第一話:呪われた娘
5つの領土からなるその国では、死後の世界が信じられていた。
物質に覆われた安定した“この世”ミッドガルドと、肉の器より解放された魂の行き場である“あの世”ニヴルヘイム。
この世からは行く事も覗く事もできない世界ではなかったが、存在としては認められていた。
逆に“この世”に存在する島国ゼーレンラントには、しばしば“あの世”から客人がやって来る。
ただ別れた家族の様子を見に来た者、この世に未練がある者、誰かに怨みを持つ者――様々な思いを胸に秘めて。
その中には“悪霊”と呼ばれる、他に害をなす存在があった。
ゼーレンラントは歴史の中で魔術が発達し、悪霊に抗う術を持っていった。
その道に長けた人間は除霊師と呼ばれ、民衆より一目おかれる存在となった。
決して大きくはない島国なれど、そこで生まれる出来事は語りきれない程の数がある。
ここではその中の一つ、北方に位置する領土“凍土”ローエンシュタインでの物語を綴ろう。
◆
カーテンを通して柔らいだ朝の光が部屋に届き、ぼんやりとした明るさを瞼越しに感じる。そろそろ起きる時間だろうと思いながらも、肌寒い気温に体はベッドから離れようとしない。あともう少しだけ、と身を縮ませて布団の温もりを感じていると、窓ガラスをコンコンと叩く音がした。
彼女はその音に気付いてはいたが、瞼が重くて窓に注意を向ける事が億劫だった。ベッドの中に耳元まで深く潜って、再び眠ろうとする。しかし、暫くすると少し強い調子で窓をノックされてしまった。
この音は飛んできた鳥の悪戯というわけでもなさそうだ――彼女は仕方なしに上体を起こし、まだはっきりと空いていない目でカーテンを探って束ね、ベッドのすぐ側にある窓を開けた。
「いよぅ。ローザ」
窓の外にあったのは、見慣れた男の顔だった。やや濁った金髪をした、すらりと背の高い青年が手を振っている。ローザと呼ばれた女は驚いた様子で彼の名を呼び、寒いだろうと中へ招いた。
「ルッツ――こんな朝早くからどうしたの?」
「んー。ちょっとな」
ローザの住む家は些か変わった形をしている。彼女の父親が営む工房と住居が同じ敷地にある。そのためいくつかの建物同士が孤立していて、工房の人間はそれらを外で繋ぐ、階段や即席の廊下を渡って行き来しているのだ。
更に、増築と改築をアバウトに繰り返してきたこの家は、別の建物へと続く廊下と窓が隣接していて、ドアからでなくても入れる造りになっている建物が少なくはない。ローザの部屋もその一つで、知っていればルッツの様に他人ですら入り込む事が出来た。彼が初めてここに来た時、今までよく泥棒が入ってこなかったな、と感心した風に言われた事を、彼女はふと思い出した。
ローザは布団をかぶったまま、ベッドの近くにある椅子にかけていた上着に手を伸ばし、それをとって羽織った。窓から入ってきたルッツはベッドの上に遠慮がちに――親しい仲とはいえ、異性が眠っている場所なのだから――腰を下ろし、何かを差し出した。
「やるよ。昨日の晩、知り合いから貰ったんだ」
「これ、何の人形?」
ルッツから受け取った人形は、雑貨店で売っているような可愛らしいものではなく、ただ人の形をしているだけだった。表面は布地に見えるが、触ると中に何か硬い石のようなものが入っている感触がする。彼が気を悪くしない程度に、さりげなく鼻を近づけてみても、何か香り付けられているとは感じられなかった。
不思議がるローザに、ルッツは言った。
「何かのお守りだってよ。持ってる奴に起こった災いを1回だけ引き受けるって」
「へぇ……やっぱり“あの事”を心配してくれてるの?」
「そりゃあな。ずっとオレがついてりゃ、こんなモン必要ねぇんだけどさ」
はは、と彼は軽い笑みを浮かべ、それにつられてローザも頬を緩める。ローザに何か良からぬ事でも降りかかろうとしているのか、ルッツはそれから身を守るためにこの人形を渡しに来たのだ。
科学と魔術に長ける錬金術師の間で伝わるお守り“スケープドール”は、魔術師達が“ミミック鉱石”と呼ぶ石から作られるらしい。危険の伴う魔術実験などをする際には、命の保険としてそれを身につける。それだけに少し値段の張る代物なのだが――どうやら青年はその事を口にする気はない様だ。
「わざわざありがとう、ルッツ」
「礼なんてよせよ。つうかこんな朝から来て悪ぃな」
「どうせ起きなきゃいけない時間だし、丁度良かった」
「そっか」
朝は弱いのよ、とローザが言い訳の様に呟いた。彼女はベッドの側にある小さいテーブルからバレッタを取って、それで長い黒髪を束ねた。ルッツは、髪を纏める仕草で見える彼女の項にふと目がいってしまった。そのまま視線を移動し、薄い夜着の隙間から少し覗く白い肌や、細い鎖骨に辿り着く。
窓から差し込む太陽の光を受けて、ひときわ美しく見える彼女の姿に見惚れてしまった、その時。
彼らの居る場所に相応しくない、乱暴な音が部屋の外より聞こえた。ドスドスと木の廊下を歩く音だ。そして、それは彼らの部屋の前で、ドアを荒々しく開ける音に変わった。扉の向こうに現れたのは、赤茶けた長髪を後ろに流した赤銅色に焼けた肌の、40過ぎに見える男だった。
