流石に、手を出されそうになったのは初めてで・・・』
酔った勢いか、常にあった衝動だったのか。
ミユキの護衛に当たっている兵士の一人が店に来たある日、何かの拍子にスイッチが入ったのか声を荒げてシンに向かい振り上げられた拳。
『気付いたらその人ボッコボコですよ、ボッコボコ。』
咄嗟に目を固く閉じて衝撃に備えたシンだったが、いつまで経っても想像していた痛みは襲っては来ない。
代わりに聞こえた痛々しい音に恐る恐る目を開けば、そこには意識を飛ばして床に沈む兵士と拳を赤く染めて冷酷な目でそれを見下ろすスイヒの姿。
『中々の地獄絵図でしたよ。』
『あー・・・アイツ、俺と喧嘩してタメ張る位だからね。並大抵じゃ敵わねーって。』
『あは、そりゃ強いワケだ。』
笑ってはいても、未だに恐怖は思い出されるのだろう。
声色からは震えは消えず、それを誤魔化すようにいつもにも増して笑みを浮かべるシンの姿に、グラスを持つヒエンの手に力が籠る。
『逆にヒエンさんは、さっきみたいにすぐに手は出さないじゃないですか。』
さっき、と言われて思い返すのは今日この店に来て直ぐの事。
酒に飲まれて悪酔いし、シンに絡む男の姿を目にしたヒエンはそこに近付くとその男の肩に手を回した。
そして何かを耳打ちするように耳元にヒエンが口を近付ければ、急に大人しくなったその男は逃げるようにその場を後にしたのだ。
『何言ったんです?悪い顔、してましたけど。』
『んー?ちょっとねー』
『ふ、は・・・っ、怖いなぁ、もう。』
何を、と言われても、少し脅しを掛けただけだ。
けれど裏町で名の知れたヒエンの”少し“は、普通の人間からしたら相当な脅しになるだろう。
そう気付いたシンが思わず吹き出して笑うのを目を細めて見たヒエンは、コト、とグラスを置いてからその手でシンの頭をくしゃ、と撫でた。
『俺だって、流石にシンちゃんに手ぇ出そうとしてんの見たら手は出るよ?』
『ありゃ、頼もしい。』
たったそれだけの言葉だったのだが、シンの恐怖は薄れていた。
それに気付いてはにかむシンの顔を満足そうに眺めたヒエンは、置いたグラスを手に取ると再び酒を煽った。
「どいつもこいつも、」
何故、あの子の優しさが見えないのか。
思い出し、再び昂る怒りに近い感情。
口にしていた煙草はあっという間に短くなり、口からそれを外して立ち上がったヒエンは靴底で煙草の火を擦り消した。
「・・・なんだ、まだ居たのか。」
そこに、不意にかかった声はシン曰く直情型の手が早い男のもので。
見た目からはまるで想像もつかないような獰猛なその男を目に映したヒエンは、シンの言い様を思い出して口許を緩めた。
「シンちゃんて、人を見る目あるわー」
「何だ、急に。」
「いや、やっぱ俺、シンちゃんお気に入りなワケよ。」
「・・・で?」
「お前は情報、集めてくれるんだろ?その間、俺がシンちゃん見張っとくわ。」
「ふん、お前にしてはまともな事言うじゃないか。」
「お前も知ってんだろ?」
俺が、嘘も吐けないような不器用な人間に弱い、って。
その言葉は、文章にしてみれば馬鹿にしたようにも聞こえるものだった。
けれどそれを言うヒエンの表情を見たスイヒは珍しく口許に弧を描くと、ヒエンの左胸に拳を作った自らの右手をトン、と軽く当てる。
「任せた」
「おう。」
言葉数は少なくても、お互いが何を思い何をしようとしているのかは伝わって。
二人は同じタイミングでシンの居る店を一瞥すると、別々の方向へと足を進めた。