一話
朝涼の中、僕は一人、自宅の庭先で澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。冷たい空気が肺に満ちて行く度に僕の意識は覚醒していく。霞がかかっていた寝惚け眼からは一切の霞が消え去り、眼前には母親が手塩にかけて作ったガーデニングの植物たちが朝の光を浴びて、キラキラと緑光を放っている。とても綺麗な光景だと、素直にそう感じた。
庭を見回してみる。そこら中から草いきれが立ち昇っている。植物好きの母の影響の所為か、僕は植物の発する青臭さに、あまり抵抗を感じない。
早朝に観察する植物は、幾ら見ていても飽きない。延々と見ていられるなんて言ったら、それは言い過ぎだと言われてしまうかもしれないが、不思議と僕は見ていられるのだ。その場で動かずにただじっと植物と向き合う。植物は人間のように話しかけてはこないし、故に会話を弾ませたりも出来ない。でも、だから僕は植物が好きなのだ。ただその場所に生を受け、何も語ることなく枯れ果てるまで、その場所で生き続ける。そして時には満開の花を咲かし、見る者の心を豊かにしてくれる。
僕の好みの対象になるものは往々にして、喋らず、あまり自己主張しないものだ。
空を見上げる。そこには青空と申し訳程度の雲があるばかりで他には何も存在しない。たまさか飛行機が通ったりもするが、僕が住んでいる田舎の空を飛行する頻度は稀なので、特にこれも苦に思ったことはない。僕が仮に都会の空の下で暮らしている都会人だったとしたら、飛行機の多さに発狂してしまうに違いない。それ程に僕は、何も無く、ただ青いだけの空が好きなのだ。
どちらかと言うと、僕は植物よりも空の方が好きだ。植物は母の影響があって好きになったが、空はそうではなく、僕自身の意思によって好きになったものだからだ。
小学校低学年時分のとある夏休みの事だった。その日の朝、僕はいつもと同じ六時に起きて近くの公園へラジオ体操をしに家を出た。未だ寝惚けている頭で公園へ続く道を歩く。ゴミ出しをする近所のおばさんや公園に向かう子供たちの声を聞きながら、僕は黙々と歩き続ける。ふと、風が吹き道端に落ちていたヨレヨレのビニール袋が空に舞った。当然のように空に舞い上がるビニール袋を目で追う。視線が釘付けになった。ビニール袋にではなく、ビニール袋の向こう側に見える雲一つない晴天の空に。ジリジリとした夏の太陽は早朝であるにも拘らず、空を青く染め、僕の目をも青く染める。時間が止まってしまったかのように思えた。今ここに存在しているのは僕と青空のみ。他には何もない。時計は針を失い、世界は歯車を失い、僕は青空以外へ向ける視線を失う。
その後、僕は結局ラジオ体操にも参加せず、いつまでもいつまでも青い空を眺めていた。
当時の光景は高校に入学した今も尚、僕の脳裏に鮮明に、そして鮮烈に焼き付いている。一度焼き付いてしまった記憶というのは、どれだけの時を経たとしても薄れることはない。どんな人間であれ一つはそう言った特別な記憶を持っているものだ。
青空の下に立っていると、僕はいつも時間を忘れて物思いに耽ってしまう。故に真後ろに母が立っているのにも気付かないし気付けない気付こうともしない。自分では思わないのだが、母曰く僕は相当鈍感な人間らしい。
「朝っぱらから黄昏ちゃって。いい青春してますねぇ、私の息子さんは」振り向きざまに強烈な酒の臭いが僕の鼻腔を刺激した。溜息混じりに僕は答える。
「母さん息半端ないから。後、気配を消して背後に立つの止めてって何回言ったら分かるの?」
「はいはい、申し訳ありませんでした、息子さん」寝起きでボサボサの髪の毛をガリガリ掻きながら謝罪の言葉を口にする母であるが、そこから息子に対して申し訳ないという気持ちは一切伝わってこない。
「ついでに言うけどさ、その息子さんって言うのもやめてほしい。母さんの中ではムーブメントの波が来ているのかもしれないけど、正直恥ずかしいよ?」僕がそう言った瞬間、母の表情が一気に曇った。言葉を選べば良かったかと、僕の表情に反省の色が浮かぼうとした次の瞬間、母がとんでもない事を口走った。
「うーんとね、母親として非常に申し訳ないし、こんな事を言うのは母親失格なのかもしれないけど、私ね、息子さんの名前忘れてしまいました」
開いた口が塞がらないとはどういった状態を指すのか、僕はこの瞬間に初めて知ることになった。
「ここ最近、ずっと息子さんって呼んでたでしょ? それが私の中では当然のことになってたのよ。だからごめんね。もしよかったら、あなたの名前を教えてください」
開いたままになっている僕の口は当然ながら、言葉を発しない。まるで発することを拒否しているかのように。母の言動に対する驚きが呆れや諦めに変わった頃、僕の口はやっと正常さを取り戻した。
「母さん」
「ん? 何だい、息子さん」
母の肩口に手を置いて、僕は柔らかな口調で母に語りかける。「今日は仕事しないで一日中布団に入っていた方がいい。夜になればきっと思い出すさ」
「そっかー、わかったよー。じゃあおやすみー」そう言って母は、まるで今の今まで酒を煽っていた人間のような足つきで、家の中へ姿を消した。
ガーデニングに咲き乱れる植物たちへ視線を移す。この美しいガーデニングを作りあげた人間が、酔っ払った挙句、息子の名前を忘れてしまうような人だとは、息子である僕にさえ信じ難いし、出来れば信じたくないなと、朝涼に吹く緩やかな風に揺れる植物たちを見ていて、そう思った。