その中年の男はじっとルッツの方を見たままでいた。彼とは何度か会った事があるのか、ルッツはベッドに乗ったまますっくと立ち上がり、声を震わせて彼に挨拶をする。
「お――おはようございます」
「ルッツ逃げて!」
ただならぬ雰囲気を感じたローザが彼に向かって叫び、それと時期を同じくして大きい破裂音が聞こえた。その瞬間ルッツは跳ね上がり、窓を開けて外へ飛び出していく。いかにも屈強な男の方も煙の出ているカギ状のものを手に持ったまま、部屋の外へと飛び出した。
ゼーレンラントでは、射出武器の類といえば弓矢程度のものである。しかし男の持つ小さな武器はそれとは全く異なり、火薬の爆発する音が聞こえたかと思うと目にもとまらぬ速さで鉄の弾を撃ちだした。壁に深々とめり込んだ様子から、その威力のかなりのものだと思わせる。
ここ“デューラー工房”の職人達は日用家具から武器防具まで、様々な物を作って商売をしている。大きな争いのない今は殆ど前者ばかりを作っているのだが、この男は暇を見つけて新しい武器を開発したようだ。
小型機械弓よりも更に小さいカギ状の武器は、砲身の後ろに回転する弾倉が取り付けられている。L字の丁度曲がった部分にある引き金を引くと、上部の撃鉄が降り火薬を起爆させて弾丸を発射させる、“ピストル”と呼ばれる種類の火器のようだ。
「ティルの旦那! 朝っぱらからリボルバー持ち出して何やってるんすか!」
「あン?」
住居らしき部屋から飛び出してきた男は“リボルバー”と名付けられたピストルを持っている男に駆け寄った。ティル――ディートリッヒという名があるのだが、堅い雰囲気のする名だからと、仲間達には愛称で呼ぶ様に言っている――は自分を呼ぶ男には目もくれず、彼の“獲物”が逃げた方向を見つめていた。
建物の影からルッツが現れた瞬間、ティルはリボルバーの引き金を引いたままもう一方の手で撃鉄を直接何度も弾く。残弾5発分が連続で打ち出され、ルッツの駆け抜けた場所に風穴を空けた。
「ローザについてたデッケェ虫を見つけたんでな、追っ払ってんだ」
「またルッツとやりあってるんですかい?」
ティルはリボルバーを隣にいる男に放り投げ、腰に差していた棒状の火器を手に取る。話をしながら彼は砲身に火薬を乱暴に入れ、鉄の弾丸を押し込んだ。
「へぇ、そんな名だったか? …よっ!」
火器を肩に担ぎ、構えたところで都合良くルッツの姿を確認した。かけ声一つで発射された弾丸は轟音を立て、標的の背後にあった作業場の壁を壊す。側にいる男は「あーあー」と情けない声を出してその様を眺めていた。彼は澄んだ青い目をティルに向け、必死になだめようとした。
「外したか」
「いいじゃねぇですか、あの坊主がここに顔出すくらい」
「アル、今何時だ?」
ティルはそう言って側の男に手を差し出した。アル呼ばれた薄い金髪の男は、普段からティルの身の回りの世話をしているせいか、彼が口に出さなくても何を求めているのかを察してしまう。今もつい普段の癖で、彼の乱暴を止めている筈が、逆に渡されたリボルバーを弾込めして渡してしまった。
アルは続いて懐から出した古びた懐中時計を見る。時間を見るまでのほんの一分もかからないうちに、銃弾の発射される音が響く。あっという間にティルはまた弾丸を使い果たしてしまったようだ。
「へぇ、朝の8時で」
現在の時刻を聞いたティルは、今度は自分で弾を装填しながらアルに尋ねた。
「朝、寝間着の女の部屋にいる。それとも昨日の夜からか……お前だったら何してる?」
「へへ、聞くまでもありませんよ旦那。そりゃあいただいちまってるでしょう――わっ!」
アルはそう言って左手の指で作った輪っかに右手の中指を出し入れした。そんな仕草を今のティルの前でやる事など、挑発以外の何でもない。案の定、調子に乗る彼の目の前でリボルバーの銃口が火を噴いた。にやけた顔でいたアルの頬を一発の弾丸が掠め、残りはルッツを追って消えていったようだ。ティルは冷や汗をかくアルを気にも留めず、執拗に“獲物”を追いかけている。ただ、彼の言葉には肯定をした。
「だよな。アル、俺が娘にそんな事をする奴をなァ……」
もう一度装填した弾丸も連続射撃によってすぐ尽きてしまう。彼は再び棒状の火器、ハンドキャノンを手に取った。乱雑な動作のためか黒色火薬が砲身からこぼれる。正気を失った様な目で弾丸を押し込み、構えてルッツが現れた所にすぐさま発砲した。
「そんな奴をなァ、許す馬鹿だと思ってんのか! あァ?」
思った以上に標的の勘が鋭く、俊敏のようだ。狙った筈の弾丸はまたもやルッツを外し、足場となっている木の廊下を豪快に砕き割った。アルがまた隣で青ざめた顔になり、ティルに向かって泣きそうな声で言った。
「もう勘弁してやって下さいよ! これじゃあ工房の方が先に潰れちまう!」
「壊れたら直しゃぁいいだろ、お前らは何のために腕ついてんだ」
「馬鹿言わねぇで下さい、俺達だって仕事で忙しいんですから!」
彼らの逃走と追撃はたまにある出来事らしいのだが、不思議な事に今まで怪我人が出ていなかった。それ故に、ティルの過激な行いは止まるところを知らない。
しかし建物の破壊となれば、技師達が黙ってはいない。作業場が壊れれば仕事に支障を来し、通路が破壊されると今度は生活が不便になる。そのしわ寄せが来るのは全て自分たち工房で働く物達なのだから、いい加減に怒りを収めてほしいと思うのも無理はない。
再三再四に渡って、技師達はティルを諫めてはいたが、社長でもある彼の暴走する親心を止められた者は誰も居なかった。
「お前”チェイサー”はやった事があるか?」
廊下を渡り、狙撃のしやすい場所を求めてティルは移動した。後をついてくるアルに何故かボードゲームの事を尋ねる。聞かれた方もどういう意図があるのか判らないまま、頷くだけでいた。
“チェイサー”というのはこの地方で昔から知られている遊びの名前だ。六角形の盤上に置かれた数種類の駒を用い、逃げる側と追う側に役を分けて二人で楽しむゲームで、追う役は逃げる役のリーダーにあたる駒を取れば、逃げる役は手駒を用いて盤上に出口と設定されたポイントまでたどり着ければ“勝ち”になる。駒にも様々な種類があり、子供から大人まで親しまれているものだ。
「俺はあれが好きでよ。相手をじわじわ追いつめる快感はやめらんねぇ」
「それが何か関係あるんで?」
ティルは立ち止まり、ハンドキャノンに三度弾を込める。顎で示した先には一本だけ続く曲がりくねった廊下が見え、そこを遠くからルッツが走ってくるのが確認できた。
どうやら、あれだけ派手に建物を壊しているのにも意味があったようだ。威嚇して方向を変え、枝分かれしている場所では片方を壊し、そうして獲物が選択できる道を1つに絞る――今までの発砲は、そうなる様にティルが誘導していたのだ。
「ほらよ、もう建物の心配する必要はねぇだろ」
ルッツの方から死角になる建物の陰から、ティルは武器を構える。標的の姿が見えるその瞬間までじっくりと待ちながら。日の光が邪魔にならない様に、彼は額にかけていた作業用の分厚いゴーグルを下ろした。
「来い、来い、来い……」
逃げる相手を追いつめ、とどめを刺す瞬間というものは何度経験しても病みつきになる――アルとチェイサーで勝負している時、そんな事を言ったのを思い出した。その気持ちは今も変わらないらしい。ティルは沸き上がるゾクゾクした感覚が震えとなってハンドキャノンに伝わらない様、しっかりとそれを構え直した。
ルッツが走ってくる音が微かに届く。深い呼吸を一度、二度――そして三度目に、ティルはハンドキャノンの引き金を引いた。
「パパ!」
自分のすぐ後ろで娘の叫びが聞こえた。折角タイミングを見計らったというのに、思わぬ声のせいで無意識に構えたキャノンの口が上にずれる。ほぼ同時に、弾丸はティルの望まぬ軌道で発射された。しかしもう元に戻す事は出来ず、ルッツが通り過ぎた後に弾丸は爆発し、工房の足場を砕いた。
「あっ――畜生!」
「おっとローザ嬢ちゃん、いいお目覚めで!」
「ちっとも良くないッ!」
人の良さそうな笑顔でアルがローザに挨拶をすると、とりつくしまもない様子で言葉を返されてしまう。まだ寝間着でいる所を見るに、彼女もティルを止めるために必死で追ってきたのだろう。少し息を切らせながらローザはティルの前に立ちはだかった。
「パパ何してるの! ルッツを殺す気?」
「あン? お前こそあの男と何やってた」
“あの男”は彼女が父親を止めている隙に逃げ去ってしまった。睨みつける娘を前に、ティルもまた不機嫌そうにゴーグルを上げて質問を返す。ローザはそれに対し、隠すような事は何もしていない事を主張した。
「ついさっき彼が来たから話をしていただけ」
「こんな朝からか?」
「私も驚いたけど……確かにパパの言う通り、こんな朝からね」
「ローザ。幾ら何でも嘘はもう少し上手くつく方がいいぞ」
「もう! 本当の事だって!」
確かにティルの見た光景は、父親という立場からすれば何かあったのではないかと勘ぐりたくもなるものであった。だからこそローザの訴える真実を素直に受け入れる事が出来ない。
アルは二人の睨み合いを大人しく眺めていた。険悪な雰囲気ではあるのだがこれもまた日常であるらしく、いつもティルやローザの世話をしている彼にとっては見慣れた光景だった。
「正直に言え。パパは怒らないから」
「だから正直に言ってるの。何もやましい事はしてないわ、ほら!」
ため息をつき、しかし譲歩するつもりはないらしく、ティルは執拗に自分の脳裏に思い描く“真実”を突き止めようとした。いくら言葉を重ねても信じなさそうな父親にローザも呆れ、突然寝間着を脱ぎ出した。彼女は下着の胸元を広げて肌を見せる。そこには誰かが触れた跡など一つもついていない、綺麗な肌が見えているだけだ。
「うほー……あいでっ」
「どうよ!?」
嬉しそうにアルが鼻の下を伸ばしてのぞき込もうとする。だが手加減無しに上から振り下ろされたティルの拳に阻まれてしまった。父親もある程度冷静になったらしく、ローザの言葉をしっかりと受け止める。彼は小さく二回頷き、答えた。
「ああわかった。お前の胸が小せぇって事はな」
「――サイテー!!」
ローザは顔を真っ赤にして叫び、溜まった怒りをぶつける様に、脱いだ寝間着をティルに投げつけた。軟らかい布では相手にダメージを与えられないが、とにかく彼女は何かに当たり散らしたかった。ローザは踵を返しもと来た道を行く。床を踏みしめる一歩一歩までに彼女の感情が表れているようだった。
「どこ行くんだ」
「着替えるの。見ないでよ! それと……どんな時でも部屋の前でノックするのは常識なんだからね!」
彼女を怒らせた張本人は暢気に言葉をかける。そんな様子が更に彼女の気を煽ったらしく、ローザは自分の部屋にたどり着くと壊れそうなほどの勢いで扉を閉めた。
「あーあー、えらく嫌われましたね」
「なぁに、あれくらい可愛いもんだ」
四角い顔に苦笑を浮かべ、アルは隣の男からローザの寝間着を受け取った。ティルには全く懲りた様子はなく、むしろ娘の反応を楽しんでいる様にも見えた。建物の間を吹き抜ける風を受け、露出されたティルの腕に鳥肌が立つ。
「寒ぃな。アル、上着」
「持って来てますよ。旦那……この時期にタンクトップ一枚じゃぁ風邪ひいちまいますぜ」
古くからこの工房で働くアルは、通常の仕事からティルとローザの世話まで手がける、言わばデューラー家の女房役をも担う男だ。ここの技師の中でも1、2を争う良い腕を持ち、少し歳はとってはいるが見た目も悪くなく気立ても良い。普段は愛称で呼ばれているが、アレクサンダーという実に立派な名も持っている。ともすれば結婚して独立してもおかしくないのだが――
「葉巻」
「へい」
「火」
「へいへい……」
ティルの上着の肩口には葉巻を挿すポケットがあった。それにもかかわらず彼は指一つ動かさずアルに任せる。慣れた調子でアルは葉巻をそこから手に取り”旦那”の口元へやる。そしてその近くで、右手の中指と人差し指にはめた指輪を勢いよく擦り、葉巻に火をつけた。彼の指で鈍く輝く指輪は、火打ち石を加工したものの様だ。
――今もこうしてティルの我が侭を聞き入れる存在として、ずっと工房に残ったままでいる理由を、彼は「ティルに対して恩義があるから」だと言うのだが、その詳細については何も語ろうとしない。
紫煙がぷかぷかと空に浮かんだのを見て、アルもその場から去ろうと動く。ティルに声をかけてから彼は台所へ向かって歩いていった。
「俺は朝飯作ってきやすから、旦那は身なりを整えてきて下さい。髭が伸びっぱなしですぜ」
「うるせえ」
アルの背中を見送って、ティルは葉巻の煙を吐き出す。彼の頭の中からは先の男の事などは最早なく、今日の仕事の内容についての思考だけが駆けめぐっていた。
◆
「大体男ってばすぐ胸が胸がって何なのよ! 私だってそれなりに――」
ローザはまだ興奮覚めやらぬ様子で服を着替えていた。下着を換え、先ほど外で父親に言われた事を思い出したところでまた怒りが込み上げた。何気なく自分の胸を寄せてみながら目の前の鏡を見る。
暫くそのままで数人の女性を思い浮かべていた。街で見かけた踊り子のプロポーションには及ぶ筈もなく、しかし他にも工房を出入りする女技師や露店の売り子などと比べてみても、いまいち見劣りする気がした。他人に指摘されると、益々気になるものである。
「うーん、牛乳飲めばいいんだっけ……?」
昔、女友達から聞いた様な事を思い出す。ついでにただ飲むだけでなく、アルに牛乳を使った料理を教えてもらおうとも考えたが、父親と違って勘の良い彼はどういう意図か気付いてしまうだろう。それもまた恥ずかしいものである。
ひとまず胸の事は気にしない事に決め、服を着替え終えた。化粧にとりかかる前にベッドを整える。横にあった机に置いた人形――ルッツから貰ったものだ――が目に入ると、彼女はそれを持ってベッドに座り込んだ。
「それにしても、怪我が無くて良かったわ」
壁に穴を空けるほどの威力を持つ火器である。例え急所を外れたとしても、当たれば大怪我をするに違いない。あの時は全て避け切った彼の俊敏さには舌を巻いたローザであったが、今思えばティルの方も敢えて狙いを甘くしたのだと感じる。いつも我が侭を言ってアルを困らせている父親も、意外と思慮深い所があるのだ。
守りの人形を手に取り、そんな事を考えているところにある違和感が生まれた。
ローザは自分の顔から血の気が引いていくのが判った。
ガタガタと窓が揺れ、部屋に飾っていた花瓶が次々と倒れていく。
辺りの空気が不穏な雰囲気に包まれ、ローザの心は、自分のものではない深い悲しみや絶望感に、あらゆる人の持つそれが一度に襲いかかってくる様な重い感情に囚われてしまった。
「“また”来た……悪霊が」
何も見えない宙に何者かの存在を感じた。逃げようと必死にもがいたが、ローザを縛る思念の様なものはそれを許そうとはしない。彼女は、最早立つ事すら出来なくなった。
「誰か――助けて」
必死の思いで絞り出した声も、誰にも届かないで消えてしまう。彼女はルッツから貰った人形を両手で固く握りしめると、その場にうずくまって動かなくなった。
ローザの様子を見計らって現れたのは、人の上半身を煙状にした様な、曖昧な姿の幽霊だった。常に悲しそうな表情で部屋をゆっくりと飛び回る、負の情感が集まって形となったその幽霊は、近くに人が現れると取り憑いて自らの持つ思念を流し込むのだという。そして、負の意識に押しつぶされ、衰弱した人間の魂を自分の中に取り込み自らの糧とする。
悪霊はローザに抵抗する力が無いと悟ると、食事にかかるため彼女に向かって飛び込んだ。
◆
アルが食事の支度のため台所へ向かった後も彼はずっと同じ場所で葉巻を吹かしていた。そろそろ煙の味にも満足したかという頃、ふとティルの背中に悪寒が走った。ただ寒いのではない、以前に何度も感じたことのある感覚――招かれざる者の殺気――を彼は感じ取った。
「チッ、またか」
ティルは煉瓦の壁に葉巻を押しつけて火を消す。ハンドキャノンを手に持って廊下を走り出し、悪意を感じる方へと向かった。この道はもう足が覚えている。工房に悪霊が現れるのは、決まってローザの部屋なのだから。
「この感じ……“パトス”だな」
感じる思念から悪霊の呼び名を思い出したティルは、急いで娘の部屋へと駆けていった。
◆
あと一息で、その人間に届く筈だったのに。
弱っている筈のローザに接近した途端、強烈な閃光と、空気の抵抗の様なものを感じたパトスはその身を吹き飛ばされた。彼女の様子はうずくまったままで変わらず、一体何が起こったのかを察知する事はできなかった。
「――あ」
戸惑うパトスをよそに、ローザが微かに気を取り戻した。精神力を削がれたせいか立ち上がる事は出来ない様子だった。彼女は握りしめた手に違和感を感じて広げる。そこには、ルッツに貰ったばかりの質素な人形はなく、真っ黒な墨に似た硬い物質があった。
「守って、くれたんだ」
ローザは今朝聞いたルッツの言葉を思い出す。その通り、スケープドールは持ち主に降りかかる災い、命の危険を肩代わりしてくれたのだ。
再びパトスが襲いかかろうと、悲鳴のような奇声を上げる。ほぼ時を同じくして彼女に聞こえたのは、乱暴にドアを蹴破る音だった。
◆
ティルは走りながらさっきのハンドキャノンに火薬を入れず、純銀の弾丸のみを込める。早口に呪文を二言三言唱え、数種のルーンを砲身の上に指で描いた。手に持った武器が鈍く輝くのを確認すると、ティルはゴーグルをかけローザの部屋をノックもせずに蹴破る。そして、悪霊と目が合った瞬間に点火した。
「Verschwinde(消え失せろ)!」
火薬もないのに、何故か爆音とともに弾丸が射出される。銀の輝きは流星の様な尾を引き、目にも留まらぬ速さで前方へ駆け抜け、パトスを易々と貫いた。
弾丸とその軌跡は、辺りの空気ごと吸い込む様に、悪霊を自身に取り込んでいく。パトスは情けない鳴き声を残しながら銀の弾丸に葬られ、その場から消滅した。
ティルは薄い絨毯の上に落ちた、元は純銀だった筈の、鈍色の弾丸に手を伸ばす。元の輝きも硬度も失ってしまったそれは、そっと触れただけでぼろぼろと崩れて灰になった。
「汚しちまったな……」
ゴーグルを外したティルは細かい刺繍の絨毯を眺めて呟いた。頭を掻いて気まずそうな顔をしていると、部屋の奥でか細い声が聞こえる。彼はそちらへ近づき、床に力無く座り込んだままの娘を抱き起こし、ベッドに運んだ。
「ローザ、大丈夫か」
「……ありがとう、パパ」
白い顔でローザは礼を言う。両手を額にあて、ショックから立ち直ろうと彼女は心を落ち着かせている。そんな娘の横に座り、ティルは黙って様子を窺っていた。
やがて外からアルの叫び声が聞こえた。なかなか台所に来ないデューラー親子に痺れを切らし、食事が出来た事を告げているのだろう。ティルは自分が蹴破ったせいで傾いてしまったドアを開け、簡単に事情を説明してもう少し待つようにと言った。
再び部屋に入ってみると、ローザは些か元気を取り戻した様子だった。顔に血の気が戻りつつあり、立ちあがっても足がおぼつかない事はなさそうだ。もう平気よ、と言う彼女の手に握られたスケープドールの残骸を目にすると、ティルはそれをさっと取りあげた。
「汚ねぇな。何だこれ?」
「返してよ。ルッツが持って来てくれたお守りなんだから」
ローザは些かムっとした様子で、ティルの前に掌を上にして突き出した。
「――さっき、身代わりになってくれたの」
「襲われたのか、あの幽霊に」
ティルはその“お守り”とやらを乗せる。こんな時にあの男をかばうための嘘をつくとは考えられず、ならば今朝この部屋にいたルッツとは本当に何もなかったのだと、彼は今になってようやくローザの言葉を信用する。
ローザは役目を果たし効力を失った黒い塊を、そっと机の上に置いた。
過去に何度か危ない目に遭った事はあった。しかし今日の様な、最初から自分だけを狙いに来た悪霊は初めてだ。彼女はうつむき加減に呟き、ティルもそれに相槌を打った。
「こういうの酷くなっていくね……最近は特に」
「そうだな」
「私、いなくなった方がいいのかな」
ティルの顔が強張る。目を合わせないまま、ローザは話を続けた。
日頃から感じていた事が次々と浮かんでくる。
――何故自分の周囲ばかりから“それら”は現れるのだろう?
日常ではまず見られないその存在を、何故日常の如く見なければならないのだろう?
誰かから聞いた話がある。幽霊の類を同じ場所でよく見かける時、それは自然に起こり得る事ではない、誰かが呼び出しているに他ならない、と。自分は召喚魔術の方法も知らなければ喚び出す意志すら持っていない。しかし現実に起こる状況を鑑みていると、悪霊どもを寄せているのは自分自身以外に考えられない――
ローザは、ひょっとしたら自分は呪われているのかもしれないと何度も思った事があった。誰が何のために、なんて事まで推測できる筈もないが、呪いではない他の可能性というものが彼女の頭には浮かんでこなかった。どちらにしろ、自分の何かが要因で起こる凶事には違いないと彼女は考えていた。
「原因が私なら、これ以上皆に迷惑かけたくない――」
「言うな、ローザ」
今にも涙がこぼれそうな顔で訴えたその時、ローザはぐっとティルに体を抱き寄せられた。間近で見ると、力の入っている父親の腕が僅かに震えているのがわかる。ティルはローザを抱き締めたまま、諭すように言った。
「ここがたまたまそういう土地だったんだよ。お前のせいじゃない」
「でも……」
「娘は親に迷惑かけて当然だ。第一、そうだとしたらお前はどうするつもりなんだ?」
耳元で聞こえる父親の声からは普段の荒っぽさが消えてしまっている。優しく語りかける太い声と広い胸――小さい時から自分が泣いている時はいつもティルはこうして慰めてくれた。どんなに悲しい時も、辛いときも、自分を受け止めてくれる存在にどれだけ安らぎを覚えた事だろうか。
「殺せなんて言うなよ……俺だけじゃない、アルや工房の奴らがみんな止めに入るぜ」
ローザはまるで考えを見透かされた様で内心驚いた。
父親が悪霊を葬るのは何度か見たことがある。ただの火器ではない、自分はよく知らないけれど魔術の様な力であるのはわかる。それで自分を始末してくれれば……と彼女は思っていた。それを察していたティルは、娘の口から言葉が出る前に釘を刺した。
「今は苦しくても生きていけ。そうすりゃいつか解決出来る時が来るさ」
「……うん」
彼はローザを解放して言った。何時の間にか背が伸びていた娘の頭をポンポンと叩き、「いい加減アルも辛抱できねぇだろう」と言葉を残して部屋を去る。ドアを開けようとノブに手をかけると、遂に留め具が外れて扉の機能を失ってしまった。
「それはそうとルッツに感謝してよ。彼のくれたお守りが私を守ってくれたんだから」
気まずそうにローザを見るティルに、彼女は更に追い打ちをかけた。
謝る、礼を言う事が苦手なティルにとって、敵対心を持つ男に頭を下げる事などは到底考えられない。苦虫をかみつぶした様な顔になって、ティルは些かの抵抗を試みた。
「う……パパだってお前を助けたんだ。借りは作ってねぇだろ」
「それとこれとは別。とにかく今度来たら謝って」
「旦那ァ、嬢ちゃん、まだですかい? もう朝飯が冷めちまいましたよー!!」
アルのうんざりした声が外から響く。ローザは父親を残して先に部屋を出た。ティルは暫く腕を組んだまま、願わくばルッツと二度と顔を合わせない事を祈っていた。
◆
その日は朝の一件以外は何事もなく過ぎていった。
ティルも朝食の後はいつもの調子に戻って仕事を始め、日中は慌ただしく工房を出入りしていた。技師達の威勢のいい声や鉄を叩く音、ついでに余った材料でローザの部屋の扉を直しにやってきた者との会話……。どれもが普段のデューラー工房で見られる光景だ。
その日常は益々疎外感を募らせるものとなり、心苦しい風景へと変わっていく――ローザはそう思った。ティルは彼女をかばってあんな事を言ったのだろうが、このままのうのうと暮らしているのは、呪われているかもしれないと憂う彼女にとっては、耐えられない事だった。表向きは立ち直った素振りを見せているのだから、余計に辛い気分だ。
その夜、彼女は決心をした。最小限の荷物と、密かに貯めていた金を路銀に持つ。そして、今は亡き母の形見であるペンダントを手に取った。
ローザはペンダントにあしらわれた宝石を見つめた。石そのものの様子を崩さない不揃いな形の中に、揺らめく炎のようなものが見える。外側の透明で深い青と内部の深紅が不思議な印象を彼女に与えた。
ペンダントを身につけて彼女は部屋を窓から出る。正面はティルの寝室から丸見えになっているので、見つからない様に裏口を選択した。そのまま、静かに渡り廊下を歩いて工房の敷地の外へと歩いていった。
「ふう……」
思いの外緊張してしまったらしく、出口で一息ついて天を仰ぐ。雲一つ無い澄んだ夜空には無数の星が煌めいていた。ローエンシュタインは、他の領土よりも空気が澄んでおり、星見をする占い師が好んで移り住む土地でもあった。
ローザは気持ち新たに、さあ出発しようと前を見た。すると、物陰から誰かしら聞いたことのある男の声がした。
「こんな夜に散歩か?」
どきりとして彼女は身構え、そちらの方向を警戒する。まさか、もう見つかってしまったのか、と――
「よ。偶然だな」
「……ルッツ」
ゆっくりと現れた人影は今朝会った青年、ルッツだった。彼もまた小さな荷袋と腰に立派な剣を提げ、服装も普段着とは少し違った武装の目的もある格好をしていた。ローザはとっさに彼の名を呼んで訊ねた。
「そんな格好でどうしたの?」
「お前こそ。家出でもするみたいだぜ」
「……そうね、そんなところ」
妙な時間に妙な格好をしているのはお互い様のようだ。質問をするはずが逆に事情を問われ、彼女はうつむき加減に答えた。どうも言葉尻から察するに、ルッツは彼女の心境に気付いている。
「やっぱ辛いか」
「うん――パパはああ言うけど、じっとしていられないの」
ローザは真っ直ぐに彼を見て言った。
「私はこの”呪い”を何とかしたい。もう迷惑はかけたくないのよ」
「はぁ……ローザならそう言うと思ったぜ」
苦笑してルッツは肩を竦めた。彼女の芯の強さは父親譲りであり、あの工房で働く技師達から学んだものだろう。物心ついた頃から何かと付き合いのある間柄だった故に、彼はローザのそんな正確は理解していた。
「なあローザ、オレを雇う気はねぇか?」
「え?」
「最近のお前を見てたらさ、何か様子が気になったんだよな」
ルッツはローザの思いも寄らない事を口走った。確かに彼は持ち前の剣術と魔術で、用心棒や荷物馬車の護衛などを生業として暮らしている。しかし普段はローザと友人として接している事が殆どで、そんな事を匂わせる言動は全く無かった。
そのためかローザは彼の職業をすっかり失念していたらしい。彼がぽつぽつと喋るのを聞いているところで、ようやくぼんやりと思い出したくらいに。
「夕方こっそり覗いたら荷物纏めてるのが見えて……オレも慌てて家に帰って準備したぜ」
「もう。うちに来たのなら声くらいかけてよ」
「いやぁ。今朝殺されかけたから……怖ぇし」
些か呆れてものを言うローザに、体を震わせて彼は答えた。ルッツの脳裏にふと今朝の出来事がよぎる。弾丸の嵐と爆裂する床や建物、そして狂気と殺気の宿ったティルの目――それなりの戦いをこなしてきた男であっても夢に見そうな、恐怖の思い出だった。
ルッツは浮かんだ光景をうち払う様に首を振る。話を元に戻し、ローザが家を出るのだと感じたところから続けた。
「それでさ。お前のそのナリじゃ、絶対カモられると思うんだよ」
多少ならばローザにも剣の心得はあった。しかし、男と力勝負に出られて勝てる自身は無かった。それに、必ずしも敵対する相手が1人とは限らないだろう。
「だから護衛に雇えって事?」
「その通り! お前ならオレの腕くらい知ってんだろ?」
彼はそう言って腰の長剣をすらりと抜いた。菫色の細い刀身が宵闇にぼんやりと映り輝く幻想的な光は、ローザの黒い瞳に吸い込まれていく。ルッツの愛用する剣は特殊なもので、基本的には銀製の物質以外では触れる事の出来ない悪霊を、その一振りで易々と葬り去ったのをローザは過去に何度か目撃している。
これから旅をするには確かに危険が伴う。ルッツならば心強い味方になってくれるだろう。
しかしローザは“雇う”事に関してはまだ足踏みをしていた。その道をあまり知らない彼女でもわかる事――シビアな話になるが、金銭の問題だ。
「雇うには報酬が必要でしょ? 私、そんなお金は持ってないわ」
「ははっ。お前から金なんて取ろうとは思わねぇよ」
「……それじゃ契約にならないじゃない」
「じゃあこういうのはどうだ?」
剣を鞘に収めてルッツは短く答えた。そして彼はローザの前で跪いて折り、彼女の片手をとって言う。
「オレに誓ってくれ。これから先、何があっても死ぬなんて考えねぇと――」
ローザが自身を省みない行動に出たのを過去に見たことがある彼もまた、ティルと同じように彼女のことを心配していた。この旅は彼女が生きるためのものだとルッツは考えている。それなのに途中で当人が命を諦めてしまっては意味がない。何より、そんな結果はルッツ自身の望む結末でもなかった。
「そうすれば、オレは何処までもお前を守ってついて行く」
真面目な調子で言われた台詞にローザは戸惑う。主君に騎士が忠誠の誓約をするところにも似た光景の中に自分がいる事が少しおかしくて、彼女はつい回答を捨てて頭に浮かんだ言葉をそのまま吐き出した。
「プロポーズの言葉みたい」
「ばっ……違ぇよ! マジで言ってんの!」
ルッツは飛び上がって声を荒げる。折角真剣な話をしているというのにはぐらかされ、茶化された事が恥ずかしくて、彼はムキになって弁解した。面白そうに笑って見つめるローザの様子がまた、今の状況では彼にとって腹立たしいものだ。
「ありがとう。ルッツ」
彼の気が落ち着いた頃を見て、ローザは素直に礼を言った。そして改めて契約の話を今度は彼女から持ちかける。
「報酬は私の命――それでいい?」
「命って……お前、そういう言い方は」
「私はそれだけの覚悟をしてるの」
ローエンシュタインは比較的治安の安定した土地である。だがそれでも街を離れれば野盗の類に出会う事は少からずともある。だからこそルッツの様な生業の者が生活をしていけるほどの“仕事”が溢れているのだ。
ローザは道中の危険も含めて、他にも覚悟している事があった。そのために彼女の口から発せられた言葉はルッツに重くのしかかる。
「もし解決策が見つからず、呪いは私が死ななければ解けないのなら……迷わず私を消して」
「ローザ……」
「この旅で私の命はルッツに預ける。だから、約束して」
ルッツが今朝くれたお守りがなければ自分は死んでいた。失う筈の命だったのだから、自分を救ってくれた人にならそれを託せる。ローザはその決意を受け取って貰うべく答えを待った。
彼女について行くのなら、それだけの覚悟を持たなければならないのだろう。呆然と立ちつくす男はやがて、神妙な面持ちで答えた。
「――わかった」
ありがとう、とローザはもう一度礼を言う。傾けた頭から長い黒髪がふわりと揺れた。ルッツはよろしくと笑って答えると早速、最初の目的地について雇い主に尋ねた。彼はローザの命を守るだけであって、行き先を決めるのは彼女なのだから。
「ところでさ、何かアテはあるのか?」
「あんまり。まずお婆ちゃんのところへ行こうと思うんだけど」
「おばーちゃんって……まさかあのヒルダ婆さんか?」
過去に何度か会った時の事をルッツは思い出し、苦い顔をした。折角の旅立ちで弾む気持ちが一気に暗くなってしまったが、今更取り消すわけにはいかない。彼はぼやきながらローザと共に歩き出した。
「うぁーオレあの婆さん苦手なんだよなぁ」
「ルッツったら、パパと同じ事言ってる」
「あの親父さんに苦手なモンとかあんのかよ……」
ティルの事を思い出して浮かんだのが“銃弾の雨”だというあたり、最早トラウマになっているのかもしれないと彼は思った。あの無茶苦茶な男にも苦手なものがあるのなら、それを武器にして対決してみたいものだ。
「昔の話とお婆ちゃんだけは嫌いみたいね」
「結婚する時何かあったのか?」
「わかんない。パパ、なかなか自分の事話さないから」
ローザは首を横に振って答えた。小さな頃から、父親の若い時の話を聞こうとすると決まって逃げられる。とぼけたり、はぐらかしたり、去り際にほんの一言漏らすくらいで、彼は自分の過去を語ろうとしなかった。
二人はぽつぽつと雑談を交わし、夜の街を東へと歩いていった。最初の目的地は自治都市ザルムホーファー。工房のあるここ機工都市アイゼンシュタットの隣町にあたる、小さいが活気のある田舎町だ。そこは大きな都市を行き来する道の間にある、旅の中継地点のような場所にあった。ローザはまずそこを目指し、ヒルダの住む都市へと向かおうと思っている。
ローエンシュタインは“凍土”と呼ばれるだけあって、一年を通して気温が低い。まだずっと先に待つ、短い春を笑って過ごせる様に――彼女は、動き出した。
◆
「行かせちまっていいんですかい?」
「ああ」
「旦那の嫌いなルッツが一緒でも?」
「その方が道中は安心できる」
宵闇に二つの影が隣り合っていた。工房の出口が見える場所で、彼らは密かにローザの旅立ちを見守っていた。
「やっぱ原因は嬢ちゃんなんですかねぃ?」
「そんなの考えたくもねぇ。けど――ローザが自ら決心してくれて良かった」
アルの言葉を否定したティルはマッチを手に取り、自分で葉巻に火をつけた。赤い光が暗い夜空を頼りなげに動く。勢い良く煙を吐き出した後、至極冷静な声で彼は言った。
「あのままでは、俺はいずれ娘を殺してたろう」
「旦那……」
「ただ一人の命よりも、一人でも多くの命を守るのが俺の役目だからな」
アルと目を合わせないのはいつもと同じで、ティルは自分の掌をぼうっと見つめて答える。彼の目の奥は暗闇でよく見えず、本心がどうあるかはわからない。しかし冷たく言い放つ言葉の中に、どこかやりきれない思いが混じっている筈だとアルは感じた。
「それがお嬢さんでも、ですかい?」
「例外はねぇ」
「たった一人の娘でも?」
アルはしつこく問いかける。ティル自身がずっと大切に育ててきた、自分も幼い頃から世話をしてきた、“ローザ嬢ちゃん”に父親が自ら手を下すなど、それこそ考えたくもない事だ。どうか少しでも否定してほしい――彼はそう願って、何度もティルから答えを求めた。
「歴史は繰り返す、か――嫌な言葉だぜ」
「ティルさん?」
男の脳裏にはある出来事が甦っていた。病に伏せる女、傍らで眠る赤子、周囲を取り巻く禍々しい何か。呻きと悲鳴の混じった声が頭の中を木霊する。心の奥にしまっていた事が引き出され、彼は歯を噛んだ。
「とっとと寝るぞ」
「へぇ……」
とうとう彼はアルの顔を見ることはなかった。視線を避けるようにティルは寝室へと戻る道を歩き出す。アルの聞き逃した、男の絞り出した言葉の意味が何なのかは、その後の呟きで察する事が出来る。
「チッ、除霊師なんざなるもんじゃねぇ」
ティルは短くなった葉巻の火を消し、言葉と一緒に地面に投げ捨てた。この工房を開く前までは悪霊を屠る存在として生きていた彼の、心の底から吐き出された言葉がそれだった。その世界から足を洗ったとしても、身に付いた技術と考えは忘れることができない。
何もかもすっかり切り捨ててしまえばどんなに楽だろうか――ティルは何度もそう思った。あれから20年、それが出来なかったのはまだ何かに未練があるのか、それとも切り捨てられないものがあるのか。
廊下を歩くティルの後ろ姿を追いながら、アルは遠慮がちに尋ねた。
「ティルさん、あんたまだあの時の事を」
「よせ」
静かながら強い、否定する意志を感じてアルは硬直した。ティルもまた立ち止まり、やっと今になって彼と顔を合わせる。髪と同じに赤茶けた目は正面の男をじっと見て訴えかける。心配そうに訊いてきたアルの持つ青い瞳は、今のティルにとっては辛くなるほど真っ直ぐに自分を見つめていた。
乱暴な声の裏に懇願する思いを含めて、彼は言葉をアルにぶつけた。
「俺ァ昔の話が大ッ嫌いだ」
踵を返して去る男の背中を、アルはその場に立ちつくしたまま見送る。
どうかそれ以上は言わないでくれ――
ティルの目はそう語っていた。
はじめまして。まずは閲覧して頂き有り難うございます。多少重たい雰囲気になってしまいましたが、如何でしたでしょうか?
この話は、元々サイトで連載している物語「ゼーレンラント・ストーリー」の第四部として書いていました。ちょうど第四部より、登場人物も舞台となる土地もガラっと変わっていたので、この機会に投稿してみようと思い、サイトで公開しているものを「小説家になろう」用に加筆修正してみました。
僕は幽霊はあまり信じないのですが、寝てる時に金縛りにあったり、そのまま身体が浮いて天井にぶつけられそうになったりしたら(夢なのか何なのか、無事だった)、やっぱいるんじゃないかなーと思ったりしますね。でもあまり信じないでおきます。信じると色々怖いから!
……そんな奴の綴るあの世とこの世のお話、よろしければ、最後までおつき合い下さい。